【後編】第5回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

・延喜式にみえる大和の雑薬(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):古代日本の集権国家体制のなかで、中央政府に集められる薬物は相当な種類と量であったことだろう。それらを具体的に知るものとしては『延喜式』が都合がよい。ただ『延喜式』は九二七年(延長五)に完成しているが、その施行は四○年をへた九六七年(康保四)といわれる。遅れた理由は不明であり、このころはすでに、いわゆる律令体制が崩れはじめている。それだけに、「諸国の進年料の雑薬」はどれほどになったかは不明である。とはいっても全国の薬物のようすを知る史料は、ほかにない。貢進された薬物の種類を国別を承ると、近江七三、美濃六二、出雲・播磨五三、伊勢五○とつづき、わが大和は三八種である。資料編に示したが、念のために表2にまとめておいた。後述する江戸時代にも使われた薬草の類がみられることから、もうこのころには相当しっかりした知識をもっていたものとみてよい。なお、『延喜式』には、朝廷や、ほかの役所で使用する薬種についても記している。その多くはやはり草薬類である。

・大同類(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):八○八年(大同三)、平城天皇の勅撰書として編された書物に『大同類聚方』がある。これは『日本後記』に記されているように衛門佐従五位下兼左大舎人安部真直と従五位下侍医兼典楽助但馬権橡出雲連広貞の撰述で完成した。しかし、後世に散逸したようで、もとの全一○○巻の全容を伝えるものはない。したがって国会図書館本、京大図書館本もともに文政年間仁訟弄)の写本である。このほか諸家所蔵本などを校訂して、梅田義彦氏を中心に『校注大同類聚方』(大神神社史料編集委員会、平凡社昭和54年刊)が発行されている。もともと、この書物は古くからの日本の神社や旧家あるいは典薬寮に伝わる薬とその処方などを列記したものである。散逸があったため、加筆部分がみられるとか、偽書説もある。ここではその諸説を論じるつもりはない。諸説があっても、日本固有の薬種や処方のようすをうかがい知ることのできる貴重書であることはたしかである。資料編には大和に関係した部分をまとめておいた。それだけでも、ずいぶんいろいろな薬法が伝えられていたものとおどろくほどである。そして、『大同類栗方』はこれだけ多くの伝承を集め整理するだけを意図したものではない。というのは、唐文化が、どんどん輸入されていた結果、いわゆる舶来薬の隆盛で、日本固有の薬法が、どうやらうとんじられる傾向が生まれてきていた、輸入薬つまり新薬もよいが、日本薬つまり和薬復興をきそうとしたのが、本書編さんの意図であったと考えたい。平城天皇はこの事業を終えて間もなく病いに倒れ、弟に天皇の位を譲っている。この嵯峨天皇は唐風を好み、医薬術もまた唐式を尊重したので、『大同類緊方』は、意外に早く散じたものとみてよいだろう。

(4)漢方薬物の名称を書いた七世紀末ごろの木簡がみつかったこと

薬物木簡の出土:千九九八年(昭和六三)五月十三日の各新聞は、藤原宮・西面南門跡(栂原市純手町・四分町)の発掘調の出土査で、漢方薬物の名称を書いた七世紀末ごろの木簡がまとまって出土したことを報道した。それらの木簡は門内側の内濠から計七一点が見つかった。そのうちの三○点が判読でき、その九割に生薬名が書かれていたというのである。(藤原宮出土木簡、昭和63年5月14日付朝日新聞)「人参十斤」」「当帰十斤「葛根」とよめるものが多く、なかには(表)茸窮八斤(裏)伊看我評とあるが、言窮はセリ科のセンキュウで、頭痛・強壮・婦人薬に用いられたものである。

(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬)

「木簡に出てくる薬名は虵脱皮(蛇の脱け殻)と黒石英(紫石英か)以外はすべて植物で『医心方』や『大同類衆方』といった書物にしばしぱ出てくる薬物ばかりである」「虵脱皮は法隆寺の〃医薬調剤古抄″にもみえる」とも述べている。 

実は藤原宮跡では、一九六六年(昭和四一)にも、今回の発掘地から東北約一キロの内裏東側で、薬物名や「典薬」と書いた木簡約二○点が出土している。それで、その付近に典薬寮があったと考えられていたが、こんどの出土品から、従来説のところは「天皇の医療を担当した中務省の内薬司」で、今回のところが、いわゆる典薬寮という見方が強まった。

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれていきます。

 藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。また、藤原宮跡は大和三山の絶好の眺望スポットとなっています。藤原宮跡から見る朝陽・夕陽は息をのむほどの秀景です。平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されました。特に藤原宮跡から香具山方向を望む展望には、コンクリート系の建物がまったく映り込まないため、「光男の栗」「朱花の月(はねづのつき)」といった映画の撮影舞台にもなりました。 藤原宮跡の周辺には、橿原市藤原京資料室や奈良文化財研究所藤原宮跡資料室など見どころもたくさんありますので、藤原宮跡でゆっくりと時間を過ごしてみてはどうでしょうか。(in橿原市/藤原宮跡https://www.city.kashihara.nara.jp › fujiwara_kyuuseki)

(5)医疾令(医薬制度)が制定されたこと

医疾令(いしつりょう)は、の篇目の1つ。養老令では第24番目に位置している。なお、大宝令では平城宮から出土した医疾令の一部を記した木簡から第19番目に属していたことが判明している。

概要:大宝令の段階から存在した篇目で、養老令においては、倉庫令とともに散逸して現存しない篇目として知られている。医師女医などの育成(医生・生・按摩生・呪禁生・薬園生など)や任用などの規定、薬園の運営や典薬寮および諸国の医師の職掌について扱っている。養老令では『令集解』の目録より全27条から構成されていたと推定され、『令集解』・『政事要略』(巻95)・『類聚三代格』などに逸文があり、江戸時代には塙保己一らによって早くから復元が進められ、現在ではほぼその内容が判明している。また、唐令における医疾令も仁井田陞の『唐令拾遺』の編纂などによって復元作業が進められていた。(in フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

(6)陀羅尼助(役の行者によるもの)、奇効丸(南都唐招提寺によるもの)、豊心丹(西大寺によるもの)等の施薬

陀羅尼助(役の行者によるもの):このくすりの創製は、行者・山伏の元祖ともいわれる、役小角(えんのおずぬ)またの呼び名を役の行者と伝えられています。役小角は、茅原の里(現在の御所市茅原)に生まれたといわれており、奈良県にゆかりの深い人物です。陀羅尼助は、色々な症状に用いられる胃腸薬で、当時はキハダの皮を煎じ、それに大峰山で採れる薬草を混ぜて作っていたようです。下痢止めと整腸の両方の作用を兼ね備えた、優れたくすりでしたので、宗教的・神秘的な魅了が相まって、次第に広まりました。ところで、陀羅尼助には、大峰山と高野山の2つのルーツがあるといわれています。すなわち、大峰山においては役小角、高野山においては弘法大師が始祖といわれています。その後、大峰山をルーツとする陀羅尼助は、吉野山や当麻寺においても作られるようになりました。どちらも役の行者のゆかりの地です。当初陀羅尼助は、山伏たちの持薬・施薬として用いられたようですが、近世中期になって、売薬として市場に出回るようになりました。現在でも、主に天川村洞川と吉野山において製造され、広く親しまれています。

奇効丸(南都唐招提寺によるもの):小児用の五疳薬(子供が種々の病気で衰弱したり、呼吸が弱くなったり、神経症状が起きたりしたときに服用する薬)です。樋屋家の奇応丸が有名ですが、これは、東大寺の鐘楼の太鼓の中に書かれていた薬方に基づき再現されたものといわれています。処方としては、六神丸からセンソを抜いた構成に似ています。

豊心丹(西大寺によるもの):西大寺の叡尊の創製(1242年)によると伝えられるくすりです。『金瘡秘伝』(1578年)によると、その処方は、人参、白壇、沈香、畢撥、樟脳、縮砂、丁字、木香、川キュウ、桔梗、麝香、無上茶、梹椰子、金箔、カツ香となっています。効能は、下痢、渋腹(しぶりばら)、風気、頭痛、二日酔い、心気の疲れ、吐血、下血、小児の疳の虫その他万病に効くとうたわれていましたが、現在ではほとんど生産されていません。

(in

奈良県製薬協同組合 〒639-2226奈良県御所市605-10  TEL:0745-62-3754  E-Meil:seiyaku@alto.ocn.ne.jp)

(7)その他:薬師寺の吉祥天女像の手に乗っている薬の壷であること(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬:このように仏教の受容は群臣に可とされて、広まると、多くの仏のなかでも薬師如来を信仰するものがふえた。「薬師如来本願功徳経」によると、薬師は一二の大願をたて、衆生の病いをいやし、寿命をのばし、多くの災いをのぞき、衣食を満足させることを誓願して、それを成就して仏陀となったという。その大願のうち第七願が医薬を得ることができない人たちへの救済である。したがって薬師像には左手に薬壷をもつことが多い。) 法隆寺伽藍縁起並流記資材帳には薬物の名前が記されていること 正倉院の書物からは施薬院の言葉が記載されていること 太宝律令には内薬司(うちのくすりのつかさ)や典薬寮(くすりのつかさ)が記載されていること、全国各地に薬草の生産を割り当て、都に集めるシステムが作られたこと などが挙げられる。

この時代のキーマン

  • [聖徳太子]:*情報が多いのでいくつかをピックアップして記す。

出生‎: ‎574年2月7日(敏達天皇3年1月1日) 配偶者‎: ‎菟道貝蛸皇女 父親‎: ‎用明天皇 母親‎: ‎穴穂部間人皇女

山背大兄王 · ‎十七条憲法 · ‎穴穂部間人皇女 · ‎菟道貝蛸皇女

[in聖徳太子 – Wikipedia ja.wikipedia.org › wiki › 聖徳太子]

聖徳太子といえば、日本中の誰一人知らない者はいません。お太子さまこそ、我が国の代表的偉人であり、日本の文化と平和(国家安泰)を象徴する最大の人物といえます。

[in聖徳太子について – 和宗総本山 四天王寺 www.shitennoji.or.jp › shotokutaishi]

592年,推古天皇が豊浦宮(とゆらのみや)で即位し,甥(おい)の廐戸皇子(うまやどのみこ-「聖徳太子」)が皇太子となった。廐戸皇子は推古天皇の摂政となり,政治を行った。聖徳太子は大王(天皇)中心の政治をめざし,遣隋使派遣冠位十二階十七条憲法を制定した。また,四天王寺・法隆寺などを建立した。
 飛鳥時代は渡来人が活躍した時代でもある。その渡来人たちが伝えた仏教は日本に大きな影響を与えた。
 大和王権の有力な豪族に蘇我氏と物部氏がいる。蘇我氏は渡来人の東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)とつながり,大陸の文化を多くとりいれようとしたり,仏教を崇拝し自宅に仏像をおいたりした。物部氏は石上神宮を氏神とし,中臣氏や忌部氏とともに排仏を主張した。こうして蘇我氏と物部氏の対立が激しくなっていく。この動乱の中で廐戸皇子が登場し,大王を中心とした争いのない国づくりを目指していく。[in聖徳太子 – 飛鳥の扉 www.asuka-tobira.com › syotokutaishi › shotokutaishi]

聖徳太子(しょうとくたいし)

 用明天皇の第2皇子。母は穴穂部間人皇女。
 名は厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)。聖徳太は諡名。上宮王ともいう。

おばにあたる推古天皇の摂政として内外の政治を整備した。
 推古11年(603)冠位十二階を定め、翌年には、十七条憲法を制定。国史の編纂を行い、

同15年(607)小野妹子を隋へ遣わし国交を開き、大陸文化の導入につとめた。特に、仏教興隆に尽力し、「三経義疏」を著わし、法隆寺・四天王寺を建立するなど多くの業績をのこした。

[in聖徳太子 www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp › another › jinmei › syotokutaisi]

  • 薬師恵日:六○八年、遣晴使が派遣されるとき、薬師恵日や倭漢直福因を随行させた。恵日は六二二年に帰国するが、留学中に晴は亡び唐が建国し、その最新の医薬法を学んだのであった。恵日は六三○年にも遣唐使に随行して研習し、三年後に大和に戻り、六五四年にも渡唐した。もはやわが国には中国の医薬法が、あたりまえのように深く浸透したといってよい。(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬)
  • 高僧鑑真:鑑真(688-763)は唐僧で、日本の留学僧栄叡・普照の請いに応じて、わが国への渡来を決意したことで知られる。日本への渡航はたびたび失敗し、六度目にようやく目的を達し、律宗をはじめて伝え、戒律伝授の任についた。日本の仏教弘道につくした功は大きく、唐招提寺を建立した。鑑真が漢薬について、くわしい知識をもっていたことは『続日本紀』に伝えている。たとえば病気の皇太后に薬を献じて効能があり、・朝廷は鑑真を大僧正にし、備前国に水田一○○町歩を下付して、感謝したという。鑑真は死期を予期して、坐して死んだが、最後まで強気で経典を諦承、雌黄を服用したようだ。雌黄とは硫黄と碓素の混合物で相当な強烈さをもつが、薬用あるいは顔料に使った。なお、韓国広足は博学で知られたが、鑑真にも師事して薬物の真真贋に通じていたようだ。

淡海三船がまとめた『唐大和上東征伝』には、鑑真が二回目の渡航時に日本へ持参しようと用意した品物が記されている。安藤更生の名著『鑑真』嬢輔訟垂報刊)によると、薬についてはつぎのとおりであった。[廚香二十膳のほか甲香、甘松香、竜脳香、安息香、桟香、零陵香、薫陸香など各六○○余斤、さらに畢鉢、珂梨勅、胡撤や阿念しやくみつ蕊、石蜜、薦糖など五○○余斤、そして蜂蜜一○餅、甘庶八○束であった。なお、一九八八年(昭和六三年)は鑑真生誕一三○○年を迎えるというので、唐招提寺の戒壇院南に、約一○○○平方隣の広さの薬草園をつくる計画がすすんだ。完成すれば、唐の時代にあったとされている薬草約九八○種に、仏典にでているインド産のもの一○○種近くを加えた規模になるという。(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬)

  • 役小角(役行者) えんのぎょうじゃおづぬ

吉祥草寺(きっしょうそうじ、奈良県御所市大字茅原279) in「奈良のくすり」めぐり-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6

大和盆地の南部、西に金剛・葛城の山並を間近に望む御所市茅原(ちはら)の地に伽藍を構える吉祥草寺は、山号が茅原山、金剛寿院吉祥草寺と称する古刹です。この地は修験道の開祖役行者神変大菩薩(えんのぎょうじゃしんへんだいぼさつ)の出生地とされ、役行者(小角)の創建と伝えられています。 吉祥草寺最大の祭りは「大とんど(左義長)法要」で、1978年(昭和53年)国の無形民族文化財に指定されている。この祭りは、役行者が冤罪により伊豆に流され、701年(大宝元年)に無事帰還した折、茅ちはら原の里人がこれを喜び、大きな松明を焚たいて祝ったのが始まりとされ、古い行事を今に伝えています。

【吉祥草寺(きっしょうそうじ)】

金峯山寺(きんぷせんじ、奈良県吉野郡吉野町吉野山) in「奈良のくすり」めぐり-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6

世界遺産の金峯山寺は、古来より「日本一の桜の名所」といわれる吉野の山桜をご木とする修験道どうのお寺です。、役行者により白鳳年間(7世紀後半)に開創され、役行者が金剛蔵王大権現金峯山(こんごうざおうだいごんげんきんぷせん)(山上ケ岳さんじょうがたけ)を感得し、その姿を山桜に刻んで、山上・山下蔵王堂(ざおうどう)に祭さい祀しされたのがはじまりとされています。1874年(明治7年)、明治政府により修験道が禁止され廃寺となりますが、1886年(明治19年)に天台宗の仏寺となることで復興。1948年(昭和23年)に、蔵王堂を中心とした金峯山修験本宗を立宗し、修験道どうの総本山として今日に至っています。

【金峯山寺(きんぷせんじ)】
  • 行基:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年) – 天平21年2月2日749年2月23日))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての国家機関朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説き、あわせて困窮者のための布施屋9所、道場寺院を49院、溜池15窪、9筋、架橋6所、等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。当初、朝廷から度々弾圧禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

呉人・知聡の子・孫思邈(ソンシバク)

孫思邈:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 14:29 UTC 版)

孫 思邈(そん しばく、541年? – 682年?)は、中国唐代の医者、道士。生年は541年581年とも。中国ないし世界史上有名な医学者、薬物学者、薬王とも称される。

千金方(せんきんぽう):出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について

中国唐代の代表的医書。『千金要方』とも呼ばれる。孫思邈 (581~682) によって 650年頃に著された。 30巻からなり,医学修業倫理よりを起こし,病理薬物療法鍼灸,あんま,食餌療法など当時の医学知識を網羅した一大医学全書である。本書の続編として同じ著者による『千金翼方』 30巻がある。

そのほかの事柄等

道修町(3,21)

奈良・平安時代は各国に薬の特産品が割り当てられていたが、それを難波に集められ淀・木津川を上っていって都に収められた。

津屋:船が集まり、物資が陸揚げされると一時保管と取引の為の建物が建てられた。それを木屋といった。(現在、木屋町が存在している)

薬品問屋:奈良・平安になっても都に集められる物資の中に薬品は嵩張らず高価格であるのでそれの流通を業とするものが出来上がっていった。これが後の世になって道修町になっていった。

都に近い港であり、商業都市であった難波の中に薬を扱う町として道修町は有名になった、20世紀始めではわが国医薬品メーカーの大多数が道修町に集まっていた。

難波津で薬が扱われ、道修町があった事が大阪を薬の町として栄えた根源である。

道修町(どしょうまち、出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)は、大阪府大阪市中央区町名。現行行政地名は道修町一丁目から道修町四丁目。

概要:船場のうち北から5番目の町で、北は高麗橋伏見町、南は平野町、東は東横堀川を挟んで東高麗橋、西は西横堀川跡の阪神高速1号環状線北行きを挟んで西区江戸堀京町堀とそれぞれ接する。 かつては薬問屋があった名残から現在でも多くの製薬会社が軒を連ね、東京都中央区日本橋本町とともに日本を代表するの街」として知られる。 河川:東横堀川

歴史:1872年明治5年)まで、現在の4丁目のうち御霊筋以西は古手町、西横堀川沿いは七郎右衛門町2丁目という町名だった。 江戸時代に、オランダからの輸入薬(唐薬種)を一手に扱う薬種問屋が店を出し、幕府公認の株仲間「薬種中買仲間」を結成する。また、享保7年(1721年)には日本を産地とする薬(和薬種)を検査する和薬種改会所が設けられた。日本で商われる薬は、いったん道修町に集まり、品質と目方を保証されて全国に流通していった。その関係で現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが道修町通りの両側に多いことで知られている。武田薬品工業、塩野義製薬、田辺三菱製薬が本社を構えている。薬種問屋には、コニシのように、狭義の医薬品でなく化成品の道に進んだ企業もある。医薬品業界に関しては外資系も近畿を拠点とするところが多く、バイエル(大阪府大阪市北区)、アストラゼネカ(大阪市北区)、P&G兵庫県神戸市中央区)、イーライー・リリー(神戸市中央区)などが挙げられる。 道修町にある少彦名神社は、薬の神様(薬祖神)として安永9年(1780年)に勧請された。人々はそれ以前から中国の薬神である神農を祀っていたため、双方を祀ることになった地元では少彦名命と合祀して「神農さん」と呼び、長く親しまれている。 日本初の薬学専門学校(現在の薬科大学に相当する)が設置されたのも道修町である(大阪道修薬学校、現:大阪薬科大学)。 くすりの道修町資料館#道修町はなぜくすりの町と呼ばれるのか」も参照

地名の由来:町名の由来は、このあたりに「道修寺」という寺院があったからとする説や、江戸時代初期に北山道修(きたやま・どうしゅう)という薬学者がいたことにちなむとする説、江戸時代中頃まで上町台地と洲島との谷間にあたる道修町一丁目周辺が「道修谷」と呼ばれていたことに由来するという説、本願寺教如上人がこの地に渡辺御堂という寺を建てたことから多くの堂衆が住むようになり、「堂衆」が「道修」に変じたという説などがある。

祭事:毎年11月23日に少彦名神社の祭祀である神農祭があり、前日の11月22日が宵宮である。付近は大阪市の中心街でありオフィス街としての無機質な町並みに突如として堺筋から御堂筋までのおまつり屋台街が出現する。市街地ど真ん中であるため周囲はほとんど子供の居ない地域であり、屋台は大人向けの「居酒屋」的な屋台で占められており、その中に挟まれるように普通のお祭りらしい屋台が存在する。通りには道修町に本社やオフィスを構える製薬会社の製品が笹にぶら下げられ、11月23日は休日なので宵宮はスーツ姿のサラリーマンやOLで遅くまで賑わい異様な雰囲気がある。

世帯数と人口[編集]2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである。

丁目 世帯数 人口
道修町一丁目 62世帯 71人
道修町二丁目 41世帯 47人
道修町三丁目・四丁目 66世帯 154人
169世帯 272人

人口の変遷[編集]国勢調査による人口の推移。

1995年(平成7年) 75人
2000年(平成12年) 61人
2005年(平成17年) 41人
2010年(平成22年) 157人
2015年(平成27年) 260人

世帯数の変遷[編集]国勢調査による世帯数の推移。

1995年(平成7年) 30世帯
2000年(平成12年) 26世帯
2005年(平成17年) 20世帯
2010年(平成22年) 95世帯
2015年(平成27年) 177世帯

事業所[編集]2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。

丁目 事業所数 従業員数
道修町一丁目 138事業所 3,017人
道修町二丁目 170事業所 2,747人
道修町三丁目 132事業所 4,062人
道修町四丁目 92事業所 3,084人
532事業所 12,910人

参考資料:

(1)人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history

(2)奈良県薬業史略年表

(3)林 信一(元神戸薬科大学教授)、Personal information

(3)-1林 信一 :「大阪の薬文化」阪大出版会 2002

(3)-2奥田 潤 :「薬学の歴史」白水社 1994

(3)-3藤田英夫:「大阪舎蜜局の史的展開」1995

(3)-4池上直己:「日本の医療」中公新書 1996

(3)-5瀧藤尊敬 :「聖徳太子の信仰と思想」 善本社 1998

(4)八野芳已:くすり文化 第4回報 わが国の薬の歴史(2)-1大和時代編、2021.1.4

(5) 飛鳥文化:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 白鳳文化:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 

天平文化:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(6) 奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬

(7) 2:四天王寺に今も生きる聖徳太子の理念 ~ 上町台地(阿倍野 … smtrc.jp › town-archives › city › uemachidaichi

(8) 薬草に親しむ-正倉院に伝わる薬物60種のリスト種々薬帳 …www.eisai.co.jp › herb › familiar › shujuyakucho

(9) 奈良と薬の古い関係、東大寺正倉院

(10) 橿原市/藤原宮跡https://www.city.kashihara.nara.jp › fujiwara_kyuuseki

(11) 医疾令:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

(12) 陀羅尼助・奇効丸・豊心丹:奈良県製薬協同組合 〒639-2226奈良県御所市605-10  E-Meil:seiyaku@alto.ocn.ne.jp

(13) 聖徳太子 – Wikipedia ja.wikipedia.org › wiki ›

(14) 聖徳太子について – 和宗総本山 四天王寺 www.shitennoji.or.jp › shotokutaishi

(15) 聖徳太子 – 飛鳥の扉 www.asuka-tobira.com › syotokutaishi › shotokutaishi

(16) 聖徳太子 www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp › another › jinmei › syotokutaisi

(17) 「奈良のくすり」めぐり-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6

(18) 行基:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(19) 孫思邈:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/15 14:29 UTC 版)

(20)千金方:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について

(21) 道修町(どしょうまち)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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