【前編】第8回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

くすり文化ゆかりの地をめぐる:③-2大阪の地をめぐる
第 2 弾 「難波長柄豊碕宮(前期難波宮)」を中心に探索する
大阪の地を「難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)」を中心にさらに探ってみる。
前回書いたように、難波長柄豊碕宮は、摂津国難波にあった飛鳥時代の宮で、「難波長柄豊崎宮」、「難波長柄豊埼宮」とも表記するとある。また、学術的には、この宮跡に建てられた難波宮(後期難波宮)と区別して「前期難波宮」とも呼ばれるとのことである。

 さらに、この宮は、上町台地の上にあり、大正 2 年(1913 年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。昭和 28 年(1953 年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。 内裏・朝堂院の構造がそれまで見られなかった大規模で画期的な物であったことから、大化の改新という改革の中心として計画的に造営された宮であるとされ、大化の改新虚構論への有 力な反証となっている。 現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。前期・後期の遺跡を元に建物の基壇などが設置されている。

難波長柄豊﨑宮を正面から見る。手前、宮城南門を抜けて朝集殿を 左右に見ながら北に進むと朝堂院南門に至る。さらに朝堂院南門をくぐ
ると左に西朝堂、右に東朝堂が見える。朝堂院を北に進んでいくと内裏南門に到着する。
内裏全景。東西の八角殿院に挟まれた位置にあるのが内裏南門。その奥の内裏前殿、内裏後殿を経て内裏に至る。左奥にあるのは内裏西方官衙。模型では再現されていないが内裏東方官衙と対になっている。
(大阪歴史博物館・前期難波宮復元模型より)

 このように、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、日本の歴史の大きな変換点で大きな役割を果 たす位置・地位にあったと考えられる。その点に基づいて、いくつかの文献を紹介しておく。
文献1では、①難波遷都 ②長柄豊碕宮の造営 ③前期難波宮跡 ④画期的な長柄豊碕宮 ⑤前期難波宮跡(大阪市中央区) ⑥前期難波宮 ⑦難波長柄豊碕宮 の7つの項目について考察が成されてもいる(in 文献1:難波長柄豊崎宮 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点 …http://digitalarchiveproject.jp › information › 難波長柄.)。 資料集:088_095_都の移転・難波長柄豊崎宮(抜粋)

 また、文献2では、「難波長柄豊崎宮考―上町台地前期難波京は豊碕宮か―」のテーマで、「はじめに:皇極 天皇四年、蘇我入鹿が中大兄皇子らに滅ぼされた乙巳の変後、皇極天皇から譲位された弟の軽王子 は、孝徳天皇として即位し、都を飛鳥板葺宮から難波宮へ移した。 孝徳天皇が難波に造った宮の中でも、白雉三年(六五二)に完成した難波長柄豊碕宮は、言葉で言い尽くせないほど立派な宮であっ たとされるが、難波長柄豊碕宮はどこに造られたか、日本書紀の記述などにより考察していきたい。」として取り組まれている(in 文献2:難波長柄豊崎宮考 http://web.kyoto-inet.or.jp › people › honda5 › osi2)。

 その内容は[1日本書紀孝徳天皇紀、2『日本書紀』孝徳天皇紀の分析、3難波長柄豊崎宮の所在地、4難波長 柄豊崎宮、まとめ] の4つの点から検討されて、「まとめ:孝徳天皇は、飛鳥から難波遷都にあたり、子代離宮や蝦蟇行宮の仮宮を利用しつつ、大化三年に小郡を壊して小郡宮を改造したのであろう。これは「難波碕宮」とも呼ばれ た。次いで、大郡を改造した大郡宮を建造し、有馬温泉行幸後、「難波長柄豊崎宮」建造に着手した。「難波長柄豊崎宮」は、有馬温泉に行くためには船便を利用せず、陸路で最短の場所を選んだものと憶測する。」とまとめられてい る。
文献3:前期・後期の宮殿遺跡が発掘されており、前期が孝徳天皇の難波長柄豊碕宮、後期が聖
武天皇の難波宮です。地下鉄中津駅から徒歩7分ぐらいの場所にある豊崎神社も孝徳天皇の難波 長柄豊碕宮伝承地といわれています。(2013.7.20 訪問)
in 文献3:難波長柄豊碕宮 難波宮 https://ryobo.fromnara.com › palace

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1.難波宮と古代都市・難波 わが国の古代都市といえば、すぐに飛鳥や奈良、京都が連想される。その反面、難波(現在の大阪)の地が、日本でもっとも初期の都市であったことは意外に知られていない。 地元の大阪ですら、大阪の歴史は「太閤さんの大坂城に始まる」と思っている人が多いのである。まして大阪が、難波と呼ばれた古代には日本の首都であったことは、一般にはあまり認識されていない。では古代の難波とは、どんな地域であったのだろうか。また、そのシンボルであった難波宮とは、何だったのだろうか。
[大化改新と難波長柄豊碕宮]
 大化元年(六四五)の六月、中大兄皇子、中臣鎌足らによって、権勢を誇った蘇我本宗家の蝦夷、 入鹿の親子が滅ぼされた。いわゆる「大化改新」の始まりである。皇極天皇に代わり皇位に就いた孝徳天皇は、その年の冬、難波に遷都をした。『日本書紀』には、「冬十二月乙未朔突卯、天皇都かたを難波の長柄豊碕に遷したまふ。老人ら相謂りて日ゆく、春より夏に至り、鼠の難波に向きしは、遷都の兆 なり」とある。永年にわたり王権の拠点であった飛鳥地方を離れ、難波に都を遷すという画期的な事業が行なわれたのである。その新しい都が、難波長柄豊碕宮であった。

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