中之島 合水堂

 若い頃からずっと中之島のあたりの雰囲気が好きで、今も時折足を運びます。先日は中之島美術館を訪れてきました。中之島の古い建物には貫禄と風情があり、商工業産業も盛んであり続けた歴史がよくわかります。医学や芸術も優れていて、それぞれの痕跡が町全体の空気や佇まいを織りなしているように思います。
 私の人生の中にも中之島とのいくつもの関わりがありました。道修町にある医療関係の出版社で手伝いをさせていただいたことをはじめ、大阪市中央公会堂での研修会、ホテルでの学会や結婚式、美味しくておしゃれなレストランでの食事、友人の経営するお店のことなど、どれも大事な思い出となっています。
 適塾と合水堂はかつての医学を勉強する場でありましたが、これらもこの場所にありました。先日、友人から合水堂は適塾ほどドラマや小説のなかには取り上げられていないのはどうしてでしょうとエッセイのヒントをいただきました。
 さっそく『なにわ大坂をつくった100人』を読んでみました。華岡鹿城や合水堂について、この本から引用しながらご紹介します。
 華岡鹿城(1779-1827)、現在の和歌山県出身。華岡家は代々在村の専業医で、父直道は大坂で南蛮流外科を学び、兄青洲(1760-1835)は全身麻酔薬「通仙散」を開発し、世界で初めて全身麻酔による乳がんの手術に成功しました。鹿城は歳の離れた末弟で兄同様「通仙散」による麻酔を行いました。
 青洲は、吉益南涯から漢方の古医方を習得、また大和見立からオランダのカスパル流外科を学びました。乳がんの手術における麻酔の重要性を痛感して麻酔薬の研究をし実験を重ね、20年近くかけてマンダラゲなどの薬草を調合して実用化の準備を進めました。鹿城は小さいころから利発で、また母によく仕えたそうです。兄を継承して通仙散を使って乳がんの手術を行ったことは、アメリカでエーテル麻酔が成功する40年も前のことだったそうです。
 患者や門人によって徐々に青洲の乳がんの手術の成功の話は広まり、青洲が「春林軒」と名付けた医学塾には医学生が集まり、患者は全国から訪ねてきました。
 鹿城は兄の意を受け、1811年ごろ堺の少林寺町で診療所を開きました。1816年には大坂中之島に移り、春林軒の分塾を開設し「合水堂」と名付けました。
 大坂への進出は華岡流外科を広め安定的に入門者を確保するのが目的でしたが、その目的通り堺の診療所開設の頃から合水堂には多くの人が学びに来ました。西洋医学が本格的に入ってくるまで、わが国の医学の発展に大きく貢献した医学専門塾であったわけです。
 平成27年には、大阪市北区中之島1丁目1番地、大阪市中央公会堂の前に合水堂顕彰碑がたてられ、「合水堂は幕末まで大阪の中心にあって多数の医学生を育成したが、忘れられようとしている」と顕彰碑建立の意義が説明されました。
 福沢諭吉は『福翁自伝』で、「緒方塾の近傍、中ノ島に華岡という漢医の大家があって、その塾の書生はいずれも福生とみえ服装も立派で、なかなかもってわれわれ蘭学生の類でない。毎度往来に出逢うて、もとより言葉も交えず互いに睨み合うて行き違う」と、合水堂への対抗心をむき出しにしました。
 福沢らが集った緒方洪庵(1810-1863)の適塾は、合水堂から南に土佐堀川を挟んですぐの北浜にありました。福沢は1855年に入門。実は16人ほどが重複入門者として確認でき、適塾で蘭学と蘭医学を学んだ後、より実践的なものとして華岡流外科を合水堂で学んだそうです。福沢が書き残したように両者は刺々しい関係だったかどうか疑問が残るところです。
 合水堂の門弟は、地方から出てきた医者の子息らが多かったようで、身なりは合水堂が良かったのかも知れません。ようやく友人の疑問の入り口に辿り着けたのかなと思います。
 大阪市史編纂所に寄贈された『合水堂治験』には、全国からの患者の住所、氏名、症状や治療要領、処方した薬が詳細に記されています。さらに、病状も図示され、合水堂が高いレベルで医療に貢献したこと、今日の医療に大きな影響を持って繋げたことが歴史上の偉大な事実です。
 中之島が産み出した物語は無限にあるようです。ますますこの街に魅了されていきます。

                         薬剤師 宮奥善恵

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