新規重水素化触媒反応の開発で医薬品への直接重水素導入達成 京都大学

少用量で持続効果がある副作用が少ない重医薬品開発への応用に期待

同研究のイメージ

 京都大学大学院薬学研究科の中寛史准教授らの共同研究グループは20日、医薬品などの複雑なアルコールに含まれる水素を重水素へと効率的に置き換える方法の開発に成功たと発表した。
 医薬品の有効成分に含まれる特定の水素原子を重水素で置き換えた重医薬品は、体内での代謝に対する安定性が高いため、少ない用量で長く効き、副作用も少ない優れた薬として臨床応用への期待が高まっている。
 医薬分子に含まれるヒドロキシ基α位の炭素−水素結合は、代謝による切断を受けやすい位置であるため、重水素化の魅力的な標的部位であるが、ヒドロキシ基α位のみを重水素化した医薬分子の合成は困難であった。
 この問題に対して同研究では、機能性含窒素配位子をもつイリジウム錯体触媒によって、医薬品を含む幅広い種類のアルコールを、重水を用いて医薬品などの複雑なアルコールに含まれる水素を重水素へと効率的に置換できることを明らかにした。
 従来とは異なり、医薬品に含まれる配位性官能基の影響を受けず、ヒドロキシ基α位を優先して重水素化できる。この方法によって数種の医薬品や天然物の効率的重水素化も可能となった。
 今回、医薬品を含めた複雑なアルコールの直接重水素化技術の確立により、様々なアルコールに直接重水素の導が可能になった。この研究成果により、医薬品を含めた機能性有機分子が示す本来の性質を損なうことなく、耐久性のみを上昇させる分子創出の可能性が大きく広がった。
 同研究成果は、中准教授、糸賀萌子京都大学大学院修士課程学生、山西雅子同大学院修士課程学生(研究当時)、竹本佳司同大学教授、岐阜大学工学部宇田川太郎助教、同志社女子大学薬学部前川京子教授、小林文音同学部生らの共同研究によって得られたもので、7月20日(現地時刻)に英国の国際学術誌「Chemical Science」にオンライン掲載された。
 重水素 (2H, D)は、天然に存在する安定な水素同位体であり、その質量差と量子効果から炭素−重水素結合 (C−D 結合) の切断には炭素−軽水素結合 (C−1H結合) の切断に比べ大きなエネルギーを要する。この切断されにくい C−D結合の特徴を利用して、医薬品の有効成分で代謝を受ける箇所の水素を重水素で置き換えた重医薬品(重水素化医薬品、重薬)の開発が進んでいる。
 重医薬品は、もとの医薬品と比べて体内での代謝に対する安定性が高いため、少ない用量で長く効き、副作用も少ない優れた薬として臨床応用への期待が高まっている。
 実際、2017年には FDA から重医薬品が新薬として承認されており、2022年現在も10種類以上の候補化合物について臨床試験が実施されている。

図1 世界で認可•市販されている重医薬品


 医薬分子に含まれるヒドロキシ基α位の炭素−水素結合(C−H結合)は、代謝による切断を受けやすい代表的な位置であるため、重水素化の魅力的な標的部位となっている。
 だが、これまでヒドロキシ基α位のみを重水素化した医薬分子の合成には高価な重水素化試薬を利用した多段階合成を必要とするため、医薬分子に含まれるヒドロキシ基α位に対して効率的に重水素を導入することは困難であった。
 この問題を解決するため中氏らは、医薬分子の直接的な炭素–水素結合 (C−H 結合) の重水素化反応に着目した。医薬分子の直接的なC−H結合重水素化は、2017年にプリンストン大学のMacMillan教授らによって提唱された新しいアプローチで、同教授らはアミノ基α位に対して有効な方法を報告している。
 有機物質に含まれるヒドロキシ基α位の直接重水素化反応としては、過去に遷移金属錯体触媒や不均一系触媒などの触媒と、重水(D2O)を組み合わせて用いた反応がいくつか報告されているが、さまざまな官能基をもつ医薬分子に広く適用可能なアルコールのα位選択的な重水素化法は知られていなかった。
 そこで、同研究では、ロサルタンカリウムに代表される医薬分子のヒドロキシ基α位を、重水を使って直接重水素化する触媒系の探索研究に取り組んだところ、機能性配位子(ビピリドナート配位子)をもつイリジウム触媒を用いれば、ロサルタンカリウムを含む幅広い種類のアルコールの直接重水素化が可能になることを明らかにした。

図2 本研究の概要。イリジウム触媒を利用して、アルコールと重水から重水素化アルコールを合成できる。ロサルタンカリウムのような医薬品にも効率的に重水素を導入することができる。


 同研究では、2012年に京都大学の藤田健一教授らによって開発されたイリジウム−ビピリドナート錯体に着目した。この錯体は、幅広いアルコールの脱水素化反応を効率よく促進する。アルコールの脱水素化反応の素反応過程では、イリジウムヒドリドとカルボニル化合物が生成することが提案されている。
 脱水素化反応では、このイリジウムヒドリドが分解して水素ガスを発生してしまうが、反応を閉鎖系で実施することで、イリジウムヒドリドが分解する前に重水と反応してイリジウムデューテリドを与え、イリジウムデューテリドがカルボニル化合物と反応すれば目的の重水素化アルコールが得られ、イリジウム触媒を再生すると考えた。
 実際、ヒドロキシ基α位が代謝部位であるロサルタンカリウムを標的化合物として検討した結果、このイリジウム−ビピリドナート錯体触媒を用いれば、ロサルタンカリウムに含まれるヒドロキシ基α位水素のみを効率的に重水素化できることが分かった。
 従来の触媒とは異なり、イミダゾールやテトラゾールなどの医薬品によく含まれる配位性官能基の影響を受けることなく、ヒドロキシ基α位の重水素化のみが進行する。同様の塩基性あるいは中性条件下、様々な第一級アルコールと第二級アルコールの重水素化も進行することが分かった。この方法によって、医薬品や天然物の効率的な重水素化も可能となった。

図3 イリジウム触媒と重水を利用した、ロサルタンカリウムに対する重水素の導入反応。
図4 本反応によって得られる、重水素が導入された医薬品や天然物。数字は重水素化率(%)。


 これまでこれらの重水素化されたアルコールは高価な重水素を含む還元剤などを用いて合成されていたが、今回の方法では最も入手容易な重水を主な重水素源として合成できる点で、経済的に優れている。
 また、最終製品であるアルコールを原料として重水素化できるため、わざわざ重水素化アルコールを作るための新しい合成方法を考える必要がなく、既存の設備をそのまま使用できる
 さらに、実験と理論計算の結果から、このイリジウム触媒を用いたアルコールの重水素化反応が機能性ビピリドナート配位子とイリジウムの協奏効果を利用した①脱水素化、②軽水素と重水素の交換、③重水素化ーの3段階で進行していることが支持された。この結果は、新しい重水素化反応を開発する上での触媒の設計指針を与えるものだ。
 最後に、実際に重水素化した医薬品である重水素化ロサルタンの代謝安定性を評価したところ、ヒドロキシ基α位が重水素化されたロサルタンは、重水素化されていないロサルタンと比較して、代謝に対する安定性が大幅に向上していることが分かった。このロサルタンのヒドロキシ基α位が重水素化による代謝安定性に対する知見は今回初めて得られたものであり、今後の重医薬品を開発するにあたって重水素に由来する速度論的同位体効果を活用するために重要な知見を与えるものと期待できる。

図5 (上) 代謝酵素によってロサルタンが代謝物に代謝される反応。(下) ロサルタンと重水素化ロサルタン(0.5 µM あるいは 10 µM) が酵素によって代謝される際に代謝物が生成する速度。グラフの値が小さいほど、代謝に対する安定性が高い。


 今回、医薬品を含めた複雑なアルコールの直接重水素化技術の確立により、様々なアルコールに直接重水素を導入することが可能になった。
 これにより、医薬品を含めた多くの機能性有機分子が示す本来の性質を損なうことなく、耐久性のみを上昇させる可能性が大きく広がった。また、これまで主にsp2炭素の重水素化に有効であると考えられていたイリジウム錯体も機能性ビピリドナート配位子との組み合わせにより、ヒドロキシ基α位を含めたsp3炭素の重水素化が可能となったため、機能性ビピリドナート配位子を利用した様々な金属錯体によって多様な有機物質の重水素化が可能になることが期待できる。
 これによって、今回の方法ではうまく重水素化できなかったアルコールや、アミンなどの官能基についても従来法とは相補的な重水素化技術の実現が期待される。これまで不可能とされていたありとあらゆる有機材料の耐久性を合理的に高める技術開発が達成される可能性がある。
 現在、学術変革領域研究(B)「重水素学」の窓口を通して、京都大学はこれらの成果を広く社会に提供すべく、技術提供や資料提供を進めている。(重水素学 URL: https://deut-switch.pharm.kyoto-u.ac.jp/ )◆研究者のコメント

 医薬品の重水素化は、2017年に始まったばかりの新しい研究領域である。あらゆる医薬分子に水素原子が含まれていることを鑑みれば、これらの水素を合理的に重水素に置き換えることで医薬品の機能を最大限に発揮することが期待される。
 今後も我々は、重水素で分子設計を変える「デュースイッチ(Deut-Switch)」研究を進める。詳しくは、https://deut-switch.pharm.kyoto-u.ac.jp/ (中)をご覧いただきたい。

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