【後編】第20回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

四天王寺西門は浄土への入り口

四天王寺の西の入り口に高さ8.1m、横幅11.8mの大きな石鳥居がある。扁額には釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心と書かれている。神仏習合だ。忍性は叡尊の没後、かつて叡尊が務めた四天王寺別当に就任した。この石鳥居は忍性が永仁2年(1294)に建立した。いまこの鳥居の下を訪日外国人が絶え間なくスーツケースを転がしながら行き来する。大阪観光局の平成29年(2017)末の調査では、訪日外国人の訪問先ランクで、四天王寺は道頓堀、大阪城、USJと並びトップ10に入っている。□□鎌倉時代、四天王寺の西門には病人や社会的困窮者があふれていた。謡曲『弱法師(よろほうし)』、浄瑠璃『摂州合邦ヶ辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』の題材になった俊徳丸が継母に追われて失明し、物乞いになって行き着いたのもここだった。西門が極楽の東門と考えられ、西方浄土への往生を祈る人々が集まった。□□叡尊らの大規模な救済活動の記録として、文永6年(1269)3月の奈良坂・般若寺(奈良市)のケースがある。2千人の病人や困窮者一人ひとりに米一斗、檜笠一つ、むしろ1枚、団扇一つ、針、糸、餅などを与えている。忍性はこの近くにハンセン病などの治療施設「北山十八間戸」を作り、いまも史跡として残っている。叡尊と忍性らは、旧仏教が忌避した「穢れ」に向き合い、社会からドロップアウトした社会的弱者の支援に終生取り組んだ。□□京都橘大学の細川涼一学長は叡尊は庶民の現実を見ており、弾力的な発想をした。病気や身体障害、困窮などが原因で社会から排除され、中世社会の最下層に置かれた人たちに宗教活動を通して不飲酒戒など戒律を授け、規則正しい生活を送るように指導した。いわば今でいう生活改善運動だったといえると話している。

2019年2月、宇澤俊記

≪参考文献≫
 ・長谷川誠編『興正菩薩御教誡聴聞集・金剛仏子叡尊感身学正記』(真言律宗総本山西大寺)  ・細川涼一『日本中世の社会と寺社』(思文閣出版)  ・松尾剛次編『持戒の聖者 叡尊・忍性』(吉川弘文館)  ・松尾剛次『中世叡尊教団の全国的展開』(法藏館)  ・平雅行編『公武権力の変容と仏教界』(清文堂)  ・新修大阪市史編纂委員会『新修大阪市史』第2巻(大阪市)  ・羽曳野市史編纂委員会『羽曳野市史』第1巻本文編1(羽曳野市)  ・平成29年度堺市立みはら歴史博物館特別展図録『河内鋳物師の誇りⅣ』(堺市博物館)  ・創建1250年記念奈良西大寺展図録『叡尊と一門の名宝』(日本経済新聞社)

≪取材協力≫
 ・京都橘大学学長 細川涼一氏  ・真言律宗総本山西大寺宗務長執事長 松村隆誉氏

≪施設情報≫
○ 真言律宗総本山西大寺:奈良市西大寺芝町1丁目1–5 アクセス:近鉄奈良線「大和西大寺駅」南出口より徒歩約3分
○ 石清水八幡宮:京都府八幡市八幡高坊30 アクセス:京阪本線「八幡市駅」下車すぐ)
○ 浮島十三重塔:京都府宇治市宇治、府立宇治公園塔の島 アクセス:京阪宇治線「宇治駅」より徒歩約10分
   高さ15mでわが国最大の石塔の重要文化財。洪水や地震でたびたび倒壊し、現在のものは明治時代末期に発掘され修造され

たもの。
○ 西琳寺:大阪府羽曳野市古市2丁目3–2 アクセス:近鉄南大阪線「古市駅」より東へ約500m
○ 教興寺:大阪府八尾市教興寺7丁目21 アクセス:近鉄大阪線「高安駅」より東へ徒歩約14分
○ 堺市立みはら歴史博物館:大阪府堺市美原区黒山281 アクセス:近鉄南大阪線「河内松原駅」より近鉄バス余部行「大保」

下車すぐ
○ 四天王寺西門:大阪市天王寺区四天王寺1–11–18 アクセス:大阪メトロ谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩約7分
○ 般若寺と北山十八間戸:奈良市般若寺町221 アクセス:近鉄奈良線「近鉄奈良駅」より奈良交通青山住宅か州見台8丁目

行「般若寺」下車

2.豊心丹とは、  西大寺の叡尊(えいそん)の創製(1242年)によると伝えられる薬です。 『金瘡秘伝(きんそうひでん)*』(1578年)によると、その処方は、「人参(にんじん)、白檀(ひゃくだん)、 沈香(じんこう)、畢撥(ひはつ)、樟脳(しょうのう)、縮砂(しゅくしゃ)、丁字(ちょうじ)、木香(もっか)、川芎(せんきゅう)、桔梗(ききょう)、麝香(じゃこう)、無上茶(むじょうちゃ)、梹椰子(びんろうじ)、金箔(きんぱく)、藿香(かっこう)となっています。効能は、「下痢渋腹(しぶりはら)、風気(かぜけ)、頭痛(ずつう)、二日酔い(ふつかよい)、心気(しんき)の疲れ、吐血(とけつ)、下血(げけつ)、小児の疳の虫(かんのむし)、その他 万病に効く」とうたわれていましたが、現在ではほとんど生産されていません。(in奈良に伝わる伝統的な薬 奈良県製薬協同組合 http://www.nara-seiyaku.or.jp › kumiai › traditional)

参考:古くから伝わる処方

in伝統的なくすり | 奈良県製薬協同組合 http://www.nara-seiyaku.or.jp › kumiai › traditional

日本の歴史の揺りかごである奈良県では、古くからくすりの生産が行われてきました。奈良県に縁のある、伝統的なくすりについてご紹介します。

・陀羅尼助

このくすりの創製は、行者・山伏の元祖ともいわれる、役小角(えんのおずぬ)またの呼び名を役の行者と伝えられています。役小角は、茅原の里(現在の御所市茅原)に生まれたといわれており、奈良県にゆかりの深い人物です。□□陀羅尼助は、色々な症状に用いられる胃腸薬で、当時はキハダの皮を煎じ、それに大峰山で採れる薬草を混ぜて作っていたようです。下痢止めと整腸の両方の作用を兼ね備えた、優れたくすりでしたので、宗教的・神秘的な魅了が相まって、次第に広まりました。

ところで、陀羅尼助には、大峰山と高野山の2つのルーツがあるといわれています。すなわち、大峰山においては役小角、高野山においては弘法大師が始祖といわれています。その後、大峰山をルーツとする陀羅尼助は、吉野山や当麻寺においても作られるようになりました。どちらも役の行者のゆかりの地です。□□当初陀羅尼助は、山伏たちの持薬・施薬として用いられたようですが、近世中期になって、売薬として市場に出回るようになりました。□□現在でも、主に天川村洞川と吉野山において製造され、広く親しまれています。

・六神丸

奈良県と特に縁の深いくすりというわけではありませんが、現在の配置薬において、特徴的なくすりの一つです。□□中国ではかなり古い歴史を持つといわれています。六神丸の名称は、中国の六つの神にあやかったものです。その六神とは、方角の神の四神(東の青竜、西の白虎、南の朱雀、北の玄武)に広陳(こうちん)、騰蛇(とうだ)の二神を加えたものです。□□六神丸は、その名にちなんで、たいてい6つの生薬からなる気付け薬です。

強心作用の強いセンソ(蛙からとった生薬)を中心に、各種の高貴薬といわれる希少価値の高い生薬(滋養強壮のものを中心として)が配合されています。センソ以外は、いくつかのバラエティーがあります。

代表的な処方には、以下のようなものがあります。
センソ(蟾酥)、ジャコウ(麝香)、ゴオウ(牛黄)、ユウタン(熊胆)、ニンジン(人参)、リュウノウ(竜脳)[シンジュ(真珠)、ジンコウ(沈香)、レイヨウカク(羚羊角)などと代わる場合もあります。]

ジャコウやユウタンのように、基源動物がワシントン条約によって保護されることになったものもあり、代用の生薬が用いられる場合もあります。□□製剤は非常に小さな粒の丸剤で、多くの場合には金箔でコーティングされています。

・奇応丸

小児用の五疳薬(子供が種々の病気で衰弱したり、呼吸が弱くなったり、神経症状が起きたりしたときに服用する薬)です。□□樋屋家の奇応丸が有名ですが、これは、東大寺の鐘楼の太鼓の中に書かれていた薬方に基づき再現されたものといわれています。処方としては、六神丸からセンソを抜いた構成に似ています。

 *金瘡秘伝(きんそうひでん):一部を示す。

in金瘡秘伝集 国立公文書館 デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp › file

売薬について

in薬の歴史 | 樋屋製薬株式会社・樋屋奇応丸株式会社 https://hiyakiogan.co.jp › content › fukuyo › history

鎌倉時代(1186~1333)から吉野室町時代(1334~1573)を経て、安土桃山時代(1573~1603)に至る約400年間は、戦乱相ついでおこり一般文化は停滞した時代ですが、逆に交通の発達や海外貿易などの影響もあって、商業が大いに盛んになりました。また、幕府の保護政策などもあって仏教は益々盛んとなり、中国大陸を往来する僧侶も多く、仏教の普及とともに、医療技術や薬物書なども数多く輸入されています。この頃もたらされた医薬書の代表的なものが太平恵民和剤局方*30巻(1107)です。この医薬書(一種の配合製剤・適用集)は、中国宋の皇帝が庶民救治のために、30年の歳月を要して諸国の秘薬の処方を選述したもので、のちの日本における売薬(家庭薬、多くは丸剤)の多くは、この医薬書を参考につくられたといわれています。  この時代も医術はやはり主として僧侶の手によって行われています。また、仏教の普及活動とともに、寺院に療病院や施薬院を設けて窮民救済をはかる僧侶もいて、医療や薬(配合製剤)が民間にも及び普及するようになりました。東大寺の”奇応丸”、西大寺の”豊心丹”、平泉寺の”丸薬”などが、鎌倉時代に創製され、室町時代になって広く世に知られるようになったといわれています。僧医田代三喜(1465~1537)が明に渡って医学を学び、帰国後曲直瀬道三(マナセドウサン)らとともに活躍、多くの医薬書を著しています。また、門下から多数の名医が輩出して、日本の近世漢方医学に画期的進歩をもたらしました。

*『太平恵民和剤局方』:in八野芳已:第14回寄稿原稿in 22.9.16(Fri.) くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- わが国の薬の歴史  (2)-3:平安時代(794~1185)での「くすり文化」に関係する事柄2 も参照ください。

「太平恵民和剤局方」(和剤局方)(たいへいけいみんわざいきょくほう)宋・陳師文らの編

宋の国家機密に医療を扱うた太医局があり、医学の学校を兼ねた。1103年その下に太平恵民局という薬師専門の部局が設けられ、医薬の販売も行われた。ここで扱われた処方箋という性格を持っている。現代の薬局方の語源となっている。

in「太平恵民和剤局方」(和剤局方) – 日本薬科大学 nichiyaku.ac.jp https://www.nichiyaku.ac.jp › kampomuseum

参考資料

・人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表 ・第75話 〜叡尊 関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp › web_magazine › osaka100

・フィールドノート:河内の拠点、西琳寺と「女人救済」、蒙古襲来と神国・神風思想、鎌倉の大仏と河内鋳物師、四天王寺西門は浄土への入り口 2019年2月、宇澤俊記

・奈良に伝わる伝統的な薬 奈良県製薬協同組合 http://www.nara-seiyaku.or.jp › kumiai › traditional)

・薬の歴史 | 樋屋製薬株式会社・樋屋奇応丸株式会社 https://hiyakiogan.co.jp › content › fukuyo › history

・金瘡秘伝集 国立公文書館 デジタルアーカイブ https://www.digital.archives.go.jp › file

・八野芳已:第14回寄稿原稿in 22.9.16(Fri.) くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- わが国の薬の歴史 (2)-3:平安時代(794~1185)での「くすり文化」に関係する事柄2
・「太平恵民和剤局方」(和剤局方) – 日本薬科大学 nichiyaku.ac.jp https://www.nichiyaku.ac.jp › kampomuseum

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