[古代都市・難波の歴史的背景]
難波はいつ頃から、こうした都市としての様相をみせるようになったのだろうか。都市としての難波の歴史を 考えるとき、まず挙げなければならないのは上町台地の存在である。上町台地とは、現在の大阪でいえ ば、天守閣のかまえる大阪城公園付近から四天王寺のある南の方角へと伸びる、長さ約二一キロメートル 、幅約二~二・五キロメートルの細長いw丘陵である。古代の難波は、この上町台地を中心とした一帯であった。上町台地は、現在は陸上部にある高台だが、今から5000年前の縄文時代には、その西側はもちろん、東側も生駒山麓に至るまでの広大な地域が、一面の海(河内湾)引であった。つまり、上町台地はかつて、海の中に突き出した半島だったのである。その河内湾がやがて、淀川と大和川の二大水系の運ぶ泥と水により、淡水の湖となり、さらには沼沢となっていく経緯は、小松左京氏の原稿に詳しい。また、台地の東北端に「森の宮遺跡」と呼ばれる縄文期から歴史時代に至る貴重な複合遺跡があり、そこで発見された貝塚の層を見ると、海から湖へというダイナミックな地勢の変遷過程を知ることができる。 このように上町台地は、海、湖、川などの水系に固まれた大阪平野にあって、太古の昔から人聞が居住できる安定した高台を構成していた。それだけにしばしば、古代史の重要な舞台ともなった。その中でも、難波の都市化を推察する上で注目されるのは、次のような『記』『紀』の伝承である。
「天皇難波に幸して大隅宮おおすみのみやに居ます」(応神朝)「難波に都つくる。これを高津宮たかつのみやと謂ふ」(仁徳朝)応神、仁徳という強大な勢力を誇った王権が、いずれも難波に宮殿を構え、仁徳天皇に至っては都を置いたとする伝承は、難波がほかとは異なる特別の地であったことを示唆している。この解釈をめぐり、歴史学の分野では「難波王朝」や「河内王朝」の存在が論争の的となってきた。大隅宮と高津宮については、場所はまだ特定されていないが、どちらも上町台地上にあったといわれている。
一方、交通の要衝としての難波の歴史も古い。水に固まれた地の利から、台地の沿岸部には榎津、住吉津、難波津などの港が早くから聞かれた。とりわけ難波津は、政治的に重要な位置を占め、外交関連の施設が数多く建設された。『記』『紀』によれば、継体朝には外交上の館舎といわれる「難波館」の存みやけ在が認められ、安閑朝には「難波屯倉」と呼ばれる諸物資を管理する官営の施設があったことが分かる。また、欽明朝には「難波の祝津富」が営まれ、外交上の公的儀式の場とされる「難波大群」した。さらに推古朝には、隋の使者裳世清の一行を迎難波の高麗館の上に新設され、も存在し宅には倉が付いており、豪族たちもこの地に経済活動の基盤の一つを置いていた。とすれば、港を中心とした市井の経済、商業活動もまた、活発に行なわれていたはずである。
難波津を軸として水辺に聞けた難波は、古代にお経済面から見ると、難波津は西国諸国から中央政いてすでに「水都」であり、「商都」でもあったことが想像される。大化改新による難波遷都は、こうした都市的背景を抜きにしては、語ることはできないであろう。
[孝徳朝から天武朝における難波宮] 孝徳天皇の遷都にともなう難波長柄豊碕宮の完成は、白雄三年を構えていたことからも、その一端を知ることがで(六五二)の九月のことであった。その姿を具体的に語る文献はないが、『日本書紀』は「薄く論、すべからず(言葉では表わせないほど立派だ)」と賞賛している。発掘調査による遺構配置などから想像される難波長柄豊碕宮の姿は、日本古来の建築様式に加え、大陸風の都城思想を採用した、従来にみられない画期的な宮殿であった。 大化改新の理想を具体化しようとした中大兄皇子や孝徳天皇たちの、情熱をかいまみることができる。
しかし、難波長柄豊碕宮の首都としての期間は、あまりに短かった。翌年、孝徳天皇と中大兄皇子との意見が対立すると、実権を掌握していた兄鳥ム皇子は皇極上皇を始めとした一族全員を連れて、河辺行宮へと引き揚げてしまった。自らの皇后である間人皇女にまで去られ、一人残された孝徳天皇は、やがて失意のうちにこの宮で崩じている。難波の地はその後も、斉明朝、天智朝を通じて、外交上の拠点として重視されてきた。
たとえば難波津は、遣唐使の発着港として賑い、また半島において百済が唐・新羅の攻撃を受けた折りには、斉明天皇はみずから援軍を率いて難波宮に行幸している。この難波宮は、孝徳朝の難波長柄豊碕宮と同じ宮殿である。その難波宮が、次に重要な役割を担うのは、天武天皇のときであった。壬申の乱に勝利をおさめ、飛鳥浄御原宮において皇位に就いた天武天皇は、難波の経営にも力を注いだ。『日本書紀』によれば、天武六年(六七七)には難波における港湾管理と外交を担当した「摂津職大夫」を新たに任じ、また天武八年難波に「羅城(外郭)」を築いたと(六七九)には、難波に「羅城(外郭)」を築いたとする記事がみられる。・・・(中略)・・・この詔によれば、孝徳天皇や中大兄皇子たちのめざしたものは、中央集権国家にふさわしい整然とした大陸風の計画都市であったといえる。ただし、この詔の内容は、のちの大宝令による潤色である・という説もあり、孝徳朝における難波京の存在はまだ明確にはなっていない。難波京の痕跡をうかがい知るものとしては、難波宮がある。ところがその約二年後の朱鳥元年(六八六)正月、難波宮は致命的な火災に見舞われた。「大蔵省」からの出火によって「兵庫職」を除く宮室の大半が焼け落ちてしまったのである。
さらに、その年の九月に天武天皇も崩御され副都・難波宮の栄華は一場の夢と消えた。孝徳朝の造営から天武朝の焼失までほぼ、三五年。その問、難波宮は改修などの変化は受けたものの基本的には同じ宮殿として機能して発掘調査によって判明している。そこで、両宮を建築的には一つのものと考え、現在は「前期難波宮」と称している。前期難波宮は上町台地に展開された都市形成史の集成ともいえる都・難波の中心となった宮殿であり、また大化改新の理想を具現化した貴重な建築であった。
前期難波宮の復元試案:
[難波宮関係の略年表]
この「難波宮関係の略年表」に示された「難波宮」に関する事項から、奈良時代は遷都を繰り返す中で、「難波宮」の存在の大きさ、重要性がうかがわれる。時代的な流れとしては、「645年、大化の改新、都を難波に移され」、「652年、難波長柄豊碕宮が完成」し、「744年に、難波宮が皇都と定め」られている。その間、まさに「遷都」が「大津宮⇒飛鳥浄御原宮⇒藤原京⇒平城京⇒長岡京⇒(平安京)」成されている。このように、難波宮前期・中期・後期の約150年は「難波宮時代」ともいえるのではないだろうか。
この150年はここ近年での「明治45年、大正15年、昭和63年、平成31年、令和3年」に匹敵する時間的長さである。そう思うと時代が移り変わろうとも各々の時代では特筆すべき出来事(くすり文化に関わることを含め)は起こっているものなんだなと強く思う。
参考資料:
(1)大阪歴史博物館・前期難波宮復元模型
(2)難波長柄豊崎宮 | 地域資源デジタルアーカイブによる知の拠点 …http://digitalarchiveproject.jp ›
information › 難波長柄
(3)難波長柄豊崎宮考http://web.kyoto-inet.or.jp › people › honda5 › osi2
(4)難波長柄豊碕宮 難波宮 https://ryobo.fromnara.com › palace
(5)よみがえる都市の源流 難波宮(後期)の復元 監修:澤村 仁、協力:財団法人大阪市文化財協会、復元:大林組プロジェクトチーム