【前編】第16回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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(2)-3:平安時代(794~1185)-(3)福原京と厳島神社を探る

【時代考証】平安時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」を基にまとめる。

【平安時代(794~1185年)の主な出来事】

1.平安京&平安神宮について、ちょっと探ってみる・・・:第15回報をご一読ください!

2-1.不可解で短期で終わった「福原京」について、探ってみると・・・

神戸市:福原遷都について:in福原京 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 福原京平清盛と福原京治承4年(1180)、清盛は京都を去って福原に遷都することを決定しました。突然の発表に京都は大混乱に陥りましたが、同年6月2日に遷都が断行されます。  安徳天皇は、3日に清盛の弟・頼盛の山荘に入り、翌日には清盛邸に、11月12日には新造の皇居に入られました。しかし、その月の26日には京都に帰還することとなります。  兵庫区の平野・荒田・石井・夢野のあたりには平家一門の別邸が点在し、わずか半年の短い間ではありましたが、都が置かれたこの地は、さぞかし壮観であったろうと思われます。  ここでは、福原京が置かれた兵庫区北部に残る清盛ゆかりの史跡を紹介します。  石井川と天王谷川の合流点に位置する雪御所は、 清盛の雪見御所の跡といわれています。明治41年に湊山小学校校庭から礎石や土器などが発掘され、この石碑が立てられました。(雪御所町)現在の荒田八幡神社は、かつて清盛の弟・頼盛の山荘があった場所で、福原遷都の際は安徳天皇の仮の住まいとして使われたと伝えられています。境内には、昭和55年に立てられた福原遷都八百年の碑もあります。(荒田町3丁目)清盛が福原遷都の際に、帝都守護のために紀州の熊野権現を勧請したと伝えられています。 (熊野町3丁目)清盛が福原遷都に先がけて、都の守護のために創建されたと伝えられています。また、清盛は福原全域が見渡せるこの地でのろしをあげて、都の位置を測定したといわれます。 (氷室町1丁目)東福寺は、旧奥平野村で最も古い寺です。清盛の寄進によって七堂の伽藍を構えていましたが、源平合戦で焼失したと伝えられています。(五宮町)清盛邸の近くに湯屋があり、清盛もその湯屋にわたったという記録が残されています。現在も温泉がある湊川上温泉がその地であると考えられます。 (湊山町)現在の祇園神社の裏山にあったと伝えられる山寺で、清盛は海潮の響きを聞きながら経ヶ島築造の計画を練ったといわれます。(上祇園町・平野町)氷室神社の境内にある弁財天は、清盛が福原遷都の際に勧請した七つの弁財天の一つと伝えられています。また、源平合戦の折には、平教経が陣を張った地ともいわれています。(氷室町2丁目)宝地院は、清盛のすすめで福原に都を遷した安徳天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられています。(荒田町3丁目)願成寺の境内には、源平合戦で討ち死にした清盛の甥・通盛とその夫人・小宰相局らを供養する五輪塔があります。もとは烏原村にありましたが、貯水池建設のため、この地に移されまし

た。(松本通2丁目)清盛の甥・業盛は、一ノ谷の合戦で源氏方の泥屋四郎・五郎の兄弟を相手に組討で戦いましたが討ち取られ、この地に葬られたと伝えられています。 (会下山町3丁目)夢野八幡神社熊野神社 平業盛塚安徳天皇行在所・ 福原遷都八百年の碑平通盛・小宰相局の五輪塔

これをふつう福原遷都とよんでいます。 保元・平治の乱の後、後白河上皇(のち法皇)の権力と平家の同盟による政治がはじまります。 ところが、平清盛は1168年2月大病をわずらって出家入道し、翌年初頭以降、摂津福原(神戸市兵庫区平野)に居を定めます。

福原京 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

福原京(ふくはらきょう)は、平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。

左:福原雪見御所碑  右:福原京(兵庫県神戸市)わずか半年で終焉。平清盛が平安京 …https://1192-diary.com ›
in雪見御所跡・荒田八幡神社・宝地院・薬仙寺 https://blog.goo.ne.jp › mitsue172
  1. 概要[編集]:場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり(現在の平野あたり)、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島(経ヶ島)を築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。1169年には雪見御所を構え、平清盛はこの地を気に入り10年間を平野に暮らす。平野は南以外の3方向を山に囲まれた盆地であり、六甲山系を背にして大倉山や会下山などの丘陵が「コの字」に並ぶ地形は、北風を遮り温暖で過ごしやすいことと、敵からの攻撃に備えやすいとという理由であったといわれる。さらに、石井川と天王谷川が新湊川に注ぐ合流地点であったこともその理由の一つとされている。清盛は福原遷都後、再興させた北区山田町の明要寺を「西の比叡山」になぞらえ、月参りをしたと伝えられる。参拝には石井川東岸から北に延びる烏原古道を利用した[1]
  2. 福原行幸[編集]:治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。

概要[編集]:場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり(現在の平野あたり)、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島(経ヶ島)を築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。1169年には雪見御所を構え、平清盛はこの地を気に入り10年間を平野に暮らす。平野は南以外の3方向を山に囲まれた盆地であり、六甲山系を背にして大倉山や会下山などの丘陵が「コの字」に並ぶ地形は、北風を遮り温暖で過ごしやすいことと、敵からの攻撃に備えやすいとという理由であったといわれる。さらに、石井川と天王谷川が新湊川に注ぐ合流地点であったこともその理由の一つとされている。清盛は福原遷都後、再興させた北区山田町の明要寺を「西の比叡山」になぞらえ、月参りをしたと伝えられる。参拝には石井川東岸から北に延びる烏原古道を利用した[1]

清盛は、高倉上皇平家一門反対を押し切って遷都を強行したが、それはとの貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、都市整備が進めば平氏政権による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。当時の公卿・九条兼実は平家が「南都興福寺を攻撃する」ので、不慮のことがあってはいけないということで、遷都したと予想している。興福寺は以仁王(後白河院の第3皇子)が挙兵して平家に反旗を翻した際に支援していた[2]。□□のちに福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。鎌倉幕府によって接収されたとも言われている。

福原行幸[編集]:治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。

九条兼実の日記『玉葉』(治承4<1180>年5月30日条)には「来月3日に福原に行幸あるべし」と記されている。兼実は突然の行幸(遷都)に「仰天」した。本来は6月3日の行幸だったはずが2日になったことについては「言語のおよぶところにあらず」と嘆息し、遷都に対しても「天狗の所為、実にただごとにあらず」として「乱世に生まれて、このようなことを見ることになるとは、悲しむべき宿業だ」と批判的に見ている。兼実は6月1日には、使者を清盛のもとに遣わし「私も福原に参るべきでしょうか」と尋ねている。清盛の返答は「宿所がない。だから、すぐに来る必要はない。追ってまた案内する」というものであったという[3]。□□当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってしまった。そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになった。しかし当時幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は平安京(京都)を放棄せず、福原には離宮を建て、内裏八省院は必要ないとした。これに対して清盛は、内裏は移建せず、11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、2年後には八省院などの役所もつくるという方針で構えた。 そして11月には皇居に似せて造られた清盛の私邸が天皇に提供され、17日12月5日)から20日8日)に新嘗祭の五節のみが行なわれると(新嘗祭自体は京都で行なわれた)、23日11日)には京都への還幸となった。京都への還幸は源氏の挙兵に対応するため清盛が決断したといわれている。

主な史跡[編集]:

平相国廟(能福寺境内) 清盛塚 萱の御所跡の碑(薬仙寺境内) 雪見御所趾の碑(平清盛の山荘趾) 安徳天皇行在所趾の碑(平頼盛山荘趾、荒田八幡神社境内)

陣場の井(平教経陣地跡、氷室神社境内) 湊川上温泉 夢野八幡神社 祇園神社

参考文献[編集]:

山田邦和 「福原京に関する都城史的考察」『長岡京古文化論叢』2、三星出版、1992年

歴史資料ネットワーク編 『平家と福原京の時代』 岩田書院〈岩田書院ブックレット〉、2005年

高橋昌明 『平清盛 福原の夢』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2007年

関連項目[編集]日宋貿易 日本の首都 平氏政権 兵庫城 平野 (兵庫区)

外部リンク[編集]神戸市文書館 源平特集:福原遷都 『福原遷都』 – コトバンク

in福原京の今むかし~平清盛が築いた日本の首都~ – カルチャー https://www.mapple.net › Home › 書籍記事

【福原京の今むかし~平清盛が築いた日本の首都~】

福原京への遷都のきっかけとなった大輪田泊港

奈良時代、僧の行基は瀬戸内海に「五泊(ごとまり)」と呼ばれる5つの港を築いたと伝えられます。その1つが、現在の神戸市兵庫区の地下鉄中央市場前駅近くにあった大輪田泊(おおわだのとまり)」です。□□平安時代の末期、朝廷の有力者となっていた平清盛は、1161年から大輪田泊の港湾を本格的に整備しました。平清盛は中国大陸の宋(そう)との貿易に力を入れており、宋から来た大型船が停泊できるように港を拡充したのです。□□大輪田泊からは奥州の金、硫黄(いおう)、刀剣、漆器などが輸出されるかわりに、宋の銅銭、陶磁器、織物、香料、仏典や漢学の書籍が輸入され、平家の大きな財源となりました。

大輪田泊港の防波堤「経が島」

東南からの強い波風に対する防波堤として、人工島の「経が島(きょうがしま)」が築かれました。人柱の代わりにお経を書いた岩を埋めたのが名前の由来で、広さは約650m四方あったと伝えられます。正確な位置は不明ですが、現在も新川運河の築島(つきしま)水門の近くには、経が島の工事に使われたという巨石が残されています。

福原京への遷都を断行も都として築くには難しい地だった

平清盛は藤原氏など平家と敵対する勢力が多い京都を離れ、自分の外孫である安徳天皇をともなって福原への遷都を断行します。この新首都・福原京の正確な位置は不明ですが、東は宇治川から西は妙法寺(みょうほうじ)にかけての範囲と推定されています。

ですが、遷都時の福原は道路も家屋もほとんどない荒れ地で、平家の者ですら一部は野宿同様となります。しかも、山と海に挟まれた地形なので大きな都を築くことはできませんでした

福原京への平清盛の構想

それまでの都であった平城京や平安京は内陸に位置していましたが、平清盛は貿易港と都が接する環境をつくり、海洋国家として日本を発展させる構想を考えていたのでしょう。しかし、源頼朝義経兄弟に敗れ、清盛の夢は残念ながら未完に終わりました。

in福原京 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点形成の …https://digitalarchiveproject.jp › information › 福原京

福原京福原京(ふくはらきょう)は、平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。

福原京 1180年6月、平清盛の強い意向で、現在の神戸市兵庫区平野の地に、天皇・上皇以下が大挙して訪れた。 やがて、都造りが計画されたが、途中から反平氏勢力の挙兵がはじまり、遷都反対も根強く、未完に終わって、約170日の後、京都に帰還します。 これを福原遷都とよんでいる。

福原遷都の理由: 保元・平治の乱の後、後白河上皇の権力と平家の同盟による政治がはじまった。 ところが、平清盛は1168年2月大病をわずらって出家入道し、翌年初頭以降、摂津福原(神戸市兵庫区平野)に居を定める。 以来京都の政治は、一門の子弟や平家に協力する上流貴族たちにまかせて、重大な懸案発生の時以外には、都に出向かなくなった。 福原には、清盛邸以外にも一族の別荘が建設されており、都市らしい景観も生まれた。
 彼が福原に引きこもった理由として、その南2.5キロのところに、古代以来の重要港湾・大輪田泊があり、 ここを足場に中国(宋)との貿易推進の陣頭指揮をとろうとした、といわれている。 風よけ波よけの目的で、港に「経の島」とよばれる人工島を築いた。
平家の主体性を発揮するには、後白河法皇を中心とする王朝勢力と、ある程度距離をおく必要があり、 そのためには最高実力者が京都から離れている方がよかったとも考えられている。平氏系王朝: その後、清盛は後白河法皇と次第に対立を深め、ついに1179年11月軍事クーデタを起こし、 後白河法皇の院政を停止、翌年2月には高倉天皇の皇子・言仁親王(安徳天皇)の即位を実現する。言仁は清盛の娘・徳子が 生んだ子である。上皇となった高倉天皇は、清盛の妻の妹・滋子が後白河法皇とあいだにもうけた子である。高倉上皇から安徳天皇の政権は、平氏系王朝であった。

和田京立ち消え 安徳天皇が即位して3カ月たらずの1180年5月、後白河法皇の別の皇子・以仁王が、平氏の新王朝を真っ向から否定して 挙兵を計画。 この反乱自体は未然に鎮圧されたが、それをきっかけとするかのように、6月2日、平家一門は、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇をともない、福原に向かう。 福原到着後、天皇は清盛の異母弟・頼盛の邸、上皇は清盛の別荘、法皇はやはり清盛異母弟の教盛邸に入るが、 その他は「道路に座すがごとし」というありさまであった。
そして平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってしまった。

 7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになった。しかし当時幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は平安京(京都)を放棄せず、福原には離宮を建て、内裏や八省院は必要ないとした。これに対して清盛は、内裏は移建せず、11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、2年後には八省院などの役所もつくるという方針で構えた。
 そして11月には皇居に似せて造られた清盛の私邸が天皇に提供され、17日(12月5日)から20日(8日)に新嘗祭の五節のみが行なわれると(新嘗祭自体は京都で行なわれた)、23日(11日)には京都への還幸となった。京都への還幸は源氏の挙兵に対応するため清盛が決断したといわれている。 
参考文献 神戸市文書館ホームページ資料
出典: 「福原京」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2019.3.4

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