【後編】第32回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

[文献3]

In 学芸員自然と歴史のたより「幕末のコレラ流行」

横須賀市自然・人文博物館  https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp › archives

学芸員自然と歴史のたより「幕末のコレラ流行」 2020.06.30

 近年、「新型コロナウィルス」の流行によって、世界的大流行(パンデミック)が引き起こされました。今回は、こうした現在の出来事と関連して、江戸時代の日本が経験した伝染病「コレラ」の大流行をめぐる歴史について紹介したいと思います。

 「コレラ」とは、コレラ菌の感染により発症する伝染病で、突然の腹痛と嘔吐、そして激しい下痢の症状を引き起こします。

 日本においては、江戸時代に三度(①文政5年(1822)8月から10月下旬にかけて、②安政5年(1858)夏頃、③文久2年(1862)夏頃)のコレラの流行がありました。いずれも流行時期や死者数には諸説ありますが、まず日本最初の大流行となったのは、①文政5年(1822)8月から10月下旬にかけてといわれています。主に西日本、とりわけ大坂で大きな被害を出しました。二度目の流行は、②安政5年(1858)夏頃のことで、長崎で流行が始まり、7月には江戸でも感染者が出ました。死者は江戸だけで、3~4万人といわれています。コレラ流行下の江戸の様子を記した『安政箇労痢流行記概略』(1858年9月刊)によれば、火葬場(「荼毘所」・「焼場」)からあぶれた棺桶が数限りなく積み上げられて「臭気」が充満し、道には火葬場へ向かう棺桶で行列を成していたそうです。こうした病死者のうちには、『山海見立相撲 相模浦賀』を描いた歌川広重(1797-1858)や書家の市河米庵(1779-1858)が含まれるなど、当時の著名人が多数亡くなりました。そして、三度目の流行は、③文久2年(1862)夏頃で、そこに麻疹(はしか)の流行も加わり、江戸だけで実に23万人以上(7万人とも)の人々が亡くなったとする説もあります。  では、現在の横須賀市域において「コレラ」は流行したのでしょうか。手がかりとして、大田和村(現横須賀市大田和)の百姓(浅葉)仁三郎の記した日記(横須賀史学研究会編『浜浅葉日記(三)』(横須賀市立図書館))から、安政・文久期の「コレラ」流行に関する記事を紹介します。まず安政5年(1858)8月には、村内で「しめ(縄)」を引く準備をしたり、念仏講をひらくことで疫病除けをしています。しかし、仁三郎の身辺にそれほど逼迫した様子は感じられません。ところが、それから四年後の文久2年(1862)7月から8月の記事には、浦賀・大津・長坂・松輪・金田などの近隣村々で「ころり」が流行し、複数の死者が出ているとの伝聞が記されるなど、不安な日々を過ごしていたようです。そうしたところ、ついに仁三郎の身辺にも病魔が忍び寄ります。8月13日には、妻の実家である三ヶ浦(現葉山町)の知人でしょうか、七左衛門(「麻疹之後大病之よし」)、おたせが病死しました。そして翌14日には、七左衛門の妻・おくに、高次郎なる人物も相次いで病死。さらに八日後の8月22日には三ヶ浦の義兄がコレラ(「ころ病」)で病死しています。こうした事態に仁三郎は、「流行のころり、おそろしき事ニ候」(8月14日条)と記しています。仁三郎の日記だけでは、三浦半島全体の被害状況や伝染病の大流行が地域社会に与えた具体的な変化を把握することはできません。しかしながら、文久期におけるコレラ(および麻疹)の流行が三浦半島にも悲惨な被害を与えていたことがうかがえます。  なお、文久期(1861-1863)といえば、坂下門外の変・皇女和宮の降嫁・将軍徳川家茂の上洛・生麦事件とその賠償をめぐるイギリスとの戦争危機(薩摩藩では薩英戦争)など、攘夷(外国人の排斥思想)をめぐる事件が頻発した時期でもありました。洋学者である福沢諭吉(1835-1901)は「(※攘夷論者を恐れて)およそ文久年間から明治五、六年まで十三、四年の間というものは、夜分外出したことがない。」(福沢諭吉『新訂福翁自伝』)と回顧しています。こうした世相ですから、「米艦ミシシッピー号が中国から日本にコレラ病を持ち込んだ」と、伝染病の流行は日本を外国に「開放」したせいだと外国人を敵視する人々もいました(ポンペ『日本滞在見聞記』)。歴史的にみても、伝染病流行後の社会においては排他的な傾向が強くなるのかもしれません。(文献史学担当:藤井)


②安政5年(1858)、江戸におけるコレラ流行の様子
(「荼毘室混雑の図」(『安政箇労痢流行記概略』(国立公文書館所蔵))

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[文献4]

In もうひとつの学芸員室-やまいのこんじゃく

エーザイ株式会社  https://www.eisai.co.jp › museum › curator › mgm  昨年末から今春にかけて重症急性呼吸器症候群SARSの流行で世界中が揺れた。WHOの報告では、昨年11月から本年8月7日までの患者数は8,422人、内死亡数916人(死亡率11%)であるが、幸いにも日本での流行はなかった。
 最近の統計よる我国における死亡率の高い疾病は、悪性新生物、心疾患、脳血管疾患の順であることは良く知られているが、いずれも感染性とは無縁であり、むしろ生活習慣病の延長ともいえる。因みに2000年の癌による死亡は約30万人、総死亡の30.7%を占めた。明治から昭和初期にかけて死因として高かった肺炎、結核、胃腸炎などの感染性疾患は、化学療法剤の出現などで激減した。しかし、現在なお、アフリカ諸国など発展途上国においては、AIDSをはじめ結核、マラリアなど感染性疾患が大きな問題となっている。
 時代を遡り、江戸時代のはやり病ワースト5は、疱瘡(天然痘)、コロリ(コレラ)、はしか(麻疹)、水痘(水疱瘡)、流行性風邪(インフルエンザ)であり、その他、瘡毒(そうどく:梅毒)、結核などの死亡率も高かった。
 疱瘡は『日本書紀』に既に記録がある。飛沫や接触によるウイルス感染で広まった。ジェンナーが種痘を発見したのは、1796年であるが、日本にもたらされたのは1849年以降である。古川柳に、「疱瘡に稚児の着ている緋の衣」と詠われたように、疱瘡にかかった子を赤ずくめにすれば軽くすむと信じられていた。コロリ(虎狼痢)はコレラ菌による激しい下痢と脱水症状で、あっという間に死に至るところからそう呼ばれた。安政5年(1858年)の大流行では、死者10万人~26万人と言われている。はしかは栄養状態の悪い当時では肺炎を併発して死に至ることが多く、伝染力も激しかった。初めて流行したのは奈良時代の737年で、以後20年~30年周期で大流行したという。肺結核は労咳(ろうがい)と言われていたが、病原菌の認識がなかった時代には、一種の心身症と考えられていた。とくに恋煩いが昂じて神経衰弱となり、労咳を誘発すると信じられ、「婿のとりようが遅いと名医云い」という川柳が残っている。
 いずれも治療法が確立し激減したが、現代でも流行するのはインフルエンザである。当時、はやり風邪と呼ばれており、享保元年の大流行では、江戸で1ヶ月に8万人が死んだという。「はやり風十七屋からひきはじめ」・・・十七屋とは飛脚業のことで、全国を走り回っている飛脚が流感も運ぶと皮肉った。
 いずれ、癌なども克服される時代がくると予測される。しかし、その時には、今は知られていない新たな疾病が、ヒトの健康を害し死亡の原因となることもあろう。やまいといりょう・くすりのおっかけっこがつづく。

[文献5]

In 日本を襲った感染症…160年前にコレラを防いだ方法は現代と …

講談社コクリコ  https://cocreco.kodansha.co.jp › TOP › 記事 › 健康・安全

日本を襲った感染症…160年前にコレラを防いだ方法は現代と同じだった

幕末の偉人・関寛斎が実践した消毒&ソーシャル・ディスタンス

2022.12.26  ノンフィクション作家:柳原 三佳

AI による概要:コレラは、コレラ菌が原因で起こる急性細菌性腸感染症で、汚染された水や食物の摂取で感染し、激しい下痢と嘔吐を引き起こします。重症化すると急速な脱水で死に至ることもありますが、適切な水分・電解質補給と抗菌薬治療で回復します。衛生環境が悪い地域で流行しやすく、日本では海外渡航による輸入感染例が主ですが、適切な予防が重要です。

新型コロナウイルスが日本に入って間もなく3年が経過する。
現在、第8波のピークをむかえ、国内の感染者数は累計2500万人を超えた。すでに国民の5人に1人は感染を経験した計算になる。
オミクロン株の新種が現れ、感染者数は前月比で増加傾向にあり、年の瀬に暗い見通しを立てるのは残念だが、この病気が完全に収束することのないまま、2023年を迎えることは必至だ。
そうはいっても、「手指の消毒」や「ソーシャル・ディスタンス」、「三密」……人々の間にこうした新しい生活様式は定着したように思える。
実は、日本において、個人個人が意識改革に取り組んで、病原菌の感染拡大を食い止めたのは、今回の新型コロナウイルスが初めてのことではない。

AI による概要:コレラは、コレラ菌が原因で起こる急性細菌性腸感染症で、汚染された水や食物の摂取で感染し、激しい下痢と嘔吐を引き起こします。重症化すると急速な脱水で死に至ることもありますが、適切な水分・電解質補給と抗菌薬治療で回復します。衛生環境が悪い地域で流行しやすく、日本では海外渡航による輸入感染例が主ですが、適切な予防が重要です。

幕末の日本中で大流行した感染症・コレラ(イラスト:アフロ)

すべての画像を見る(全8枚) 今から160年以上前の幕末、かかれば三日と命が持たないと「三日コロリ」と怖れられたコレラ菌が大流行し、日本中の多くの人が命を落としたのだが、その感染拡大を防いだ医師がいた事実は、あまり知られていない。
驚くべきことに、この幕末の医師の取り組みは、まさに現在、私たちにも根付いた「新しい生活様式」と通じるところが多いのだ。
自身が、幕末に遣米使節としてアメリカに渡った武士・佐野鼎の子孫であり、幕末から明治にかけての出来事を厚く取材しているノンフィクション作家の柳原三佳氏が、関寛斎(せきかんさい)という医師の人生を紹介する。

160年前の幕末・日本で、コレラの大流行から人々を救った偉人がいた
<画・ヤマモトマサアキ(『コレラを防いだ男 関寛斎』著・柳原三佳より)>

【柳原三佳(やなぎはら・みか)】ノンフィクション作家。主な著書に、『自動車保険の落とし穴』(朝日新書)、『家族のもとへ、あなたを帰す 東日本大震災犠牲者約1万9000名、歯科医師たちの身元究明』(WAVE出版)などがあるほか、自らが傍系の子孫にあたる幕末の志士を描いた『開成をつくった男、佐野鼎』(講談社)で歴史ノンフィクションも上梓している。ウェブ記事「交通事故で息子が寝たきりに──介護を続ける親の苦悩と、『親なき後』への不安」で「PEPジャーナリズム大賞」2022特別賞受賞。

新型コロナに苦しむ今だから知っておきたい史実

江戸の終わりにコレラ菌が日本中で猛威をふるい、おおぜいの人が亡くなった──。
この史実そのものは、歴史の教科書で習ったという人も多いことでしょう。
明治時代に入って描かれた風刺画ですが、虎(コ)と狼(ロ)と狸(リ)が合体した化け物に、衛生隊が消毒液を吹きかけているという絵が、教科書に載っていたりします。
突然、身近な人たちが下痢や嘔吐に苦しみだし、「三日コロリ」と怖れられたとおり、あっという間に衰弱死するさまを目の当たりにし、さらに、死者のそばにいた者もまた同じように……という状況にあって、電子顕微鏡もない時代ですから病気の原因が何かを突き止めることなどできません。
そのために、こんな絵で病を表現するしかなかったのでしょう。江戸の人々は、まじないや厄除けのお札で病を追い払おうとするありさまでした。
ひるがえって現在、人類は新型コロナウイルスに立ち向かっている最中にあります。克服するかと思えばウイルスが変異を遂げ、ワクチンで乗り越えられるかと思うと感染者数が前にも増して増えていく……。
おそろしい流行病によって人々が混乱するという経験をしている私たちだからこそ、同じく謎の流行病によって国が大きく乱れた幕末という時代を身近に感じるでしょう。
そして、そのような時代にあってコレラに立ち向かい、当時は「江戸の台所」と呼ばれ、一大食糧基地であった千葉県の銚子への感染拡大を食い止めた医師がいたことに興味を感じるのではないかと思うのです。
その医師の名を、関寛斎(せき・かんさい)と言います。

関寛斎の像(千葉県・東金市/著者撮影)

順天堂病院のルーツで医学を学んだ

関寛斎は、1830(天保元)年、千葉県の九十九里浜にほど近い、山辺郡(現在の千葉県東金市)で農家の長男として生まれました。  3歳のとき母親が突然の病で亡くなり、その後、父親が再婚。母方の実家に預けられた寛斎は祖父母と暮らしていましたが、14歳のとき、亡き母の姉夫婦の養子となります。実母と早くに死に別れ、居場所を転々とした幼少期は、穏やかなものとは言えなかったかもしれません。  寛斎は、養父・関俊輔のもとで学問に目覚めます。  養父は農業で生計を立てるかたわら、「製錦堂」という漢学塾を開いており、村人からは「お師匠さん」と呼ばれ、慕われていました。寛斎は畑仕事を手伝いながら、その塾で学ぶことができたのです。  学びの環境が充実していたことは、寛斎のその後の人生につながるポイントとなります。  そして18歳のとき、「農民としての人生ではなく、西洋医学を究めて医師として歩み、多くの人の命を救いたい」そんな強い意志を抱き、蘭学を教える私塾「佐倉順天堂」(現在の千葉県佐倉市)の門をたたきます。
この私塾こそ、現在、東京・お茶の水にそびえ立つ順天堂病院のルーツとなります。

佐倉順天堂記念館概要:佐倉順天堂は、「千葉県の史跡指定名称」で、江戸で蘭医学塾を開いていた蘭医佐藤泰然が、天保14年(1843)佐倉に移住し開いた蘭医学の塾兼診療所。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中(たかなか)をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出しました。現在、安政5年(1858)に建てられた建物の一部が残っています。記念館では、当時の順天堂で用いられていた医学書や医療器具などを展示しています。

佐倉順天堂記念館(千葉県・佐倉市/著者撮影) ひとたび佐倉順天堂の門下生となれば、上級武士の子息だろうが、農民や町人の出身だろうが、同じ部屋で寝泊まりし、時を惜しんで学ぶことになります。ここでの階級は、身分ではなく、あくまでも個々の努力と実力次第であるという信念が徹底されていました。
そんな実力主義の塾とはいえ、寛斎にとって、そこで簡単に頭角を現すことができたかといえば、そうではありません。
寛斎が生まれ育った地域は、当時は米が思うようにとれない不毛地帯で、順天堂の月謝と寄宿費は、関家の経済力で払える金額ではありませんでした。
学ぶことを可能にしたのは、順天堂の開祖である佐藤泰然が、「やる気と能力のある若者には勉学の機会を与えてやりたい」と、家の奉公人として寛斎に下働きをさせ、その給金で学費等を賄わせるという計らいをしたからだったのです。
そんな泰然の思いに報いるため、診療所の雑巾がけや子守、薬の調合、種痘や手術の手伝いなど骨惜しみすることなく働きながら、西洋医学の勉強に励みました。
ちなみに、当時は麻酔の技術が進んでおらず、寛斎らは、数々の外科手術を麻酔なしで行ったようです。

その手法は、まさに「隔離」「ソーシャル・ディスタンス」 泰然から一目置かれるほど腕の立つ医師に成長した寛斎は、26歳のとき、江戸に次ぐ大都市であった銚子(現在の千葉県銚子市)で病院を任されます。日本一の水揚げを誇る漁港があり、醬油の製造も盛んなこの地は、利根川を使えば陸路より早く物資を江戸に運べるということで、「江戸の台所」とも呼ばれていました。
そして病院に赴任して間もない1858(安政5)年、寛斎は外国から入ってきた恐ろしい感染症に立ち向かうことになります。
当時、日本中で大流行したコレラは、江戸で数万人規模の死者を出すなど、危機的な状況を引き起こしました。
次々と人が死んでいく原因が何なのかわからず、病を恐れた民衆にできることと言えば、邪気を払うために豆まきをしたり、家の前に松の飾りや錦絵を貼りつけたり、獅子舞に舞わせたりすることでした。
非科学的な迷信に何の意味もないと怒りさえ感じていた寛斎は、まず、指など露出しているところを湯で消毒して治療にあたることにし、病人と健康な人とを分けました。

画・ヤマモトマサアキ(『コレラを防いだ男 関寛斎』著・柳原三佳より)

そして、隔離された健康な者にはきれいな水や栄養のある食べ物を与え、病人の呼気や排泄物からできるだけ遠ざけ、身体や居室をとにかく清潔に保つよう徹底しました。
と同時に、祭りなど大人数で集まるような行事をやめさせるため、そうした集まりが病を広めてしまうと民衆に伝えました。
もう、お気づきかと思います。
寛斎のとった方法は、「手指の消毒」であり、「隔離」であり、「ソーシャル・ディスタンス」を徹底することだったのです。
新型コロナウイルスに対する現代の私たちの取り組みと何ら変わらない対応であったことがわかります。

コレラ菌が発見されるより25年も前の出来事 結果は如実に現れました。
江戸とは人の流れも頻繁であったにもかかわらず、銚子はコレラによる死者をほとんど出すことなく、「江戸の台所」としての機能を維持し続けたのです。
関寛斎は、「予防」のための取り組みを徹底させることで、感染症の拡大を見事に抑え込んだのです。
寛斎の活躍がなければ食糧基地が大打撃を受けることになりますから、江戸は復興どころではなかったはずで、その後の維新に少なからぬ影響を与えたのではないでしょうか。
ちなみに、世界で初めて「コレラ菌」の存在が発見されるのは1883(明治16)年のことです。関寛斎は、その25年も前にコレラの予防法や治療法を懸命に学び、恐ろしい感染症から多くの民衆の命を見事に守り抜いていたことになります。
関寛斎はその後、長崎へ留学してオランダ人医師から、さらに最新医学を学びました。戊辰戦争では従軍医師として務め、70歳を過ぎて北海道へと移住し、亡くなるまでの10年間をへき地医療と開拓に捧げ、陸別町で82歳の人生を終えました。

関寛斎の書いた書籍「七新薬」

AI による概要

「七新薬(しちしんやく)」とは、幕末に司馬凌海(しば りょうかい)が長崎で刊行した、当時日本に紹介されたばかりの7種類の新しい西洋薬(ヨード、硝酸銀、酒石酸塩など)について、その薬効や使い方を解説した医学書です。1862年(文久2年)に出版され、日本の近代医学・薬学の発展に貢献した貴重な文献として知られています。

時代は変わっても、人の志は色あせません。
関寛斎が若き日に学んだ「順天堂」は、今も千葉県佐倉市に「佐倉順天堂記念館」として建物の一部を残しており、彼らが使用していた西洋医学の書物や手術道具、医薬品なども展示されています。
晩年を過ごした北海道の陸別町には「関寛斎史料館」があり、寛斎の一生を数々の遺品や資料と共に振り返ることができます。
寛斎ゆかりの地へと足を運ぶことで、目に見えぬ感染症との闘いに四苦八苦した医師の息遣いを感じることができるかと思います。
コロナ禍が続く今だからこそ、幕末に起きた出来事が私たちの心に強く訴えかけてきます。 【著者プロフィール】柳原三佳(やなぎはら・みか)
1963年、京都市生まれ。ノンフィクション作家。主な著書に、『自動車保険の落とし穴』(朝日新書)、『家族のもとへ、あなたを帰す 東日本大震災犠牲者約1万9000名、歯科医師たちの身元究明』(WAVE出版)、『開成をつくった男、佐野鼎』『コレラを防いだ男 関寛斎』(講談社)などがある。また、児童向けノンフィクションに、『柴犬マイちゃんへの手紙』、『泥だらけのカルテ』(ともに講談社)がある。なお、『示談交渉人裏ファイル』(共著、角川文庫)はTBS系でドラマシリーズ化、『巻子の言霊 愛と命を紡いだ、ある夫婦の物語』(講談社)はNHKでドラマ化された。ウェブ記事「交通事故で息子が寝たきりに──介護を続ける親の苦悩と、『親なき後』への不安」で「PEPジャーナリズム大賞」2022特別賞受賞。公式HP https://www.mika-y.com/

参考資料

・「江戸、感染症」で検索した「AI による概要」

・第5回 江戸時代の感染症 日立システムズ  https://www.hitachi-systems.com › report

› specialist › edo

・第2回:江戸時代の「はしか」と令和のアウトブレイク

NurSHARE  https://www.nurshare.jp › article › detail

・学芸員自然と歴史のたより「幕末のコレラ流行」

横須賀市自然・人文博物館  https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp › archives

・もうひとつの学芸員室-やまいのこんじゃく エーザイ株式会社  https://www.eisai.co.jp › museum › curator › mgm

・日本を襲った感染症…160年前にコレラを防いだ方法は現代と …

講談社コクリコ  https://cocreco.kodansha.co.jp › TOP › 記事 › 健康・安全

・「七新薬」で検索した「AI による概要」

*次回のテーマは「江戸時代の感染症とその対応等について-その2」を予定

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