【前編】第12回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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(2)-3:平安時代(794~1185)

【時代考証】大和・飛鳥・奈良の各々の時代から平安時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」を基にまとめる。

【平安時代(794~1185)での「くすり文化」に関係する事柄】 794年に平安京に都が移り、平安時代がスタートし、1185年までの390年余り続いた。その平安時代の「くすり文化」に関わる事柄としては、[平安時代(794~1185)になると、交通網や商業が発達して、唐物などの交易品の輸入も益々盛んになり、産物が中央に集まるとともに、文化も経済も著しく発達した時代です。遣唐使の派遣も反復されるとともに、中国の医学手技薬物についても大いに研究研鑚され、日本の国情、風土にあわせて進歩発展してまいります。永観2年(984)丹波康頼(タンバヤスヨリ)が多数の隋、唐の医書などを引用、集大成して、医薬処方剤治療の法則を論じた『医心方』30巻を著したのもこの頃です。この書は現存する日本最古の医書として有名です。  また、醍醐天皇の勅命によって編纂された『延喜式』(905~927)は、この頃の国内薬物事情を推測する上で貴重な資料です。その巻37典薬寮の項にリストがあり、畿内山城国など全国57の諸国から朝廷に進貢された170余種にも及ぶ生薬の品名と数量が、国別に克明に記録され、さらに宮中で用いる配合製剤(丸剤や軟膏剤など)も収録されています。『延喜式』に記録されている生薬には、当時日本に産出しなかったと考えられるものもありますが、その内容が後世江戸時代から現代の国産常用生薬と変わりがないのは、この時代にすでに国内の薬草の探索が相当に進んでいたことをうかがわせるものです。] (in薬の歴史 | 樋屋製薬株式会社・樋屋奇応丸株式会社 薬の歴史:執筆 宇治 昭 (薬学博士) https://hiyakiogan.co.jp › content › fukuyo › history )(1)『大同類聚方(808(大同3年)):in Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki ›

大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)は、平安時代初期の大同3年(808年5月3日に成立した現存する日本最古の医学書[1][2][3]薬品の処方(典薬寮本では808種)が、各地の神社豪族の家系から集められて収録された。全100巻だが、2-7巻は江戸時代に失われた[1]

目次:1成立  2研究史  3佐藤方定の見解  4典薬寮本  5刊本  6脚注

成立[編集]

漢方医学の流入に伴い日本固有の医方が廃絶の危機に瀕している事態を憂慮した桓武天皇の遺命によって[4]平城天皇の治世に安倍真直出雲広貞らにより『大同類聚方』は編纂された[5]。ただし後述する『勅撰真本大同類聚方』の上表文では、編者としてほかに若江家継大伴乎智人忌部恵美麻呂の名が記されている[6]。大同3年5月3日(808年5月31日)に完成し、天皇上奏された[7]。同書の編纂にあたって諸国の豪族・旧家や神社に医方を献上させたと一般的には理解されているが、そのような通達が発せられた形跡を確認できないことなどから、典薬寮内裏などに当時保有していた資料を基に編纂されたとする見解もある[8]同時に制定された『大同医式』によって、薬の処方は同書に基づくよう定められ、違背は死罪と記された[1]

研究史[編集]

江戸時代国学の台頭に伴って和方医学が興隆すると、『大同類聚方』は和方家の聖典とみなされるようになった。しかし1799年寛政11年)に『日本後紀』の残巻が刊行されると、『日本後紀』の記述と、当時流布していた『大同類聚方』の内容に矛盾が見られることなどから、流布本を偽書とする見解が現れた[9]。和方家の中でも権田直助らは真書説、佐藤方定(佐藤鶴城・佐藤民之助・佐藤神符満と同一人物)らは偽書説を唱えて論争となった。近代になると富士川游服部敏良和田英松物集高見物集高量らが佐藤の偽書説を支持したため[10]、今日では現存する諸本は全て偽書であり真本は散逸したとみなすのが通説となっている。ただし佐藤方定は後述の典薬寮本などいくつかの写本について真書であると主張し、『勅撰真本大同類聚方』を刊行している。この際に火災に遭い、原本や版木を焼失したことが、上記の欠巻を生んだ[1]1905年明治38年)に刊行された『日本医学叢書』第1集第1巻では『大同類聚方』(全100巻)、『大同類聚方抜萃』、『大同類聚方寮本』(8-17巻分のみ)の3種が翻刻されている。このうち『大同類聚方寮本』は後述する『勅撰真本大同類聚方』のこととされる[11]1979年昭和54年)には同書の翻刻を基に校注を付した『大同類聚方校注』が大神神社から出版されている。また1985年(昭和60年)には槇佐知子によって『大同類聚方全訳精解』が著されている。同氏の業績に対しては菊池寛賞エイボン功績賞が授与されている。

佐藤方定の見解[編集]

佐藤は1831年天保2年)の著書『奇魂』(くしみたま)において、当時流布していた『大同類聚方』の伝本を明白な偽書であるとし、その論拠として以下の点を挙げている[12]

  • 3種ある伝本の内容構成に相違が見られる。1828年文政11年)に刊行された伝本では初めに用薬が記されている。しかし別の伝本では用薬は終わりに記されている。その内容の前半は 1773年安永2年)刊行の 『大同類聚方』抄本や1787年天明7年)刊行の『大同類聚方抜萃』に似ているが、後半は前述の文政11年刊本に似ている。他に24巻までが欠けており、用薬が終わりに記されている伝本もある。
  • 807年(大同2年)に成立した『古語拾遺』は漢文によって記されており、『日本後紀』における『大同類聚方』成立についての記述も同様である。『万葉集』は和歌万葉仮名で表記しているが、詞書はやはり漢文である。しかし伝本では宣命体が用いられている(ただし後述の『勅撰真本大同類聚方』でも宣命体が用いられている)。
  • 伝本に用いられる仮名は『万葉集』に見られるものと一致しない。また伝本における文言も『大同類聚方』の時代にまで遡るものではない。
  • 伝本における各巻の記述はあまりにも少なく、一巻につき2枚から3枚ほどの量しかない。これは全巻に共通しているため、全て虫損が原因であるとは考えられない。
  • 伝本には「従五位下典薬頭阿部朝臣」とある。しかし『日本後紀』では名を「真」としており、また真直が典薬頭であったとの記述はない(ただし『勅撰真本大同類聚方』の記述も伝本と同様であり『日本後紀』と一致しない)。
  • 伝本には「侍医従六位上出雲宿禰広貞」とある。しかし『日本後紀』では広貞を外従五位下としており、また広貞の『大同類聚方』編纂時の姓はであって812年弘仁3年)に宿禰の姓を賜ったとある。
  • 古林見宜『医療歌配剤』に「大同類聚方曰、痘瘡、始起自聖武天皇御宇、釣者遇蕃人継此病、称裳瘡一児患之、則一村流行也、猶裳之曳下、故名、焉初生児、食金箔、不患之」とある。この文は『日本後紀』にある『大同類聚方』成立のついての記述や古書における痘瘡の記述と矛盾せず、信頼できるものである。しかし伝本ではこれに相当する記述が確認できない。
  • 伝本には加賀国という語が見える[13]。しかし加賀国が越前国から分離したのは『大同類聚方』成立よりも後の823年弘仁14年)である。
  • 伝本では茶色という語が用いられている[14]。しかしが史料上で確認できるのは嵯峨天皇の時代からであり[15]、『大同類聚方』が成立した時期にこのような表現が用いられるとは考え難い。

続日本紀天応元年(781年)4月3日条では光仁天皇について「元来風病爾苦」としており、また『日本後紀』大同4年(809年)4月1日条では平城天皇について同様の表現が用いられている。また『栄花物語』(巻13ゆふしで)にも「この殿は、ちいさくより、風おもくおはしますとて、かぜの療治どもを、せさせ給」という記述が見えるなど、当時の史料から「風病」ないしは「風」(かぜ)という語は慢性的な疾患の名称であったことがわかる。しかし伝本では感冒の意で「風病」という語が用いられている。

 そして佐藤は、師にあたる本居宣長がこの伝本について鎌倉時代のあたりに著されたものと推定したことから、当時『大同類聚方』とは異なる書として著されたものが後代に改竄されたか、あるいは当時から偽書として著されたものではないかとした。□□1852年嘉永5年)に著された花野井有年『医方正伝』には、のちに佐藤は後述する延喜年間の写本(典薬寮本)と延長年間の写本を発見したとある[16]。佐藤は1856年安政3年)から、この典薬寮本を底本とし前述の延長本および寛仁年間の写本との異同を示した『勅撰真本大同類聚方』(大同類聚方寮本)の刊行を開始した[17]1858年(安政5年)の著書『備急八薬新論』において佐藤は「流布印本ハ偽書ナル事奇魂ニ弁セリ正本ニ因ルヘシ」としている。

典薬寮本[編集]

『勅撰真本大同類聚方』所収の典薬寮本と『日本医学叢書』所収の『大同類聚方』(全100巻)には、以下のような相違が見られる[18]

  • 典薬寮本には典薬寮が押されており、また「延喜十二年正月写 深根輔仁」「延喜十三年五月一校了 大医博士 深江朝臣輔仁」との記述が見える。
  • 典薬寮本では天皇への上表文医官の心得を説いた医式、日本における医薬の祖とされる大穴牟智命少彦名命武内宿禰の教えが記されている。また薬を調合する際の分量も明記されており、いずれも流布伝本には存在しない記述である。
  • 典薬寮本の上表文では前述した5名の編者が記載されている。このうち出雲広貞は「外従五位下兼行侍医典薬助但馬権掾臣出雲連広貞」とあって、『日本後紀』の記述と一致している。しかし安倍真直については「従五位下典薬頭兼行左大史大舎人助相模介臣安倍朝臣連真貞」とあり、流布伝本と同様『日本後紀』の記述とは一致しない。
  • 典薬寮本では古字古韻が用いられており、則天文字など多くの異体字が見られる。
  • 典薬寮本では宣命大書体が用いられており、宣命小書体を用いている流布伝本とは異なる。
  • 典薬寮本では「一之巻」のように巻数を記しており、これは『古事記』や『令集解』に引用される『古記』と共通する。一方、流布伝本では「巻之一」のように巻数を記しており、こちらは『日本書紀』や『令集解』と共通している。

刊本[編集]

近世の刊本は日本古典籍総合目録データベース[19]の情報による。

  • 『大同類聚方』 – 1773年(安永2年)刊。木村孔恭校。抄本1冊。丹波良康抄本の系統に属する。
  • 『大同類聚方抜萃』(大同類聚方自一至五抜萃神方) – 1787年(天明7年)刊。広田元良序。抄本1冊。丹波本系。
  • 『大同類聚方』 – 1807年文化4年)刊。畑柳安(黄山)等閲。抄本2冊(巻25‐34相当)。
  • 『大同類聚方』 – 1828年(文政11年)刊。武藤吉得校。10冊。
  • 『大同類聚方抜粋神方』 – 1836年(天保7年)刊。抄本1冊。丹波良康本系。
  • 『大同類聚方寮本』(勅撰真本大同類聚方) – 1856年(安政3年)から1864年元治元年)頃にかけて刊行。第十三集まであるが第二集(2-7巻相当)のみ未刊[20]

以下は近代以降の活字翻刻本。

  • 土肥慶蔵等撰『日本医学叢書』(第1集第1巻) – 1905年(明治38年)刊。
  • 大神神社史料編修委員会編『大同類聚方校注』 – 1979年(昭和54年)4月刊。
  • 槇佐知子『大同類聚方全訳精解』 – 1985年(昭和60年)5月刊、平凡社。上巻(用薬部)と下巻(処方部)よりなる。

新編普及版が、1992年に新泉社 全5巻で再編刊行。

この他に、横浜薬科大学和漢薬調査研究センターが、欠巻の探索と現代語訳に取り組んでいる[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e 根本幸夫「平安の国産薬 勅命レシピ◇9世紀の医学書読み解いて、現代語で復元めざす◇」日本経済新聞』朝刊2019年10月2日(文化面)同日閲覧。
  2. ^ 同書に先立って和気広世が『薬経太素』なる書を著したとする説があるが、この説に対しては『薬経太素』なる書は存在しないとする強い批判がある。そもそも同書は『日本後紀延暦18年(799年)2月乙未(21日)条に「(和気広世)大学会諸儒講論陰陽書新撰薬経太素等」とあり、これを「大学に諸儒を会して陰陽の書を議論し、新たに薬経太素等を撰す」と訓じたことに由来する。しかし、同条については、「大学に諸儒を会し、『陰陽書』、『新撰薬経』、『太素』等を講論す」と訓じる説が通説である。『陰陽書』は、詳細は不明であるが、呂才撰『陰陽書』(『大唐陰陽書』)などの陰陽道の基本書を指すと考えられる。また、『新撰薬経』は、蘇敬ほか撰『新修本草』の薬図・図経(略して薬経)のこと、『太素』は、楊上善撰『黄帝内経太素』のこととみられ、両書とも当時の医学の基本書を指すと考えられる。したがって、『薬経太素』なる書は『日本後紀』を誤読した結果生まれた偽書(『続群書類従』に採録された『薬経太素』は後世〈寛文元年[1661年]-延宝元年[1673年]頃か〉になって作られたと考えられる)であり、現在、その存在を支持する説はない。
  3. ^ “平安初期の処方箋出します 医書の現代語訳に挑む”. 日本経済新聞 (2019年10月2日). 2021年1月6日閲覧。
  4. ^ 後藤志朗「『勅撰真本大同類聚方』について」『日本医学雑誌』第43巻第1号、1997年、85頁、97頁。
  5. ^ 『日本後紀』大同3年5月3日条。
  6. ^ 後藤 前掲論文 89頁。
  7. ^ 『日本後紀』同日条。
  8. ^ 後藤 前掲論文 96頁。
  9. ^ 同 85頁。
  10. ^ 同 85頁、97頁。
  11. ^ 同 89頁。
  12. ^ 富士川游ほか編『杏林叢書』第4輯、吐鳳堂書店、1926年、105-106頁、92頁。
  13. ^ 文政11年刊本の巻之十三(用薬類獣類部)には「加母一名久之加 角乎用由 味淡久無臭 磨研弖用(由) 加賀国爾出(寸)」とある。
  14. ^ 文政11年刊本の巻之三十三(支波太依也美)には「支波多依病波[中略]小便少久色深茶色尓赤久濁流者也」とある。
  15. ^ 『日本後紀』弘仁6年(815年)4月22日条には「大僧都永忠手自煎茶奉御」とあり、また同月3日条には「令畿内近江丹波播磨等国殖茶毎年獻之」との記述がある。
  16. ^ 『杏林叢書』第4輯、132頁。
  17. ^ 後藤 前掲論文 85-88頁。
  18. ^ 同 89-90頁。
  19. ^ 「日本古典籍総合目録データベース国文学研究資料館
  20. ^ 後藤 前掲論文 88頁。

(2)『延喜式(905~927(延長5年)): 平安時代の法令集。 50巻。三代式の一つ。延喜5 (905) 年,左大臣藤原忠平らが醍醐天皇の命令により編集。延長5 (927) 年完成。『弘仁式』『貞観式』をはじめ,古代政府の根本法令を補う形でその後発布された施行細則を集大成したもの。実際に頒布されたのは,40年後の康保4 (967) 年。これらは当時の法令の編集が,行政上の必要からなされるよりも,その時代の文化的事業として編集され,一つの記念事業としての意味が強かったからであろうと思われる。内容は律令制社会の全般に及んでいる。たとえば巻9, 10の神名式は,一名『延喜神名帳』ともいわれ,全国の神社が国郡ごとに連記されているので,当時の地方行政区画を知ることもできる。また,巻 23の民部式ほかからは当時の各国の特産物を,巻 26の主税式からは諸国の国力を相対的に知ることができる。巻 37の典薬式には,諸国に産出する薬草が詳記されていて便利である。『延喜式』は,写本として平安時代のものが現存していて,物名,神名などにかたかなの和訓がつけられており,古代国語史料としても欠かすことはできない。『弘仁式』『貞観式』はごく一部分しか残っていないが,『延喜式』は全巻が散逸することなく伝わっているため,古代政治を把握するうえで貴重な史料となっている。『国史大系』所収。 (→延喜格 , 弘仁格式 , 貞観格式 )(in出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について) *その50巻は、[巻1 神祇1 巻2 神祇2 巻3 神祇3 巻4 神祇4 巻5 神祇5 巻6 神祇6 巻7 神祇7 巻8 神祇8 巻9 神祇9 巻10 神祇10 巻11 太政官 巻12 中務省 巻13 中宮職 巻14 縫殿寮 巻15 内蔵寮 巻16 陰陽寮 巻17 内匠寮 巻18 式部省 上 巻19 式部省 下 巻20 大学寮 巻21 治部寮 巻22 民部省 上 巻23 民部省 下 巻24 主計寮 上 巻25 主計寮 下 巻26 主税寮 上 巻27 主税寮 下 巻28 兵部省 巻29 刑部省 巻30 大蔵省 巻31 宮内省 巻32 大膳職 上 巻33 大膳職 下 巻34 木工寮 巻35 大炊寮 巻36 主税寮 巻37 典薬寮 巻38 掃部寮 巻39 正親司 内膳司 巻40 造酒司 主水司 釆女司 巻41 弾正台 巻42 左右京職 東西市司 巻43 春宮 巻44 勘解由使 巻45 左右近衛府 巻46 左右衛門府 巻47 左右兵衛府 巻48 左右馬寮 巻49 兵庫寮 巻50 雑式]になる。

(in延喜式 – CiNii 図書https://ci.nii.ac.jp › ncid 藤原忠平[ほか]撰 出雲寺, 享保8(1723)])

延喜式は養老律令の施行細則を集大成した古代の朝廷運営マニュアル。内容が詳細で具体的なため、 古代史の研究に不可欠の文献といわれています。当然ながら装束に関する記述も全巻にわたり豊富です。 延喜五(905)年、醍醐天皇が左大臣藤原時平に命じて編纂開始。延長五(927)年に完成奏上され、その後修訂が加えられて康保四(967)年に施行されました。
 全50巻、約3300条からなり、神祇官(巻1~10)、太政官八省(巻11~40)、その他の官司(巻41~49)及び雑式(巻50)と、 律令官制順に配列されています。本居宣長が記紀・万葉・六国史に次いで見るべき書として本書をあげているほど神祇関係の記述が多く、古代の朝廷が「まつりごと」の機関であったことを示しています。
 ここでは装束研究に資すべく、延喜式全文(読み仮名を除く)を掲載し、検索可能としました。底本は『新訂増補国史大系26 延喜式』です。(in延喜式 http://www.kariginu.jp › engishiki)

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