【後編】第4回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

2.この時代のキーマン(12-15):(①金武・②**徳来・③播量豊・④丁有陀)の人物像

①[金武]:允恭天皇3年春正月、新羅に使者を派遣して、よき医(くすし)を求めたところ、允恭天皇3年秋8月 新羅の国主の御調(ミツギ)81艘の大使として、深く薬方(クスリノミチ)を知った、金武が来朝した.金武が天皇のみ病を治療したら、いくばくもせずに癒えた。 允恭天皇三年春正月の辛酉の朔に、使いを遣して良医(ヨキクスシ)を新羅に求む。秋八月に、医(クスシ)、新羅より至れり。即ち天皇の病を治めしむ。未だ幾時を経ずして、病すでにいえぬ。天皇、歓びたまひて、厚く医に賞みたまひて国に帰したまふ。(日本書紀・允恭天皇・新編) 天皇、初め天津日継を知らさむと為し時に、天皇の辞びて詔ひしく、「我は、一つの長き病有り、日継ぎを知らすこと得じ」とのりたまひき。然れども、大后を始めて諸の卿等、堅く奏すに因りて、乃ち天の下を治めき。此の時に、新良の国主、御調八十一艘を貢進りき。爾くして、御調の大使金波鎮漢紀武(コムハチニカニキム)と云ふ、此の人深く薬方を知れり。故、帝皇の御病を治めいやしき。(古事記・允恭天皇・新編) 

[in金武 www1.tcnet.ne.jp › hanahide › KOMU 、Access in 20.3.11(Wed.)(12)]

[**徳来]:恵日の五世の祖先である徳来は、元は高句麗人であったがのちに百済に移住。さらに、雄略天皇7年(463年雄略天皇の命令を受けて吉備上道弟君吉備海部赤尾らが、百済に対して今来の才伎(いまきのてひと)(工人)を求めた際、徳来は百済から日本に渡来したという。 推古天皇16年(608年)第三回遣隋使において、恵日は小野妹子に随行してに渡り医術を修得する。留学中には、618年の随の滅亡・の建国を経験している。推古天皇31年(623年)ともに医術を学んだ倭漢福因や学問僧の恵斉・恵光らとともに、新羅使・智洗爾に従って日本に帰国する。帰国後、唐に留まっている留学生達はみな学業を成し遂げているため日本に帰国させるべきこと、唐は法式が備わり定まれる立派な国であるため常に往来して交流を持つべきことを建言した。 その後、恵日は薬師となり、ついには薬師をとした。舒明天皇2年(630年)第一次遣唐使にて、大使・犬上三田耜に従って再び大陸に渡る(この時の冠位大仁)。以前の恵日の建言通り、舒明天皇4年(632年)遣唐使節一行は学問僧の霊雲勝鳥養らを連れて帰国する。なお、この時に帰国しなかった留学生の高向玄理南淵請安は、舒明天皇12年(640年)になって百済・新羅の朝貢使とともに新羅経由で帰国している。 孝徳朝白雉5年(654年)第三次遣唐使では副使に任ぜられ、みたび大陸に渡った。なお、この時の冠位は大山下従六位相当)で、以前の大仁(正五位相当)より下位になっていることから、何かの理由で降格された可能性がある。 医書として、隋から『病源候論』 、唐から『千金方』 を伝えたとされる。子孫は難波薬師を氏とした。

[in薬師恵日 – Wikipedia ja.wikipedia.org › wiki › 薬師恵日、Access in 20.3.11(Wed.)(13)]

③[播量豊]:554年、百済から採薬師播量豊、(丁有陀)来日。採薬師渡来のはじめ。採薬師施徳潘量豊

名前:採藥師施德潘量豐【日本書紀】(くすりかりはかせせとくはんりょうぶ, くすりかりはかせせとくはんりゃうぶ)採薬師施徳潘量豊、生年月日:( ~ 554年4月17日)、没年月日:(554年3月19日 ~ )

出来事:554年(3月19日 ~ 4月17日)、欽明天皇の要請で百済から来朝する。

【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年二月条】

[in採薬師施徳潘量豊 – れきち rekichi.net ›、Access in 20.3.11(Wed.)(14)]

④[丁有陀]:554年、百済から採薬師、(播量豊)、丁有陀来日。採薬師渡来のはじめ。固徳丁有陀

名前:固德丁有陀【日本書紀】(ことくちょううだ, ことくちゃううだ)固徳丁有陀

生年月日:( ~ 554年4月17日)、没年月日:(554年3月19日 ~ )、出来事:554年(3月19日 ~ 4月17日)欽明天皇の要請で百済から来朝する。【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年二月条】

[in固徳丁有陀 – れきち rekichi.net › 、Access in 20.3.11(Wed.)(15)]

参考資料:

(1)人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history

(2)奈良県薬業史略年表

(3)林 信一(元神戸薬科大学教授)、Personal information

(3)-1林 信一 :「大阪の薬文化」阪大出版会 2002

(3)-2奥田 潤 :「薬学の歴史」白水社 1994

(3)-3藤田英夫:「大阪舎蜜局の史的展開」1995

(3)-4池上直己:「日本の医療」中公新書 1996

(3)-5瀧藤尊敬 :「聖徳太子の信仰と思想」 善本社 1998

(4)八野芳已:くすり文化 第1回報 くすり文化の時代考証(1)縄文時代から弥生時代2019.12.22

(5)八野芳已:くすり文化 第2回報 徐福について 2020.6.9

(6)八野芳已:くすり文化 第3回報 世界(西洋)の薬事情[くすり文化]を探る 2020.11.12

(7)大和王権と河内王権 – 株式会社 吉川弘文館www.yoshikawa-k.co.jp ›出版年月日: 2009/02/01

(8)古代難波津の位置をめぐる研究史⑴ 西本昌弘 關西大學『文學論集』第六十六巻第四号p.25-50 2017.3.10

(9)難波津 – 永田屋昆布 www.nagatayakonbu.jp › 周辺の歴史

(10)古代大阪の変遷|水都大阪 https://www.suito-osaka.jp › history › history_2

(11)昔は海だった!? ~河内平野 (市政だより2020年8月1日号補足) 東大阪市 上下水道局下水道部 下水道計画総務室http://www.city.higashiosaka.lg.jp ›

(12)金武 www1.tcnet.ne.jp › hanahide › KOMU

(13)薬師恵日 – Wikipedia ja.wikipedia.org › wiki › 薬師恵日

(14)採薬師施徳潘量豊 – れきち rekichi.net

(15)固徳丁有陀 – れきち rekichi.net

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