くすり文化ゆかりの地をめぐる:③-3大阪の地をめぐる
【発掘調査を踏まえて、難波(なにわ)地方(地域)の移り変わりをみてみる】
1.時代とともに変わる「なにわ」・・・
「なにわ」の町(地域)が時代とともにどのように変わってきたのか、発掘調査の知見情報も取り入れて見てみたいと思う。まず、これまで「くすり文化」を通して見てきた「大阪の地」において、その語源や時代とともに変わる地域範囲などについて、大阪歴史博物館の大沢研一学芸員は次のように記している。[なにわの語源には波が速い意の「なみはや」、魚(ナ)が捕れる庭(ニワ)など諸説ある。漢字表記も「難波」「浪速」「奈尓波」とバラバラだ。 なにわの名がついた最初の本格的な都市は、7世紀に朝廷が置いた「難波宮(なにわのみや)」だ。場所は今の大阪城公園の南隣。8世紀にも同じ場所に難波宮が置かれた。そこから上町台地にそって、四天王寺の周辺まで町並みが広がっていた。これが古代の「なにわ」の範囲だという。 朝廷がこの地に都を置いたのは、大陸との交易に都合が良かったからだ。当時は今より海岸線が陸地側に入り込み、上町台地も海の間近だった。王仁が歌に詠んだ「難波津」は現在の高麗橋付近にあったとの説がある。浪速区はまだ大半が海や砂州だった。 後期難波宮が8世紀後半に廃止されると、なにわの地は一度すたれる。次に歴史の表舞台に登場するのは16世紀。上町台地を気に入った豊臣秀吉が、小高い丘に大坂城を建てる。もともと「大坂」は城周辺の集落名にすぎなかったが、街の発展と共に全国に知られるようになる。(in 「なにわ」ってどこのこと?(謎解きクルーズ) – 日本経済新聞 https://www.nikkei.com › article)]
ここでいう「古代のなにわ」は、本くすり文化第7回報[②大阪の地、「難波京」を中心に探索する]で示した「難波京の位置する地域」ということになる(図1)。そして、この地域には今なおその当時を物語る遺跡が発掘され、当時の「輝いていた大阪(なにわ)」をうかがい知ることができる。
では、今なおつづく「発掘」から「難波(なにわ)地方(地域)の移り変わり」をみてみよう。
2.発掘調査からの知見・報告資料
(1)難波宮発掘60年 展示でたどる苦闘の跡 (2014年7月12日 6:30)
(in難波宮発掘60年 展示でたどる苦闘の跡 – 日本経済新聞www.nikkei.com › article)
大阪市中央区に残る「難波宮(なにわのみや)跡」。7~8世紀にかけ、宮殿が建ち、一時は政治の中心地となった。今年は本格的な発掘調査から60周年を迎える節目。大阪歴史博物館(同区)は特別展を開き、瓦や土器など15のキーワードで、過去から現在を読み解く。
特別展「大阪遺産 難波宮――遺跡を読み解くキーワード」は8月18日まで。「難波宮跡は大阪市内に残る古代の痕跡で、今、目に触れることができる数少ないもの」(杉本厚典学芸員)。新しい政治を始めようとした為政者らの意気込みが感じ取れ、長期に及んだ発掘を通観できる。 難波宮の造営は645年、時の実力者、蘇我入鹿を中大兄皇子らが滅ぼした大化の改新が契機。652年には完成したとされる。しかし、孝徳天皇と中大兄皇子が不仲となり、皇子らは飛鳥に帰ってしまう。都としては短命だった。第2の首都である「複都」としても使われたが、686年に全焼した。前期難波宮だ。□□聖武天皇が治めた726年にも前期とほぼ同じ場所で造営が始まり、一時は首都にもなった。
後期難波宮と呼ばれる。784年、長岡京への遷都により、主要な建物が移築され、役割を終えた。
その後は1200年近く、所在は謎に包まれたまま。伝説とも言われてきた。光を当てたのが1954年に始まった考古学者、山根徳太郎氏(1889~1973年)らによる発掘調査。当初は瓦が大量に見つかり、後期の宮では瓦ぶきの建造物があった可能性が高いと裏付けられた。天皇が政務を執る大極殿跡や、建物の基壇に使われた石材も出土した。□□日本書紀の記述にある前期の宮の全焼を示す柱穴なども発見。「それまでの飛鳥の宮と異なり、官吏が事務を執る朝堂院と呼ばれる空間を持ち、これが内裏と南北1列に並ぶ対称的な建物配置も明らかになった。中国風の宮城は難波宮が最初」(杉本学芸員)展示は難波宮に関連する15のキーワードごとにまとめられ、どこから見て回っても、宮や発掘調査の特徴がわかる。「難波宮の前夜」では首都となる以前に「難波津(なにわづ)」という港に外交使節が往来していた当時の姿を、出土した朝鮮半島の新羅や百済の土器で示す。李陽浩学芸員は「もともと先進性があった土地なので都として選ばれた」と指摘する。□□日本書紀には「難波宮を造るために墓を壊されたり、建物が撤去されたりした人に補償した」との記載がある。大がかりな土木工事の実施を裏付ける使役用の牛馬の骨や鋤(すき)に加え、開発で古墳が壊され、遺棄された埴輪(はにわ)なども展示する*。□□発掘の中心となった山根氏の苦闘の跡にも迫る。科学研究費の増額要請への否定的回答、企業からの寄付送金の書状、土地の所有者への発掘許可申請など、様々な書簡を展示。トロイ遺跡を掘り当てたシュリーマンになぞられ、労を惜しまなかった山根氏の情熱が身近に迫る。「関係者への年賀状の内容の変遷から、調査の進捗具合や意気込みが伝わる」(李学芸員)
歴史の実証という作業には気が遠くなるような粘り強さと、多くの人々から力を集める誠実さが欠かせない。改めてそう実感する。(大阪・文化担当 毛糠秀樹)
*第136回 特集展示:古代の都 難波京(なにわきょう) ◆令和3年5月19日(水)~ 7月12日(月)◆
(in古代の都 難波京 なにわきょう – 特集展示 – 大阪歴史博物館 www.mus-his.city.osaka.jp › news › kodai_naniwakyou)
大阪歴史博物館では、令和3年5月19日(水)から7月12日(月)まで、8階特集展示室において特集展示「古代の都 難波京(なにわきょう)」を開催します。□□古代の飛鳥時代から奈良時代には上町台地の北端に難波宮(なにわのみや)が設けられました。天皇の住まいであり、政治の中心である宮の周囲には、関係する人々が住む地域―京が広がります。難波宮のまわりにも難波京という京がありました。この古代の都は現在では市街地の地下に埋もれ、その痕跡はほとんど残っていません。□□大阪市内での発掘調査が進むにつれ、難波京にかかわる資料も増えてきました。いずれも小面積の発掘調査ですが、その成果を積み上げることで、ようやく難波京の具体的な姿が見えてきました。□□今回の展示では難波京にかかわる主な発掘調査の成果を紹介するとともに、これまでの難波京のさまざまな復元案を紹介し、古代の都の探索の過程をふりかえります。1000年以上前の古代大阪の姿に思いをはせていただければと思います。□□付記:本展は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため開催中止となった令和2年度特集展示「発掘された難波京」展を再構成したものです。
主な展示資料
展示資料数:約150点 |
ざくもん)」(宮城南門)の約190メートル西にあたります。今回、この「朱雀門」から西へ延びて、宮の南限を画する塀の跡が発見されました。これは当時の宮殿の範囲や規模を知るうえで重要な発見です。出土資料はまだ整理・分析の途中ですが、現時点で明らかになった調査の成果を報告します。
前期難波宮南限の塀を発見
今回の発掘調査は、民間の開発事業用地のうち約330平方メートルを対象に実施しました。後世の攪乱(かくらん)によって遺跡の残りは良くありませんでしたが、調査地の北端付近で難波宮の遺構を確認しました(図2・3)。見つかったのは6個の柱穴で、東西に一直線をなして並んでいました。「朱雀門」の西に取り付く複廊(ふくろう)の中央(棟通り)の柱穴と、その延長上の約295メートル西の地点で発見された塀(平成9年度調査地)の柱穴を結ぶ線上に、これらの柱穴は並んでいます(図1)。このことから、今回発見された柱穴は、「朱雀門」から西へ延びて難波宮の南を画する区画施設の一部とみられます。□□柱穴は一辺が約1.1~1.4メートルあります。柱穴3と4、柱穴5と6は重複していて同時には存在せず、それぞれ柱穴4と6が新しい段階に掘られたものです。柱の間隔がほぼ同じと仮定すると、柱穴1・3・5、柱穴2・4・6という組合せとなり、後者が新しい段階です。柱穴の重複や深さを確認するために断面調査を行ったところ、新しい組合せの柱穴が、古いものに比べて約30センチメートル深いことがわかりました(図4)。□□今回発見の柱穴のうち、古い組合せの柱穴1・3・5は、「朱雀門」西端から59番目・60番目・61番目の計算上の柱位置にほぼ一致します。これらの柱穴は「朱雀門」から続く区画施設のうち、掘立柱塀の一部とみられます。一方、新しい組合せの柱穴は、塀を部分的に改修したか、塀とは別の構造物を後で付加したときのものである可能性が考えられます。別の構造物としては小規模な門などが考えられ、正門のほかにも通用門のような出入口があったことになります。この考え方のほうが新しい柱穴が深いことを理解しやすくなりますが、遺構が残る範囲が限定的なので、今回は確定できませんでした。□□重なり合った柱穴の左側が柱穴4で、左手前に柱を引き抜いた跡が見える。右側は柱穴3で、柱穴4より浅いようすがわかる。
今回の発見の意義
前期難波宮の東西南北の範囲はまだ完全にはわかっていません。しかし、西と南の限界はほぼわかっていて、西は大阪歴史博物館の敷地内で発見された南北に延びる塀SA303が西限と考えられています(図1)。南は大阪府立中央聴覚支援学校の校庭で「朱雀門」が平成5年度に発見され、そこから東西に延びる区画施設が南限とみられています。区画施設は、「朱雀門」に連続する部分は複廊で、平成9年度には、「朱雀門」から西へ約295メートルの地点で掘立柱塀の柱穴が見つかったことから、さらに外側は掘立柱塀で築造されたと推定されていましたが、その間の柱穴は確認できていませんでした。今回の発見によって、掘立柱塀による区画施設の存在が追認され、難波宮の南限とその構造が確定的となりました。地形の検討から、「朱雀門」は南の緩斜面から見上げる位置に建てられたことがわかっており、その脇の複廊から東西へ掘立柱塀が延々と続く、という威容を思い浮かべることができます。その規模は、「朱雀門」の西に295メートル以上にわたって続くことになります。また、古代の宮殿は原則として左右対称につくられていることから、前期難波宮の東西幅が600メートルを超す規模であることも確実になりました。
d49c5afe57a3f8d6ad09ad6d72701f39 426fe8f3c07c56bd9c22df11303a1cb2 33e9bf86b3364c67c0d371e9b2c4002c大坂城下町跡(中央区伏見町2丁目) 長腹いせ機構周り1・2号墳(平野区長吉長原2丁目)
./.時期:5世紀~6世紀頃./.大きさ:直径9cm、高さ9.3cm ./.時期:4世紀末葉~5世紀前葉9.3cm
胴体の片方に細長い把手がついた軟質の土器で、外面には羽子板状の叩き板でタタキ目をつけ、口の部分は内側に傾いて、蓋をのせるのに適したように作られている。このような特徴の土器は、朝鮮半島の古代国家である伽耶(カヤ)の陜川(ハプチョン)や新羅の慶州(キョンジュ)に似たものがあり、古墳時代の国際交流を物語る資料である。
隣合った2基の古墳からそれぞれ1点出土した。手前が高廻り2号墳出土で、全長約129cmである(4世紀末葉)。向こう側が同1号墳出土で、全長約100cmである(5世紀前葉)。どちらも刳抜きの船底に舷側板を付加した準構造船を模しているが、形が異なる。モデルとなった船の構造の違いを表すと考えられる。この埴輪は、他の同古墳出土埴輪とともに、国の重要文化財に指定されている。