【前編】第36回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

(2)-7:江戸時代(1603-1867)-No.7

[江戸時代の病気、治療、くすり-2:薬種商、針聞書]

[文献1]【医療文化の一般への普及】

原著よりそのまま引用していますが図1等は載せていませんので読者の方々で原著をご確認いただきますようお願いします)

近世において庶民の購買力は拡大し消費は多様化していく。そのなかでも合薬(あわせぐすり)は、享保期(一七一六~三六)以来の幕府の薬事政策や、地域における医療文化の形成をうけて一般に普及していくことになる。 合薬とは数種の薬を調合して丸薬や散薬などの形につくったもので、 「神仙巨勝子円」 「地黄丸」などの商品名 をもった。また合薬は売薬ともよばれ、市販を目的としてあらかじめ製造されたものであり、薬種屋で薬種(薬の材料)の販売のほかに必要に応じておこなわれた調剤とは区別される。近世においては富山や大和などの行商による配置売薬が有名であるが、なかでも富山売薬は領主の保護奨励をうけて行商圏を全国に拡大し、 一八世紀後半以降大きく発展した。そのほかの配置売薬も享保期前後から幕末にかけて発展をとげている。一方山中浩之氏は河内の在郷町地域を例として近世の地域医療の展開について検討されている。医療への関心や意識が地域内部で高まったことによって、 一八世紀以降医家の形成や医療活動の展開が当地域にみられた。また同時に薬の需要の増加に対応して薬種屋・合薬屋が多く存在し、特に合薬屋は庶民の医療に直接関わっていたとされる。このような医療文化の一般への普及をとおして、近世中後期には江戸・大坂その他の地域で合薬屋の増加がみられるようになる。本論では一八世紀後半に合薬屋が量的発展をみせていた大坂において、市中・在方の合薬屋の事例をもとに合薬の生産と流通について具体的に検討していくことにしたい。 一 薬種屋・合薬屋の増加と組織化 大坂市中と在方の薬種屋・合薬屋の存在が把握されるようになるのは一八世紀後半である。この頃長崎から大坂 ・京都方面へいたる唐物の取引経路に抜荷による不正流通が増加し、安永八(一七七九)年九月幕府は従来の唐物の取締体制を再編した。大坂の本商人・唐薬問屋・道修町薬種中買仲間*から任命した取締役の監督下に、唐反物間屋・薩摩定問屋をはじめとする唐物関連商人の仲間がおかれ、不正荷物の取締を目的とする流通統制をおこなった。 このとき大坂市中および摂津・河内在方の薬種屋・合薬屋もそれぞれ市中株・在方株に組織化され、取締役の統制下におかれたのである。これまで在方の薬種屋・合薬屋株の名称と位置については平野組以外明らかにされていなかったので図1に示した。組の名称は天明六(一七八九)年段階のものである。これにしたがって以下検討したい。 町続在領の村々には天王寺、北野・福嶋、九条の三組が成立した。市中に近いこの地域では薬種・合薬の供給を必ずしも市中の業者に依存せず、薬種屋・合薬屋が独立して存在していた状況を示している。また摂津の北部には 伊丹、池田、小曽根、多国(能勢)、三田、高槻・茨木、摂津西部の沿岸地域には兵庫、御影、西宮、尼崎の各組が編成された。そして摂津平野郷町を中心とし河内南部まで領域とする、在方株のなかでは最大規模の平野組があった。また北河内には三矢組があり、合計十五組となっている。 天明六年に在方株は幕府払い下げの御種人参の購入を組ごとに請け負っており、その記録「天明六年午在方組御種請負数」に各組の人数が記されている。すなわち天王寺組五二人、北野・福嶋組三六人、九条組一一人、平野組五五人、高槻・茨木組二二人、伊丹組一六「軒」、池田組二O人、小曽根組一二人、三田組一O人、多田組一二人〈ただし兵庫・御影・西宮・尼崎は記載なし)となっている。このように在方株への組織化の前提として、当時摂津・河内の在方で薬種屋・合薬屋が地域ごとに組織化できる程度に増加していた状況があったのである。(in近世中後期における合薬流通 商品流通の一例として  松迫寿代)

[文献2]  inエンサイス㈱、医薬品卸史料館:江戸時代

幕府が売薬を奨励

医薬品が、広く販売されるようになったのは、江戸時代半ばごろで、幕府も民間医療向上のために売薬を奨励しました。売薬製造がさかんになるにつれ、流通が活発となり、薬種(薬の原料)を扱う商人が力を持ちました。幕府は冥加金(税金)を納めたものには営業独占の特権を与えました。江戸では本町薬種問屋組合24軒、大坂では道修町薬種中買仲間124軒が公認されました。

和薬の品質確保に貢献した薬種問屋

薬種には、中国が産地で日本に輸入される「唐薬種」と、日本でとれる「和薬種」の2種類がありました。すべての「唐薬種」は大坂の「唐薬問屋」⇒道修町「薬種中買仲間」⇒全国「薬種屋」との流通経路が一本化されていたため、唐薬種の品質は信用がおかれていましたが、「和薬種」は流通経路が定まらず、贋薬が多く出回っていました。幕府は江戸、駿府、京、大坂、堺の5都市に「和薬改(わやくあらため)会所(かいしょ)」を設立、すべての和薬種は、会所の検査を受けなければ販売できない体制を作りました。薬種問屋は、医薬品の安定供給と品質確保の上で、重要な役割を担っていました。

江戸売薬の広告

薬種問屋

図画所蔵:早稲田大学図書館
参考文献:くすりのまち道修町(道修町資料保存会)
卸薬業五十五年のあゆみ(社団法人日本医薬品卸売業連合会)
概説薬の歴史(天野宏 薬事日報社)
江戸の生薬屋(吉岡信 青蛙房)

[文献3]

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江戸時代の薬屋(薬種屋・売薬)は、漢方薬を扱う「薬種問屋」から、薬を家庭に置く「配置薬(置き薬)」まで多様に発展しました。日本橋本町が薬問屋の拠点となり、富山藩の「反魂丹」が全国へ広まるなど、行商が盛んでした。薬は「百味箪笥(ひゃくみだんす)」に保管され、秤を使わずさじ加減で調合していました。 [1, 2, 3]

江戸時代の薬屋・売薬事情

  • 薬種問屋(薬屋の拠点)
    • 江戸の日本橋本町は幕府公認の薬種問屋街で、薬の匂いが漂うほど賑わっていました。
    • 薬種屋は、漢方薬の原料である「唐薬種(輸入)」や「和薬種(国内産)」を販売していました。
  • 「置き薬」(配置販売業)の始まり
    • 富山藩の「反魂丹(はんごんたん)」が有名で、全国に売薬人が出向く行商スタイルが確立されました。
    • 「先用後利(先に薬を使い、代金は後で支払う)」という画期的な販売システムで、信頼を獲得しました。
  • 薬の調合・道具
    • 薬屋や医師は「百味箪笥」という多くの引き出しがある箪笥に生薬を保管していました。
    • 「薬研(やげん)」という道具で、生薬をすりつぶして粉末にしていました。
  • 主な薬・名薬
    • 反魂丹(はんごんたん): 富山の家庭薬(腹痛など)。
    • 紫雲膏(しうんこう): 湿疹、火傷、痔に効く膏薬(現在も使われている)。
    • 小柴胡湯(しょうさいことう)・葛根湯: 現代でも馴染みのある漢方薬。
    • 目薬: 小田原の目薬が評判でした。
  • 広告とブランディング
    • 薬の名前や効能を記した看板や、店舗の賑わいを描いた「引札(広告)」が出されていました。 [1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8]

江戸時代の薬屋は、現在の製薬会社の基礎となっており、特に日本橋の薬種問屋から現代の巨大製薬企業につながる企業も生まれています。 [1]

[文献4]

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江戸時代の薬屋は、漢方薬(和漢薬)を扱う「薬種問屋」や、一般家庭に薬を配置して歩く「売薬(富山の薬売り)」が中心でした。徳川家康の政策により医薬が発展し、日本橋本町などが薬町として栄え、庶民の間でも「印籠」に薬を入れて持ち歩くほど普及していました。 [1, 2, 3]

江戸時代の薬事情の詳細は以下の通りです。

1. 薬屋の形態と流通

  • 薬種問屋(やくしゅどんや): 原料(生薬)を輸入・販売する問屋。特に江戸の日本橋本町は薬種問屋が集まる中心地でした。⇒ *本町薬種問屋組合24軒、大坂では道修町薬種中買仲間124軒
  • 売薬(配置薬): 富山藩の「反魂丹(はんごんたん)」が有名で、全国を行商して薬を配置し、使った分だけ精算するシステムが確立されました。
  • 薬屋・看板: 街中には「人参大乗円」や「目薬」などを販売する店が立ち並び、看板で効能を宣伝していました。 [1, 2, 3, 4]

2. 薬の種類と内容

  • 和漢薬: 中国伝来の漢方薬や日本産の生薬が中心。慢性肝炎に「小柴胡湯」、風邪に「葛根湯」などが使われていました。
  • 名薬・常備薬: 富山の「反魂丹」、小田原の「目薬」などが人気でした。
  • 薬の保存: 医師は「百味箪笥(ひゃくみだんす)」と呼ばれる多くの引き出しに生薬を保管していました。 [1, 2, 3, 4]

3. 特徴的な文化と道具

  • 印籠(いんろう): 武士が薬を持ち歩くための容器。現代のピルケースの役割を果たしていました。
  • 薬研(やげん): 生薬を細かく砕いたり、磨り潰したりするための伝統的な器具。
  • さじ加減: 医師が秤を使わず、薬さじの感覚で薬の量を調整して処方したことから生まれた言葉。
  • 薬礼(やくれい): 医師の診察と薬の処方に対して支払われた礼銭(現代の診療報酬)。 [1, 2, 3, 4]

この時代に構築された信頼できる薬の流通網や、薬種問屋の組織が、現代の製薬会社の礎となっているケースも多くあります(例:武田長兵衛商店など)。

[文献5]

第1回 日本橋本町はなぜ「くすりの街」になったのか<江戸時代編

LINK-J https://www.link-j.org › interview › post-122

江戸時代の本町薬種商屋      *江戸時代の本町薬品市場之景(江戸名所図会)

【「針聞書」について】

[文献1]

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『針聞書(はりききがき)』は、戦国時代の1568年に鍼立(鍼灸師)の茨木元行によって著された東洋医学の秘伝書です。現在は九州国立博物館に収蔵されています。 [1, 2, 3]

主な特徴は以下の通りです。

  • 「虫」による病因論: 当時は病気の原因が体内にいる「虫(ハラノムシ)」だと考えられており、60種以上のユニークで愛らしい(あるいはグロテスクな)虫の姿がカラーで描かれています。
  • 治療法と鍼の技術: それぞれの虫の特徴と、それに効く漢方薬、そして鍼を打つ位置(ツボ)や打ち方が詳細に記されています。 [1, 2, 3, 4, 5]

その独特でポップなビジュアルから、現在では九州国立博物館ミュージアムショップなどで多くのグッズが販売されるほど人気を集めています。書籍の詳細については、J-CASTの特集ページなどで確認できます。 [1, 2, 3, 4]

[文献2]

AI による概要

『針聞書(はりききがき)』は、戦国時代の永禄11年(1568年)に鍼立(鍼灸師)の茨木元行によって著された東洋医学の書物です。病気の原因は「体内に棲む虫」であると考えられていた時代背景があり、その虫たちの想像図や病状、治療するための鍼灸・漢方薬の処方が記されています。 [1, 2, 3]

主な特徴と内容は以下の通りです。

  • ハラノムシの世界
    体内の五臓六腑に棲みつき、様々な病気や悪さを引き起こす「ハラノムシ(スタマック・モンスター)」の姿が色鮮やかに63種類描かれています。現代の昆虫とは異なり、人間の顔や獣、蛇、爬虫類のような、どこかユーモラスで愛嬌のある姿をしているのが特徴です。 [1, 2, 3]
  • 医学的な処方
    虫たちの生息地(体の部位)や引き起こす症状に加え、それらを退治するための鍼の打ち方や灸を据える位置(ツボ)が詳細に解説されています。 [1, 2, 3]
  • 現代での人気
    現在は福岡県太宰府市にある九州国立博物館に収蔵されています。この書物に登場する虫たちのユニークな姿は、その「キモカワいさ」からぬいぐるみなどの関連グッズや絵本にもなり、幅広い人気を集めています。 [1, 2, 3]

詳しくは九州国立博物館の収蔵品ギャラリーや、九州国立博物館オンラインショップのグ

ッズ紹介ページでその世界観を垣間見ることができます。 [1, 2]

[文献3]

AI による概要

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『針聞書(はりききがき)』とは、戦国時代の永禄11(1568)年に鍼灸師の茨木二介(いばらきにすけ)によって著された医学書です。当時、病気の原因は体内に棲む「虫(ハラノムシ)」の仕業だと考えられており、63種類のキテレツな虫の姿と治療法が描かれています。 [1, 2, 3, 4]

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