[京都にのこる歴史の痕跡ガイドの決定版]
跡地の石碑や解説パネルにほぼどの通りを歩いていても確実に出くわすほど、京都市内にはたくさんあります。著名な寺社や邸宅の名前が付いた町名表示パネルに出くわすことも頻繁にあります。「平安京オーバレイマップ」はもとより、通常のGoogleマップでも最近は跡地の表示が充実してきました。スマホにナビを命じれば、迷うことなくたどり着くことができます。□□ブラタモリの人気の影響でしょうか、全国の町で街歩きツアーがずいぶん盛んになってきました。京都でも毎週末を中心にあちこちで行われています。ブラタモリ的街歩きにはこうしたツアーに参加するのもおすすめです。□□【まいまい京都】町歩きツアーがとても充実 こんなところがあります。 ここにしかない「空間」があります。
平安京 大極殿跡【京都市観光協会サイト】 聚楽第跡【京都市観光協会サイト】
※公道から石碑やパネルを、いつでも無料で拝観・見学できます。敷地内に立ち入ることは多くの場合できません。
◆おすすめ交通機関◆JR嵯峨野線「二条」駅下車、徒歩12分 地下鉄東西線「二条」駅下車、1番出口から徒歩12分 JR京都駅から一般的なルートを利用した平常時の所要時間の目安:20分
京都駅→JR嵯峨野線→二条
Googleマップに平安時代に関する地図を重ねた「平安京 …https://current.ndl.go.jp › node
2016/01/07 — 「平安京オーバレイマップ」は、同会議が実施している「京都歴史散策 … 月に発行された、「平安京跡イメージマップ」を、現在の京都の地図(Google ..Googleマップに平安時代に関する地図を重ねた「平安京オーバレイマップ」が公開中 Posted 2016年1月7日 2015年11月27日、立命館大学アート・リサーチセンターのウェブサイトで「平安京オーバレイマップ」が公開されていました。□□「平安京オーバレイマップ」は、同会議が実施している「京都歴史散策マップ刊行事業」において2014年8月に発行された、「平安京跡イメージマップ」を、現在の京都の地図(Googleマップ)にレイヤ表示させ、ウェブサイト上で閲覧できるようにしたものです。画面右上にあるスライダーによって、透明度を任意に変更できます。 「平安京跡イメージマップ」は京都市中京区にある博物館である京都市平安京創生館で公開されており、同館に常設展示されている平安京復元模型への理解を深めるために作成されたものとのことです。平安時代(平安京跡)に関連する事項を表示させつつ、豊臣秀吉の京都大改造や、現在設置されている石碑・説明版等が示されており、京都渡来文化ネットワーク会議のウェブサイトでも、25枚の画像で公開されています。
平安京オーバレイマップ http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/
平安京跡イメージマップ情報(京都渡来文化ネットワーク会議, 2015/11/27)
http://kyoto-concierge.co.jp/net-torai/map.html
古典の日記念 京都市平安京創生館 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/souseikan/
※2015/11/27付で、「INFORMATION」欄に「「平安京跡イメージマップ」を公開しました。」とあります。 立命館大学アート・リサーチセンター http://www.arc.ritsumei.ac.jp/
※タイトルを修正しました(2016/1/7)
参考:
斑鳩町立図書館聖徳太子歴史資料室など、住民の所蔵する斑鳩に関する地域資料を用いて斑鳩の生活、文化、自然環境の記憶を未来に伝える「斑鳩の記憶データベース」(チエノワ・イカル)を正式に公開 Posted 2015年10月14日 http://current.ndl.go.jp/node/29642
立命館大学、「京都市明細図」をGoogleマップやGoogle Earth上で閲覧できるウェブサイトを公開
Posted 2012年3月15日 http://current.ndl.go.jp/node/20394
カレントアウェアネス-R 地図 デジタルアーカイブ 日本 参照(78024)
歴史上の英傑たちは、「近所のおもろいオッサン」的に見るとより興味深くなる。戦国、幕末、江戸時代、雑多な日本史をちょっと斜めから語る【歴史雑談録】
先陣 戦国時代の話 江戸時代の話 幕末・明治維新の話 平安・源平の話 レビュー
平安京の条坊図をGoogle Mapに重ねて遊んでみなはれ。(スマホ対応・GPS機能付き)
みなさんのような歴史マニアともなればですね、例えば、京都での待ち合わせなんかは、以下のような感じの日常会話になることでしょう。
「明日の合コン、大内裏は南、美福門で待ち合わせな。」
「二条城の中やんけ、アホか。店、押小路沿いやろ? 皇嘉門あたりがええて。」
「刑部省らへん? うち、二条四坊やから近いわぁ」という風に、「京都は平安京におます」という前提で見るのが、歴士・歴女の雅なマナーでございますねぇ。ということで、平安京遷都当初の条坊制の大路・小路を、Google Mapに重ねてみました。(ネットで探してもこれっていう地図がなかったので自作でございます)
以下で遊んでみてくださいね。もちろん、拡大縮小や、スマホでのGPSにも対応していますよ!意外と高機能! ちなみに、大きいサイズで見たい方はこちらで。
[平安京の概要]:ご存知のとおり、794年に造営・遷都された京の都。平安京。
桓武天皇によって遷都決定され、葛野の地に、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画造営された都城でございます。□□その平面区画は、中国の洛陽・長安の条坊制にならっており、碁盤の目のように道路が張り巡らされました。□□中央に、最も大きな大路である「朱雀大路」が南北を貫いており、この朱雀大路の東側が「左京」、西側が「右京」と呼ばれました。その朱雀大路の北端、平安京の最北部には、天皇の在所となる内裏、それを含む政治官庁がある大内裏があります。□□また、先の都である長岡京は洪水の難が多かったため、平安京では仏法による王城保護の思想を取り入れ、「東寺」「西寺」を設置しています。五重塔で有名な東寺は、弘法大師・空海に下賜され、真言密教の根本道場となりました。□□ちなみに、この地が「山城国」となったのは、平安京遷都に際し、桓武天皇が「山背国を山城国に改名する」と詔を下したこの時からです。
現在と大きく違うところ [朱雀大路てどこいったん?]
平安京の南北のメインストリートである朱雀大路は、現在の千本通に該当します。場所もほぼ同じと考えられます。□□ただ、当時の朱雀大路が、幅28丈(約84m)と、クソでかい道であったのに対し、現在の千本通は広いところでも24,5m程度と、半分以下の幅員となっています。□□10世紀には朱雀大路の玄関口である羅城門が台風で倒壊、960年の平安京内裏の焼失、戦国時代では応仁の乱によって京の過半数が焼失するなどして、朱雀大路自体も機能しなくなり荒廃していったため、徐々に縮小されていったためですね。
[大内裏て、面影すらあらしまへんなぁ]
通常、帝のおわす場所、それが内裏。それを囲う宮城全体が大内裏(平安宮)。大内裏には、律令法にならった数々の官庁がございました。□□今となっては、その面影すらも見られません。普通の住宅街な雰囲気になっています。□□先述の通り、内裏は960年に全焼失し、その後も幾度となく火災に見舞われ、いつしか天皇は里内裏という、仮の御所におわすようになりました。それが今の京都御所(土御門東洞院殿)になります。□□南北朝時代において、光厳天皇が移ったのが始まりとされています。□□それ以来、元の大内裏のあった場所は、荒廃の一途を辿ることになります。
[五条大路と五条通の場所がずれてはんねんけど?]
現在の五条通は、当初の平安京での五条大路の場所ではなく、1590年頃、六条坊門小路の場所に移設されました。豊臣秀吉が、方広寺参拝のため、鴨川に架かる五条大橋を六条坊門小路に移設したことによります。なお、元の五条大路は通りとしては縮小され、松原通と呼ばれるようになっています。実際、方広寺は、五条通・五条大橋を通って鴨川を東に渡り、ちょっと南側にありますね。□□さすが秀吉、五条通を移設した際に、京で最も大きな通りにしました。なので、現在でも国道1号線となっているなど、今なお京の東西のメインストリートとなっています。□□なお、現在の五条大橋には牛若丸、弁慶の出会いの像がありますが、この逸話が本当だとしても、この場所ではなかった、ということになりますね。
[右京(平安京の西側)て、あんまし道が残ってまへんな]
平安京の造営の当初、宅地敷地として想定されていましたが、この右京の地は桂川付近の湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進みませんでした。10世紀には、京の中心であるべき大内裏の焼失に並行して右京もさらに荒廃。本来禁止されていた農地へと転用されることすらあったとか。そうこうして、平安京の小路もいくつか農道として使われたり、条坊をまたがって農地化されたりして、道が分断されていったためです。□□10世紀に慶滋保胤の記した『池亭記』には、「西京(右京)は人家いよいよまれにして ほとんど幽墟にちかし」と書かれています。それほど寂れてたんですねぇ。
平安京 小ネタ:
[なぜ「上洛」というのか?] 中世より、京に上ることを「上洛」といいますが、それは、平安京の右京・左京の通称に由来しています。809年に即位された嵯峨天皇が平安京の西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と名付けたからです。□□先述の通り、10世紀にはすでに「長安」である右京は荒廃して市街地の体をなしておらず、都としての機能も景観も失っています。そのため、「京=左京=洛陽」としての呼称が実質的に普及し、上京することを「上洛」というようになりました。□□ちなみに「上洛」という言い方が一般化したのは、応仁の乱後、戦国時代のことです。室町幕府が京にあり、足利将軍もそこに在したことから、将軍を保護して権威と名誉を得る目的が数々の戦国大名に定着したことに始まります。
ご注意:上記のマップについては、平安京条坊図は学術的な正確さを保証するものではありません。見やすさ、比較のしやすさを優先し、現在の道路網に合わせて作成しております。
また、すべてのブラウザ、スマートフォンで動作確認をとっておりません。一部の環境では動作しない場合がございます。あらかじめご了承ください。
2.平安神宮について
in [公式]Heian Jingu Shrine 平安神宮 | 京都 平安神宮の参拝情報 … http://www.heianjingu.or.jp
*建物名等は他の資料を参考に追記した。
平安神宮について
●ご祭神:第50代 桓武天皇
桓武天皇は光仁天皇の皇子として天平9年(西暦737年)にご誕生され天応元年(西暦781年)に第50代の天皇として即位されました。英明な天皇は平城京の規模が小さく、日本の国都として適していないことを察せられ、まず山背国(山城)乙訓郡長岡に都をおうつしになり、さらに最も都に適した処として、延暦12年(西暦793年)同国葛野・愛宕両郡を選び都の造営を始められました。翌13年10月22日新京にうつられた天皇は、ここを平安京と称せられ、延暦15年はじめて大極殿において百官の拝賀を受けられたのです。□□桓武天皇は在位25年の間に律令を正し難民を救済し、文教を興しよく内政を整えられるとともに広く海外とも交易して大いに我が国の発展に努められました。以来京都は明治に至る1千余年の間、日本の国都として栄えてきたのです。天皇は延暦25年(西暦806年)に崩御せられ、御陵は柏原陵(京都市伏見区桃山)です。
第121代 孝明天皇
孝明天皇は仁孝天皇の皇子として天保2年(西暦1831年)にご誕生され、弘化4年(西暦1847年)に第121代の天皇として即位されました。天皇の治世は近代日本の胎動期で、幕末の内外騒然とした誠に難しい時期でありましたが、天皇はよく世の推移を察せられ、明治維新の基を開かれました。「さまざまに 泣きみ笑ひみ語りあふも 国を思ひつ 民おもふ為」と憂国済民の熱い志を抱かれつつ、慶応2年(西暦1866年)12月25日、36才の若さをもって崩御せられました。御陵は後月輪東山陵(京都市東山区泉涌寺)です。
●創建由緒
創建:明治28年3月15日 皇紀2555年 西暦1895年
平安神宮は平安遷都1100年を記念して、明治28年に遷都のおや神様である第50代桓武天皇をご祭神として創建されました。□□当時、京都の衰退ぶりは目を覆うものがありました。幕末の戦乱で市街地は荒廃し、明治維新によって事実上首都が東京へ遷ったことは人々の心に大きな打撃を与えました。□□ その状況下で京都を救ったのは、京都復興への市民の「情熱」と全国の人々の京都に対する「思い入れ」でした。数々の復興事業を展開し、教育、文化、産業、生活などすべての面において新しい京都が模索され、同時に古き良き京都の維持継承に力が注がれたのです。□□これらの熱意と一連の町おこし事業が見事に結実して、平安神宮が創建されました。□□千年以上も栄え続けた雅やかな京都を後世に伝えるために、京都復興にかけた多くの人々の遺志を後世に伝えるために、四海平安の祈りを込めて創建されたのです。□□その後、皇紀2600年にあたる昭和15年には、市民の懇意によって平安京有終の天皇、第121代孝明天皇のご神霊が合わせ祀られ、「日本文化のふるさと京都」のおや神様として広く崇敬を集めることとなりました。
●社殿平安神宮の社殿は、桓武天皇が開かれた当時の平安京の正庁、朝堂院が約8分の5の規模で再現されています。大極殿(だいごくでん・外拝殿)・応天門(おうてんもん・神門)・蒼龍楼(そうりゅうろう)・白虎楼(びゃっころう)・歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは明治28年(西暦1895年)の創建当時に造営されたものです。□□その後昭和15年(西暦1940年)孝明天皇ご鎮座にあたり、本殿・祝詞殿・内拝殿・翼舎・神楽殿(かぐらでん・儀式殿)・額殿(がくでん)・内外歩廊斎館(祭典の為参篭する館)・社務所などが増改築され、これまでの社殿も大修理が行われました。また、昭和50年からは主要な建物の屋根葺替が行われ、この間51年に社殿の一部が災禍に会いましたが、54年にはその復興もあわせて完成し現在のような壮麗な社頭が整いました。
ここを訪れた方には、今から1200年前、京都が生まれたばかりの風景をさながらに体感し、大宮人の気持ちを彷彿していただくことができるのです。
本殿 …(昭和54年造営)昭和51年(1976)に過激派テロで東西両本殿などが焼失、昭和54年(1979)4月に焼失前の2棟を1棟にまとめて周囲に縁を廻し、前方3箇所の5段の階段を設け、その前に祝詞殿となる浜床を付した国内最大規模の銅板葺き七間社流造の本殿
in平安神宮 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 平安神宮
平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都市左京区にある神社。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。歴史[編集]:1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に場所を移して1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われた。社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、実物の8分の5の規模で復元されて1895年(明治28年)に完成した。□□博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を行った天皇である第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では京都を守る四神の御守が授与されている。□□1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。
1976年(昭和51年)1月6日、火災(平安神宮放火事件)が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。ただし、東西の両本殿から御神体は運び出されて無事、外拝殿である大極殿も延焼をまぬがれた。創建が比較的新しかったことから当時はこれらの建物は文化財指定を受けていなかった為、再建の為の国からの補助金が見込めなかった。しかし、全国からの募金により、本殿や内拝殿は1979年(昭和54年)4月に再建された。この火災は、後に日本の新左翼活動家加藤三郎の犯行と判明した。□□1994年(平成6年)3月15日には、平安神宮御鎮座百年祭が執り行われた。
社殿[編集]:社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものである。大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の応天門を模している。その内側の左右の殿舎は朝集堂の再現である。外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模している。1895年(明治28年)に完成、本殿は1976年(昭和51年)1月1日未明に出火した火災により焼失。1979年(昭和54年)4月に再建された。□□基本的にはこれらの建築様式は、平安時代後期(11-12世紀)の第3次八省院(延久4年(1072年)再建、治承元年(1177年)焼亡)を再現したものとなっている。この時の大極殿などの姿は、後白河法皇が作らせた「年中行事絵巻」に描かれている。ただ、大極殿と応天門の間には本来は会昌門と朝堂12堂が存在し、応天門の左右には翔鸞楼と栖鳳楼という楼閣が付属していたが、これらは平安神宮では復元されていない。また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっているが、近年の研究によると平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけにしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されている。□□設計は、伊東忠太・ 木子清敬・佐々木岩次郎。2010年(平成22年)12月、大極殿など6棟が国の重要文化財に指定された。また、参道の大鳥居は24.4mの高さがあり、国の登録有形文化財に登録されている。□□敷地面積は約10,000坪の日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどある。
参考資料
・人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history
・奈良県薬業史略年表
・[公式]Heian Jingu Shrine 平安神宮
・平安京 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 平安京
・平安京へ出かけよう – 風俗博物館 https://www.iz2.or.jp › heiankyo
・平安京 どんな都?場所はどこ?そして, なぜ京都に都が? https://blog.kanko.jp › heiankyo ›
・平安京の大極殿や内裏は今どうなっているか?_京都ブラ歩き in https://blog.goo.ne.jp › 38_gosiki
・[公式]Heian Jingu Shrine 平安神宮 http://www.heianjingu.or.jp
・平安神宮 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 平安神宮