わが国の薬の歴史
くすり文化ゆかりの地をめぐる
②大阪の地、「難波京」を中心に探索する(1-13)
「古代の大阪は輝いていた。①大阪平野を背骨のように延びる上町台地では、②聖天子である仁徳天皇の伝説、③発見後30年を経て今なお匹敵するもののない法円坂の大倉庫群、④先端部を開いた難波堀江と⑤王権の港である難波津などが思い浮かぶ。⑥大化改新の舞台となった難波長柄豊碕宮、⑦聖武天皇の難波宮が壮麗さを誇った。基盤の目伏の難波京が広がり、市がにぎわい、各種手工業が展開し、寺院も建つ。そして、大阪の人がほとんど知らない天皇即位の儀式・八十島祭も行われていた。(中略)歴史を研究している立場からすると、大阪人が大阪の過去を正確に認識することから始めるしかないと思う。華々しい過去を列記することではない。華々しくない過去をも含めて、ありのままの真実を知り、そこから模索を始めるしかない。(in古代なにわの輝き 天皇と大阪~象徴としての八十島祭 発行:産経新聞社、発行日:令和3年3月30日、協力:公益財団法人関西・大阪21世紀協会(1))」と「歴史を知り 大阪を誇ろう」の序文にある。
このように、「大阪の地」は古代より賑やかさ、華やかさをもって日本国に関わりあるところといえるようです。そこで、この文中に挙げられた7つの事項についてちょっと繙いてみて、その概要をつぎのようにまとめた。
[①大阪平野を背骨のように延びる上町台地]in上町台地 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 上町台地(2)
上町台地(うえまちだいち)とは、大阪平野を南北に伸びる丘陵地・台地である。
北部は大阪市中央区の難波宮跡、大阪城付近・天満橋の辺りで、そこから緩やかに小山を形成し、天王寺区上本町の大阪上本町駅付近で台地の頂に達し、そこから下りとなって阿倍野区周辺を経て、南部の住吉区・住吉大社付近に至り、その辺りでほぼ平地になり清水丘を以て終わり、長さ約12kmに及ぶ。大阪(大坂)の歴史の発祥地であり、要所である。
上町台地の範囲:
大阪市域の本格的な地質調査は大大阪時代末期の1930年代に遡るが、資料の大半が戦災で失われ、信頼できる大阪平野全域の沖積層の基底等深線図が日本建築学会により作成されたのは昭和41年(1966年)になってからである。
上町台地は洪積台地であり、大阪層群の上に成立する中位段丘層である上町類層を基礎としている。北部の天満層とは地質学的に不整合であり、上町台地の北端は大阪城と考えられる。また、台地の全容は、古地図や戦後実施された大学や行政、また、高層建築物の建設際の地盤調査の際に行われるボーリング調査等の地層断層検査などの結果から5世紀頃において既に砂嘴として形成されていたと予想される高地部分を上町台地と推定している。
上町台地は縄文期には東西を河内湾と瀬戸内海に挟まれていた半島状の砂嘴だったと考えられており、弥生期から現在に至る期間を経て台地東部(東成地区の語源と言われる)は淀川・大和川水系から運ばれる大量の土砂が堆積し、河内湾が河内湖、湿地帯を経て沖積平野となり、台地西部(西成地区の語源と言われる)も同じく河川の働きにより大阪市の中枢部を含む平野を形成するにいたった。台地東部への下りが比較的なだらかなのに対し、台地西部への下りが急峻であるのは台地東部が淀川・大和川水系の上流に位置し、土砂の堆積量が豊富なためで、台地西部は標高が低く大阪湾平均水面より低いゼロメートル地帯が広く分布している。なお、台地の標高は最も高い大阪城天守閣跡で38メートルであり、北部はストンと淀川水系の大川に落ち込み、南部へはなだらかに下り北の大阪城大手町付近で24メートル、中央部の天王寺交差点付近で16メートル、帝塚山付近で14メートルの標高を保つが、南部の万代池南方から急速に標高を失い住吉大社付近で6メートルとなり細井川を越えた台地南端の住吉区清水丘では標高は2 – 3メートルとなっている。
なお、台地の範囲を四天王寺付近までとする見解もあるが、台地表層の開発利用状況から見ての明治期以前に拓けていたか否かを分岐とする考え方から来ているものと考えられる。そもそも、江戸時代までは河内(かわち=大阪東部の旧国名)を形成していた大和川が柏原から北へ蛇行し現在の東大阪市から大東市あたりに大きな池を作り、現在の天満橋の辺りで淀川(大川)と接合して海へ流れていたことから、上町台地の北の端は大阪市中央区天満橋あたりであり、南の端は住吉区の苅田付近までにわたる。行政区としては、中央区の東部分、天王寺区、阿倍野区、住吉区北端と南部の一部にわたっている。
上町台地上には「○○山」や「○○丘」という地名が多く、北から天王寺区の「真田山」、「北山」、「桃山」、「夕陽丘」、「茶臼山」、阿倍野区の「晴明丘」、「丸山」、住吉区の「帝塚山」、「清水丘」と続く。
上町台地の成り立ち:
ウルム期の上町台地は河内湾に突き出した半島状の台地であったと想定されている。その東側は河内湾とされ、河内湾が淡水化されていく河内湖の形成過程では天満橋の台地北端からさらに北へ砂州がつながり、半島状の上町台地は完全に両端が陸域化された。大阪湾の北岸は千里丘陵のすぐ下、吹田市の豊津や高浜といった地名があるあたりにあり、そこへ上町台地からの砂州が大阪市の東三国か吹田市の江坂辺りまで伸び、淀川や大和川の流れ込む河内湾と大阪湾は垂水(現在の吹田市垂水付近)というわずかな幅の水路でつながっていた。そのため、時代が下がるにつれて河内湾は河川水による淡水化が進み河内湖となる。仁徳天皇は河内湖と大阪湾をつなぎ、河から海への水運や、河内湖の排水をスムーズにするため、現在の天満橋のあたりで砂州を掘って河内湖と大阪湾を直結する難波の堀江という運河を作ったといわれている。
なお、途中で台地が途切れているのは、掘割工事や河川の付替えが行われたためとされている。江戸時代の大和川付け替えが典型的な例であるが、それ以前にも上町台地を開削して河内の水を大阪湾に流そうという試みはあった。難波の堀江のほかにも、延暦7年(788年)に和気清麻呂が大和川の水を大阪湾に流すため四天王寺の南を開削しようとしたが失敗したとされている。天王寺公園北側の茶臼山にある「河底池」や、付近の谷町筋の起伏、堀越町という町名などはこの跡地と思われる。
上町台地開発と大阪の歴史:
古くから大阪湾に突き出した高台であったこの土地の先端には生國魂神社が存在しており、西日本各地や中国・朝鮮との交易が盛んになるとともに次第に重要となる。昭和62年(1987年)夏、上町台地の北端で古墳時代の5世紀後半と推定される高床式倉庫群が発掘された。発掘された倉庫群は16棟で、東西方向に2列に並んでいる。倉庫のどれも同じ構造で、平面規模も一辺10m×9m前後と同じで、真北向きに配置されており、建物の間隔も同じである。16棟の合計床面積が約1470平方メートルもあり、租税としての米を籾で入れるのか稲束で入れるのかの違いがあるが相当大きな収容量であったと推測される。5世紀に突然、上町台地の北端に大規模倉庫群が立てられたのか疑問が残る。この遺構は「法円坂遺跡」として国の史跡に指定されている(史跡「難波宮跡」の「附」(つけたり)としての指定)。
神武天皇は即位前、難波埼 (なにわさき) に生国魂神社を創建。古墳時代 、応神天皇の難波大隅宮 (なにわのおおすみのみや) 、仁徳天皇の難波高津宮 (なにわのたかつのみや) 、以後、上町台地には欽明天皇の難波祝津宮 (なにわのはふりつのみや) 、孝徳天皇や聖武天皇の難波宮 (なにわのみや) などが営まれた。飛鳥時代に入り、『日本書紀』では推古天皇元年(593年)に聖徳太子が四天王寺を難波 (なにわ) の荒陵(あらはか)に建立するとある。以後、四天王寺の西大門から難波津に沈む夕日を望む西方浄土信仰と重なり、仏教信仰、とりわけ浄土信仰の隆盛とともにその中心地の一つとして栄えていくこととなった。四天王寺や住吉大社、熊野に詣でる人たちは上町台地の西にあった渡辺津(今の天満橋周辺)で船を下り、そこが熊野街道の基点であった。四天王寺から熊野街道、庚申街道などが走り多くの人たちが救いを求めてこの地を往来した。平安から鎌倉、室町にかけてはこの渡辺津と四天王寺周辺が大きな商業都市として栄えている。渡辺津は、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)を祖とする渡辺氏をはじめとする武士団の生まれた場所でもあり、彼らの水軍の拠点として瀬戸内を束ねる場所でもあった。
ちなみに大坂とは四天王寺の西大門から難波津へ下る坂の名称で、後に町全体を指すようになったもの。
大化元年(645年)の大化の改新の時には、首都の難波長柄豊碕宮(なにわの・ながらの・とよさきのみや)が上町台地北端に造営され、日本という国号の使用と共に元号の使用が始まった。その後も首都や副都としての難波京が置かれた。後年、ほぼ同じ場所である上町台地北端に、蓮如により石山本願寺が開かれ商工業が発展し、全国の浄土真宗の総本山となる。その後、石山本願寺は織田信長による10年にもわたる激しい攻撃の末、ついに陥落した。信長はこの地に壮大な城を築き、天下統一の拠点にしようと計画していたが、本能寺の変により信長は死去した。そして豊臣秀吉が大坂城を築いたが、三方を河川・湿地に囲まれた大坂城にあって、南はなだらかな上町台地に開かれており多数の軍勢に圧迫される可能性のある城郭防衛上の弱点となっており、秀吉は後年、総構えとしてこの上町台地に堀を掘削する工事を行っている。また、徳川家康による大坂城攻め(大坂冬の陣)の際、豊臣方の武将・真田信繁が総構えから大きく突出した丸馬出「真田丸」を築城して弱点を補い、攻める徳川勢に多大な損害を与えた。
上町台地は宗教上・軍事上・交易上重要な場所で、大阪の基礎となる場所であったといえる。
[②聖天子である仁徳天皇の伝説] in仁徳天皇 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(3)
仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 – 仁徳天皇87年1月16日)は、日本の第16代天皇(在位: 仁徳天皇元年1月3日 – 同87年1月16日)。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。
記紀に記される業績から、聖帝(ひじりのみかど)とも称される。
第16代天皇 | |
在位期間:仁徳天皇元年1月3日 – 同87年1月16日 | |
時代 | 古墳時代 |
先代 | 応神天皇 |
次代 | 履中天皇 |
陵所 | 百舌鳥耳原中陵 |
漢風諡号 | 仁徳天皇 |
和風諡号 | 大鷦鷯天皇 |
諱 | 大鷦鷯 |
別称 | 難波天皇 聖帝 |
父親 | 応神天皇 |
母親 | 仲姫命 |
皇后 | 葛城磐之媛 |
子女 |
履中天皇 住吉仲皇子 反正天皇 允恭天皇 大草香皇子 草香幡梭姫皇女 |
皇居 | 難波高津宮 |
略歴:4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇。譽田天皇(応神天皇)の第4皇子。母は五百城入彦皇子の孫・仲姫命(なかつひめのみこと)。譽田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨御により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。
即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。
一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。即位30年には異母妹の八田皇女までも妃にしようとしたことから、激怒した皇后はついに山背の筒城岡に別居するに至った。『日本書紀』では怒りを解かないまま皇后は即位35年に崩御、即位38年に天皇は八田皇女を皇后とした。一方で『古事記』では天皇が八田皇女を諦めたような描写がある。皇后との間には去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)らを得た。また日向髪長媛との間に大草香皇子、草香幡梭姫皇女(大泊瀬天皇(雄略天皇)皇后)を得た。即位67年に百舌鳥耳原を陵墓地と定め、即位87年に110歳で崩御。『古事記』に83歳。
in仁徳天皇陵と民のかまど伝説。世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」 大阪府堺市 2020.03.16 ブログ(4)
3月15日、堺市にあります仁徳天皇陵へ行きました。日本一大きい前方後円墳です。
御陵周辺にも小さい古墳がいくつかありました。写真やテレビで何度も見ていますが、実際に目で見ますと、その巨大さを感じる事ができます。 仁徳天皇は、民のかまど伝説が有名です。
夕方、宮殿から民家を眺めると、煙が出ていない事から、夕飯の支度ができないぐらい貧しいと考えました。 そこで3年間、税を課さないようにしたら、民家から煙が出るようになったという話です。
この話には続きがあります。
仁徳天皇は「まだ貧しい民がいるはず。さらに3年、無税とする」と言いました。
宮殿は修理ができずボロボロ。雨漏りは当たり前で、夜は夜空を眺めながら寝る状態でした。衣服はボロボロ。食料は自給自足。
これに怒ったのは后でした。「贅沢できると思って大王に嫁いだのに、なんで貧乏生活をしなければならないのですか」でした。
それでも仁徳天皇は「民は宝だ。民が豊かになる事で私は満足だ」と言って、無税を続けました。
その一方で民は豊かになりました。そして仁徳天皇のあまりの窮状ぶりに、見るに見かねた民は「税を納めさせてください」と言いだしました。 ところで仁徳天皇は君子・聖人といえば、そうでもない面もあります。
浮気性で、后がいるのも関わらず、他の女性に浮気をしていました。仁徳天皇は恐妻家だったらしく、隠れて愛人に会いに行く事もしていました。それが后にバレて、后のカミナリが落ちたという話もあります。
后からしますと、貧乏生活の上に浮気をする、とんでもない大王でした。そのため、怒っても不思議ではないです。
仁徳天皇は、完璧でない、ダメな面もあるという事で、人間味を感じますね。
民のかまど伝説。昭和天皇は幼い頃から聞かされて育ったため、戦後、実践しました。戦争中、御所は空襲に遭いました。
戦後、昭和天皇は、国民と痛みを分かち合うという事で、防空壕で寝ていました。周囲から「お体に悪いので、御所を新しく作られては」と言われても、「住む家もない国民がいるのに、どうして自分は贅沢できるのか」と仰い、防空壕で寝ていました。そして昭和36年になり、国民生活が向上した事と、吹上御所が建設されたと同時に、御所で寝るようになりました。
ところで、仁徳天皇陵は巨大です。仁徳天皇は土木技術を持っていたため、巨大建造物だけでなく、灌漑事業も行っていたという話もあります。
3世紀から5世紀の間、中国大陸は三国志、五胡十六国、南北朝で覇権争いが繰り広げられ、とても外国に目を向ける余裕はありませんでした。
そのため中国大陸の目を気にする事なく、自由に振舞う事ができました。
そしてヤマト王権が内外に力を誇示するため、海から見えるところに巨大古墳を建造したとも言われています。
3世紀から5世紀の日本。古事記・日本書紀の内容も、どこまでが史実で、どこからが創作かはわかりません。
ただ巨大な古墳である事には間違いありません。
もし、タイムマシンがあれば、仁徳天皇がどんな人物だったのか見てみたくなりました。
[③発見後30年を経て今なお匹敵するもののない法円坂の大倉庫群]
in法円坂遺跡 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(5)
法円坂遺跡(ほうえんざかいせき、法円坂倉庫群)は、大阪府大阪市中央区大手前にある古墳時代の遺跡。国の史跡に指定されている(史跡「難波宮跡 附 法円坂遺跡」として附指定)。 目次:1 概要2 文化財2.1 国の史跡3 脚注4 参考文献5 関連項目6 外部リンク
概要:大阪市中心部、上町台地北端の難波宮跡北西部に位置する古墳時代の大倉庫群跡である。上町台地北端では難波宮以前の建物遺構約200棟が検出されており、本遺跡もそうした難波宮下層遺跡の1つになる。1987年(昭和62年)からの旧大阪市中央体育館跡地での発掘調査で発見され、現在は大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の敷地内に位置する。
遺跡内では建物遺構として掘立柱の大型高床式倉庫が計16棟検出されている。この倉庫16棟は東西2群(東6棟・西10棟)に分かれるが、いずれも正方位の真東西に並ぶという古墳時代の建物としては例のない配置になる。倉庫各棟は画一的な東西約10メートル・南北約9メートルの規模で、現在はそのうち1棟が推定復元されている。
この法円坂遺跡は、古墳時代中期の5世紀前半頃の営造と推定され、古墳時代としては最大規模の倉庫群になる。難波では古墳時代中期から難波宮まで絶え間なく建物が営造されるが、本遺跡はその起源的位置づけにある。法円坂遺跡の北方では王権の手による難波堀江(人工運河)開削と難波津(王権の港)設置が知られており、本遺跡もそれらと関連する王権直轄の倉庫群と推測され、文献上に見える「難波屯倉」に比定する説もある。ただし発掘調査によれば、倉庫群は継続することなく廃絶したとされ、その後の難波は一度小規模化したのち6世紀頃から再び規模を拡大することとなる。
法円坂遺跡の範囲は2001年(平成13年)に国の史跡に指定されている。なお、同様の古墳時代の大倉庫群としては鳴滝遺跡(和歌山県和歌山市)なども知られる。
[④先端部を開いた難波堀江] in難波の堀江 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(6)
難波の堀江(なにわのほりえ)は、仁徳天皇(オオサザキ大王)が難波(現代の大阪市)に築いたとされる水路(または運河)である。
概要:『日本書紀』巻第十一、仁徳紀11年の記事に、「天皇は(洪水や高潮を防ぐため)難波宮の北の野に水路を掘削させ、南(大和川、河内平野)の水を西(難波)の海へ排水できるようにし、堀江と名付けた。」という内容の記述があり、堀江の成立を物語るものとされている。
古墳時代中期は、ヤマト王権が中国王朝および朝鮮諸国と積極的に通交し始めた時期であり、ヤマト王権にとって瀬戸内海は重要な交通路と認識されていた。そのため、ヤマト王権は4世紀末~5世紀初頭ごろに奈良盆地から出て、瀬戸内海に面した難波の地に都を移した。本拠となる難波高津宮(なにわの・たかつのみや)は上町台地上に営まれたが、その東隣の河内平野には、当時、「草香江(または河内湖)」と呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっていた。上町台地の北から大きな砂州(長柄砂州)が伸びており、この砂州が草香江の排水を妨げて、洪水や高潮の原因となっていた。
新たに造営された難波高津宮は、食糧や生産物を供給する後背地を必要としていた。そこで、ヤマト王権は河内平野の開発を企図し、草香江の水を排水するための水路を掘削することとした。水路は上町台地の北部を横断して難波の海(大阪湾)へ通じ、「堀江」と呼ばれるようになった。
この堀江は伝説上の存在ではなく、実際に築造されたものと考えられている。築造の時期は5世紀前期と見られる。ただし、築造したのが本当に仁徳天皇だったのかについては、肯定派と懐疑派で見解が分かれている。堀江の流路としては、大阪城のすぐ北の天満川から大川をとおり、中之島の辺りで海に出るルートが推定されている。なお、大阪市西区に残る地名の堀江とは位置が異なる。
『日本書紀』によると、仁徳天皇は、堀江の開削と同時期に、淀川の流路を安定させるため茨田堤(まむたのつつみ)を築造させている。茨田堤の痕跡が河内北部を流れる古川沿いに現存しており、実際に築造されたことが判る。堀江の開削と茨田堤の築造は、日本最初の大規模な土木事業だったのである。
[⑤王権の港である難波津]
*本シリーズ「くすり文化第4回報-わが国の薬の歴史(2)-1大和時代編-」(7)参照
[⑥大化改新の舞台となった難波長柄豊碕宮]
in難波長柄豊碕宮:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(8)
難波長柄豊﨑宮を正面から見る。手前、宮城南門を抜けて朝集殿を左右に見ながら北に進むと朝堂院南門に至る。さらに朝堂院南門をくぐると左に西朝堂、右に東朝堂が見える。朝堂院を北に進んでいくと内裏南門に到着する。
内裏全景。東西の八角殿院に挟まれた位置にあるのが内裏南門。その奥の内裏前殿、内裏後殿を経て内裏に至る。左奥にあるのは内裏西方官衙。模型では再現されていないが内裏東方官衙と対になっている。(大阪歴史博物館・前期難波宮復元模型より)
難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、摂津国難波にあった飛鳥時代の宮。難波長柄豊崎宮、難波長柄豊埼宮とも表記する。学術的には、この宮跡に建てられた難波宮(後期難波宮)と区別して前期難波宮とも呼ばれる。
乙巳の変(645年)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し、孝徳天皇が遷都した。建物は、朱鳥元年(686年)の正月に全焼するまで、現在の大阪市中央区に34年の間存続した。
白雉5年(654年)孝徳帝の没後、斉明天皇(皇極天皇が重祚)により飛鳥板蓋宮に遷宮された。その後は、天平16年(744年)になって同じ場所に聖武天皇によって宮殿が築かれた(難波宮#後期難波宮を参照)。
この宮は、上町台地の上にあり、大正2年(1913年)に陸軍の倉庫建築中に数個の重圏文・蓮華文の瓦が発見されている。昭和28年(1953年)、同地付近から鴟尾(しび)が発見されたのがきっかけで、難波宮址顕彰会の発掘・調査が進んだ。
内裏・朝堂院の構造がそれまで見られなかった大規模で画期的な物であったことから、大化の改新という改革の中心として計画的に造営された宮であるとされ、大化の改新虚構論への有力な反証となっている。
現在、難波宮の跡地の一部は、難波宮史跡公園となり、大阪城の南に整備されている。前期・後期の遺跡を元に建物の基壇などが設置されている。