【前編】第11回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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④滋賀県の地をめぐる  このシリーズ「くすり文化ゆかりの地をめぐる」では、これまで「奈良の地(1回)」から「大阪の地(難波京4回)」をめぐってきた。今回はその先を奈良時代の遷都先の「滋賀県」に目を向け、県内を散策してみる。  その滋賀県では、滋賀のあゆみが分かる「歴史年表&建造物マップ(www.pref.shiga.lg.jp › ippan › bunakasports › bunkazaihogo)」を公表していて、その一部「飛鳥時代と奈良時代」を抜粋した(下表)。

その年表の中では、「742(天平14年)紫香楽宮の造営開始ー紫香楽宮跡【国指定史跡】(甲賀市)743(天平15年):墾田永年私財法ー荘園の始まり、聖武天皇が紫香楽宮で「大仏造顕の詔」を発し、造立を開始する(が、結局「752年の奈良の東大寺大仏完成」になる)、745(天平17年)紫香楽宮に遷都(都だったのは約半年のみ)この頃、近江国庁がつくられるー近江国府跡【国指定史跡】(大津市)」と示されている。紫香楽宮が都だったのは半年ほどだったとあるが、紫香楽宮が造営されてから、遷都まで3、4年程かかっている。この3、4年の間はこの地ではどうのような動きがあったのか興味がある。その数年の動きなどを公表されている資料等から垣間見てみる。

【滋賀県の国宝・重要文化財建造物MAP】

紫香楽宮について

奈良時代では平城京が都とされていたが、聖武天皇の治世にあたる740年~745年の5年の間には「恭仁京・難波京・紫香楽宮」へと度々都が遷されている。恭仁京は、奈良に近い現在の「京都府木津川市」に設置され、難波京はその名の通り現在の「大阪都心部」に、そして紫香楽宮は滋賀県甲賀市の「信楽地区」に設置されている。(in第6回報くすり文化ゆかりの地をめぐる:(1)奈良(県)地方編)

今回はその過程で滋賀県に作られた「紫香楽宮(滋賀県甲賀市の「信楽地区」に設置)」について時の流れとともにみてみると、上記に示した、国指定史跡紫香楽宮跡の解説文に「天平14年(西暦742年)、恭仁の宮の造営中であった、恭仁(京都府哀相楽郡)より東北の道を開き信楽に離宮の造営をはじめられた。たびたびの行幸の後、天平17年(西暦745年)の正月にはここを新京として百官朝賀の新年儀式をとり行なわれるにいたったのであった。朱雀門や大安殿・朝堂などが建ち役所も大部分この地に移って都の造営が続けられようとしたのであるが、同年4月ごろから周辺の山々に大火災があいつぎ、その上地震などの災害も起って人心の不安がつのったために、ついにこの年の5月、都は奈良の平城宮へともどされていったのである。□この遺跡は紫香楽宮造営の一環として建てられた寺院の遺跡であって、後に甲賀宮国分寺となったと推定されている甲可寺の遺構とみられ、東大寺に先立つ寺院の遺跡としても貴重である。□なお、聖武天皇はこの間の天平15年に、大仏造立の詔勅を発し、この地にその造仏を開始されたのであるが、遷都によってここでは完成にいたらず、後に東大寺としてそれが完成したのである。」と記されてある。このような変遷を経た「紫香楽宮」とはどういった様相であったのかいくつかの資料を繙いてみた。

(1)紫香楽宮は(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)、奈良時代聖武天皇近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮。のちに「甲賀宮(こうかのみや)」とも。 (名称)「紫香楽」の地名表記については、正倉院文書には「信楽宮」としたものが3件ある一方で、「紫香楽」と表記したものが全く無いため、続日本紀が編纂されたときの修辞の可能性が考えられる。また744年(天平16年)を境に、宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が造営されたものとも言われる。 (歴史)740年天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸したこれが紫香楽宮である

中国、龍門石窟の盧舎那仏
紫香楽宮跡宮町地区(宮町遺跡)(滋賀県甲賀市)

743(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。これは恭仁京を洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものとみられる。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。

甲賀宮744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。□□745(天平17年)1月には新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされた。更に同年4月15日には、流罪となっていた塩焼王を許して京に入ることを許していることから、実態は不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていたとみられる。しかし人臣の賛同を得られず、また山火事天平地震などの天災と不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになった。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになった。 □□紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があり、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがある(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もある)。 (遺構)かつては甲賀市信楽町内裏野地区の遺跡が紫香楽宮跡と考えられていたが(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)、北約2kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、内裏野地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力である。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定されている。 □□現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残している

交通:信楽高原鐵道/信楽線紫香楽宮跡駅下車 徒歩20分  周辺情報:恭仁京東北道  

(2)発掘調査状況

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甲賀市教育委員会 〒528-8502 滋賀県甲賀市水口町水口6053 TEL 0748-69-2251(歴史文化財課)

宮町遺跡 紫香楽宮と周辺の遺跡   遺跡の情報

(3)調査情報 発掘調査について

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紫香楽宮の発掘調査では当時の人々が使っていた土器類のほかに木製品や木簡など多種多様な遺物が出土し … 1950(昭和25)年, 滋賀県教育委員会 閼伽池・塔跡の調査

※現在発掘調査は実施しておりません。 過去の現地説明会資料はこちら

出土遺物の紹介:紫香楽宮の発掘調査では当時の人々が使っていた土器類のほかに木製品や木簡など多種多様な遺物が出土しています。 ・万葉歌木簡解説シート  ・歌一首墨書土器解説シート



(4)紫香楽宮跡(宮町遺跡)

紫香楽宮跡(宮町遺跡) – ニッポン旅マガジン tabi-mag.jp › 県別・エリア別 › 25滋賀県

2018/02/18 · 紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所(宮町遺跡発掘調査事務所に併設)に出土遺物展示室が用意され、発掘調査で出土 … 所在地, 滋賀県甲賀市信楽町宮町

京に恭仁宮(くにのみや)を造営中だった聖武天皇(しょうむてんのう)が、天平14年(742年)、恭仁宮から東国行幸への道(恭仁東北道)を開き、近江国甲賀郡(現・滋賀県甲賀市)に築いた離宮。たびたびの行幸の後、3年後に皇居と定められ、その宮殿の跡が紫香楽宮跡(しがらきのみやあと/宮町遺跡)。

天平14年〜17年に今の甲賀市信楽町にあった日本の首都

天平15年(743年)10月、聖武天皇が紫香楽宮で盧舎那仏を造営することを発願。□□唐の洛陽に見立て、龍門石窟(りゅうもんせっくつ)の盧舎那仏を真似て、紫香楽宮の大仏造立を開始し、12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が進められています。□□天平16年(744年)11月13日に甲賀寺に盧舎那仏像の柱が建てられますが、結局、完成することなく、東大寺盧舎那仏像(東大寺大仏)建設へと移行されています。□□天平17年(745年)元旦、紫香楽宮を新京と称し、大楯槍を立て、聖武天皇は「御在所で貴族と宴す」。□□大正15年に内裏野地区が「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定されましたが、平成12年に北側1kmにある宮町遺跡から大規模な建物跡が発掘され、「奈加王」、「垂見王」と記された木簡、さらには越前国からの調(税)荷札(天平15年)などが出土。□□そのうち越前国からの荷札は、『続日本記』天平15年10月16日の条に東海、東山、北陸25国に今年の調庸を紫香楽宮に献上することを命じたことが記されたているのと一致。□□宮町遺跡から出土した柱根を年代測定したところ、天平14年〜15年に伐採された木だということが判明。□□さらに宮町遺跡の中央南側で朝堂(天皇が早朝に臣下参列のもと国儀大礼を行なう庁舎)、東朝堂跡と推測される建物跡を発掘。□□平城宮や難波宮、恭仁宮にはなかった朝堂院(宮城の正庁)跡だと推測されているのです。□□内裏野地区の遺跡は総国分寺として建立された甲賀寺(甲可寺)跡の可能性が高まっています。□□現在は、宮町遺跡を含む19.3haが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定され、宮町遺跡(宮殿跡)、内裏野地区(寺院跡)、新宮神社遺跡(道路跡)、鍛冶屋敷遺跡(鋳造所跡)、北黄瀬地区(大井戸跡)という全体像が徐々に明らかになってきました。□□発掘調査から仮宮ではなく、本格的な皇宮だったことも判明し、ここに聖武天皇の都があったことが明らかになっています。□□なぜ紫香楽宮が3年ほどで、平城宮へと遷都されたかは、天平17年の4月に山火事が相次いだこと、さらに4月27日に大地震が起こったことが大きな要因となっています。□□天平17年5月5日にいったん恭仁宮に行幸し、5月11日に平城宮に遷都しています。
つまり、聖武天皇は平城京→恭仁京→難波宮→[紫香楽宮]→平城京と目まぐるしく遷都したことになるのです。□□現在、宮町遺跡の宮殿の遺構は地下保存され、復元された構築物はありません。□□紫香楽宮跡関連遺跡群調査事務所(宮町遺跡発掘調査事務所に併設)に出土遺物展示室が用意され、発掘調査で出土した遺物を展示しています。

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