【後編】第7回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

[⑦聖武天皇の難波宮が壮麗さを誇った]

【難波京について】

[文献1in外交拠点としての難波と筑紫 仁藤敦史国立歴史民俗博物館研究報告 第200 集p.37-60 2016 年1 月(10)]

難波は古代都城の歴史において外交・交通・交易などの拠点となり,副都として機能していた。外交路線の対立(韓政)により蘇我氏滅亡が滅亡し,難波長柄豊碕宮(前期難波宮)が大郡などを改造して造られた。先進的な大規模朝堂院空間を有しながら,孝徳期の難波遷都から半世紀の間は同様な施設が飛鳥や近江に確認されない点がこれまで大きな疑問とされてきた。藤原宮の朝堂院までは,こうした施設は飛鳥に造られず,この間に外交使節の飛鳥への入京が途絶える。これに対して,藤原宮の大極殿・朝堂の完成とともに外国使者が飛鳥へ入京するようになったことは表裏の関係にあると考えられる。こうした問題関心から,筑紫の小郡・大郡とともに,難波の施設は,唐・新羅に対する外交的な拠点として重視されたことを論じた。

 前提として,古人大兄「謀反」事件の処理や東国国司の再審査などの分析により,孝徳期の外交路線が隋帝国の出現により分裂的であり,中大兄・斉明(親百済)と孝徳・蘇我石川麻呂(親唐・新羅)という対立関係にあることを論証した。律令制下の都城中枢が前代的要素の止揚と総合であるとすれば,日常政務・節会・即位・外交・服属などの施設が統合されて大極殿 ・朝堂区画が藤

原京段階で一応の完成を果たしたとの見通しができる。難波宮の巨大朝堂区画は通説のように日常の政務・儀礼空間というよりは,外交儀礼の場に特化して早熟的に発達したため,エビノコ郭や飛鳥寺西の広場などと相互補完的に機能し,大津宮や浄御原宮には朝堂空間としては直接継承されなかったと考えられる。藤原宮の朝堂・大極殿は,7 世紀において飛鳥寺西の広場や難波宮朝堂(難

波大郡・小郡・難波館)さらには筑紫大郡・小郡・筑紫館などで分節的に果たしていた服属儀礼・外交儀礼・饗宴・即位などの役割を集約したものであると結論した。

[文献2in古代難波の荘と物流―難波地域史の試み―栄原永遠男Ⅱ.論 考p.12-27(11)]

後期難波宮は、神亀3 年(726)10 月に藤原宇合が知造難波宮事に任じられて造営が始まり、その後の奈良時代を通じて維持された。難波宮の廃止時期は明確ではないが、延暦12 年(793)3 月9 日の太政官符(『類聚三代格』)に「難波大宮既停」とあるので、それ以前の延暦年間に宮として停止され、主要な建物群は長岡宮へと解体移築された。本稿は、後期難波宮が宮として機能していた神亀~延暦初期を対象とする。

 後期難波宮の中枢部には、大極殿・朝堂その他の壮麗な宮殿建築が建ち並び、後期難波京域には条坊道路が縦横に設けられていたことが明らかにされてきた1。これらの考古学的な調査研究に基づいて、当時の難波は栄えていたという漠然としたイメージが形作られてきた。 しかし前稿では、遷都時や天皇行幸時をのぞいて、そのようには考えにくいことを主張した2。本稿はそれを受けて、後期難波宮・京の時代の経済活動について検討することを目的とする。

[文献3in後期難波宮の内実 栄原永遠男大阪歴史博物館 研究紀要第18号 p.1−18ページ 2020年3月(12)]

考古学的な調査研究により、後期難波宮の中枢部には壮大な宮殿建築群が建てられており、京域には条坊制が敷かれていたことが明らかになった。これにより、後期難波宮・京には多くの人々が住み、繁栄していたというイメージが出来上がっている。しかしそれらはあまり根拠がなく、遷都や行幸時と平時とにわけて、再検討が必要である。大粮申請文書その他の分析によると、各官司はそれぞれ独自の建物や院を持つことはなく、合同庁舎・合同院の一角にコーナーを保持していた。合同庁舎・合同院は、一、二の官司が仕丁とそれを指揮監督する使部などの雑任を配置する形で保守されていた。後期難波京の京域については、貴族が邸宅を持っていたが常住することはなく、家令に管理させていた。また使部や家令が家を持ち家族が住んだ可能性はあるが、正方位の家がびっしり立ち並ぶ状態ではなかった。以上は平時の場合であるが、遷都や天皇が行幸してくると状況は一変した。多くの官人が来て官僚機構も機能し、貴族やその家族も居住した。

[文献4in寺田町駅(JR環状線)② 難波宮の幻の大路・難波大道を歩く 河堀口駅(近鉄南大阪線) 「大阪あそ歩マップ集」 その3 No.137(13)]

寺田町駅より一直線に北上すると難波宮に当たります。『日本書紀』に「天武8年(679)、初めて関を竜田山、大坂山に置く。依りて難波宮に羅城を築く」とあり、天武天皇によって難波と大和を結ぶ主要道に関を設け、難波京の周囲に城壁をめぐらしたとあります。じつは寺田町駅界隈は難波宮の南端で、ここに羅城があったという説があります。

『日本書紀』によれば推古21年(613)に「難波から京に至るまでに大道を置く」とあり、難波から飛鳥まで難波大道が設けられました。昭和55年(1980)に大和川・今池遺跡(松原市)で全長約170メートルにわたって古代の道路跡が発掘され、堺市常磐町でも幅18メートルの道路遺構が見つかりました。この直線道路を北に延長すると難波宮の中軸線上に位置し、さらに出土品も難波宮とほぼ同時代のものであることから難波大道の遺跡と考えられています。

[文献5in難波京の防衛システム-細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽-黒田慶一p.129-230(14)]

『日本書紀』天武8(679)年11月条の「初めて関を龍田山、大坂山に置く。よって難波に羅城を築く」という「難波羅城」に関する一文は、4年後の複都制の詔と合わせ、条坊制を有する難波京の成立として論じられることが多かったが、先入観を排して読む時、畿内防衛のための「関防」に関する条文であり、難波宮を近江軍に押さえられた、天武帝の壬申の乱の反省からの防御的施策と考えられる。   2005~06年度の細工谷遺跡の調査で、上町台地東辺を開析した谷頭から7世紀後半~8世紀前葉の築版土塁や木樋、西で北に30~30数度振る東西方向の掘立柱遺構や溝が多数検出された。古代山城で谷頭を出入口(城門)に利用する例は多々見られる。加えて当地は、比売古曽神社蔵の「伝後醍醐天皇綸旨」(建武2〔1335〕年)で社領の南限とした「羅城土居」に当り、難波羅城の遺構が中世まで露出していた可能性が考えられる。  また2003年度の宰相山遺跡の調査で、8世紀の土壙から出土した巨大な六甲山系の花崗岩から「難波烽」の部材の可能性を考えた。

[文献6in日本古代宮都・宮室の構造と諸類型 木原克司 鳴門教育大学研究紀要第23巻2008p.259-272(15)]

日本宮都・宮室の構造的な変化を巨視的にみると,天皇の私的空間としての小規模な宮室から,それらに小規模な公的空間を付加させた宮室,さらには諸官衙を内包する段階へと発展し,最終的には藤原京平城京にみられるように,私的空間(内裏)公的空間(朝堂),官衙を包括した大規模な宮域の外側に主として貴族・官人・京戸等を集住させるための京を設けた中国式の条坊制都城の成立に至ると考えることができる。こうした動きは,律令制度の整備を基盤とした天皇を頂点とする中央集権国家の形成と呼応したものであることはおおむね想像し得る。我が国が条坊制都城の建設にあたってモデルとしたと考えられる中国において漢代以降,従来の封建制から皇帝を頂点とした郡(州)県制による中央集権国家の成立に伴って坊里制都城の出現を見る。視点を変えれば宮都構造の分析は,我が国の律令制度の発達段階を窺うことのできる重要な指標となるものと言える。そこで本稿では,考古学の調査成果を踏まえて7~8世紀の日本宮都・宮室を規模と構造という2つの視点から類型化し,我が国における律令国家の成立過程について若干の考察を加えたい。 *飛鳥地域およびその周辺に造営された7世紀代の宮都・宮室は,正宮および仮宮的なものを含めて正史には多くが記録されている。推古天皇の豊浦宮小墾田宮,舒明天皇の飛鳥岡本宮田中宮厩坂宮百済宮,皇極天皇の小墾田宮飛鳥板蓋宮,孝徳天皇の難波長柄豊碕宮,斉明天皇の飛鳥川原宮飛鳥板蓋宮後飛鳥岡本宮,天智天皇の大津宮,天武天皇の嶋宮後飛鳥岡本宮飛鳥浄御原宮,天武天皇の新益京難波京(683),持統・文部・元明天皇の藤原京がそれである。8世紀代になると,元明天皇の平城京,聖武天皇の恭仁京難波京(744)平城京紫香楽宮,淳仁天皇の保良宮,称徳天皇の由義宮,桓武天皇の長岡京平安京が登場する。 *これらの宮都・宮室の中で,考古学的な発掘調査により構造の一端が明らかにされているのは藤原京以降の条坊制都城を除けばわずかであるが,これまでの発掘調査の成果を踏まえて各宮都・宮室の規模・構造について検討するとともに日本の宮都の類型化を試みる。  相原嘉之による7世紀代の飛鳥地域復原図,難波長柄豊碕宮大津京の実態からもわかるように,これら3つの型の宮室が形成された時期にはいずれも条坊制による碁盤目状の街区は伴わない。ただ,最後の内裏・朝堂・官衙型の宮室は,基本的には天武朝の難波京や持統朝の藤原京といった7世紀後半から末に出現する条坊型宮都(都城)の中枢部を構成し,平城京以降の都城に継承される。  天武天皇の難波京を嚆矢とすると考えられる我が国の条坊型宮都(都城)は,『周礼型』と『北闕型』の2つのタイプに分けられる。前者は,宮を都城の中央に配置する持統・文部・元正天皇の藤原京であり,後者は,宮を都城の中央北寄りに配置する構造を採用し,天武・聖武天皇の難波京平城京長岡京および平安京がこれに属する。恭仁京もおそらく同じであろう。こうした巨大な条坊型宮都(都城)の出現の背景には,絶対的な権威と権力を保有して統治権を掌握した天皇のもとに太政官を頂点とする巨大な官僚機構を1箇所に集住させ,国政を運営する律令国家の成立があったことは言うまでもない。小稿では,規模と構造という2つの視点から表1に示すような7~8世紀の日本宮都・宮室の類型化を試みた

表1.日本古代宮都・宮室の諸類型

[文献7 in難波京の防衛システム – 大阪市文化財協会http://www.occpa.or.jp › kaken › UE_05_uemachi(16)]

受け継がれた都市計画-難波京から中世へ-市川 創

要旨:本稿では、7世紀中頃~中世の難波地域における地割の変遷を考古学的なデータをもとに論じた。まず古代においては、難波京の測設原点について私案を呈示し、また建物のあり方、とくに北河堀町所在遺跡で検出した大型建物群から、難波京の完成度およびその南端について論じた。

  中世では、地割と耕作土の分布から、上町台地北端部と四天王寺周辺を対照的に把握した。前者では、地割の変更と耕作土が広く分布することにより、難波京の景観は大きく変更されたと考えた。いっぽう後者では、豊臣期直前まで難波京の条坊を踏襲した地割が残存し、耕作土は検出されない。よって、難波京の時期に形成された景観が中世末期まで維持されたと評価した。

1、はじめに:本稿が論じるのは、7世紀中頃~中世の難波地域における、地割の変遷である(註1)。上記の時間幅のなかで、とりわけ、前期難波宮(=難波長柄豊碕宮)遷都~長岡京遷都までの難波京の時代と、その後、豊臣秀吉により大幅に改造されるまでの中世の地割を比較的に論じる。また地割は、すなわち古代から継続的に都市であり続けたと目される上町台地にあっては、都市計画と換言することができよう。 本論では、発掘調査で得られたデータをもとに、主として都市計画について論じることで、古代から中世へと大阪の町がどのような変遷をたどったかを概観したい

2、難波京の景観:難波京については、近年、積山洋氏が精力的に研究を進めており、現段階における研究の集大成といえる書籍が公刊された(積山2013)。積山氏の論点は基本的に肯うことができるもので、筆者が新たに論じるべき点は必ずしも多くない。

2  朴消を練る(*朴消:正倉院「種々薬帳」に記載されている60種類の薬物の中にある「鉱物性生薬(ボウショウ・含水硫酸ナトリウム)」、因みに芒消(ボウショウ)は、含水硫酸マグネシウム)」)

 まず最初に『続日本紀』天応元年(781)6 月壬子(25 日)条に注目したい(史料1)。

  遣従五位下勅旨大丞羽栗臣翼於難破、令練朴消、 これは、従5 位下の勅旨大丞である羽栗臣翼という高官を難波に派遣して「朴消」を練らせた、という何の変哲もない簡単な史料である。しかし、実はこの短い史料には、古代の難波を考えるキーポイントが秘められている3。以下、この史料を十分に検討して、そこで得られたことにもとづいて古代の難波について考えたい

 『中薬大辞典』4 によると、「朴消」は消化不良、腹脹便秘、停痰、消化不良から来る胃痛、目赤腫痛、喉痺、廱腫を治す、とされている。  一方、古代日本における薬の基本史料は「種々薬帳」(4 ノ171 ~ 175)であるが、それには表1のように60 種の薬が挙げられている。その中に、「朴消七斤并袋」(第1 櫃)と「芒消一百廾七斤八両并袋及壺」(第20 櫃)の両方が別々に見えており、両者は別の薬として扱われている(北倉98)。 『中薬大辞典』では、先の「朴消」に対してもう一方の「芒消」について、消化不良、腹脹便秘、停痰積聚、目赤障翳、丹毒、停痰に効能があるとしている。

 このように「朴消」と「芒消」は明らかに別の薬物であるが、文字や字音が似ており、さらに『中薬大辞典』によると効能もよく似ているためか、古来両者は混同され、それが議論を混乱させてきた。この点をまず明らかにしたいが、それには本草学・薬物学の知識が必要である。しかし私にはその素養がまったくないので、以下は私の理解しえた限りでのことで、誤りや不十分のそしりを免131 )古代難波の荘と物流-難波地域史の試み-(栄原永遠男)れない可能性が高い。

 森鹿三によると、奈良時代の日本の薬局方は、顕慶4 年(659)蘇敬らの撰による『新修本草』20 巻であったという5。これは、陶弘景『本草経集注』7 巻の誤謬を正し、100 種を追加したものであった。この両者が中国本草学の二大古典である。その中で陶弘景は「今、芒消は、乃ち是れ朴消を錬りて作る」とし、蘇敬(唐本注)は「今、麁悪の朴消を錬りて、汁を淋ぎ取り、煎錬して芒消を作る」としている。

 古代の日本でも、史料1 のように朴消とは練るものと認識されていたので、陶弘景・蘇敬の説を受けて、「朴消」を練って「芒消」を作ると考えていたとしてよいであろう。蘇敬の「麁悪の朴消」の語から、「朴消」は粗悪品で不純物を含むものであるが、それを精製した純度の高いものが「芒消」と考えられていたのであろう。 昭和23 ~ 26 年に行われた正倉院の薬物の調査では、「種々薬帳」に見える「朴消」は残存しておらず、残っていた「芒消」が硫酸マグネシウムであることが確認された6。それに基づいて益富寿之助・山崎一雄は、「朴消」は硫酸ナトリウムであろうと推測した7。しかし、硫酸ナトリウムとされる「朴消」をいくら練っても硫酸マグネシウムを採ることはできない。この推測では、陶弘景・蘇敬の注を理解することはできないのである。 岩塩には硫酸ナトリウムに少量の硫酸マグネシウムが混じっている場合がある。これを手掛かりに、「朴消」とは硫酸ナトリウムと硫酸マグネシウムやその他の不純物が混じったもので、そこから硫酸マグネシウムである「芒消」を取り出すことが「朴消を練る」という作業であったのではないか。すなわち史料1 は、「朴消」を精製して「芒消」を作らせた、という意味に理解することができる。

 さらに史料1 について考えたい。この記事が『続日本紀』のなかに一条としてあるのは、難波に派遣された羽栗臣翼の位階が従5 位下であったため、5 位以上について記載するという『続日本紀』の編纂方針に合致したためである。難波で「芒消」を調達するということ自体は、通例それほど重要な案件ではないので、普通は6 位以下の使者が派遣櫃薬名・数量容態

第1 櫃麝香40 剤袋・褁犀角3 箇犀角1 袋袋犀角器1 口朴消7 斤袋核5 斤袋小草2 斤4 両袋畢撥3 斤15 両袋胡椒3 斤9 両袋寒水石18 斤8 両袋阿麻勒9 両3 分袋奄麻羅15 両袋

黒黄連3 斤袋元青1 管青葙草1 斤14 両袋白皮9 斤6 両袋理石5 斤7 両袋禹余粮1 斤9 両2 分袋大一禹余粮2 斤12 両袋龍骨5 斤10 両袋五色龍骨7 斤11 両袋白龍骨5 斤袋

龍角10 斤袋五色龍歯24 斤袋似龍骨石27 斤袋雷丸8 斤4 両袋鬼臼12 両3 分袋青石脂6 両袋紫鑛60 斤袋赤石脂7 斤12 両袋第2 櫃鍾乳床10 斤袋檳榔子700 枚完縦容30 斤袋

巴豆18 斤袋無食子1073 枚厚朴13 斤8 両袋遠志20 斤4 両袋呵梨勒1000 枚第3 ~ 5 櫃桂心560 斤袋第6 ~ 8 櫃芫花324 斤2 両除袋第9 ~ 11 櫃人参544 斤7 両袋第12 ~ 14 櫃大黄991 斤8 両袋第15・16 櫃臈蜜593 斤4 両袋第17 ~ 19 櫃甘草960 斤

第20 櫃芒消127 斤8 両袋・壺蔗糖2 斤12 両3 分埦紫雪13 斤15 両壺・合子故同律24 斤壺 石塩9 斤3 両袋猬皮3 枚新羅羊脂1 斤8 両3 分雲母粉9 両蜜陀僧8 斤10 両壺戎塩8 斤11 両壺金石8 斤1 両壺石水氷5 斤壺内薬1 斤1 両1 分褁第21 櫃狼毒42 斤12 両袋・壺冶葛32 斤壺

表1 種々薬帳の薬剤

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Ⅱ.論  考

されており、そのために『続日本紀』には記載されなかったと考えるべきであろう。すなわち、難波で「芒消」を調達すること自体は、普通に行われていたと考えられるのである。 では、なぜこの時に従5 位下の貴族が使者に起用されたのであろうか。『続日本紀』天応元年(781)によると、光仁天皇・太上天皇について、

  3 月甲申(25 日)条 枕席不安、稍移晦朔、雖加医療、未有効験、

  4 月辛卯(3 日)条 元来風病尓苦都、譲位

  6 月壬子(25 日)条 (史料1)

  12 月甲辰(20 日)条 大上天皇聖体不予、

  同  丁未(23 日)条 大上皇崩、

と見える。羽栗翼が難波に派遣されたのは6 月25 日であるから、譲位後の光仁太上天皇の病状が進行している最中のことである。「風病」と「朴消」「芒消」の効能が期待される症状との関係は不明だが、太上天皇の服用する薬を確保するために使者が派遣されたのであろう。そしてその使者には、ふだんの中下級官人ではなく、特に貴族が充てられたのである。

 では、5 位の貴族を派遣してまで取りよせた「芒消」とは、どのような性格の薬であったのであろうか。まず、先述のように「朴消」とともに「種々薬帳」にみえることが注意される。聖武太上天皇の七七忌(天平勝宝8 歳〔756〕6 月21 日)を期して廬舎那仏に献じられた多くの物品と薬は、聖武太上天皇が身辺に置いていた「玩弄之珍」であり服用していた薬であった。「芒消」「朴消」は聖武太上天皇の常備薬の一つなのである。これと関連して、『延喜式』典薬寮には、12 月に調合され翌年の天皇の常備薬とされる「臘月御薬」が列挙されており、その中に「芒消黒丸一剤」が含まれていることは重要である。これらによると「芒消」は、古代において一貫して天皇の身辺に常備される必須の薬であったと言える。

 次に天平19 年(747)2 月11 日の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」には「合薬壱拾肆種」の内訳として、

        通分参種冶葛八両二分 芒消三百八十二両三分無食子卌四両

とある(2 ノ602 ~ 603)。「通分」とあるので、寺内のすべての病人が使用できる薬として蓄えられていた。さらに天平宝字6 年(762)9 月13 日「作石山院所解」(16 ノ9 ~ 10)には、  一以昨日、奉写経所進度芒削黒丸一丸如桃子核とある。「芒削」は「芒消」の音通であろう。上記「臘月御薬」の場合と同様に黒色の丸薬の形状に製剤されていたことがわかる。

 以上によると「芒消」は、宮中・寺院・官司などに黒色の丸薬として常備されていたらしく、人々にとって必須の薬であった。とりわけ天皇の常備薬であり、光仁太上天皇の病状が進行しているところから、従5 位下勅旨大丞という高官が直々に難波に派遣された。このため『続日本紀』に記録として残ったのであろう。 では、どうして「朴消」を難波に練りに行かせたのであろうか。このことは難波に「朴消」が集15

1 )古代難波の荘と物流-難波地域史の試み-(栄原永遠男)

積されていることをうかがわせるが、それはどのように事情なのであろうか。『続日本後紀』承和7 年(840)2 月庚申(13 日)条に、  令大宰府停止例進朴消、とある。これよりのちの『延喜式』典薬寮の諸国進年料雑薬では、備中(大3 斗)・備後(大3 斗)・讃岐(8 升)の3 国が「朴消」を進めることとされており、同民部下の交易雑物では、備中国から「朴消」100 斤を納めることとされている。1 斗あるいは1 升あたりの重量が不明であるが、備中を中心に産出があったのであろう。

 上記の大宰府からの例進の停止と、これら『延喜式』に見える「朴消」の貢納との因果関係ははっきりしない。これらの国々で発見されたために大宰府からの例進が停止されたのか、あるいは停止以後に備中を中心に「朴消」が発見されたか、もしくは以前から産出が知られていたものが増産されたとも考えられる。後者の場合、大宰府からの例進を停止してしまった後に国内で発見されるかどうかは不明であり、産出が知られていたとしても増産に耐えられるかも不明である。それでは常備薬の確保に不安があるので、前者すなわち国内での確保のめどが立ったために大宰府からの例進を停止したと考えておきたい。

 備中・備後・讃岐でいつ「朴消」が発見されたか不明だが、停止の時期に近いとすると、それより以前のおそらく8 世紀には、大宰府から毎年一定額の「朴消」が中央に進められていたと考えられることになる。では、大宰府は「朴消」をどのように入手していたのであろうか。

 この点で「氏名闕買物解(?)」(買新羅物解)の一つに「芒消」が見えることに注目したい(続修後集43[7]、25 ノ46 ~ 47)。買新羅物解に見える諸物品は、天平勝宝4 年(752)の新羅使に随行してきた新羅商人が中継貿易によって持ち込んだものであるとされている8。「芒消」の産地は中国の四川省・甘粛省・雲南省とされており、それがもたらされたのであろう。新羅商人がもたら

した諸物品は難波や平城京で入札販売され、「芒消」をはじめとする薬物の担当の部署が入手したのであろう。この前後の時期、新羅使が大宰府にとどめられ入京が認められないことが度々あったが、そのため難波や平城京で入手することが困難となり、大宰府が入手して進上するようになったのであろう。その一部が難波に留置されていたのである。

 さらに「朴消」が難波に集積されたのには別の要因があった。『続日本紀』天平宝字2 年(758)

4 月己巳(28 日)条には、

   内薬司佑兼出雲国員外掾正六位上難波薬師奈良等一十一人言、奈良等遠祖徳来、本高麗人、帰百済国、昔泊瀬朝倉朝廷詔百済国、訪求才人、爰以、徳来貢進聖朝、徳来五世孫恵日、小治田朝廷御世、被遣大唐、学得医術、因号薬師、遂以為姓、今愚闇子孫、不論男女、共蒙薬師之姓、窃恐名実錯乱、伏願、改薬師字、蒙難波連、許之、とある。これによると、難波薬師奈良らの祖は、雄略朝に百済から来日した徳来という人物であるが、その5 世の孫の恵日は推古朝に隋に行き、医術を学んだので薬師の姓を与えられた。子孫たちもその姓を受け継いだが、名実が錯乱するのを恐れるので、薬師を改めて難波連としたいと願い出て許された、という。この「名実錯乱」の意味は明らかでないが、子孫全員が必ずしも医術を継承 ⇒

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Ⅱ.論  考

⇒ しているわけではないので、薬師という姓とそぐわない場合がある、という意味かと思われる。しかしこの一族が医薬関係の官人を輩出してきたことも確かである。それ以外にも難波に関係する医薬関係者が多いことは、早く瀧川政次郎が指摘したところである9。瀧川は、上代の難波は日本医学の淵叢であると指摘している。

 このように、難波には医術の心得のある人材が多くいたために「朴消」は難波に置かれることが好都合とみられたのであろう。これは「朴消」だけでなく、他の医薬品についても言いうるのではないか。

 これによると、「朴消」を精製して「芒消」を取り出す作業自体は、難波の医学関係者が行ったと考えられる。羽栗翼自身も侍医・内薬正を歴任しており、医薬の知識を持っていたので、難波の医師たちの「朴消」精製を監督することができ、できあがった「芒消」を中央に運んだのである。 では「朴消」は難波のどこに集積されていたのであろうか。この点については、羽栗翼が勅旨大丞であったことが重要な手掛かりとなる。天平宝字ごろに成立したとされる勅旨省とは、米田雄介によると10、二面的な性格を有していた。一つは天皇の官房として、機密保持、勅命伝達の迅速化にかかわり、他方では宮中調度品の調達も職務としていたという。その後宝亀年間の改革により、後者の機能が残された。この後者の機能は内蔵寮と関係が深く、その別勅による物資の入手という機能が勅旨省に引き継がれたとみられている。その後勅旨省は延暦元年(782)4 月に廃止された。

 これによると、羽栗翼が派遣された天応元年ごろの勅旨省は、宮中の必要品の調達を主たる業務としていたと考えられる。天皇の常備薬の確保も、勅旨省の業務であったであろう。その勅旨省は、次節で述べるように、難波堀江の南岸に荘を持っていたので、「朴消」はここに集積されていたとみてよい。

参考資料:

(1)古代なにわの輝き 天皇と大阪~象徴としての八十島祭 発行:産経新聞社、発行日:令和3年3月30日、協力:公益財団法人関西・大阪21世紀協会

(2)上町台地 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 上町台地

(3)仁徳天皇 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(4)仁徳天皇陵と民のかまど伝説。世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」 大阪府堺市 2020.03.16 ブログ

(5)法円坂遺跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(6)難波の堀江 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(7)くすり文化第4回報-わが国の薬の歴史(2)-1大和時代編-

(8)難波長柄豊碕宮:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(9)大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会「大阪あそ歩」事務局(財団法人大阪観光コンベンション協会内)http://www.osaka-asobo.jp

(10)外交拠点としての難波と筑紫 仁藤敦史国立歴史民俗博物館研究報告 第200 集p.37-60 2016 年1 月

(11)古代難波の荘と物流―難波地域史の試み―栄原永遠男Ⅱ.論 考p.12-27

(12)後期難波宮の内実 栄原永遠男大阪歴史博物館 研究紀要第18号 p.1−18ページ 2020年3月

(13)寺田町駅(JR環状線)② 難波宮の幻の大路・難波大道を歩く 河堀口駅(近鉄南大阪線) 「大阪あそ歩マップ集」 その3 No.137

(14)難波京の防衛システム-細工谷・宰相山遺跡から考えた難波羅城と難波烽-黒田慶一p.129-230

(15)日本古代宮都・宮室の構造と諸類型 木原克司 鳴門教育大学研究紀要第23巻2008p.259-272

(16)難波京の防衛システム – 大阪市文化財協会http://www.occpa.or.jp › kaken › UE_05_uemachi

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