【前編】第19回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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(2)-5-2:鎌倉時代(1185~1333)「お茶について

【時代考証】鎌倉時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」などを基にまとめる。

【鎌倉時代(1185~1333年)のくすり文化に関わる主な出来事

【「お茶の伝来」などの出来事】 「お茶の伝来」などの出来事を時系列にまとめると次のようにまとめられる。(inお茶の歴史Japan Tea Action https://japanteaaction.jp › 日本茶を知る

では、「お茶の伝来」からをもう少し詳しくみてみると、(in日本でのお茶の歴史 お茶百科 http://www.ocha.tv › お茶の歴史) 次のようになるようです。

奈良~平安時代 (710-1192):お茶は、日本が中国の進んだ制度や文化を学び、取り入れようとしていた奈良・平安時代に、遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。□□平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠が近江の梵釈寺において茶を煎じて奉った」と記述されています。これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。お茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。このころの茶の製法は、「茶経*」にある餅茶**であったようです。

茶経*:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

茶経』(ちゃきょう拼音: chájīng、旧字体: 茶經)は、中国代(8世紀頃)の、陸羽によって著された書物である。当時のに関する知識を網羅している。10章3巻。□□概要[編集]:茶を主題にした最古の書物であり、760頃に撰述された。ここで取扱っている茶は、団茶であり、現代日本で飲用されている煎茶抹茶ではない。その内容には、単なる喫茶法を超え、茶道に至る精神性を垣間見ることができる。□□内容[編集]:茶経は次に挙げる10章で構成されている。

上巻:一之源・・・茶樹についての説明 二之具・・・製茶器具の列挙・説明 三之造・・・製茶する際の注意事項

中巻:四之器・・・飲茶器具の列挙・説明

下巻:五之煮・・・茶をたてる際の注意事項 六之飲・・・茶の飲み方など 七之事・・・茶の史料の列挙 八之出・・・茶の産地 九之略・・・省略してよい器具 十之図・・・(茶経の本文を書き出したものを茶の席に掛けておくように勧めている)

茶経(ちゃきょう)

餅茶**:世界大百科事典内の餅茶の言及  in出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

煎茶道】より:…というのは当時の日本の飲茶・喫茶の風習は中国唐代の喫茶趣味の影響を受けたもので,そのとき飲まれていた茶の具体的な内容は陸羽の《茶経》にくわしく述べられている。団茶あるいは餅茶と呼ばれ,蒸した茶葉を臼でつき乾燥させ,固められたものであった。飲む場合は,その団茶を火であぶり,砕いて粉にし,熱湯の中に入れて煮るというもので,塩や葱(ねぎ),薑(はじかみ),棗(なつめ),橘皮,茱萸(ぐみ),薄荷(はつか)などをも混入していた。… □□【磚茶】より:…緑茶,紅茶その他の中・下級品や粉茶などを蒸して,いろいろな形状の型に詰め,煉瓦状,タイル状,円盤状,円錐状,碗状などに押し固めて乾燥したもの。7世紀以前の中国で行われていた餅茶の系譜をひくもので,製茶技術上の古い形態をとどめている。日本へは平安初期に入唐僧によって伝えられた。… □□

チャ(茶)】より:…上質の茶葉を蒸し,水分と脂がなくなるまで搾り,次に水を加えてすりつぶし,模(かた)に入れて固型化する。それは地肌が緻密(ちみつ)なため蠟面(ろうめん)茶ともいわれ,宮中の飲用に供するものは竜や鳳を捺(お)したため竜鳳茶と呼び,ふつうには餅(へい)茶,片茶などとも称される。五代と宋代では福建の建州建甌(けんおう)が特産地とされ,碾(ひきうす)(やげんの一種)で粉末の抹茶にして飲用した。…

※「餅茶」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

鎌倉~南北朝時代 (1192-1392):日本の臨済宗(禅宗の一派)の開祖である栄西(ようさい/えいさい、1141-1215)は、二度、宋に渡って禅宗を学び、禅院で飲茶が盛んに行われているのを見聞きしました。帰国後、栄西は日本初の茶の専門書「喫茶養生記」を著し、お茶の効能を説きました。1214年、栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に、良薬としての茶にそえて、本書を献上したと「吾妻鏡」に記されています。□□「喫茶養生記」は、製茶法についても記述がありますが、これは宋代に作られていた蒸し製の散茶であり、碾茶の原型とも言えます。これを粉砕し、お湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲んでいたようです。□□華厳宗の僧である明恵上人(1173-1232)は、京都栂尾の高山寺に茶を植え、茶を奨励しました。ここが最古の茶園とされ、栂尾のお茶を「本茶」とし他のお茶と区別しました。鎌倉末期から南北朝にかけては、寺院を中核とした茶園は京都からさらに広がり、伊勢、伊賀、駿河、武蔵でも栽培されるようになりました。□□鎌倉時代には、禅宗寺院に喫茶が広がると共に、社交の道具として武士階級にも喫茶が浸透していきました。さらに南北朝時代になると、茶を飲み比べ、産地をあてる「闘茶」が行われました。

室町~安土桃山時代 (1336-1603):足利義満(1358-1408)は、宇治茶に特別の庇護を与え、これは豊臣秀吉(1537-1598)にも受け継がれ、宇治茶のブランドが形成されていきました。安土桃山時代には、宇治で覆下栽培も始まり、高級な碾茶に加工されました。□□15世紀後半に村田珠光(1423~1502)は「侘茶(わびちゃ)」を創出し、これを受け継いだ武野紹鴎(たけのじょうおう、1502~1555)、千利休(1522~1591)らによって「茶の湯」が完成し、豪商や武士たちに浸透していきました。

江戸時代 (1603-1868):茶の湯は江戸幕府の儀礼に正式に取り入れられ、武家社会に欠かせないものとなりました。一方、江戸時代では一般庶民にも飲料としてのお茶が浸透していたことが当時の記録からうかがえることができます。庶民に飲まれていたお茶は抹茶ではなく、簡単な製法で加工した茶葉を煎じた(煮だした)ものだったようです。□□1738年、宇治田原郷の永谷宗円(ながたにそうえん)は、製茶方法を丁寧な方法に改めて、優良な煎茶の製法を編み出し、煎茶の祖とよばれています。これまでにない緑色の水色と甘味、馥郁(ふくいく)とした香りは江戸市民を驚嘆させました。宗円が生み出した製法は、「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降、全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。また、より高級な煎茶を開発しようと、碾茶に用いられていた覆下栽培を煎茶に応用する試みが行われ、1835年、山本嘉兵衛(やまもとかへえ)により玉露の製法が生み出されたといいます。□□近世になると流通機構がより発達し、茶町と呼ばれる流通の拠点で、茶株仲間(江戸の消費地問屋)や、茶仲間(地方都市の産地問屋、荷主)と呼ばれる人々が許可制で茶の取引を行うようになります。□□1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、1859年、長崎、横浜、函館の開港を機に生糸とならぶ重要な輸出品として茶181トンが輸出されました。明治時代~昭和初期(1868-):明治維新後も、茶の輸出量は政府の援助によりアメリカを中心に増加し、明治20年(1887)まで輸出総額の15-20%を占めていました。□□明治初期、士族授産事業などを契機に牧の原台地などの平坦な土地に集団茶園が形成されるようになりました。しかし、茶園開拓をした士族たちは次第に離散していき、かわりに農民が茶園を継承していくようになったのです。これは、茶の輸出価格の下落や、茶園造成に莫大な費用がかかったことが原因だったようです。□□集団茶園の形成は、茶園の形成だけにとどまらず、流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明など茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。高林謙三(1832-1901)による茶葉揉葉機の発明をはじめ明治期には、機械化が急速に進んでいき、省力化と共に品質の安定化に寄与しました。□□明治中期まで、花形輸出品として発展してきた日本茶も、インド、セイロン紅茶の台頭で、輸出は次第に停滞していきます。代わりに国内の消費が増え、お茶は国内向け嗜好飲料に変わっていきました。お茶が日本人の生活に根付いたのは、大正末期から昭和初期と言われ、意外に新しいのです。]

お茶の歴史

お茶の歴史お茶の伝播と呼び名の違い inお茶百科 http://www.ocha.tv › history

現在、「茶(チャ)」を意味する世界各国の言葉は、中国広東語系の「チャ」と、福建語の「テー」の2つの系譜に分けるのが一般的です。この違いは、陸路を通じて伝播したか、海路を通じて伝播したかの違いであるといわれています。

お茶の発祥: 中国の歴史の中で、お茶が登場するのは、「神農(しんのう、農業・漢方の祖)」の逸話からとなっています。□□神農は、野草とお茶の葉を食べていたと伝えられています。この伝説から、お茶の発見は紀元前2700年ごろ、神農時代考えられます。□□漢の時代(紀元前1世紀)の医学書『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』には、「茶味苦、飲之使人益思、少臥、軽身、明目」の記述があります。すでにこのころ、お茶はよく知られていたようです。また、四川の王褒(おうほう)が記した、主人と奴隷との間で交される契約文『僮約(どうやく)』の中に、「武陽で茶を買う」とあります。これによると、当時すでに飲茶の習慣があり、売買が行われていたことがうかがい知れます。この『僮約』が、現段階では茶具に関する最初の文献とされています。このころからお茶は、主に上流階級に嗜好品として愛飲されるようになります。□□唐の時代(760年ころ)、陸羽(りくう)の記した『茶経』「茶者、南方之嘉木也(茶は南方の嘉木なり)」で始まっていることから、初期のお茶は南方で始まったと考えるのが定説です。

inお茶の歴史 Japan Tea Action https://japanteaaction.jp › 日本茶を知る

お茶を「一服」という理由は:中国では古くから、お茶は薬、解毒剤として用いられていました。今から1200年ほど前に日本に伝えられた際も、お茶は飲み物ではなく薬として輸入されていました。「お茶を一服」という言葉は、これに由来すると言われています。□□茶道ではお茶を一服、二服、さらに、お茶の濃さや練加減を表す「お服加減」という言葉も使われています。

お茶の発見:お茶の歴史を辿ると、今から約5000年前、紀元前2800年ころの中国で活躍した「神農」という名が出てきます。今日の農業と漢方薬の基礎を築いたとされる神農は、自らの身体を使って身近な草木の薬効を調べていたため、1日に72もの毒に当たり、そのたびにお茶の葉を噛んで解毒したと伝えられています。□□唐の時代の760年、陸羽によって著された世界最古のお茶の専門書『茶経』には、「茶の飲たるは神農氏に発す」(お茶を飲み始めたのは神農氏からである)という記述があり、お茶は神農によって発見されたと考えるのが定説となりました。また、『茶経』にはお茶の歴史や製造方法、産地、茶道具、飲み方などが詳しく記され、このころ既に中国でお茶は広まり、定着していたことがうかがわれます。

中国から日本へ、お茶の伝来:日本のお茶の始まりは、今から約1200年前の平安時代の初め。遣唐使や留学僧によってもたらされたと推定されます。歴史書『日本後紀』には、「弘仁6年(815年)4月22日、僧・永忠が嵯峨天皇に茶を煎じて奉った」と記され、これが日本でお茶を飲んだ最初の記述といわれています。□□永忠は唐に約30年も滞在していました。同時代に活躍した最澄や空海も唐への留学経験があります。最澄宛てに弟子が書いた手紙には「お茶を10袋もいただき、ありがとうございます」と書かれ、また、空海は、「お茶を飲みながら中国の書物を見ることにしている」などの文章を残しています。当初、お茶は大変な貴重品で、僧侶や貴族階級などの限られた人しか口にすることはできませんでした。お茶が庶民の味になるまで:普及したのは、鎌倉時代に入ってから。臨済宗の開祖・栄西が宋に二度渡り、帰国の際にお茶を持ち帰ったのがきっかけです。栄西はその種子を各地に蒔いて日本にお茶を広め、さらにその後、お茶が健康によいという内容の『喫茶養生記』を著しました。当時のお茶は抹茶に近く、茶せんで泡立てて飲んでいたようです。□□江戸時代に煎茶が出回ると、庶民の口にも入るようになりました。煎茶の祖と呼ばれる永谷宗円が1738年に生み出した『永谷式煎茶』は、それまでの中国式製法のお茶にはなかった鮮やかな色と甘味、香りで江戸市民を驚嘆させたといいます。この製法は別名「宇治製法」と呼ばれ、18世紀後半以降全国の茶園に広がり、日本茶の主流となっていきました。

世界に進出! 「Japan Tea」:1858年、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、翌1859年、横浜、長崎、函館の開港を機に、日本茶181トンを輸出します。明治維新後も輸出量は増加し、日本茶は1887年まで輸出額の15~20%を占める花形でした。輸出用の茶箱には木版多色刷りの華やかなラベルが貼られ、このラベルは中国の茶商の業界用語で『蘭字』(「西洋の文字」の意)と呼ばれました。蘭字の制作には浮世絵師や彫師、摺師らが携わり、そのデザインの斬新さと緻密な彫りの技術は外国人の注目を集めました。□□そして現在、和食人気と健康志向の高まりにより、日本茶が世界的なブームとなっています。輸出量はこの10年間で約3倍に増加し、令和元年には過去最高5,108トンもの日本茶が海を渡っていきました。

蘭字:英語で「特選」「早摘み」「無着色」などの宣伝文句も書かれています。
(所蔵:公益社団法人 日本茶業中央会)

【お茶とくすりの関連は(文献検索)、】

文献1in鎌倉時代のお茶は薬?はたまたドラッグ!? 精神性の追求の … https://www.pen-online.jp › article

鎌倉時代のお茶は薬?はたまたドラッグ!? 精神性の追求のルーツ[茶道のルーツを探る②]

日本の伝統文化の代表格ともいえる茶道が、どのような過程を経て日本文化としてのオリジナリティを獲得し、時代や流行に合わせて進化して来たのかをたどる本連載。第一回では、輸入文化としてのお茶が日本入ってきた、鎌倉時代の禅僧・明庵栄西の活動と時代背景を紹介しました。第二回となる今回は、現在とは全く違う鎌倉時代のお茶の位置付けについて。宗徧流11世家元、山田宗徧のナビゲーションでお送りします。□□宋に渡った栄西が日本に持ち帰ってきた最新のライフスタイルのひとつが喫茶です。鎌倉時代に編纂(へんさん)された幕府の歴史書『吾妻鏡』には、二日酔いに悩まされていた時の権力者・実朝が、栄西に茶を勧められて飲んだところ、頭がすっきりしたという記述があります。□□栄西はその後、茶の効能についてまとめた『喫茶養生記』という本を実朝に献上し、喫茶文化の普及をはかっています。まずはトップに試してもらい、メディアを使って普及させていく。栄西はマーケティングのセンスが抜群でした。

体にいい「薬」から日常のライフスタイルへ

南米産のカカオは紀元前3000年頃から精神的効果をあげる飲み物として、コーヒーは900年頃から消化、強心などの効果ある薬としてアラビアで使われていたという記録があります。ペルーのシャーマンのカカオセレモニーを体験したことがあるのですが、地域ごとに精神に働きかける植物があり、それらを使った儀式や文化が生まれているそうです。□□どちらも、飲み物として飲むことが広まったのは16世紀頃のこと。このように、新しい食材や飲み物には、最初は身体にいい薬として紹介され、段々と日常へとライフスタイルに落とし込まれるものがたくさんあります。□□実は抹茶もその一つ。抹茶一碗のことを、一服というのも、薬として服用した名残なのです。□□『喫茶養生記』によると、中国でお茶を飲みだしたのは唐時代。お茶の木はいまの雲南で自生していたものだといいます。

精神性を追求するドラッグのような存在?

この本には、茶を飲むと羽化登仙(中国古来の神仙思想などで,人間に羽が生えて仙人になり天に昇ること。また,酒に酔ってよい気分になることのたとえ)する気分になるため、功績ある臣下に授けたとあります。□□いい抹茶を飲むと舌先がピリリとした感じになることはありますが、私も天にのぼる心地になったことはありません。現代人と違い、身体に化学物質が入っていなかった唐代の人には、ドラッグのような効果があったのでしょうか。茶道が精神性を追求するようになったのも、脳に働きかける作用が含まれていることが理由にあるのでしょう。□□マンガ『アキラ』の世界では、薬を投与されるのは選ばれた人でした。同じように、茶を授与されることは、皇帝から目をかけられているという証拠。自己肯定感を高めるものだったと考えられます。(1/2)

粉にして飲む抹茶はイノベーション 茶というのは、葉にお湯を注いで煎じて飲むのが一般的です。本来は茶の木から採るから「茶」と呼ばれるのですが、最近は茶以外の植物を煎じたものを茶と呼ぶことも一般化しています。先日、フキノトウや紅花、黒文字などを茶にして出すイベントを体験して、茶として煎じて飲む植物が想像以上に多いことを知ったのですが、お湯を注いで煎じるという飲みかたは共通しています。□□ところが、そうではない画期的な茶の飲みかたのイノベーションが唐から宋の間におこりました。茶葉を臼で挽いて粉にした、いまでいう抹茶が開発されたのです。同時に、粉にお湯を注いだ後にかき混ぜるための道具が、竹でつくられました。茶筅です。□□普通、茶葉は煎じたあとに捨てられますが、茶葉を臼で挽けば、葉茶の成分をすべて摂取することができます。当時の人のお茶にかける情熱が、人々を新しいお茶の飲み方の開発にむかわせ、抹茶が生み出されたのです。□□宋の皇帝は茶を好み、最良の茶を家臣に与え、茶を使った儀礼が朝廷内に生まれました。□□都市には茶を飲ませる茶坊や茶肆などの茶館が現れ、名人の書画を飾り、四季の花を挿したりして集客をはかっていました。いまのカフェがインテリアで個性を出しているのと同じです。

鎌倉でも、コーヒーロースターやカフェ、間借りのコーヒー屋などコーヒーカルチャーが盛んになり、それぞれ個性を発揮していますが、そんな様子をみながら、宋の茶坊や茶肆も同じような感じでセンスを競っていたのではないかと、想像しています。□□禅寺には寺なりの茶の儀礼がありますが、栄西は寺だけでなく、このような宋の茶文化を体験し、その一端を日本に伝えようとしたのでしょう。□□時々「茶道というのは鎌倉時代からあった文化なのですか?」ときかれたりすることがあります。栄西が『喫茶養生記』を書いたからか、一部では鎌倉時代から茶道が確立していたと思われているのかもしれません。でも栄西の頃は、ようやく「お茶という新しい薬があるらしい」という認知が始まったばかりというのがリアルなところ。茶道誕生までには、まだまだ時間がかかるのです。

文献2:inお茶の始まりは「薬」だった?!薬としてのお茶の起源ついて大井川茶園 https://www.ooigawachaen.co.jp ›

薬としてのお茶の起源ついて

「お茶を一服」という言葉があります。お茶を飲むという意味で日常的に使われていますが、薬を飲むときにも「薬を服す」「薬を服用する」などといいますね。同じ「服」という言葉が使われていますが、それもそのはず、お茶はその昔、薬として用いられていたのだそうです。今回はお茶の始まりに関する伝説やエピソードをご紹介します。

お茶が解毒剤として使われたという中国の伝説: お茶の発祥の地は諸説ありますが、中国南部の雲南省からインドのアッサム地方にかかる山地だといわれています。その中国で、今日の漢方薬の基礎を築いたといわれている神農という人物は古代中国の神とされていました。神農は多くの人々が病気で苦しんでいるのを見てどうにかしなければと考え、山野にある様々な植物がどのように効くのか自らの体をもって試したのだそうです。□□1日に72もの毒に当たり、その都度茶で解毒!?神農は草木の薬効を調べるために野山を駆け巡り、1日に72もの毒に当たることになりました。その都度解毒するために使ったのが茶の葉。この逸話こそ、歴史上お茶が出てくる最初のエピソードだといわれています。□□あくまで神話としてのお話ですが、人とお茶の出会いは飲み物としてではなく解毒剤として始まったと考えてよいのかもしれません。お茶を飲むときの「一服」という言葉は、このことに由来するといわれています。

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