Episode 3
行事報告:熱田図書館 「土曜の朝学~あつたを知るミニ講座」
【伝説編】「蓬莱の地・熱田の徐福伝説」を実施しました! 2022年2月19日
徐福とは?からはじまる講座
熱田図書館では、2022年2月12日(土曜日)に「土曜の朝学~あつたを知るミニ講座」【伝説編】「蓬莱の地・熱田の徐福伝説」を行いました。
徐福(じょふく)とは、中国秦の時代に、始皇帝の命を受けて、不老不死の薬があるという蓬莱の地を求めて出航したといわれている人物です。『徐福論–いまを生きる伝説』の著者でもある逵志保(つじ しほ)さんを講師にお迎えして、中国・韓国、そして日本各地に伝わる徐福についてお話しいただきました。
熱田の地は「蓬莱」とも呼ばれることから、徐福が渡ってきたという説があります。伝説を残していくのは、その土地の人の「思い」というお話も興味深くお聞きしました。
講座のなかでは、徐福に関する小説などもご紹介いただき、関連資料を展示しました。
「土曜の朝学~あつたを知るミニ講座」とは、熱田の歴史や地域にまつわる様々なテーマを取り上げる講座です。来年度も開催予定です。どうぞお楽しみに。
Episode 4
2000年前の「徐福」伝説、日本の食の原点を探る
2000.06.10 57号 16面
約二〇〇〇年前、日本は弥生時代、お隣の中国では秦の始皇帝が絶対君主制を宣言している。始皇帝の命を受けて、不老不死の霊薬を求め、蓬莱の国と呼ばれた日本を目指した約三〇〇〇人の童男童女からなる一行があった。団長の名前は徐福方士。彼らはその後も祖国へ戻ることなく、日本での生活を選んだという。そして日本人に衣食住の基本的な指導をしたという説が有力だ。もしそれが真実なら、日本の食の原点に徐福は多大な影響を及ぼしているかもしれない。西暦二〇〇〇年のいまこそ、約二〇〇〇年前の謎多き「徐福」を探ってみたい。
(取材協力=「日本徐福会」飯野良子事務局長)
中国の正史『史記』には「古代斉の国の屈指の名門貴族、徐福方士と三〇〇〇人の男女が東の桃源郷日本へと旅立ち、そこに住み着き二度と戻らなかった」と記述されている。日本にも「宮下富士古文書」と呼ばれる縄文以来の歴史を記した古書に徐福に関する記録が実在している。
徐福一行は日本の温暖な気候、風光明媚、土地の人々の温かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と決めた。土地を拓き、農耕、漁法、紙すき技術をその地の人々に教えたとされている。食の分野では、塩の製造をはじめ、岡畑・焼き畑、水稲、粟・稗・麦の耕作、腐らせたものを土に混ぜて肥料を作ることなどが挙げられる。徐福が教え伝えたことが現在まで続く日本の食の原点かもしれないのだ。
徐福、日本への道のり
七代孝霊天皇の時、秦の徐福が来朝し、初めて日本に“渡来人徐福”の姿が登場する。
徐福は始皇帝を欺き、新造した大船一二隻に金銀、五穀の食糧のほか様々な品を積み込み日本へと旅立った。日本の記録では、徐福は始皇帝に「東方に蓬莱山の島あり、その山上に長生不死の薬草あり、私がその薬草を探り、君に奉らん、さすれば万々歳、寿齢久しく帝運いよいよ盛んなるべし」と奏上する。始皇帝は大いに喜び派遣を同意した。
しかし徐福は再び祖国に戻ることはなかった。自らを秦徐福と名乗り、同行した人々の名前をすべて日本名に変え、追跡の目をくらましてしまう。もちろん彼らに侵略の意図はなかった。子孫のために父祖三皇五帝の様々な知恵をその桃源郷に移し、理想の国造りに貢献したいと考えたのではないだろうか。その時の徐福の年齢は男盛りの五〇歳前後だと推測されている。
徐福についてはいまだ謎が多いが、理想の桃源郷日本で、彼は多大な影響を及ぼしたことは確かなようだ。
(参考資料=飯野孝宥著『弥生の日輪』より)
Episode 5
「中華鍋と中華料理」
奥深い中国の食の世界
In 「中華鍋と中華料理」 奥深い中国の食の世界:達人に訊け!
https://plus.chunichi.co.jp › blog › odachuu › article
きょうは中国の授業。四文字熟語で進めていこう! まずは『食在広州』食は広州に在り。中国語と英語の文法は似ており、主語の後に述語が来る。「食べるところは在ります。どこに~?広州に」ということになる。広州は「コワンチョウ」で香港のすぐ近くにあるから地図で探してみよう。
ここではありとあらゆる多種多様な食材が見られる。中華料理の神髄の1つは、どんなものでも食べるということ。「空を飛ぶものでは飛行機、四足ではテーブル、それ以外は何でも食べられる」という。熊の手・ゾウの鼻・サルの脳みそ、チャウチャウ犬も食用に改良されたものだ。食材と調味料、中華包丁、中華鍋があれば、煮て焼いて炒めて蒸して、どんな料理でも強い火力で手際よくつくってしまう。
次は『南船北馬』。広い中国を表す言葉で、雨が多く川や湖、運河が多い南部の交通手段は船で、乾燥する草原など北部は馬であることを示している。和食がそうであるように、食材や料理も当然その土地の影響を受ける。広い中国では大きく4つの料理に分けられる。
北京ダック・水餃子・饅頭の【北京料理】。
上海蟹・小龍包の【上海料理】。
フカヒレ・酢豚・かに玉・シューマイ・ワンタンの【広東料理】。
麻婆豆腐・海老チリソース・回鍋肉・担担麺の【四川料理】
が中国4大料理だ。北京で麻婆豆腐やフカヒレを注文し「やっぱり本場の中華は違う」なんて言う人がいるけど、本場じゃないよね!
中国では肉といえば「豚肉」」で世界の半分の4億頭が飼育され、生産も消費も世界の半分だ。原始的で多産系の梅山(めいしゃん)豚(とん)は1972年日中国交正常化でパンダと共に10頭が日本に寄贈された。香辛料(スパイス)大好き人間の私としては麻(マー)=山椒と辛(ラー)=唐辛子の効いた四川料理が好みで、職場近くにあるのが“四川飯店”。四川(しせん)ではなく、中国読みで「スーチョワン」と読むように生徒には教えている。食べた後はウーロン(ジャスミン・プアール)茶でさっぱり。ダイエット効果も認められ、世界中で飲まれている。
最後は『医食同源』。中華料理は美味しいだけでなく、体に良いものを摂取して健康維持に努めるという「漢方」の考えがある。
[中国を統一し、絶大な権力を持った秦の始皇帝は、徐福に“不
老不死の薬”を探し求めさせた。徐福が日本の九州や紀伊半島
に来たという「徐福伝説」が残されている。]
医学や健康については手塚治虫氏の作品「ブラックジャック」で紹介したい。天才外科医ブラックジャックにはライバルが2人いる。一人は戦場外科医での経験から「安楽死」を選択するようになったドクターキリコ。もう一人は病気を嗅ぎ分ける能力を持つ盲目の針師琵琶丸。 東洋医学も西洋医学もめざすところは同じで病気を治し健康な生活を送ること。目指すところは同じだがアプローチの仕方が全く異なる。手術だけでなく、漢方薬・針・灸などに頼る人々は多い。遺伝的に腎臓が悪い私は、近所の整体師より漢方薬「八味地(はちみじ)黄丸(おうがん)」を処方されたのだ!
文章を書いていたらお腹が空いてきた。美味しい中華料理を食べに行こうか!
Episode 6
文化の交差点: 【12-11】日中両国の懸け橋となった「徐福東渡」
王 笑天(山東七星策画有限公司勤務) 2012年11月28日
中国山東省竜口市(煙台市に属する県クラスの市)には、徐福鎮という田舎町がある。この町は「徐郷の古里」とも呼ばれる。元代の学者、于欽が編纂した『斉乗』には、「けだし徐福求仙するをもって名となす」とある。徐福が日本に渡ったことを記念して「徐公祠」がここに建てられた。
徐福は、不老長寿の妙薬を求め、3千人の童男童女を率いて海を渡り、中国の文化や知恵、農業・養蚕・建築技術を日本に伝えた、とされていることから、富士山の北山麓にも「徐福」を祭る「徐福碑」が建てられている。
秦の始皇帝28年(紀元前219年)、始皇帝は初めて東方の郡県を巡回した。泰山を越えて梁父山に行き、北東に向かい、黄県(現在の山東省竜口市)、月垂県を経て、渤海に面した成山、之罘(しふ)に到着。之罘から南西に折り返し、琅琊(現在の山東省膠南市)に到着。この間、海州湾内に蜃気楼が現れたのを目にした秦の始皇帝は、仙人のしわざだと思い、「辟穀」(修行のための断食)や気功、仙術、武術に精通した戦国時代の思想家「鬼谷子(きこくし)」門徒の徐福に対し、童男童女を率いて海を渡り、不老長寿の薬を探すよう命じた。
皇帝の命を受け、海に出た徐福は、不老長寿の薬を見つけることはできず、9年後の紀元前210年、真の始皇帝は再度、東巡を行い、徐福を訪ねた。皇帝からのお咎めを恐れた徐福は、「海の中に大きなサメがおり、薬のある仙山に船が近づくことができない。サメをしとめる弓の達人が必要だ」と嘘をついた。
徐福の話を信じた皇帝は、弓と武器を持って自ら海に出た。船が之罘島の近くまで到着すると、確かに大魚に出くわした。皇帝は弓で魚を殺した。これで妙薬探しの障害はなくなったと考えた皇帝は再び、徐福に対し、童男童女と技術者、兵士、射手ら500人余りを率い、五穀の種、食糧、食器、水などを携え、不老長寿の薬を探す旅に出るよう命じた。
東方に渡った徐福は、不老長寿の薬を見つけることはできなかったが、「平原広沢」(筆者注:日本の九州を指しているとも言われる)を発見した。不老長寿の薬を持って帰らなければ、死罪になる可能性があるため、中国へは帰らず、ここに住み付いた。徐福らは人々に農耕や漁、鍛冶、製塩などのほか、医療技術など秦朝の進んだ文化を伝え、「農耕を司る神」「医薬の神」として尊敬された。和歌山県、佐賀県、広島県、愛知県、秋田県、富士山は、いずれも徐福ゆかりの地である。
「徐福東渡」に関する最も古い記述は、『史記・秦始皇本紀』と『淮南衝山列伝』(注:徐福の氏名は、『秦始皇本紀』では「徐市」、『淮南衝山列伝』では「徐福」となっている)。司馬遷『史記』は魯迅から「史家の絶唱」と呼ばれことからも分かるように、信憑性や史料的価値が高い。司馬遷が『史記』の執筆にあたったのは、当時の漢武帝の太史令を務めていた時期で、徐福東渡から70年余りしか経っていない。編纂時に誤りが生じた可能性は排除できないが、複数の章・節に、同じ内容の虚構が登場する可能性は極めてわずかである。
日本の文献で徐福が日本に渡ったとするものには、『神皇正統記』、『林羅山文集』、『異称日本伝』、『同文通考』などがある。松下見林は『異称日本伝』の中で、紀州の熊野山下に徐福の墓がある、と記している。また、新井白石は『同文通考』の中で、熊野の付近に徐福が住んでいた、と言っている。このほか、歴史文化的な角度から徐福らが日本に渡った事実を研究する日本人学者もいる。
日中両国の徐福研究者の間には、「徐福が率いたのは完全武装の植民隊ではなく、善意ある交流を行う船隊で、徐福らが訪れた場所には恨みでなく、文明・平和・友情の種がまかれた」という見方もある。
日本で稲作農耕と環濠集落文化が発展した理由は、中国の影響を受けたためである、というのが日中学界での一般的な見方となっている。徐福は、中国の稲作文明、特に江南の稲作文化を日本で広め、稲作の発展を促し、当時に古代日本の農耕村落の形成と発展を促した。その功績は永遠に歴史に刻まれ、徐福は日本で「農業を司る神」として崇められている。北宋の詩人・欧陽修の『日本刀歌』には、「徐福の行く時、書は未だ焚かず、逸書百篇今尚存す。令厳しくして中国に伝わるを許さず、世を挙げて人の古文を識るもの無し」とある。
江戸時代初期の朱子学者・林羅山の『羅山文集』には「徐福之来日本、在焚書坑儒之前六七年矣、相蝌蚪篆籒書添竹牒、時人知者鮮矣。其後世世兵燹、紛失乱墜、未聞其伝、嗚呼惜哉」(徐福が日本に来たのは、焚書坑儒の五、六年前のことで、小篆と大篆で書かれた竹簡を持ってきたが、当時の人で知る者は少なかった。その後、兵火で紛失し、伝承されているとは聞かない。惜しいことである)と書かれている。
徐福は方士の出身で、医術に長けていた。医学者の富士川游は『日本医学史』の中で、秦の徐福が仙薬を求め、日本に来てさまざまな文物を伝え、医人も同行していた、との記述がある。日本の医学は、中国医学に学び、それは漢医や漢方と呼ばれた。日本には現在も治療に伝統的な中国医学を用いる医師がいる。徐福が日本で「医薬の神」と崇められる理由はここにある。徐福東渡は日中両国民の友情の絆と文化・経済交流の懸け橋となっている。
参考文献:
蔡豊明「徐福東渡与東亜民聞文化」中国海洋大学学報(社会科学版)2002年4月
羽田武栄「日本学者看徐福」《海洋世界》1995年7月
安志敏「論徐福和徐福伝説」《考古与文物》1997年5月
楊斌「徐福東渡之謎」吉林文史出版社1989年3月
王錦鴻「徐福東渡之謎新探」江蘇人民出版社1990年1月
飯野孝宥「弥生的日輪—徐福的伝説与古代天皇世家」光明日報出版社1994年10月
張煒「徐福文化的思索」山東友誼出版社1996年1月
壱岐一郎「徐福集団東渡与古代日本」天津人民出版社1996年10月
李艶祥「徐福東渡」中国広播電視出版社2005年4月 張良群「中外徐福研究」中国科学技術大学出版社2007年10月
Episode 7
日韓中、合作TVドラマ構想 徐福伝説、原作は荒俣さん 2009年6月5日
In 日韓中、合作TVドラマ構想 徐福伝説、原作は荒俣さん
https://www.asahi.com › tv_radio › TKY200906040359
【ソウル=赤田康和】日韓中の放送作家やドラマ制作者が、テレビの連続ドラマを3カ国共同でつくる構想をまとめた。秦の始皇帝の命を受け、不老不死の薬を探して日本や朝鮮半島を訪れたとされる伝説上の人物、徐福の物語。交流が活発とはいえなかった3国のテレビ界の合作は画期的だ。
ソウルで開催中の第4回アジア放送作家カンファレンスで関係者が4日、合意した。日本放送作家協会の市川森一理事長と韓国の制作会社サンワネットワークスのシン・ヒョンテク会長らが中心になって企画し、中国の制作会社も参加に同意しているという。
1話1時間で計24話程度の連続ドラマとする。1言語で撮影したのちに各国語の吹き替え版をつくる予定。原作は作家の荒俣宏さんが書き下ろし、アジア全域で知名度のある俳優を起用する考えだ。
制作費は総額15億円を見込んでおり、製作委員会形式で出資を募ることを検討している。日本の有力な放送局の関係者も関心を示している。
韓国では、日本の大衆文化の流入を政府が禁じてきた経緯があり、日本のドラマは地上波ではまだ放送されていない。日本の脚本家の台本を韓国の監督・俳優が映像化する試みなどがあったが、本格的な合作もまだ少ない。今回の合作を機に地上波解禁などにつなげたい思いが日本側にはある。
一方、韓国側には「韓流ドラマ」のヒットで日本市場を重く見る流れが強まっている。人口13億人の中国市場も両国にとって魅力だ。
中国側はテレビドラマのアジア市場への浸透が十分にできておらず、国外での存在感を高めたいとの思いがある。
徐福伝説が日中韓合作ドラマで!
2009年 06月 05日
徐福に限らず、日中韓合作ドラマはここのところあまり聞きませんでしたからね。クオリティがどうなるか気になります。
徐福が映画になった場合には、今度はどんな展開をさせるんでしょうかね。ドラマとは違う展開方法を作らないといけないような。
徐福のような世界が実際にあるのならば、興味本位ですが足を踏み入れてみたいと思いますね。伝説に触れてみたいです。
徐福の子供たち
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090605-00000061-scn-ent
【日本の検索ワード】「徐福」が日中韓合作ドラマ化へ、原作は荒俣宏
… 徐福については、日本の古代史上の大きなテーマの一つとなっており、佐賀、和歌山、鹿児島、山梨を中心に各地で「徐福伝説」が存在している。また、徐福がやってきた中国でも有名でさまざまな説があるほか・・・
徐福映画「徐福~永遠の命を探して~」が元AKB板野友美さん主演で完成したとのこと、7月1日に記者発表が行われたと聞きました。
7月26日から渋谷ユーロライブ他、全国の映画館で順次公開なのだそうです。
希望する団体は自主上映も可能だそうで、神奈川徐福研究会では、次の日程で上映会を開催するそうです。
お近くの方、ぜひご覧ください。
日時: 7月27日(土) 18:00~19:30 (開場17:30)
入場料:1000円
場所:地球市民かながわプラザ5階 映像ホール (JR根岸線本郷台駅徒歩3分)
参加ご希望の方は、神奈川徐福研究会 xufu@krd.biglobe.ne.jp まで
今日のお話
1.国指定史跡 池上曽根遺跡 ームラの形成ー
2.縄文時代から弥生時代、そして四大文明
ー くすりはいつごろから世に現れたか・・・ ー
3.徐福伝説&天台烏薬
4.大和時代(4世紀半ば~600年頃)、飛鳥・奈良時代
(600~794)での「くすり文化」に関係する事柄
4.大和時代(4世紀半ば~600年頃)
飛鳥・奈良時代(600~794)
での
「くすり文化」に関係する事柄
【大和時代(4世紀半ば~600年頃)での「くすり文化」に関係する事柄】
メソポタミヤで文明が開かれて、5000年の時が流れ、その間に「ガレン(130~201)が薬に適量のあること(至適量)」を教えて、「“テリアカ(解毒薬)”が治療薬」として使われ、かなり高度な医療が行なわれていた(第3回報)。そのころ、わが国にはまだ文明の灯が灯っておらず、全くどんな世界であったのかも分からない。わずかに、古代中国の文献に現れた文字から類推するしか出来ない。
このような中で、「くすり文化」については、まず、「くすりはいつごろから世に現れたか」をテーマに考察し、「6世紀頃」と推察した。実際、日本では薬物に関係のある記録は6世紀の頃まで極めて少なく、ほとんど分かっていないが、大陸と人や物の交流が盛んになった[大和時代(4世紀半ば~600頃)]の頃から、「日本における医療と使用薬物に関する記録」が、数多く見られるようになっている。
そこで、次は「大和時代におけるくすり文化」を繙いてみる。
3、4、5世紀頃朝鮮半島との交流があり。朝鮮半島の南の端(百済)は九州北部の部族及び中国地方の北西部の部族との交流があり、文化の交流も盛んに行なわれていたと考えられる。百済は中国文化を吸収して、わが国より文化度が高く、仏教文化や医療文化など学ぶべきものを数多く持っていたと考えられる。
[少名彦之命]:出雲地方*、四国の海岸、瀬戸内*、紀州など外国から入ってきた渡来人の持っていた医療文化を伝承した人で大阪にその神社「少彦名神社(すくなひこなじんじゃ、大阪市中央区道修町2丁目1番8号)」がある。“神農さん”と慕われ毎年11月22,23日にお祭り「神農祭」が行なわれる。大阪ではその年の最後の祭りとして“とめの祭り”といわれている。
[なにわの薬師(くすし)]:高麗から来た医師徳来**が大阪に住み着いて医療を行った。その子孫を“なにわのくすし”と呼んだ。中国の医師は薬師(くすし)と呼ばれて、診断を行なった上、薬を調合して、患者に直接渡した。この東洋医学の原型が20世紀まで行なわれてきたわが国医方の原型である。
*出雲地方、瀬戸内沿岸には渡来人が齎したと考えられる医文化の伝説が残っている。
この時代のキーマン:
(①金武・②徳来・③播量豊・④丁有陀)の人物像
①[金武]:允恭天皇3年春正月、新羅に使者を派遣して、よき医(くすし)を求めたところ、允恭天皇3年秋8月 新羅の国主の御調(ミツギ)81艘の大使として、深く薬方(クスリノミチ)を知った、金武が来朝した.金武が天皇のみ病を治療したら、いくばくもせずに癒えた。 允恭天皇三年春正月の辛酉の朔に、使いを遣して良医(ヨキクスシ)を新羅に求む。秋八月に、医(クスシ)、新羅より至れり。即ち天皇の病を治めしむ。未だ幾時を経ずして、病すでにいえぬ。天皇、歓びたまひて、厚く医に賞みたまひて国に帰したまふ。(日本書紀・允恭天皇・新編) 天皇、初め天津日継を知らさむと為し時に、天皇の辞びて詔ひしく、「我は、一つの長き病有り、日継ぎを知らすこと得じ」とのりたまひき。然れども、大后を始めて諸の卿等、堅く奏すに因りて、乃ち天の下を治めき。此の時に、新良の国主、御調八十一艘を貢進りき。爾くして、御調の大使金波鎮漢紀武(コムハチニカニキム)と云ふ、此の人深く薬方を知れり。故、帝皇の御病を治めいやしき。(古事記・允恭天皇・新編)」
[in金武 www1.tcnet.ne.jp › hanahide › KOMU 、Access in 20.3.11(Wed.)(12)]
②[徳来]:恵日の五世の祖先である徳来は、元は高句麗人であったがのちに百済に移住。さらに、雄略天皇7年(463年)雄略天皇の命令を受けて吉備上道弟君と吉備海部赤尾らが、百済に対して今来の才伎(いまきのてひと)(工人)を求めた際、徳来は百済から日本に渡来したという。 推古天皇16年(608年)第三回遣隋使において、恵日は小野妹子に随行して隋に渡り医術を修得する。留学中には、618年の随の滅亡・唐の建国を経験している。推古天皇31年(623年)ともに医術を学んだ倭漢福因や学問僧の恵斉・恵光らとともに、新羅使・智洗爾に従って日本に帰国する。帰国後、唐に留まっている留学生達はみな学業を成し遂げているため日本に帰国させるべきこと、唐は法式が備わり定まれる立派な国であるため常に往来して交流を持つべきことを建言した。 その後、恵日は薬師となり、ついには薬師を姓とした。舒明天皇2年(630年)第一次遣唐使にて、大使・犬上三田耜に従って再び大陸に渡る(この時の冠位は大仁)。以前の恵日の建言通り、舒明天皇4年(632年)遣唐使節一行は学問僧の霊雲・旻や勝鳥養らを連れて帰国する。なお、この時に帰国しなかった留学生の高向玄理・南淵請安は、舒明天皇12年(640年)になって百済・新羅の朝貢使とともに新羅経由で帰国している。 孝徳朝の白雉5年(654年)第三次遣唐使では副使に任ぜられ、みたび大陸に渡った。なお、この時の冠位は大山下(従六位相当)で、以前の大仁(正五位相当)より下位になっていることから、何かの理由で降格された可能性がある。 医書として、隋から『病源候論』 、唐から『千金方』 を伝えたとされる。子孫は難波薬師を氏とした。[in薬師恵日 – Wikipedia ja.wikipedia.org › wiki › 薬師恵日、Access in 20.3.11(Wed.)(13)]
③[播量豊]:554年、百済から採薬師、播量豊、(丁有陀)来日。採薬師渡来のはじめ。採薬師施徳潘量豊
名前:採藥師施德潘量豐【日本書紀】(くすりかりはかせせとくはんりょうぶ, くすりかりはかせせとくはんりゃうぶ)採薬師施徳潘量豊、生年月日:( ~ 554年4月17日)、没年月日:(554年3月19日 ~ )
出来事:554年(3月19日 ~ 4月17日)、欽明天皇の要請で百済から来朝する。
【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年二月条】
[in採薬師施徳潘量豊 – れきち rekichi.net ›、Access in 20.3.11(Wed.)(14)]
④[丁有陀]:554年、百済から採薬師、(播量豊)、丁有陀来日。採薬師渡来のはじめ。固徳丁有陀
名前:固德丁有陀【日本書紀】(ことくちょううだ, ことくちゃううだ)固徳丁有陀
生年月日:( ~ 554年4月17日)、没年月日:(554年3月19日 ~ )、出来事:554年(3月19日 ~ 4月17日)欽明天皇の要請で百済から来朝する。【日本書紀 巻第十九 欽明天皇十五年二月条】
[in固徳丁有陀 – れきち rekichi.net › 、Access in 20.3.11(Wed.)(15)]
【飛鳥・奈良時代(600~794)での「くすり文化」に関係する事柄】
一方、この飛鳥・奈良時代(600~794)での「くすり文化」に関係する事柄としては、
(1)四天王寺に四個院(施薬院、療病院、悲田院、敬田院)が併置
されたこと
(2)推古天皇の薬狩り
(3)遣隋使、遣唐使を通して、正倉院に現存する薬物(正倉院薬
物)や隋、唐の医学書・薬物書が渡来したこと
(4)漢方薬物の名称を書いた七世紀末ごろの木簡がみつかったこ
と
(5)医疾令(医薬制度)が制定されたこと
(6)陀羅尼助(役の行者によるもの)、奇効丸(南都唐招提寺による
もの)、豊心丹(西大寺によるもの)等の施薬 など多くある。
また、そのほか(7)にも
①薬師寺の吉祥天女像の手に乗っている薬の壷であること(in奈
良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):このように
仏教の受容は群臣に可とされて、広まると、多くの仏のなかで
も薬師如来を信仰するものがふえた。「薬師如来本願功徳経」
によると、薬師は一二の大願をたて、衆生の病いをいやし、寿
命をのばし、多くの災いをのぞき、衣食を満足させることを誓願
して、それを成就して仏陀となったという。その大願のうち第七
願が医薬を得ることができない人たちへの救済である。したが
って薬師像には左手に薬壷をもつことが多い。
②法隆寺伽藍縁起並流記資材帳には薬物の名前が記されてい
ること
③正倉院の書物からは施薬院の言葉が記載されていること
④太宝律令には内薬司(うちのくすりのつかさ)や典薬寮(くすり
のつかさ)が記載されていること、全国各地に薬草の生産を割
り当て、都に集めるシステムが作られたこと などが挙げられる。
(1)四天王寺に「四個院(施薬院、療病院、悲田院、敬田院)」が併置されたこと
【聖徳太子が四個院を作った】
四天王護国之大寺:6世紀「なにわ、あすか、やまと」の中で部族闘争が繰り返されていたが、6世紀末になって、聖徳太子(574~622)が物部氏との戦いに勝ち、その勝利を記念して建立したと伝えられる。その頃 内外共に戦乱の絶えないときであったので四天王を祭り、国防を意味して四天王護国之大寺という正式名称が付けられている。
7、8世紀になると大和王朝が国内を統一し、さらに中国・朝鮮半島の国々とのの交流が増えていく。その頃、大阪市港区、浪速区も海で四天王寺西門のすぐ前には波が押し寄せていた。隋からの使節が大阪湾から入ってきた時、目の前に四天王寺の七堂伽藍をみせて日本の文化の高さを誇っていたと考えられる。又、外国使節の接待に使われ、外交上重要な建物としての役割を果していたと考えられる。
日本書記によれば、第30代敏達天皇14年(585)「国に疾病起こりて、民死ぬ者多し」又「瘡出でて、死ぬもの、国に満てり」とあるように、国は極度の貧困に陥り、多数の餓死や病人が居た。聖徳太子はこの惨状を救う為、四天王寺境内に施薬院・療病院・悲田院・敬田院を作った。「御手印縁起」によれば四個院のそれぞれの機能は次のように書かれている。
施薬院:是れ一切の芝草・薬物類を植え生さしめて、方に順いて合
薬して、各の所業に随いて、普く以って施与せしめん
療病院:・・・・病める比丘においては、相い順いて(したがいて)療
冶して、禁物の蒜・宍・願薬せん所に任せて服せしめ、いえ
癒えしめん・・・
悲田院:是れ貧窮・孤独・丹己・無頼を寄宿せしめ、毎日世話をし、
飢餓させてはいけない。
敬田院:悪を捨て、善を修め、仏に帰依する修行の場
これらの記述は日本書紀にはないが、このような医療システムは中国からの渡来人や文献から学んだもので、わが国での最初に行なわれた“貧民と病人に対し、薬と食と住と職を与える壮大な計画”であり、又、最初に考えられた医療文化を示すものとして非常に興味深い。即ち、休ませ、食べさせ、薬を与え、働かせる、という一連の行為は病人を元気にして、社会復帰が出来るまで、生きる為の技術の教育まで行なうシステムで、21世紀の社会にも通じる理念が含まれている。
[四箇院]:聖徳太子により建てられた*四天王寺の四箇院のひとつである「施薬院」として推古天皇元年(593)に、聖徳太子によって建立された。
[in 2:四天王寺に今も生きる聖徳太子の理念 ~ 上町台地(阿倍野 … smtrc.jp › town-archives › city › uemachidaichi ]
(2)薬狩り:
仏教のもとでは4つ足の動物の肉を食べるのは禁じられていたが、鹿の角を薬とする以外、鹿は当時最高の蛋白源であったと考えられる事から、薬を採集するという名目で鹿狩りが行なわれたと考えられる。
*推古天皇の薬狩り:日本書紀には、推古天皇が現在の宇陀地方で薬狩りをされたという記述(611年)があります。当時、獣狩りをされようとした推古天皇を、皇太子がお諌めし、中国の風習に倣って、代わりに「薬狩り」をするように進言し、聞き入れられたとのことです。その後も、朝廷と薬物の関わりは深く、藤原京(694~710)跡からは、薬物のことを記した木簡(薬用人参等25種)が出土しています。(in 奈良と薬の古い関係)
*仏教伝来(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):五三八年には百済から仏像と経論が伝えられ、正式に仏教が将来された。仏教の急速なひろがりは、知的なくらしの向上を促進させた。五五三年になると、百済に医・易・経博士の上番を求めた。翌年(五五四年)には五経博士が来航した。医法や薬法の専門家が、それらを普及させたのである。さらに五六二年には薬方書などが伝えられた。
(3)遣隋使、遣唐使を通して、正倉院に現存する薬物(正倉院薬物)や隋、唐の医学書・薬物書が渡来したこと
正倉院:律令制度は大和朝廷を中心とした貴族社会を築くために、隋・唐の制度を真似て作られたものである。貴族社会を安定させる為には医文化が出来ていなくてはならなかった。殊に、当時、干害・疫病・飢饉が後を絶たず、医療制度の確立が急務であったと考えられる。
758年宮中から東大寺に奉納された「薬物の目録」が残されている、これを昭和30年薬学の調査が行なわれ、現存している薬物、容器の写真と共にその成果を『正倉院薬物*』という本にした。これは光明皇后の東大寺御祈祷に際し600点の御物が奉納され その中に薬品60種が含まれて居る。光明皇后の御祈祷の中に「60種薬は東大寺堂内に安置し、仏にお供え致します。もし病苦によって薬を必要な者がいるなら、申し出て、用いる事を許します。心からお祈りする事はこの薬を飲む人々は万病悉く除かれ、千苦皆救われ・・・・」とある。記録によれば、その年、人参50斤が施薬院に施与されている。以後100年に亘って勘定書が残されているが、宮中に奉納された薬物をその後の天皇が東大寺に御祈祷の御物として奉納し、施薬院で使われるシステムが出来ていたのでは無かろうか。
*正倉院の薬物(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):七五六年(天平勝宝八)六月一二日は聖武天皇の七七忌である。この日、皇太后光明子と娘の孝謙天物皇は聖武天皇遺愛の品灸を東大寺に寄進した。献納品のなかに薬物があり、目録が付けられていた。「奉盧舎那仏種々を薬帳」でみられるとおりであるが、その薬物はあわせて六○種で、二一の漆柵に納められている。
*正倉院薬物「種々薬帳」に記載されている60種類の薬物:
in薬草に親しむ-正倉院に伝わる薬物60種のリスト種々薬帳 …www.eisai.co.jp › herb › familiar › shujuyakucho
*「種々薬帳」に記載されている60種類の薬物
(◎印=植物性生薬、△=動物性生薬、□=鉱物性生薬、◆不明)
奉盧舎那仏種々を薬帳」:
in奈良と薬の古い関係、東大寺正倉院-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6
・延喜式にみえる大和の雑薬
(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):
古代日本の集権国家体制のなかで、中央政府に集められる薬物は相当な種類と量であったことだろう。それらを具体的に知るものとしては『延喜式』が都合がよい。ただ『延喜式』は九二七年(延長五)に完成しているが、その施行は四○年をへた九六七年(康保四)といわれる。遅れた理由は不明であり、このころはすでに、いわゆる律令体制が崩れはじめている。それだけに、「諸国の進年料の雑薬」はどれほどになったかは不明である。
とはいっても全国の薬物のようすを知る史料は、ほかにない。貢進された薬物の種類を国別を承ると、近江七三、美濃六二、出雲・播磨五三、伊勢五○とつづき、わが大和は三八種である。資料編に示したが、念のために表2にまとめておいた。後述する江戸時代にも使われた薬草の類がみられることから、もうこのころには相当しっかりした知識をもっていたものとみてよい。なお、『延喜式』には、朝廷や、ほかの役所で使用する薬種についても記している。その多くはやはり草薬類である。
・大同類聚方(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):
八○八年(大同三)、平城天皇の勅撰書として編された書物に『大同類聚方』がある。これは『日本後記』に記されているように衛門佐従五位下兼左大舎人安部真直と従五位下侍医兼典楽助但馬権橡出雲連広貞の撰述で完成した。しかし、後世に散逸したようで、もとの全一○○巻の全容を伝えるものはない。したがって国会図書館本、京大図書館本もともに文政年間仁訟弄)の写本である。このほか諸家所蔵本などを校訂して、梅田義彦氏を中心に『校注大同類聚方』(大神神社史料編集委員会、平凡社昭和54年刊)が発行されている。もともと、この書物は古くからの日本の神社や旧家あるいは典薬寮に伝わる薬とその処方などを列記したものである。散逸があったため、加筆部分がみられるとか、偽書説もある。ここではその諸説を論じるつもりはない。諸説があっても、日本固有の薬種や処方のようすをうかがい知ることのできる貴重書であることはたしかである。資料編には大和に関係した部分をまとめておいた。それだけでも、ずいぶんいろいろな薬法が伝えられていたものとおどろくほどである。そして、『大同類栗方』はこれだけ多くの伝承を集め整理するだけを意図したものではない。というのは、唐文化が、どんどん輸入されていた結果、いわゆる舶来薬の隆盛で、日本固有の薬法が、どうやらうとんじられる傾向が生まれてきていた、輸入薬つまり新薬もよいが、日本薬つまり和薬復興をきそうとしたのが、本書編さんの意図であったと考えたい。平城天皇はこの事業を終えて間もなく病いに倒れ、弟に天皇の位を譲っている。この嵯峨天皇は唐風を好み、医薬術もまた唐式を尊重したので、『大同類緊方』は、意外に早く散じたものとみてよいだろう。
(4)漢方薬物の名称を書いた七世紀末ごろの木簡がみつかったこと
薬物木簡の出土:千九九八年(昭和六三)五月十三日の各新聞は、藤原宮*・西面南門跡(栂原市純手町・四分町)の発掘調の出土査で、漢方薬物の名称を書いた七世紀末ごろの木簡がまとまって出土したことを報道した。それらの木簡は門内側の内濠から計七一点が見つかった。そのうちの三○点が判読でき、その九割に生薬名が書かれていたというのである。(藤原宮出土木簡、昭和63年5月14日付朝日新聞)「人参十斤」」「当帰十斤「葛根」とよめるものが多く、なかには(表)茸窮八斤(裏)伊看我評とあるが、言窮はセリ科のセンキュウで、頭痛・強壮・婦人薬に用いられたものである。 (in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬)
「木簡に出てくる薬名は虵脱皮(蛇の脱け殻)と黒石英(紫石英か)以外はすべて植物で『医心方』や『大同類衆方』といった書物にしばしぱ出てくる薬物ばかりである」「虵脱皮は法隆寺の〃医薬調剤古抄″にもみえる」とも述べている。
実は藤原宮跡では、一九六六年(昭和四一)にも、今回の発掘地から東北約一キロの内裏東側で、薬物名や「典薬」と書いた木簡約二○点が出土している。それで、その付近に典薬寮があったと考えられていたが、こんどの出土品から、従来説のところは「天皇の医療を担当した中務省の内薬司」で、今回のところが、いわゆる典薬寮という見方が強まった。
*藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれていきます。
藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。また、藤原宮跡は大和三山の絶好の眺望スポットとなっています。藤原宮跡から見る朝陽・夕陽は息をのむほどの秀景です。平成23年6月には、藤原宮跡からの大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されました。特に藤原宮跡から香具山方向を望む展望には、コンクリート系の建物がまったく映り込まないため、「光男の栗」「朱花の月(はねづのつき)」といった映画の撮影舞台にもなりました。 藤原宮跡の周辺には、橿原市藤原京資料室や奈良文化財研究所藤原宮跡資料室など見どころもたくさんありますので、藤原宮跡でゆっくりと時間を過ごしてみてはどうでしょうか。
(in橿原市/藤原宮跡https://www.city.kashihara.nara.jp › fujiwara_kyuuseki)
(5)医疾令(医薬制度)が制定されたこと
医疾令(いしつりょう)は、令の篇目の1つ。養老令では第24番目に位置している。なお、大宝令では平城宮から出土した医疾令の一部を記した木簡から第19番目に属していたことが判明している。
概要:大宝令の段階から存在した篇目で、養老令においては、倉庫令とともに散逸して現存しない篇目として知られている。医師・女医などの育成(医生・針生・按摩生・呪禁生・薬園生など)や任用などの規定、薬園の運営や典薬寮および諸国の医師の職掌について扱っている。養老令では『令集解』の目録より全27条から構成されていたと推定され、『令集解』・『政事要略』(巻95)・『類聚三代格』などに逸文があり、江戸時代には塙保己一らによって早くから復元が進められ、現在ではほぼその内容が判明している。また、唐令における医疾令も仁井田陞の『唐令拾遺』の編纂などによって復元作業が進められていた。
(in フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
6)陀羅尼助(役の行者によるもの)、奇効丸(南都唐招提寺によるもの)、豊心丹(西大寺によるもの)等の施薬
陀羅尼助(役の行者によるもの):このくすりの創製は、行者・山伏の元祖ともいわれる、役小角(えんのおずぬ)またの呼び名を役の行者と伝えられています。役小角は、茅原の里(現在の御所市茅原)に生まれたといわれており、奈良県にゆかりの深い人物です。陀羅尼助は、色々な症状に用いられる胃腸薬で、当時はキハダの皮を煎じ、それに大峰山で採れる薬草を混ぜて作っていたようです。下痢止めと整腸の両方の作用を兼ね備えた、優れたくすりでしたので、宗教的・神秘的な魅了が相まって、次第に広まりました。ところで、陀羅尼助には、大峰山と高野山の2つのルーツがあるといわれています。すなわち、大峰山においては役小角、高野山においては弘法大師が始祖といわれています。その後、大峰山をルーツとする陀羅尼助は、吉野山や当麻寺においても作られるようになりました。どちらも役の行者のゆかりの地です。当初陀羅尼助は、山伏たちの持薬・施薬として用いられたようですが、近世中期になって、売薬として市場に出回るようになりました。現在でも、主に天川村洞川と吉野山において製造され、広く親しまれています。
奇効丸(南都唐招提寺によるもの):小児用の五疳薬(子供が種々の病気で衰弱したり、呼吸が弱くなったり、神経症状が起きたりしたときに服用する薬)です。樋屋家の奇応丸が有名ですが、これは、東大寺の鐘楼の太鼓の中に書かれていた薬方に基づき再現されたものといわれています。処方としては、六神丸からセンソを抜いた構成に似ています。
豊心丹(西大寺によるもの):西大寺の叡尊の創製(1242年)によると伝えられるくすりです。『金瘡秘伝』(1578年)によると、その処方は、人参、白壇、沈香、畢撥、樟脳、縮砂、丁字、木香、川キュウ、桔梗、麝香、無上茶、梹椰子、金箔、カツ香となっています。効能は、下痢、渋腹(しぶりばら)、風気、頭痛、二日酔い、心気の疲れ、吐血、下血、小児の疳の虫その他万病に効くとうたわれていましたが、現在ではほとんど生産されていません。
in奈良県製薬協同組合 〒639-2226奈良県御所市605-10 TEL:0745-62-3754
E-Meil:seiyaku@alto.ocn.ne.jp)
(7)その他:
①薬師寺の吉祥天女像の手に乗っている薬の壷であること
(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬)
このように仏教の受容は群臣に可とされて、広まると、多くの仏のなかでも薬師如来を信仰するものがふえた。「薬師如来本願功徳経」によると、薬師は一二の大願をたて、衆生の病いをいやし、寿命をのばし、多くの災いをのぞき、衣食を満足させることを誓願して、それを成就して仏陀となったという。その大願のうち第七願が医薬を得ることができない人たちへの救済である。したがって薬師像には左手に薬壷をもつことが多い。)
②法隆寺伽藍縁起並流記資材帳には薬物の名前が記されていること
③正倉院の書物からは施薬院の言葉が記載されていること
④太宝律令には内薬司(うちのくすりのつかさ)や典薬寮(くすりのつかさ)が記載されていること、全国各地に薬草の生産を割り当て、都に集めるシステムが作られたこと などが挙げられる。
そのほかの事柄等:
道修町(3,21)
奈良・平安時代は各国に薬の特産品が割り当てられていたが、それを難波に集められ淀・木津川を上っていって都に収められた。
津屋:船が集まり、物資が陸揚げされると一時保管と取引の為の建物が建てられた。それを木屋といった。(現在、木屋町が存在している)
薬品問屋:奈良・平安になっても都に集められる物資の中に薬品は嵩張らず高価格であるのでそれの流通を業とするものが出来上がっていった。これが後の世になって道修町になっていった。
都に近い港であり、商業都市であった難波の中に薬を扱う町として道修町は有名になった、20世紀始めではわが国医薬品メーカーの大多数が道修町に集まっていた。
難波津で薬が扱われ、道修町があった事が大阪を薬の町として栄えた根源である。
【奈良(県)地方とくすり文化】
奈良(県)地方とくすり文化の関わりは古くて深いものがある。奈良県では、その辺のところを「奈良のくすりのプロフィール2」の小冊子にまとめ、[1.奈良と薬の古い関係、2.伝統的な薬、3.優良な生薬、4.大和の置き薬、5.医薬品の生産、6.製造工場に対する応援、7.「奈良のくすり」めぐり、8.薬の年表、9.医薬品製造業一覧]の項目で調べられている。
その中に次のような紹介がある。[奈良と薬の関わりあいは古く、日本書紀には、推古天皇が現在の宇陀地方で薬狩りをされた(611年)という記述がある[推古天皇の薬狩り]。古くは、寺院が薬と深い関係を持っていた。中国から医薬術の導入、薬の輸入などをして、民衆を病から救済しようという寺院があった。有名な東大寺の正倉院には、当時のくすりが納められています[東大寺正倉院]。いくつかの寺院では、それぞれ秘伝の処方による薬が作られ、施薬が行われた。(in「奈良のくすり」めぐり-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6 奈良のくすりのプロフィール2p.1)] さらに、宇陀市のホームページには、[宇陀市は日本最初の薬猟(くすりがり)の記録があり、宇陀を舞台として薬猟が開始され、宇陀の地が王権の猟場であったことが日本書紀にある。宇陀地域からは何人もの製薬企業[ロート製薬、ツムラ(旧津村順天堂)、アステラス製薬(旧藤沢薬品)等]の創設者を輩出し、宇陀松山地区には、日本最古の「森野旧薬園」や薬問屋であった細川家跡の「薬の館」も存在します。このようなことから、宇陀市と薬は推古天皇時代から現在まで続いているものであり、薬の発祥の地として、薬草を活用したまちづくりを推進してきました。 (in飛鳥時代から続く薬草のまち宇陀市/平成の薬草のまちを目指してwww.city.uda.nara.jp › yakusou › introduction)]
大和(やまと)は大きく3地区[北和(ほくわ)地区《奈良市・生駒市周辺》、中和(ちゅうわ)地区《橿原市・明日香村・高取町・桜井市・宇陀市・天理市・大和郡山市・田原本町・大和高田市・御所市・五條市周辺》、南和(なんわ)地区《吉野郡周辺》]に区別されるようである。(In全国薬品工業株式会社 大和のくすり歴史概要・古代ロマン …http://www.zenkoku-yakuhin.co.jp › newpage2)
その中で、市の特色として「くすり」を取り上げている「宇陀市」と「高取町」を散策してみる。
[宇陀市]:宇陀市は、奈良県北東部に位置する町 [所在地:市奈良県宇陀市榛原下井足17番地の3、面積:247.6 km²、総人口:27,828人(推計人口、2021年2月1日)、人口密度:112人/km2、人口:3.127万 (2015年4月1日)] 歴史:「宇陀」という地名自体は万葉の時代から存在し、歌人・柿本人麻呂が現在の大宇陀の阿騎野で「東の野にかぎろひの立つ見へて返り見すれば月傾きぬ」という秀歌を詠んだことは非常に有名である。また、大宇陀は城下町としても栄えた。榛原も万葉の時代からその名を残しているが、伊勢街道が本街道と青越え道に分岐する分岐点にある宿場町として近世に栄えた。本居宣長が宿泊した宿など、歴史的建造物も現存する。また、菟田野、室生も歴史上古くから存在し、多くの遺跡や文化財が存在する。 (in ウィキペディア)
一方、市のホームページには次のような記載がある。(in宇陀市/平成の薬草のまちを目指してwww.city.uda.nara.jp › yakusou › introduction 2016/09/15)
平成の薬草のまちを目指して:飛鳥時代から続く薬草のまち宇陀市
日本書紀によると、宇陀市は日本最初の薬猟(くすりがり)の記録があり、宇陀を舞台として薬猟が開始され、宇陀の地が王権の猟場であったことを示しています。宇陀地域からは何人もの製薬企業[ロート製薬、ツムラ(旧津村順天堂)、アステラス製薬(旧藤沢薬品)等]の創設者を輩出し、宇陀松山地区には、日本最古の「森野旧薬園」や薬問屋であった細川家跡の「薬の館」も存在します。
このようなことから、宇陀市と薬は推古天皇時代から現在まで続いているものであり、薬の発祥の地として、薬草を活用したまちづくりを推進してきました。
飛鳥時代の薬狩りの様子
市役所庁舎2階には、東京の星薬科大学本館スロープに描かれた飛鳥時代の「薬狩り」「鹿茸狩り」を題材にした壁画を縮小したレプリカを展示しています。
この壁画は、星薬科大学設立者の星一氏の提案により関口隆嗣、清原重以知、服部亮英、内藤隶、笹岡了一、笹鹿彪の6名の画家が描いたもので、実物は幅が約9mもある大きな作品です。
大和当帰の栽培
本市では、現在70名余りの生産者が大和当帰(トウキ)を栽培しており、当帰の葉が2012年1月の薬事法改正で食用化が可能となりました。トウキの市場性は、今まで根のみを販売していましたが、これにより葉を利用した市場の増加が見込まれると予想されます。
トウキは、冷え性、血行障害、強壮、鎮痛薬などの漢方薬「当帰」として処方され、主に婦人科系疾患に効果があると言われています。特に効能から女性に特化した商品は付加価値を付け販売する事が可能であると思われ、今後、市内の特産品として薬草を活用した6次産業化を目指し、市民の健康維持や生産者の所得向上を目指していきます。
[高取町]:高取町は、奈良県の中部に位置する町。[所在地:奈良県高市郡高取町大字観覚寺990番地1号
面積:25.77 km²、人口:6964 (2017年3月31日)]
歴史:古代:飛鳥の南に位置しており、町内にも古墳が多数見られる。また、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる位置でもあった。渡来人の東漢氏がこの地域に定着した。『日本書紀』には、676年に高取山周辺の森林伐採を禁止する記述(日本最古の保安林的制度)が見られることから、古くから周辺の人口集中を支える地域として発展していたことが伺える。 またこの地に波多郷も有り波多氏一族が住んでいた。『日本書紀』推古天皇20年(612年)5月5日条に“薬猟(くすりがり)をして後、羽田に集い、引き続いて朝廷に赴いた”という記述がある。 この時の羽田を『和名類聚抄』では大和国高市郡波多郷としている。また『大同類聚方』によると、高市郡の波多神社には新羅伝来の「志路木藥」が伝わる。
『和名抄』に大和国高市郡波多郷は後世、波多庄を称し、至徳三年(1386年)文書に畑庄と見ゆ、(高取町市尾から羽内の辺り及び明日香村南部まで)波多郷稲淵山との記述が有る『五郡神社記』。 『大日本地名辞書 上方』には「波多《ハタ》郷 和名抄、高市郡波多郷。今高取村舟倉村是なり。霊異記に高市郡波多里、又今昔物語高市郡八多郷に小島小寺ありと見ゆ、小島は今高取村に大字存す」とある。 また波多神社の有る冬野の麓には畑という地名が残るのでこの辺りまで波多郷であったと思われる。
中・近世:大和国内で有力であった越智氏の勢力圏に属する。越智氏の本城は貝吹山城(橿原市との境に位置)であったが、その支城として高取山城が築かれていた。越智氏は北部の筒井氏とたびたび対立していたが、これに敗れ衰亡していく。 豊臣秀吉の弟秀長が大和の国主となり郡山城に入ると高取周辺もその領地となり、高取山城も改修の手が加えられ日本三大山城に数えられる高取城が姿を見せた。なお同城には秀長の家臣本多氏が入った。 江戸時代には引き続き本多氏が続くも断絶、天領の時期を経て譜代の植村氏が2万5千石で封ぜられる。この高取藩は一時分知により2万500石となるが再度加増を受け2万5000石に復帰、明治維新まで続いた。
近代:江戸時代末に起こった天誅組事件の舞台の一つとなる。五條代官所を襲撃した天誅組の一団が高取城を目指し進撃するも高取藩兵の迎撃を受け敗退、吉野方面に退却していった。(in ウィキペディア)
ご清聴、ありがとうございました。