(2)-5-1:鎌倉時代(1185~1333)「栄西と喫茶養生記」
【時代考証】鎌倉時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」などを基にまとめる。
【鎌倉時代(1185~1333年)のくすり文化に関わる主な出来事】
・鎌倉時代:1185-1333(約150年)
1191年 栄西は在宋中、求道修行のかたわら茶の効用と作法を研究、宋より帰国する
際、茶種を持ち帰り栽培(佐賀県と福岡県の県境に連なる脊振山に茶の種
を蒔いており、これが日本で最初の茶の栽培と言われている)、さらには茶の
知識や効能を集約した茶の専門書「喫茶養生記」を著すなど茶の普及
1202年(建仁2年)栄西、京都最古の禅寺であり、臨済宗建仁寺派の大本山
「建仁寺」を開いた
*1214年(建保2年) 栄西、 「喫茶養生記」成る。
1240 年 西大寺(奈良)豊心丹 売薬の始まり、1242 豊心丹の創製 西大寺叡尊
1264年(文永元年) 忍性、極楽寺に施薬院等を設立。このころ、大和の寺院では、
薬としての茶の栽培が広がる。
1282年(弘安5年) 惟宗具俊、「節用本草」成る。
1284年(弘安7年) 惟宗具俊、「本草色葉抄」成る。
1288年(正応元年) 丹波行長、「衛生秘要抄」(衛生の初出) 成る。
1290年(正応3年) 叡尊没
[平安時代までは]平安時代の都(みやこ)には、東西二つの市、東市司(現在の京都駅近く西本願寺辺り)と、西市司(西七条市部町辺り)があり、東市に薬を商う「薬廛(やくてん)」がありました。取り扱われた薬は、国産の薬草類の他、宋やインドから輸入されたものもあったようです。この時代は市に出入りできるのは上流階級の人々のみだったので、庶民は身近な草などを使うほかは呪術などに頼るしかありませんでした。(in日本人とくすり|からだとくすりのはなし – 中外製薬 https://www.chugai-pharm.co.jp › history › history002) □鉱物薬、動物薬が比較的多く用いられたといわれ、正倉院に現存する薬物などから推察すると、遠く海外から中国経由で輸入された麝香(ジャコウ)、熊胆(ユウタン)、鹿茸(ロクジュウ)、牛黄(ゴオウ)、海狗腎(カイクジン)などがあります。これらは現代でも高貴薬として珍重され、奇応丸、六神丸などに配合されています。こうして日本にもたらされた中国医学(漢方医学)で用いる薬物は、天然の動植物や鉱石から得られる、いわゆる生薬(ショウヤク)です。その生薬の種類と数はかなり異なりますが、天然物を原材料としている点では、世界の他の地域の医薬(伝統医学・薬物)と変わりありません。輸入され処方される生薬は、唐物(カラモノ)として珍重されましたが、中国に産するものばかりでなく南方の生薬も多く、この時代に高価な生薬配合薬を利用できるのは、ほとんど朝廷など一部の支配階級の人達に限られていたと思われます。そこで、原料生薬を国内産でまかなうための様々な方策が試みられています。古くは推古天皇元年(593)に四天王寺を建立し、そこに療病院、施薬院などを併設した厩戸皇子(ウマヤドノオウジ)(聖徳太子)は、「薬草は民を養う要物なり。厚く之を畜うべし」と、勅命をもって薬草の採取貯蔵を奨励しています。飛鳥時代の大宝元年(701)には、唐制を参考に「大宝律令」が制定され「医疾令」として、後の医薬制度の基礎となるものが公布され、また、和銅3年(710)に都を平城に建設して、中央集権制の確立をはかったことなどもあって、医薬の道も漸次進歩の道をたどるようになりました。さらに、平安時代(794~1185)になると、交通網や商業が発達して、唐物などの交易品の輸入も益々盛んになり、産物が中央に集まるとともに、文化も経済も著しく発達した時代です。遣唐使の派遣も反復されるとともに、中国の医学手技や薬物についても大いに研究研鑚され、日本の国情、風土にあわせて進歩発展してまいります。永観2年(984)丹波康頼(タンバヤスヨリ)が多数の隋、唐の医書などを引用、集大成して、医薬処方剤や治療の法則を論じた『医心方』30巻を著したのもこの頃です。この書は現存する日本最古の医書として有名です。□□また、醍醐天皇の勅命によって編纂された『延喜式』(905~927)は、この頃の国内薬物事情を推測する上で貴重な資料です。その巻37典薬寮の項にリストがあり、畿内山城国など全国57の諸国から朝廷に進貢された170余種にも及ぶ生薬の品名と数量が、国別に克明に記録され、さらに宮中で用いる配合製剤(丸剤や軟膏剤など)も収録されています。『延喜式』に記録されている生薬には、当時日本に産出しなかったと考えられるものもありますが、その内容が後世江戸時代から現代の国産常用生薬と変わりがないのは、この時代にすでに国内の薬草の探索が相当に進んでいたことをうかがわせるものです。(in薬の歴史 | 樋屋製薬株式会社・樋屋奇応丸株式会社 https://hiyakiogan.co.jp › content › fukuyo › history)
[鎌倉時代になると]鎌倉時代になると、日本臨済宗の開祖でもある栄西(1141〜1215)は、宋から茶の種を譲り受けて持ち帰り、茶の薬用効果を伝えました。茶の調製法・服用法などを記した「喫茶養生記」を著しています。また、時の将軍源実朝が二日酔いで苦しんでいるときに、茶を勧めて治したともいわれています。僧侶は通行の自由を許されていたので、宋から医術をもちかえり、諸国で医療を施したり、薬草の知識を広めたりなど、医薬を広く一般に伝えていきました。(in日本人とくすり|からだとくすりのはなし – 中外製薬 https://www.chugai-pharm.co.jp › history › history002)
宋に渡った栄西が日本に持ち帰ってきた最新のライフスタイルのひとつが喫茶です。鎌倉時代に編纂(へんさん)された幕府の歴史書『吾妻鏡』には、二日酔いに悩まされていた時の権力者・実朝が、栄西に茶を勧められて飲んだところ、頭がすっきりしたという記述があります。□□栄西はその後、茶の効能についてまとめた『喫茶養生記』という本を実朝に献上し、喫茶文化の普及をはかっています。まずはトップに試してもらい、メディアを使って普及させていく。栄西はマーケティングのセンスが抜群でした。
[栄西と喫茶養生記について]
栄西とは (in日本茶栽培の始まり|栄西のもたらした茶 – IDLE MOMENT https://idle-moment.com › dictionary › yousai-tea) 1192年源頼朝が征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた頃の中国は宋の時代(960-1279)。その宋で仏教を学んだ僧が続々と帰国し、日本に新しい文化をもたらしました。□□日本における臨済宗の開祖である栄西も宋で学んだ一人であり、日本において茶の普及と奨励に勤め、日本の茶祖としても親しまれています。また栄西は、建仁2年(1202)京都最古の禅寺であり、臨済宗建仁寺派の大本山「建仁寺」を開いたことでも知られています。
Contents1 京都最古の禅寺 建仁寺1.1 本坊(庫裏) 1.2 国宝 風神雷神図屏風(俵屋宗達筆)1.3 雲龍図襖絵(海北友松筆)1.4 ○△□の庭1….
在宋中、栄西は求道修行のかたわら茶の効用と作法を研究、1191年に宋より帰国する際、茶種を持ち帰り栽培、さらには茶の知識や効能を集約した茶の専門書「喫茶養生記」を著すなど茶の普及に大きな足跡を残しています。
鎌倉時代以前にも、一部の貴族・僧侶の上流社会の間で喫茶は嗜まれていましたが、広く一般社会にまで拡大されたという意味で、日本の喫茶文化は実質的に鎌倉時代の栄西以後に発展することになります。これが栄西が日本の茶祖と言われる所以となっています。
日本初の茶栽培と宇治茶の始まり:
1191年宋より帰国した栄西は、佐賀県と福岡県の県境に連なる脊振山に茶の種を蒔いており、これが日本で最初の茶の栽培と言われています。□□また栄西は、栂尾の明恵上人にも茶種を贈っています。これが「栂尾茶」の始まりと言われており、のちに、それに由来するという茶が日本における最も由緒正しい茶とされ、「本茶」と呼ばれ、それ以外のお茶を非茶として区別されるようになりました。□□その後、明恵上人は宇治にも茶を広めて量産を図り、『馬に乗って畑に入ってその蹄の形に茶の種子を播くように指導した』という伝説も残っており、宇治の茶はこの栂尾から移されたものと言われています。□□室町初期以降は栂尾が荒廃したため、「本茶」=宇治茶をさすようになっていきました。以後、宇治は天下の茶産地として発展していくことになります。
Contents1 宇治について1.1 明恵上人が宇治に茶を伝える1.2 宇治のみで許されていた覆下栽培 宇治について 明恵上人が宇治に茶を伝える 宇治茶(京…
明恵上人は、さらに京都のほか、奈良、三重、静岡などにも茶を移植し、全国的に茶の栽培が盛んになっていきます。
栄西がもたらした抹茶法:
栄西が日本にもたらした喫茶は、当時宋で流行していたいわゆる『抹茶法』で、茶葉を道具で碾いて粉状にし、それをお湯に入れて飲むという現在の抹茶のルーツとなるものです。
Contents1 抹茶とは?1.1 碾茶について1.2 抹茶と玉露の違い2 碾茶(抹茶)は緑茶の一種2.1 抹茶と粉末緑茶(加工用抹茶・工業用抹茶・食品用抹茶…
鎌倉時代に導入されて以降、この抹茶法は本家の中国では消滅してしまったのに対して、日本では独自の発展を遂げて16世紀の頃、千利体の手によって洗練され、今日に至っています。□□栽培法においても工夫が加えらるようになり、茶樹の周りに木組みを作り葦簾などを広げて日光を遮る、「覆い下茶園」という環境で栽培されるようになります。□□三代将軍家光の時代には、宇治から江戸まで抹茶の元となる碾茶を運ぶ、お茶壺道中が定例化されていきました。
[栄西と道元について]
栄西も道元も鎌倉時代前期に日本で活躍した禅僧です。栄西は宋の時代の中国に渡って禅を学び、帰国後に日本に臨済宗を広め、後に京都・建仁寺の開山となります。また、道元は宋の時代の中国に渡って禅を学び、帰国後に日本に曹洞宗を広め、後に越前・永平寺の開山となります。□□教科書などにはそれぞれ別の宗派の開祖のように記されている場合がありますが、栄西と道元はもともと師弟関係にありました。鎌倉時代の僧侶たちを具に調べていくと、当時の僧侶たちの生き生きとした交流があらわれてくるのです。(in栄西と道元 | 立川教室 – 朝日カルチャーセンター https://www.asahiculture.jp › course › tachikawa)