【前編】第21回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

(2)-5-4:鎌倉時代(1185~1333)「惟宗具俊:節用本草」「本草色葉抄」、丹波行長:衛生秘要抄」(衛生の初出)

【時代考証】鎌倉時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」などを基にまとめる。

【鎌倉時代(1185~1333年)のくすり文化に関わる主な出来事

1.惟宗具俊:節用本草」「本草色葉抄」について

(第二節 鎌倉・室町時代の本草書・医書)

 『本草和名』・『醫心方』はいずれも唐の典籍を引用しているのであるが、宋代以降の漢籍を引用した和籍本草書が刊行されたのは『本草和名』より三百年以上後の弘安七(1284)年、惟宗具俊(これむねぐしゅん、生没年不詳)が著した『本草色葉抄(ほんぞういろはしょう)』(右図、『節用本草(せつようほんぞう)』ともいう)八巻であった。   

本書は、『證類本草(しょうるいほんぞう)』を主として『本草衍義(ほんぞうえんぎ)』(寇宗奭(こうそうせき)撰全二十巻、1119年成立)・『外臺(げだい)祕要(ひよう)』・『范汪方(はんおうほう)』・『太平聖恵方(たいへいせいけいほう)』・『濟生方(さいせいほう)』・『千金要方(せんきんようほう)』・『千金翼方(せんきんよくほう)』などを参考に編纂したもので、各品の漢名を伊呂波(イロハ)順に配列し、正名によってその異名を知り、異名により正名を考索するのに便利なように編纂され、いっそうわが国の実情に配慮したものとなった。特に、『證類本草』に収載されるものには全てその巻数を記したことで、索引の貧弱な證類本草の索引としても利用できるのが特徴である。しかし、当時の日本の医師たちは漢籍を直接参照することが多かったようであり、『本草色葉抄』はあまり利用されることはなかった。因みに、和本の本草書が本格的に刊行され、広く利用されるようになったのは江戸時代になってからである。

(In 本草学・伝統医学の歴史について−日本(1) odn.ne.jp http://www2.odn.ne.jp › ~had26900 › Honzo_history)

 『本草色葉抄』は惟宗具俊が弘安七年(一二八四年)に撰述した鎌倉時代を代表する本草書である。本書の伝本は少ないが、内閣文庫所蔵の室町中期写本が石原明氏らの解題を付し、昭和四十三年に同文庫より影印出版されて利用可能となった。

 本書は『大観本草』(一一○八年初刊)中に見える薬名の記載巻次の検索を主目的とした、一種の本草辞典である。またそれ以外の薬名についても、本書に先行する『本草和名』(九一八年頃成)から数多く転録する他、独自に各種漢籍より引用している。それらの大多数には出典も記されており、文献名は転録も含め全体で約一四○種に上る。ところで鎌倉時代に伝存、あるいは新たに伝来していた医書を把握しうる史料は少ない。しかし本書の所引文献を解析するならば、当時の情況に光を当てることが可能である。石原明氏の解題もこれに言及するが、わずか三三種(うち医書は二一種)の漢籍を列挙するのみで、誤認も少なくない。

(in『本草色葉抄』所引の医学文献 umin.ac.jp  https://square.umin.ac.jp › mayanagi › paper02 › ishi90

本草色葉抄(1284)は、『医心方』(984)から300年経た後に成立していて、その中には下記の条文がある

本草色葉抄地部
地衣草* 『證』第6巻に、「味苦く、性は平。目をはっきりさせる。地上のこけで、草のようなもの。湿った場所に生える」とある(4)。
地衣* 『證』第9巻の「垣衣」に、「暗く湿った土に陽が当たると、発生するこけである」とある(5)。  文中の『證』は『経史證類大観本草』(1108) をさす。薬名の頭につけられた丸印は原本にあるもので、標準の名称を「●」、異名等を「○」として区別した記号である(6)。ただし、「地衣」の「○」 は、「地衣草」の異名としてつけられものではない。「地衣草」は『経史證類大観本草』の「陳蔵器余」に記された薬物名であり、独立した項目である。しかし 「地衣」は『経史證類大観本草』の垣衣項に付記されたもので、独立した条項がない薬物であった。よって『本草色葉抄』の撰者である惟宗具俊は、垣衣の項から「地衣」を抜抄し、こうしたものにも「○」印をつけて並記していたことがわかる。惟宗具俊は、さらに「地衣草」と「地衣」の生態についての記述も引用し ている(in第6章 日本における「地衣草」と「地衣」umin.ac.jp  https://square.umin.ac.jp › students › kubo › chap6

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*「地衣草」と「地衣」について

In 第5章 医方書・本草書における地衣 umin.ac.jp https://square.umin.ac.jp › students › kubo › chap5

第 5章 医方書・本草書における地衣

 第2・3章では地衣の現存初出記載を考察した。また前章では、韻文や史書において「地衣」が、宮廷などで用いる高級な敷物を意味することを明らかにし た。
 一方、第1章で取り上げた歴代植物学者の「地衣」に対する見解は、コケ植物に相当するというものだった。しかし前章までの検討で、コケ植物に相当すると 考えられる「地衣」の記載は発見されなかった。するとコケ植物と疑われた「地衣」は、中国においてどのような文献に見出され、それはどのような植物なので あろうか。

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1.「地衣草」について
 現在に伝わる医方書・本草書に、「地衣草」と記される植物がある。その最も古い記載は、以下の王燾『外台秘要方』(752年) および陳蔵器『本草拾遺』(739) になると思われる。
『外台秘要方』第21巻20葉
雀目への処方四種…雀目を治す『崔氏』の処方。七月七日と九月九日に地衣草を取り、洗って陰乾しにする。その粉末を酒と混ぜて方寸匕を服用する。一日三服すれば一月で治る。第四巻に記載される(1)。
『本草拾遺』草部
地衣草。味は苦く、体を暖めも冷やしもしない。毒はない。目をはっきりさせる。『崔知悌方』に、「目をはっきりさせる」とある。地上の衣で、草のようなもの。湿った場所に生えたものが良い(2)。

 このように『外台秘要方』『本草拾遺』とも、『崔氏』『崔知悌方』という医方書から「地衣草」による治療法が引用される。「崔知悌」は人名であるが、生没年未詳。唐代高宗の在位期 (650-683) に中書郎という官職に就いたことがわかっている(3)。したがって現段階で「地衣草」の初出は、この『崔知悌方』になると考えられる。一方、『本草拾遺』は完本こそ現伝しないものの、歴代の正統本草書に転載されつづけた。そのため現在『経史證類大観本草』(1108) および『政和新修経史證類備用本草』(1116) に『本草拾遺』の記載が残っている。本稿では、以降この二書を併せて『證類本草』と記す。
 ところで前掲の『本草拾遺』で、「地衣草」は「地上の衣」と説明されていた。この「衣」は、どのような植物をさすのであろうか。植物をさす「衣」の用例は、『荘子』至楽にみえるので、以下に挙げる。なお植物をさす「衣」に下線を引いた。 『荘子』至楽篇
水中に置かれた場合には{斷-斤}という水草となり、水辺の湿地では鼃蠙の衣と呼ばれる青苔となり、陸地に生ずると、オオバコとなる。…(4)
成玄英の疏

鼃蠙*の衣は青苔のこと。水中に生える綿を張ったよ うな生物で、俗に「蝦蟆衣」と呼ばれる(5)。

 この成玄英の注から、「鼃蠙*の衣」は水生生物とわかる。また『荘子』の文で「鼃蠙*の衣」の前後に植物名が挙げられていることから、「鼃蠙*の衣」もある種 の植物と考えられる。一方、『爾雅』と『風土記』(晋代)の佚文には「石衣」「水衣」という植物が記される。
『爾雅』釈草および郭璞注
藫は石衣。郭璞注に、「水苔である。石髮ともいう」とある(6)。

周処『風土記』
石髮は水衣である。青緑色で石に生える(7)

 以上の記述から考えると、「鼃蠙*の衣」「石衣」「水衣」はともに水生植物をいい、おそらく石の表面に着生する藻類をいうのだろう。ならば『本草拾遺』に 記された「地上の衣」という説明は、水生の「衣」に似た陸上植物を意味していると推定できる。さらに「草のようなもの」という説明から、シダ植物 (Pterophytina)やセン綱植物 (Musci) などが考えられるが、確証を得ない。ただし、この地衣草にライケンが含まれる可能性は低いといえよう。

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2.「地衣」について
 『日華子本草』には、「地衣草」と似た名称の「地衣」という植物の記載もある。当『日華子本草』は編者の姓名すら伝わっていないが、成立は10世紀頃と 考えられている(8)。当書も『本草拾遺』と同様に現伝しないが、『嘉祐補注本草』に引用され、それをさらに補増した『證類本草』に以下の佚文が残る。
『證類本草』第9巻 垣衣項
『日華子本草』に…こうある。「地衣は体を冷やし、わずかに毒がある。急性の心痛・消化不良には、垢や皮脂で丸薬にし、七粒服用する。これは湿った地面に日光が当たって生える苔蘚である。生油と 調合して馬反花瘡に塗ると良い」、と(9)。

 上述のように「地衣」も「地衣草」同様、形態に関する記述が乏しく、どのような植物なのか判然としない。しかし地衣が垣衣項に付記され、かつ共に「衣」 の字を含むことから、地衣は垣衣と似た植物だろうと推測される。一方、「垣」「地」の違いについては、以下の『嘉祐補注本草』(1060) の記述が参考になろう。
『嘉祐補注本草』土馬騣項
苔のたぐいの多くは着生する対象で名付けられている。また、効用も異なる。屋根にあるコケを「屋遊」あるいは「瓦苔」と呼ぶ。垣根にあるコケを「垣衣」あ るいは「土馬騣」と呼ぶ。地面にあるコケを「地衣」と呼ぶ。井戸にあるコケを「井苔」と呼ぶ。水中の石や土の表面にあるコケを「陟釐」と呼ぶ(10)。

 以上の「屋遊」「瓦苔」「垣衣」「地衣」「井苔」は各々2文字で構成され、一文字目に着生対象を表す語が、二文字目に属性や形状を表す語が用いられている。したがって、「地衣」の「地」は地面に生えるという意味に相異なく、「衣」はその植物の形態を表しているものと考えることができる。とすれば前節の 「地衣草」も、「地上の衣」とされていたので、「地衣草」と「地衣」は形態・生態が似ているのかもしれない
 さらに『日華子本草』は、「地衣」が「苔蘚」の一種と説明していた。現在の中国で「苔蘚」は日本のコケ植物に相当する分類群 (Bryophyta) をいうが、これは西洋近代植物学の分類概念に対して訳語として用いられた結果なので、古典籍における「苔蘚」をコケ植物だと即断することはできない。そもそも当「蘚苔」はどのような植物をさすのであろうか。

3.「苔」と「蘚」がさす物
 訓詁書や類書における「苔」「蘚」の記載では、現行の『爾雅』に「苔」「蘚」の項はないが、前節に挙げた郭璞注の「水苔」がある。さらに『説文解字』 (100) に、「苔(菭)は水青衣」とあった(11)。これらの苔は「衣」同様、水生植物の一種と考えられよう。さらに『開宝重定本草』(974) の文に、こうある。
『開宝重定本草』第9巻 陟釐項
『別注本』に、「陟釐は石髪のこと」とある。確かに色は苔に似ているが、表面が滑らかでない点が異なる。しかも水苔は体を冷やすが、陟釐は甘みがあり体を 温める。したがって、陟釐と苔はまったくの別物である。池や沢の石に着くものを陟釐といい、水に浮いているものを苔という(12)。
 ここでは「陟釐」と「苔」が同一物か否かが議論されているが、どちらも「苔」を水生生物とみなしている点は一致している。さらに、南北朝梁 (502-557) の蕭綺が輯佚した晋の王嘉『拾遺記』には、黄金色に輝くという「夜明苔」が記載されている(13)。苔という字から考えるとヒカリゴケ (Schistostega pennata) が想起されるが、水面に浮き黄金色に輝くという特徴はむしろヒカリモ (Chomulina rosanoffi) によく似ている。このように、主に隋以前の文献において、「苔」は水生生物だとする記載が多く見出された。したがって「苔」が意味する生物は、コケ植物に 限られたものではなく、藻類も相当含んでいたと考えてよいだろう。
 一方、『通典』(801) に以下の文がある。なお下線は筆者が引いたものである。
『通典』辺防項
鞠国は抜野古の五百里東北にあり、六日間の道程である。鞠国では樹木があるのに草が生えておらず、地面には地苔のみある。羊や馬はいないが、中国で牛や馬を飼うのと同じように家族で鹿を飼う。鹿に車を引かせれば、その力は三、四人分以上ある。人は鹿の皮を身にまとい、地苔を食べる。鞠国では木を集めて家を建て、身分の差にかかわらず同居するという風習がある(14)。

 鞠国はバイカル湖とエルグン川(大興安嶺山脈北西、中国とロシアとの国境沿いに流れる川)に挟まれた地域(現ロシア領)にあたる(15)。すると当地の 人々はツングース系民族だっただろうと推定してほぼ間違いないと思われる(16)。さらにここでいう鹿とは、トナカイのことであろう。一方「(鞠国の人 は)地苔を食べる」と書かれているが、これには疑問が残る。そもそもトナカイの飼育は食用にするためでもあり、人々が「地苔」を主食にしていたとは考えに くい。コケを食べるのはトナカイの特徴であるから、伝聞の過程で人とトナカイが入れ替わってしまったのだろう。トナカイゴケ(Reindeer moss; 図5-2) と呼ばれるライケンはトナカイが好んで食べるコケで(17)、冬場の貴重な餌でもある(18)。つまり、『通典』に記された「地苔」は、トナカイゴケに比定してよかろう。これにより、「苔」がライケンをさす例もあったことが知れよう。

[トナカイゴケについて] ハナゴケ Cladoniaceae ハナゴケ属、別名:トナカイゴケ、英名:greygreen reindeer lichen , reindeer lichen、学名:Cladonia rangiferina (L.) Web.

分類:子嚢地衣類(Ascolichens)、生育形:痂状(顆粒状)~樹枝状、大きさ:高さ 5~12㎝、生育場所:低地~高山の地上、岩上、分布:在来種 北海道、本州、四国、九州、北半球に広く分布、南アメリカにも分布、撮影:昭和の森 04.4.3

日当たりのよい場所を好み、低地ではアカマツ林などの地上に群生することが多く、低地に見られるものは子柄の先端が細く伸びるのが普通。ツンドラ地帯にも生え、冬期のトナカイ(reindeer) の餌になっている。□□基本葉体は顆粒状の痂状(かじょう)、皮層がなく、早期に消滅する。子柄は中空、直立し、高さ50~120㎜、幅0.8~1.8㎜、灰白色~黄色を帯びた白色~まだら又は褐色に汚れ、不同長に繰り返し分枝し、仮軸を形成する。皮層は厚さ約20µm。外髄と内髄があり、共生藻は外髄にある。子器 apothecia は枝先につき、小さく、レキデア型で果殻は炭化しない。胞子は1室、惰円形。スポットテスト 地衣体:K+黄色 , P+橙赤色~赤色。二次代謝物質は アトラノリン、フマールプロトセトラール酸を含む。(In ハナゴケ 花木毛 三河の植物観察 https://mikawanoyasou.org › tiirui › hanagoke)  一方、「蘚」の用例は「苔」に比べ少なく、さらに分かりにくい。晋代の崔豹『古今注』に「苔は紫色や青色の植物。別名、員蘚・緑銭・緑蘚がある (19)」と記されるので、「苔」と「蘚」は意味の通じる部分があったと分かる。「苔」と「蘚」について、陳彭年『大宋重修広韻』(1008) および戴侗『六書故』(1275年前後(20))にはこうある。

『大宋重修広韻』
苔は菭に同じ。また蘚のことである(21)。
蘚は苔蘚(22)。

『六書故』
苔の音は徒哀の切(タイ)。水中に生える苔は、青緑色で髪のようである。海浜に生えるものは、人々がよく取って食べているもので、「陟釐」ともよばれる。 陸上の苔は湿ったところに生え、「蒼苔」とも呼ばれる。

蘚の音は息浅の切(セン)。薄く、まだらな苔を蘚という。人の疥癬(ダニ感染による皮膚病)のようなものだ(23)。
 このように『大宋重修広韻』は苔と蘚を区別しない。しかし『六書故』では、前述の『開宝重定本草』で議論されていた2種類の「苔」に加え、陸上のものも 「苔」と認め、3種類を挙げる。一方「蘚」と「癬」の音符が同じ「鮮」であることに加え、「(蘚は)疥癬のようなもの」との説明もある。第1章で述べた が、西洋でもLichen(ライケン)に皮膚病の意味があった。『六書故』のいう「蘚」はそれに通じ、固着性のライケンをさす可能性があろう。また「蘚」 は「苔」に比べ薄く、まだらであると記される点も、固着性のライケンであるとすれば矛盾はない(図5-3)。ただし、『古今注』や『大宋重修広韻』が 「苔」と「蘚」を明瞭に区別しないことから、「蘚」がライケンに相当する字だとはいいきれない。
 以上の如く「苔」と「蘚」は、ともに実態のはっきりしない植物名を指していた。そこで「苔蘚」は下等植物を広くさす語句と考えておこう。そして『日華子 本草』の本文に立ち返ってみたい。その「湿った地面に日光が当たって生える苔蘚」という説明から考えると、地面に生え、多湿を好む植物と推測できる。とす れば、『日華子本草』に記される「地衣」は、ライケンよりコケ植物に近い生物らしい。

4.『本草綱目』以降の「地衣草」と「地衣」
 前述のごとく、歴代の本草書は「地衣草」と「地衣」を別々に記載していた。ところが李時珍は『本草綱目』(1592) において両者を同一物とみなし、さらに『本草拾遺』土部の「仰天皮」も同一物とし、一つの項目にまとめて記載した(24)。その項目名を「地衣草」とす る。巻頭の目次や附図では「地衣」としている。また、初出文献を『日華子本草』としている。かりに「地衣草」が正しい項目名とするなら、初出文献は『本草 拾遺』(739) か『崔知悌方』でなければならない。こうした混乱を考慮すると、項目名は本来「地衣」とすべきだったといえよう。
 ところで「地衣草」「地衣」の形態・生態については、『嘉祐補注本草』の記載が最後で、歴代の本草書は注を加えてない。この後、「地衣草」「地衣」の形 態・生態について得られる情報は、『本草綱目』初版以降の版本にみられる附図の変化だけである。そこで、「地衣草」「地衣」における図の変化をみてみよう。

 宮下三郎によれば(25)、『本草綱目』の附図には三種類あるという。一つは、金陵(初版)本の附図 (1596) で、時珍の子たちが作成したもの。もう一つは、陸喆という人物が図を新たに描き出版した銭本 (1640) 。残る一つは、許功甫が描いた合肥本 (1885) である。これらの地衣図を比較すると、銭本から図が大きく変わっていることがわかる(図5-4。しかも銭本以降の図は、『本草彙言』(1624) の図と酷似している(図5-5。とすれば、銭本の図は『本草彙言』を参考に描かれた可能性が高い。一方、『植物名実図考』(1848) の地衣図は金陵本の図と同じ4個体が描かれ、形状も似ている。
 さて第1章で、ライケンの訳に「地衣」を採用した最初の書は、『植物学』(1858) であったことを明らかにした。また本章までに「地衣」には主に三つの意味があったことを明らかにしてきた。このうちライケンの訳語になりうるものは、本章 で扱った医方書・本草書における「地衣」しかない。それは明代以降も主に本章の意味でしか用いられておらず、しかも医方書や本草書のみに細々と記載されて いたものにすぎない。したがって李善蘭らがライケンの訳語として「地衣」を援用した書は上述のいずれかになろうが、特定には他の訳語を含めた総合的な検討 が必要である。これは今後の課題としたい。

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