加齢性記憶障害の緩和やトラウマ記憶の消去などへの応用に期待
東京都立大学大学院 理学研究科 生命科学専攻の坂井貴臣教授らの研究チームは6日、ショウジョウバエのapterous遺伝子(ap)の変異体が長期記憶を形成できないことを発見し、そのメカニズムを解明したと発表した。今回明らかにされたメカニズムは、Apには発現する細胞ごとに異なる機能があり、それらを併用して長期記憶の固定化と維持を制御しているというもので、 ヒトを含む哺乳類にもapと同じ遺伝子が存在し、記憶に重要な海馬という脳領域で発現しており、これらの研究成果は、加齢性記憶障害の緩和や、トラウマ記憶の消去などへの応用が期待される。
長期記憶の固定化や維持の分子メカニズムは、まだ十分に理解されていない。同研究では、体を形作るために必要なap遺伝子が、長期記憶の固定化と維持の両方を制御しているという興味深い事実を明らかにしたもの。
apは、ハエの翅の発生を制御する遺伝子として初めて見出され、その後の研究で、神経発生を制御していることが明らかにされてきた。
一方、体作りが完成した成虫になってもapは脳で発現し続けているため、発生制御以外の機能があると予想されたものの、脳で発現するapの機能はよく分かっていなかった。
動物は、1日を通して様々な記憶を獲得する。インパクトのある出来事や同じ経験の繰り返しにより、獲得した記憶は脳で固定化されて長期記憶として保存される。
だが、長期記憶を固定化し維持する機構はまだ十分に理解されていない。apはハエの発生段階で翅や神経回路を形作るために必要な遺伝子として古くから知られている。この遺伝子の変異体が翅の形態異常を示すことからapterous(翅や翼がないという意味)と名付けられた(図1)。
Apterousタンパク質(Ap)はChip タンパク質(Chi)と複合体を形成し、転写因子として働く。体作りにはAp/Chi複合体による転写が不可欠である。ところが、体作りが完成した成虫になってもapは脳で発現し続けているにもかかわらず、その機能はよく分かっていなかった。
坂井氏らの研究チームは、まず、ハエ脳でapの発現する場所を二か所突き止めた。記憶中枢であるキノコ体とよばれる細胞群と、約24時間のリズムを作り出すために必要な細胞群(時計ニューロン)である。
遺伝学が発達しているハエの利点を生かし、最新の遺伝子発現技術を用いて解析したところ、時計ニューロンで発現するapは長期記憶の固定化に、また、キノコ体で発現するapは固定化した長期記憶の維持に必須であることが分かった。
さらに、キノコ体のChiはAp同様に長期記憶の維持に必須であるため、Ap/Chi複合体によりキノコ体で新たなタンパク質が提供され続けることにより、長期記憶が維持されると考えられる。
一方、時計ニューロンのChiは長期記憶には関与していなかった。この結果は、時計ニューロンで発現するApには、Chiに依存しない未知の機能の存在を意味している。
坂井らは、長期記憶における時計ニューロンの役割を明らかにするために神経活動を抑制する実験を行ったところ、長期記憶を固定化できなくなることが分かった。そこで、最新のex vivoイメージング技術を利用して解析した結果、時計ニューロンのApは抑制性の神経伝達物質GABAに対する反応を抑えており、長期記憶を固定化するためには時計ニューロンの活性が低下しないように調節する必要があることが分かった。
同本研究により、Apには発現する細胞ごとに異なる機能があり、それらを併用して長期記憶の固定化と維持を制御している実態が明らかになった(図2)。
ヒトを含む哺乳類にもapと同じ遺伝子が存在し、記憶に重要な海馬という脳領域で発現している。今後、哺乳類のap遺伝子の研究が、ヒトの記憶メカニズム解明の手掛かりになる可能性がある。
加齢性の記憶障害では新しい記憶を固定化できず、すぐに忘れてしまうという弊害が問題となる。その一方で、脳で固定化された長期記憶は簡単に忘却されず消去が困難であるため、トラウマ記憶のようなネガティブな記憶が残り続けてしまうという問題が生じる。
長期記憶はいかにして固定化され、維持されるのか。その仕組みが明らかになれば、長期記憶の固定化を促進して加齢性記憶障害を緩和することや、トラウマ記憶を維持させずに消去することができるようになるかもしれない。同研究成果は、将来的には医療、ヘルスプロモーション、アンチエイジング等の分野への貢献が期待される。
なお、同研究は、日本学術振興会科学研究費補助金(21H02528)、文部科学省科学研究費補助金新学術領域研究「シンギュラリティ生物学」(21H00434)、および住友電工グループ社会貢献基金の支援を受けて行われた。