[飛鳥(飛鳥文化)・奈良(白鳳*・天平文化**)時代]
*藤原京(694-710:16年間)で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化である。**729年が天平元年
大和時代の後、[飛鳥時代⇒奈良時代(藤原京⇒平城京⇒長岡京)⇒平安時代(平安京)]の時代の流れは遷都とともに、政治の中心も[難波⇒・河内⇒・飛鳥⇒・奈良⇒・京都]へと徐々に移っていく。その間、大和朝廷の律令国家としての体制も徐々に形作られ、仏教伝来と共に医療文化の入ってきたことが散見出来る。また、この飛鳥時代・奈良時代は、[飛鳥文化、白鳳文化、天平文化] の古代日本の3つの文化が花咲き華やかに日本文化が形創られた時代でもある。このことから、それぞれの文化の特徴やその違いについて少しまとめてみる。
♪ただし、歴史を繙くうえにおいて、発祥時期や出来事の内容等についてはいろんな情報があるので詳細は、他の書籍等をお読みいただき、ご自身でご判断してお考えいただきますようお願いします。よって、この項目では、得られた情報を基に、「くすり文化」に関わる事について考察することをご了承いただき、記事内容については、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。
【飛鳥・奈良時代(592~794)の「飛鳥文化、白鳳文化、天平文化」について(5)】
1.飛鳥文化(あすかぶんか)について
飛鳥文化:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に「仏教渡来から大化の改新まで」をいう。
朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。
[仏教寺院]:四天王寺[難波(大阪)。『日本書紀』によれば聖徳太子の発願により593年(推古天皇元年)に建て始められた。飛鳥寺とともに、日本最古の本格的仏教寺院の1つである。] 飛鳥寺(法興寺)[崇峻朝の588年(崇峻天皇元年)に着工され、596年(推古天皇4年)に完成した。蘇我馬子が造営の中心になった。寺司(てらのつかさ)は馬子の長子・善徳。日本で最初の本格的な寺院で、氏寺であるが、蘇我系王族の強い支援のもと、官寺としての性格が強い。] 百済大寺[舒明天皇により639年(舒明天皇11年)に建立され、舒明の没後、妻の皇極天皇、子の天智天皇によって継承された、最初の天皇家発願の仏教寺院である。] 広隆寺(蜂岡寺、秦公寺)[…秦氏の氏寺。] 善光寺(定額山 善光寺)[皇極天皇元年(642年)に三国渡来の一光三尊阿弥陀如来が現在の地に遷座、皇極天皇3年(644年)皇極天皇の勅願により本堂を創建。] 坂田寺[…南淵(みなみぶち、明日香村)。奈良時代の建物基壇などが発掘されているが、飛鳥時代の遺構は見つかっていない。] 豊浦寺(とゆらじ)
[彫刻]:
飛鳥大仏[仏像の材質は木造(ほとんどがクスノキ材)と金銅造(銅製鍍金)がある。代表的遺品として下記がある。] 飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)[-鞍作止利の作(頭部と指の一部が現存)] 法隆寺金堂釈迦三尊像[-鞍作止利の作] 法隆寺夢殿救世観音像、法隆寺百済観音像、広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像:中宮寺半跏思惟像(弥勒菩薩・寺伝は如意輪観音)
飛鳥寺本尊、法隆寺金堂釈迦三尊像などに代表される様式を止利式といい、杏仁形の眼、仰月形の鋭い唇、アルカイック・スマイル、左右対称の幾何学衣文、正面観照性の強い造形などを特徴とする。かつては、止利式の仏像が北魏様式、法隆寺百済観音像などにみられる様式が南梁様式(南朝様式)とされたこともあった。しかし、南朝の仏像の現存するものが少ないこと、日本へ仏教を伝えた百済と北魏とは相互交流が乏しかったことなどから、止利式を北魏様式、百済観音を南朝様式、と明快に割り切ることは疑問視されている。
[その他の遺物]:繡仏
三経義疏(御物)[-仏教に深く傾倒した聖徳太子の著作・自筆といわれている。] 天寿国繡帳(中宮寺蔵)[- 銘文中の「世間虚仮、唯仏是真」(せけんこけ、ゆいぶつぜしん)という言葉は、聖徳太子の晩年の心境をよく窺うことが出来るとされている。] 染織品[-繡仏、錦などが伝世している。] 飛鳥の石造物[-飛鳥地方に存在する猿石、酒船石、亀石、橘寺の二面石などと呼ばれる石造物。信仰関連の遺物と考えられている。]
[その他の文化]:百済の僧・観勒が暦本と天文・地理の書を献じた。高句麗の僧・曇徴が来朝した。絵具や紙、墨を作ったとされるが、日本における創製者かどうかは定かでない。
[飛鳥の宮室]:豊浦宮[-蘇我氏の氏寺であった豊浦寺を改修して宮とした。推古天皇] 小墾田宮[-後の宮殿の原型となる。603年、推古天皇遷る。] 飛鳥板葺宮[-643年、皇極天皇即位 645年、大化の改新] 後飛鳥岡本宮[-壬申の乱の直後に天武天皇遷宮、斉明天皇] 飛鳥浄御原宮[-内郭・外郭を持ち、内郭が北・南区画に分かれ、北区画に宮殿、南区に朝堂と南門を持つ。]
2.白鳳文化(はくほうぶんか)について
白鳳文化:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。
特色:7世紀の終わり頃完成した、古代の都で最大の規模を誇り、条坊制を布いた本格的な中国風都城の藤原京を中心とした天皇や貴族中心の華やかな文化であった。
飛鳥浄御原令や大宝律令が制定され、本格的な国家が始動し始めた頃でもあった。律令国家建設期の若々しい文化で、仏教文化を基調とする。
初唐文化の影響や朝鮮半島、インド、西アジア、中央アジアの文化が影響した。
天武天皇・持統天皇の時代が中心だが、一部その前の天智天皇・弘文天皇時代を含む部分もある。
律令の制定:中国大陸の高度な文明制度を取り入れて、本格的な国家が誕生した。
飛鳥浄御原令:大宝律令は、701年(大宝元年)に完成し、直ちに施行された。
建築:藤原宮の内裏(だいり)と朝堂院(ちょうどういん)[-現存せず] 大官大寺(だいかんだいじ)[-金堂跡と塔跡の土壇などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して大安寺となる。] 本薬師寺(もとやくしじ) [-金堂跡、東西の塔跡などが残るのみで、建物は現存せず。寺は平城京に移転して薬師寺となる。] 山田寺(浄土寺)[桜井市山田にある。蘇我倉山田石川麻呂が発願して倉山田家の氏寺として建立した寺である。] 法隆寺西院伽藍[-飛鳥様式で白鳳時代に再建された。] 法隆寺東院伝法堂[-白鳳時代の住居を寺とした。] 薬師寺東塔[-白鳳様式で奈良時代初期に再建された。]相模国分僧寺[海老名市国分に所在し、南側の中央の中門から回廊を北側の中央の講堂にめぐらし、回廊の内側に東西に金堂と塔が配置された法隆寺式伽藍であり、出土瓦には白鳳様式の瓦が使われている。このことは国分寺造営の詔が出された天平13年(741) より以前に建てられた郡司の氏寺を改修して国分寺としたのではないかと推定されている。]
彫刻:薬師寺金堂銅造薬師三尊像、薬師寺東院堂銅造聖観音立像、深大寺銅造釈迦如来倚像、法隆寺銅造阿弥陀三尊像(伝・橘夫人念持仏)、法隆寺銅造観音菩薩立像(夢違観音)、
興福寺仏頭(もと山田寺講堂本尊・薬師三尊像の中尊の頭部)、蟹満寺銅造釈迦如来坐像
絵画:法隆寺金堂壁画、高松塚古墳壁画、キトラ古墳壁画 工芸:薬師寺金堂薬師如来台座 古墳:高松塚古墳、キトラ古墳 文芸:漢詩文の隆盛 – 大津皇子、和歌の整備 – 額田王、柿本人麻呂 暦:元嘉暦、儀鳳暦 関連項目:日本の文化、飛鳥時代
3.天平文化(てんぴょうぶんか)について
天平文化:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天平文化(てんぴょうぶんか)は、時期では8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。
平城京には碁盤の目のような条坊制が布かれた。そこには多くの官衙(役所)が立てられ、貴族や庶民の家が瓦で葺き、柱には丹(に)を塗ることが奨励された。また、飛鳥に建てられた大寺院が次々と移転された。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」と歌われた平城京が出来上がった。
聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を一部ずつ置くことにした。その総本山と位置づけられる国分寺・総国分尼寺が東大寺、法華寺であり、東大寺大仏は、鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。
代表的な仏教建築:唐招提寺金堂、講堂[-講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したもの。] 唐招提寺経蔵、宝庫[-長屋王邸の遺構で正倉院より古い。] 薬師寺東塔[要出典][-平城京遷都後、白鳳様式で建立された天平建築とするのが通説だが、本薬師寺からの移建説もある。従って移建説に従えば、白鳳建築。] 東大寺法華堂(三月堂)、転害門、正倉院宝庫(校倉造)、法隆寺東院夢殿、栄山寺八角堂
詩歌:『万葉集』 、代表的な歌人:大伴旅人・大伴家持・山上憶良『貧窮問答歌』・山部赤人
彫刻:
東大寺の造営を管轄する役所である造東大寺司のもとで官営の造仏所が整備され、多数の工人によって仏像制作が分業的に行われていた。一方、都には民間の仏像制作工房:私仏所があり、また僧侶で仏像制作を行う者もでてきた。指導的仏師としては、東大寺大仏の責任者:国中連麻呂、興福寺の十大弟子八部衆制作の将軍万福などが記録に残っている。 東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、天平時代の部分は台座、脚部などごく一部)に代表される金銅仏のほか、乾漆像や塑像が主流であり、金像銀像、石仏も制作され、塼仏、押出仏の制作も盛んであった。
乾漆像:興福寺八部衆立像(阿修羅像など)、十大弟子立像、聖林寺十一面観音立像
唐招提寺金堂盧舎那仏坐像、鑑真和上坐像、東大寺法華堂(三月堂)不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像
塑像:新薬師寺(奈良市)十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)、東大寺法華堂執金剛神立像、日光菩薩・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像、東大寺戒壇院四天王立像
工芸品:正倉院宝物(楽器、調度品など)関連項目:奈良時代、天平、聖武天皇、行基、鑑真、遣唐使
【飛鳥・奈良時代(600~794)での「くすり文化」に関係する事柄(6-21)】
一方、この飛鳥・奈良時代(600~794)での「くすり文化」に関係する事柄としては、 (1)四天王寺に四個院(施薬院、療病院、悲田院、敬田院)が併置されたこと、(2)推古天皇の薬狩り、(3)遣隋使、遣唐使を通して、正倉院に現存する薬物(正倉院薬物)や隋、唐の医学書・薬物書が渡来したこと、(4)漢方薬物の名称を書いた七世紀末ごろの木簡がみつかったこと、(5)医疾令(医薬制度)が制定されたこと、(6)陀羅尼助(役の行者によるもの)、奇効丸(南都唐招提寺によるもの)、豊心丹(西大寺によるもの)等の施薬 など多くある。また、そのほかにも(7)①薬師寺の吉祥天女像の手に乗っている薬の壷であること(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬:このように仏教の受容は群臣に可とされて、広まると、多くの仏のなかでも薬師如来を信仰するものがふえた。「薬師如来本願功徳経」によると、薬師は一二の大願をたて、衆生の病いをいやし、寿命をのばし、多くの災いをのぞき、衣食を満足させることを誓願して、それを成就して仏陀となったという。その大願のうち第七願が医薬を得ることができない人たちへの救済である。したがって薬師像には左手に薬壷をもつことが多い。) ②法隆寺伽藍縁起並流記資材帳には薬物の名前が記されていること ③正倉院の書物からは施薬院の言葉が記載されていること ④太宝律令には内薬司(うちのくすりのつかさ)や典薬寮(くすりのつかさ)が記載されていること、全国各地に薬草の生産を割り当て、都に集めるシステムが作られたこと などが挙げられる。
(1)四天王寺に「四個院(施薬院、療病院、悲田院、敬田院)」が併置されたこと
【聖徳太子が四個院を作った】
四天王護国之大寺:6世紀「なにわ、あすか、やまと」の中で部族闘争が繰り返されていたが、6世紀末になって、聖徳太子(574~622)が物部氏との戦いに勝ち、その勝利を記念して建立したと伝えられる。その頃 内外共に戦乱の絶えないときであったので四天王を祭り、国防を意味して四天王護国之大寺という正式名称が付けられている。
7、8世紀になると大和王朝が国内を統一し、さらに中国・朝鮮半島の国々とのの交流が増えていく。その頃、大阪市港区、浪速区も海で四天王寺西門のすぐ前には波が押し寄せていた。隋からの使節が大阪湾から入ってきた時、目の前に四天王寺の七堂伽藍をみせて日本の文化の高さを誇っていたと考えられる。又、外国使節の接待に使われ、外交上重要な建物としての役割を果していたと考えられる。
日本書記によれば、第30代敏達天皇14年(585)「国に疾病起こりて、民死ぬ者多し」又「瘡出でて、死ぬもの、国に満てり」とあるように、国は極度の貧困に陥り、多数の餓死や病人が居た。聖徳太子はこの惨状を救う為、四天王寺境内に施薬院・療病院・悲田院・敬田院を作った。「御手印縁起」によれば四個院のそれぞれの機能は次のように書かれている。
施薬院:是れ一切の芝草・薬物類を植え生さしめて、方に順いて合薬して、各の所業に随いて、普く以って施与せしめん
療病院:・・・・病める比丘においては、相い順いて(したがいて)療冶して、禁物の蒜・宍・願薬せん所に任せて服せしめ、いえ癒えしめん・・・
悲田院:是れ貧窮・孤独・丹己・無頼を寄宿せしめ、毎日世話をし、飢餓させてはいけない。
敬田院:悪を捨て、善を修め、仏に帰依する修行の場
これらの記述は日本書紀にはないが、このような医療システムは中国からの渡来人や文献から学んだもので、わが国での最初に行なわれた“貧民と病人に対し、薬と食と住と職を与える壮大な計画”であり、又、最初に考えられた医療文化を示すものとして非常に興味深い。即ち、休ませ、食べさせ、薬を与え、働かせる、という一連の行為は病人を元気にして、社会復帰が出来るまで、生きる為の技術の教育まで行なうシステムで、21世紀の社会にも通じる理念が含まれている。
[四箇院]:聖徳太子により建てられた*四天王寺の四箇院のひとつである「施薬院」として推古天皇元年(593)に、聖徳太子によって建立された。
[in 2:四天王寺に今も生きる聖徳太子の理念 ~ 上町台地(阿倍野 … smtrc.jp › town-archives › city › uemachidaichi ]
(2)薬狩り:仏教のもとでは4つ足の動物の肉を食べるのは禁じられていたが、鹿の角を薬とする以外、鹿は当時最高の蛋白源であったと考えられる事から、薬を採集するという名目で鹿狩りが行なわれたと考えられる。
*推古天皇の薬狩り:日本書紀には、推古天皇が現在の宇陀地方で薬狩りをされたという記述(611年)があります。当時、獣狩りをされようとした推古天皇を、皇太子がお諌めし、中国の風習に倣って、代わりに「薬狩り」をするように進言し、聞き入れられたとのことです。その後も、朝廷と薬物の関わりは深く、藤原京(694~710)跡からは、薬物のことを記した木簡(薬用人参等25種)が出土しています。(in 奈良と薬の古い関係)
*仏教伝来(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):五三八年には百済から仏像と経論が伝えられ、正式に仏教が将来された。仏教の急速なひろがりは、知的なくらしの向上を促進させた。五五三年になると、百済に医・易・経博士の上番を求めた。翌年(五五四年)には五経博士が来航した。医法や薬法の専門家が、それらを普及させたのである。さらに五六二年には薬方書などが伝えられた。
(3)遣隋使、遣唐使を通して、正倉院に現存する薬物(正倉院薬物)や隋、唐の医学書・薬物書が渡来したこと
正倉院:律令制度は大和朝廷を中心とした貴族社会を築くために、隋・唐の制度を真似て作られたものである。貴族社会を安定させる為には医文化が出来ていなくてはならなかった。殊に、当時、干害・疫病・飢饉が後を絶たず、医療制度の確立が急務であったと考えられる。
758年宮中から東大寺に奉納された「薬物の目録」が残されている、これを昭和30年薬学の調査が行なわれ、現存している薬物、容器の写真と共にその成果を『正倉院薬物*』という本にした。これは光明皇后の東大寺御祈祷に際し600点の御物が奉納され その中に薬品60種が含まれて居る。光明皇后の御祈祷の中に「60種薬は東大寺堂内に安置し、仏にお供え致します。もし病苦によって薬を必要な者がいるなら、申し出て、用いる事を許します。心からお祈りする事はこの薬を飲む人々は万病悉く除かれ、千苦皆救われ・・・・」とある。記録によれば、その年、人参50斤が施薬院に施与されている。以後100年に亘って勘定書が残されているが、宮中に奉納された薬物をその後の天皇が東大寺に御祈祷の御物として奉納し、施薬院で使われるシステムが出来ていたのでは無かろうか。
*正倉院の薬物(in奈良県薬業史通知史 第一章大和売薬の歴史敵基礎1古代の医薬):七五六年(天平勝宝八)六月一二日は聖武天皇の七七忌である。この日、皇太后光明子と娘の孝謙天物皇は聖武天皇遺愛の品灸を東大寺に寄進した。献納品のなかに薬物があり、目録が付けられていた。「奉盧舎那仏種々を薬帳」でみられるとおりであるが、その薬物はあわせて六○種で、二一の漆柵に納められている。
*正倉院薬物「種々薬帳」に記載されている60種類の薬物:
in薬草に親しむ-正倉院に伝わる薬物60種のリスト種々薬帳 …www.eisai.co.jp › herb › familiar › shujuyakucho
*「種々薬帳」に記載されている60種類の薬物 (◎印=植物性生薬、△=動物性生薬、□=鉱物性生薬、◆不明) | ||
(1) | △ | 麝香(ジャコウジカの雄の香のう分泌物) |
(2) | △ | 犀角(サイカク・インド産クロサイの角) |
(3) | △ | 犀角(サイカク・インド産クロサイの角・犀角の記載2つあり) |
(4) | △ | 犀角器(サイカクキ・犀角でつくった盃) |
(5) | □ | 朴消(ボウショウ・含水硫酸ナトリウム) |
(6) | ◎ | (ズイカク・バラ科の成熟した果実の種子) |
(7) | ◎ | 小草(ショウソウ・中国産の遠志をいうが現存品はマメ科植物の莢果) |
(8) | ◎ | 畢撥(ヒハツ・インド産ナガコショウ) |
(9) | ◎ | 胡椒(コショウ・インド産コショウ) |
(10) | □ | 寒水石(カンスイセキ・方解石(炭酸カルシウムの結晶)) |
(11) | ◎ | 阿麻勒(アマロク・亡失したがコショウ科アムラタマゴノキの果実と考えられている) |
(12) | ◎ | 菴麻羅(アンマラ・トウダイグサ科アンマロクウカンの果実片、種子) |
(13) | ◎ | 黒黄連(コクオウレン・現存) |
(14) | △ | 元青(ゲンセイ・亡失のため不明) |
(15) | ◎ | (セイショウソウ・亡失) |
(16) | ◎ | 白及(ハクキュウ・ラン科シランの球根) |
(17) | □ | 理石(リセキ・繊維状石膏・含水硫酸カルシュウム) |
(18) | □ | 禹余粮(ウヨリョウ) |
(19) | □ | 大一禹余粮(ダイイチウヨリョウ) |
(20) | □ | 竜骨(リュウコツ・哺乳動物の骨の化石) |
(21) | □ | 五色竜骨(ゴシキリュウコツ・化石生薬・亡失) |
(22) | □ | 白竜骨(ハクリュウコツ・化石鹿の四肢骨) |
(23) | □ | 竜角(リュウカク・化石鹿の角) |
(24) | □ | 五色竜歯(ゴシキリュウシ・ナウマン象の第三臼歯) |
(25) | □ | 似竜骨石(ニリュウコツセキ・化石生薬 化石木) |
(26) | ◎ | 雷丸(ライガン・サルノコシカケ科ライガン菌) |
(27) | ◎ | 鬼臼(キキュウ・ユリ科マルバタマノカンザシの根茎・現在はメギ科ハスノハグサ) |
(28) | □ | 青石脂(セイセキシ) |
(29) | □ | 紫鉱(シコウ) |
(30) | □ | 赤石脂(シャクセキシ) |
(31) | □ | 鍾乳床(ショウニュウショウ) |
(32) | ◎ | 檳榔子(ビンロウジ・ヤシ科ビンロウの種子) |
(33) | ◎ | 宍(肉)縦容(ニクジュヨウ・ハマウツボ科ホンオニク) |
(34) | ◎ | 巴豆(ハズ・トウダイグサ科の種子) |
(35) | ◎ | 無(没)食子(ムショクシ) |
(36) | ◎ | 厚朴(コウボク・現在はモクレン科ホウノキ属だが現存品は別物のようである) |
(37) | ◎ | 遠志(オンジ・ヒメハギ科イトヒメハギの根) |
(38) | ◎ | 呵(訶)梨勒(カリロク・カラカシ・シクンシ科ミロバランノキの果実) |
(39) | ◎ | 桂心(ケイシン・クスノキ科ニッケイの樹皮) |
(40) | ◎ | 芫花(ゲンカ・フジモドキの花蕾) |
(41) | ◎ | 人参(ニンジン・ウコギ科コウライニンジンの根) |
(42) | ◎ | 大黄(ダイオウ・タデ科ダイオウの根茎) |
(43) | △ | 臈蜜(ミツロウ・トウヨウミツバチの蜜蝋) |
(44) | ◎ | 甘草(カンゾウ・マメ科カンゾウの根) |
(45) | □ | 芒消(ボウショウ・含水硫酸マグネシウム) |
(46) | ◎ | 蔗糖(ショトウ・イネ科サトウキビの茎から得られる、いわゆる砂糖) |
(47) | □ | 紫雪(シセツ・鉱物八種の配合剤) |
(48) | ◎ | 胡同律(コドウリツ・樹脂の乾燥物) |
(49) | □ | 石塩(セキエン・塩化ナトリウム) |
(50) | △ | (イヒ・ハリネズミの皮) |
(51) | △ | 新羅羊脂(シラギヨウシ) |
(52) | ◎ | 防葵(ボウキ・現在はツヅラフジ科シマサスノハカズラだが亡失のため不明) |
(53) | □ | 雲母粉(ウンモフン) |
(54) | □ | (ミツダソウ) |
(55) | □ | 戎塩(ジュエン) |
(56) | □ | 金石陵(キンセキリョウ) |
(57) | □ | 石水氷(セキスイヒョウ) |
(58) | ◆ | 内薬(ナイヤク・亡失して不明) |
(59) | ◎ | 狼毒(ロウドク・亡失して不明だが、サトイモ科クワズイモの根茎、トウダイグサ科マルミノウルシの根、ジンチョウゲ科の根などが考えられている) |
(60) | ◎ | 冶葛(ヤカツ・断腸草あるいは胡蔓藤のクマウツギ科) |
「奉盧舎那仏種々を薬帳」:in奈良と薬の古い関係、東大寺正倉院-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6