(2)-6-1:吉野室町時代(1334~1573)
①南北朝時代:1334-1392
①南北朝時代:1334-1392
【時代考証】鎌倉時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」、「滋賀のあゆみがわかる歴史年表」などを基にまとめる。
【南北朝時代(1334-1392)の歴史背景とくすり文化に関わる主な出来事】
歴史背景:南北朝時代以来、戦乱のため社寺が荒廃 復興資金のための施薬から売薬を始める。寺院が荒れ、民間に移行 家伝薬(陀羅尼助)として温存、進歩した。1300 頃 戦乱のため社寺が荒廃 復興のため施薬から売薬へ 民間に移行し、家伝薬となる。(寺院が荒れ、民間に移行 家伝薬(陀羅尼助)として温存、進歩した。)
「三光丸」については、鎌倉時代後期の元応年間(西暦1319~)には「紫微垣丸(しびえんがん)」という名で造られていました。その後、後醍醐天皇により「三光丸」と名付けられたといいます。
三光丸の「三光」は、日(じつ)・月(げつ)・星(せい)の光を意味しています。詳しくは後述します。
in中 世 の 聖 と 医 療 根 井 浄 J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp › ibk1952 › _pdf › -char
K Nei 著 · 1977 一般に中世医学の特色は、奈良、平安時代にみられた中国医学、本草学の文献中心の模倣医学から脱却し、実効と経験を重んじる風潮が出現したといわれる。また、医学の知識が広く普及し、医療が庶民化したと評価されているが、日本仏教史の立場からの医療史の追求は学問の姐上にのっていない。その究明の着眼点は、古代、中世を通して医療の担い手が宗教者であることである。鎌倉、室町時代に著わされた代表的な医学書を通覧すると、栄西の『喫茶養生記』、叡尊について真言律を修めた浄観房の『頓医抄』『万安方』、 有林の『福田方』、生西の『五躰身分集』等、その大部分は僧侶によって著述されており、中世医学の主流は、広く宗教者が掌握していたことが理解できる。周知の通り、叡尊や忍性の癩者の救済は、医療の実践行であり、「梵網経」に説かれた救療精神が、文殊信仰と結び付いて社会的作善として発展した。この叡尊と医療の関係で注意されることは、彼が造つたと伝えられる医薬の問題である○『多聞院日記』(天文十 三・八・四条)によると「平冑散は最上の妙薬ナル由……此薬ハ日 本ノ方也。興性卉諸ノ医師談合ノ不弁ノ客僧ナト朝腹ニテ乞食二出ル時、風ヲ不引、飲食ヲ能クス・メ」る薬として、当時、世間に流布していたことが知られる。この平胃散は、近世には豊心丹と呼ばれ、『雍州府志』によると、通称「西大寺」と呼ばれた薬で、信仰を軸とした著名な医薬であつた。また、叡尊と医療の関係は、修験者が医薬として用いた符にも影響を与えており、『修験深秘行法符究集』には、叡尊が大照大神から授かつたという秘符が、万病一切に効能があると説いている。これらは、今日の医学知識からみれば、迷信、俗信にすぎないが、民間の医療史からみれば重要な伝承である。すなわち、神仏を媒介とする医薬は、庶民に広く求められ、最上の効果薬と信じられたのである。従って、寺院が薬を発行した例は極めて多く、前記の西大寺の豊心丹をはじめ、奇応丸は東大寺にあつた調剤書がもとになっている。こうした造薬は、特定の寺院や宗教者の信仰が支えとなっており、特に医療行為者は、庶民と接触の多い遊行の聖や山伏たちであつた。この民間宗教者の医療は、今日、民間医療と呼ばれるものに残存しており、中世にはそれが具体的な医療であつた。『看聞御記』(応永二三・九・二二条)には虐病に弘法大子の筆と伝える一毛を飲んで加持祈薦したことがみえ、また、護符を飲んで桃の木で身を払うマジカル的な療法もみられる。さらに『多聞院日記』には、火傷には秘歌を唱えたり、皮膚病には柿種を黒焼して飲んだり、その外、多種多用の民間薬がみられる。このように、記録にみえる療法は、必ずしも当時の医学書の内容と一致するとは限らず、一般民衆に流布していたと思われる手近な療法が用いられたのである。しかし、その反面、公卿などの病の場合には、典薬頭、施薬院使といった著名な医師を呼んで治療させた記録も散見するが、最も信頼したのは、医術を具備した僧侶であり、修験者の祈薦や医薬、符を用いた。『看聞御記』(永享十・十 二・四条)には、験者がよりましの下女三人をたてて祈薦し、『蔭-178- 涼軒日録』(明応二・三・十六条)には、越前平泉寺杉本坊の修験者が持参した丸薬と秘符を受け用いたことを記している。この修験者は、清僧の山伏で、持参した丸薬と秘符は白山のものであつた。 このように修験の霊場から発行される医薬があって、それを山伏たちが遠く諸国まで伝播、普及させたのである。越中のいわゆる富山売薬のもとは、「立山夢想妙薬」であり、立山権現の夢告にかかるものであつた。内容は、肉桂、桂辛、川骨、大黄、地黄、陳皮、厚 朴等を細未調合したものであつたらしく(『深秘医道聞書』)、立山の修験者によって広く普及したものである。また、高野山の場合も薬が造られ、広く伝播されたらしく、一人の高野聖が膏薬を持参したことが『蔭涼軒日録』(明応二・二・二八条)にみえている。以上のように、遊行性をもつた宗教者は、勧進の方便や勧進帳を公家などに書いてもらって、その謝礼や土産品として薬や符を持参した ものと思われ(五来重博士『高野聖』参照)、それに伴う、本草や 民間療法の知識を持っていたと考えられる。九条兼実の『玉葉』によると、仏厳聖人が兼実の邸宅に出入りし、盛んに脚の病に対して治療をおこなったことがわかる。仏厳聖人は、当時、高野山伝法院の学頭であつたが、「此聖人能得二医術一之人也」(安元三・四・十二条)と兼実が明記しているように、医学に通じた聖であつた。仏厳聖人の医療の内容を検討すると、療法として戒を授けたり、念仏を勧めたり、あるいは灸治をおこなった。 このように、聖人の医療の内容は、仏教の兄術的療法や、内科的診察、灸治など、あらゆる療法を駆使していたことが判る。勿論、兼実は、曲ハ薬頭、施薬院使などの医師を呼んで治療にあたらせたが、 最も医師として信頼したのは、仏厳聖人などの医術を心得えた聖であつたのである。その他、兼実がこれら聖や民間宗教者に治療をまかせた例は、鎮西の医師法師、筑紫の医僧大善坊、大和の医僧にもみられる。このように、諸国から京に集まる遊行聖たちは、その特殊技能として、医術を持つており、本草を熟知していて医薬も持っていたものと思われる。従って、関白兼実の邸宅に出入りする聖たちは、医療を媒介として、その交渉があつたことが判明する。一方、藤原定家の『明月記』をみると、兼実と同様、典薬頭、施薬院使を召して、喘息の治療にあたらせた。しかし、心寂房、空体房、金蓮房といった僧侶も召して、盛んに診察、治療にあたらせたことが判る。彼らの医療内容は、問診、灸治、投薬、及び、兄術であるが、特に心寂房は本草に詳しく、灸にも見識があつた。これら、聖たちの医療内容は右記の通りであるが、本来の宗教者としての仏教的兄術をもつて、医療行為としたことも注意が必要である。特に中世には、律僧の医療活動があり、『満済准后日記』(永享三・ 六・一七条)には、禅淳坊と号す律僧が、不字法を用いて医療加持 をおこなったことがみえる。この加持は白芥子加持といって、その場所を柘榴(ざくろ)や桃などの果物をもつて荘厳した。今日の胡瓜ふうじの類型として注意する必要がある。 以上のように、中世の聖の大半は、医術を心得えた宗教者であり、本草や灸治など、大方の医学の知識を且ハ備していたことが判明する。それが勧進という目的がある場合には、謝礼や土産として地方の医薬や符を持参したのである。と同時に、この医学に通じた職能が、庶民と接するのに恰好の条件であり、公家などの邸宅に往来することのできる、有力な要素であつたことが指摘できる。
【南北朝時代(1334-1392)の歴史とくすり文化に関わる主な出来事】
1333年:鎌倉幕府がほろびる(1333年最後の六波羅探題・北条仲時が番場(米原市)で自害(米原市)紙本墨書陸波羅南北過去帳(重要文化財))
1334年(建武元年):後醍醐天皇による建武の新政
1336年:南北朝の内乱(村の自治が進む・倭寇の活発化バサラ大名・京極道誉が活躍(米原市) 清滝寺京極家墓所【国指定史跡】)
1338年:足利尊氏が征夷大将軍になる 村の自治が進む・倭寇の活発化1363年:『福田方』(ふくでんほう)執筆 [南北朝時代に禅僧有隣(有林)によって書かれた医
学書。 全12巻。 正平18年/貞治2年(1363年)頃に執筆されたとされているが、最終的な完成は有隣が没したとされる応永17年(1410年)以前とする見方もある。]
1378年:足利義満が幕府を室町に移す
1385年(至徳元年、元中2年):足利義満、春日社へ参拝。
1392年:足利義満が南北朝を統一する
1404年:勘合貿易(日明貿易)が始まる 都市の発達
*『福田方』(ふくでんほう)について:南北朝時代に禅僧有隣(有林)によって書かれた医学書。 全12巻。 正平18年/貞治2年(1363年)頃に執筆されたとされているが、最終的な完成は有隣が没したとされる応永17年(1410年)以前とする見方もある。
福田方 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『福田方』(ふくでんほう)とは、南北朝時代に禅僧有隣(有林)によって書かれた医学書。全12巻。 正平18年/貞治2年(1363年)頃に執筆されたとされているが、最終的な完成は有隣が没したとされる応永17年(1410年)以前とする見方もある。文明2年(1470年)に書写された鈔本が宮内庁書陵部に、明暦3年(1657年)に刊行された刊本が内閣文庫にある。 漢から元にかけての中国の医学書約160種を渉猟して、著者の私見を含めて平易な仮名交じり文で書かれている。各科ごとに病症と適応薬方が分類され、更に本草・製薬・鍼灸・養生の分野にわたっても触れられている。また、出典となった医学書に関しても明記されており、当時の日本の医学においては高い水準と実用性を兼ね備えていた書物であるとされている。同時に当時の中国医学文献の日本への伝来状況を知る上でも貴重な資料となっていると考えられている。
参考文献
・小曾戸洋「福田方」(『国史大辞典 12』(吉川弘文館、1991年)ISBN 978-4-642-00512-8)
・小曾戸洋『日本漢方典籍辞典』(大修館書店、
1999年)ISBN 978-4-469-01262-0
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp › item
有林福田方 12巻 … このページへリンクする際は、以下のURLをご利用ください。
現代思潮新社 http://www.gendaishicho.co.jp › book
ジャンル:覆刻日本古典全集 > 字典六 シリーズ:覆刻日本古典全集 出版年月日:1979.01.01 ISBN:9784329005373 内容説明:福田方十二卷は、北朝の貞治年間(一三六二~六七)に僧有隣の著すところで、室町時代前半期の醫學を代表するが、從來の漢語醫書でなく和字を以て訓した醫書の嚆矢である。國語研究に於ては、漢言の音訓を假名で傍書し、かつ全體が假名文になつてゐるため、非常に有益であり珍重すべき資料である。 有林福田方 下
漢方の歴史 in NDL Digital Collections https://dl.ndl.go.jp › view › prepareDownload
○鎌倉・南北朝時代:鎌倉時代に入る頃となると、中国より宋の医学書が伝えられるように なり、その様相は一変した。北宋代には印刷技術が革新的な発達をとげ、従来写本として伝えられた医学古典の数々が校勘され、はじめて印刷本として世に流布するようになった。これは医ゐいへLt t Lt ゆ LコIsうt Lコげロt モうら(知識の普及という面において画 期的なbざこしeとt くで[コうあった。また『太平聖恵方』や『聖済総録』といった膨大な医学全書、あるいは『和剤局方』という宋の国定処方集が政府によって編纂・出版。南宋に入ってからも医書の刊行は相次ぎ、それら宋刊本が日宋貿易を背景に続々と舶載さ れた。金沢文庫伝来の古版医書はその一端を示すものである。武士の時代にあって、医学の新しい担い手は従来の貴族社会の宮廷医から禅宗の僧医へと移行し、医療の対象は貴族 中心から一般民衆へも向けられるようになった。僧医ウじわらしようゼんヒんしし l う t んあんlS すうりんム t マん[t う 梶原性全の『頓 医抄 』 ( 一 三 〇 三 年 )や 『万 安方』( 一 三 一 五 年 )、そして 有林の『福田方 』 (一 三 六 三 年 頃 )はこの 時代の特徴をよく反映した医学全書といえる。従来の日本の医書は、中国医書から漢文のま ま忠実に抜粋したものであったが、『頓医抄』や『福田方』は新渡来の多くの医書を駆使しつつも和文に直して咀嚼され、しかも著者独自の見解が随所に加えられている。
in思えば遠くへ来たものだ。三光丸を通じて出会う越智氏と中世・ …
奥大和ライフジャーナル https://okuyamato-journal.com › story › gose 2023.2.27 / コラム
思えば遠くへ来たものだ。三光丸を通じて出会う越智氏と中世・御所のおもしろさ。
文=浅見潤(三光丸クスリ資料館 館長)
私の職場は、御所(ごせ)市今住にある配置薬の老舗メーカー「株式会社三光丸(以下、三光丸)」です。会社の広い敷地内には、“奈良の薬”に関する豊富な資料を収集・展示する「三光丸クスリ資料館」があり、私はそこで館長として勤務しています。
明日香村にある我が家からは主に自転車通勤ですが、不便を感じたことはなく、標高差(およそ40m)を体感し、四季の移ろいを肌で感じながら通っています。
春は桜。夏は向日葵。秋は彼岸花、たわわに実り首(こうべ)を垂れる稲穂たち。遠くに仰ぎ見る金剛山、葛城山、二上山。毎日ゆったりと、優雅な小旅行を楽しんでいます。
さて、三光丸の当主・米田(こめだ)家は、かつて中世大和国で栄えた大和武士・越智(おち)氏の流れを汲む旧家で、戦国時代末期に越智氏が滅亡した後は、武士の身分を離れて三光丸をはじめとする家伝薬の製法を守り伝えてきました。□□こうした経緯があるので、館長としての私の仕事は、来館者の対応や資料の整理、古文書の解読などのほかに、越智氏を中心とする中世大和史の調査研究も含まれています。□□ところで、米田家には、南北朝時代に南朝・後醍醐天皇に味方した際に一族の秘伝薬を献上したところ、帝から「三光丸」という薬名を賜ったという言い伝えがあります。館長に就任したばかりの頃、私はそのことに疑問を持っていました。「天皇に名前をつけていただいた」というのは、いわゆる権威づけではないかと。けれども、あるとき中世史研究者の黒田智先生(現・金沢大学教授)からお手紙をいただき、大変驚きました。手紙の内容は次のようなものでした。□□米田家に、何か後醍醐天皇にまつわる伝承がないでしょうか。実は私は今、後醍醐天皇と「三光思想」に関する論文を執筆中で、調べているうちに貴社が製造されている三光丸のことを知りました。三光思想は、南北朝時代に後醍醐天皇の周辺でささやかれていたもので、天皇の権威を「三光」すなわち「太陽・月・金星」で象徴するという考えだそうです。□□私はすぐに米田家のルーツは中世大和武士で、越智氏とともに南朝に味方したこと、一族の秘伝薬を献上した際、帝から「三光丸」の名を頂戴したという伝承があることなどを手紙にしたためて送りました。□□やがて届いた先生からの返信には、こう記されていました。
三光丸の名を後醍醐天皇につけていただいたという話は、おそらく事実でしょう。
このとき私は、今更ながら三光丸の奥深さに驚くとともに、初めて越智一族の墓参りをしたときのことを思い出したのです。
私はもともと東京に住んでいたのですが、後述する理由で平成11年、一家そろって明日香村に移住してきました。そして、ご縁をいただいて今の職につくことができたのです。
館長として勤務するようになって間もなく、お隣の高取町に越智氏の菩提寺「光雲寺」があることを知り、さっそく訪問しました。越智氏、米田氏について調べを進めるうえで、何かヒントが得られるのではと考えたからです。