【後編】第6回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

(3)恭仁京:出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

恭仁宮 大極殿跡(山城国分寺 金堂跡)

恭仁京(くにきょう/くにのみやこ)は、奈良時代都城の1つ。山背国相楽郡(現在の京都府木津川市加茂地区)に位置する。正式名称は「大養徳恭仁大宮(やまとのくにのおおみや)」。宮跡は山城国分寺跡と重複し、合わせて国の史跡に指定されている(指定名称は「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」)。

概要:藤原広嗣の乱の後、天平12年(740年12月15日聖武天皇の勅命により、平城京から遷都された。相楽が選ばれた理由として右大臣(のち左大臣)・橘諸兄の本拠地であったことが指摘されている。

741年(天平13年)の9月に左京右京が定められ、11月には大養徳恭仁大宮という正式名称が決定され、大極殿が平城京から移築され、大宮垣が築かれていき、宮殿が造られた。条坊地割りが行われ、木津川に大きな橋が架けられた。しかし、都としては完成しないまま743年(天平15年)の末にはこの京の造営は中止されて、聖武天皇は近江紫香楽宮に移り、742年(天平14)秋には近江国で宮の建設が始まり、さらに744年(天平16年)2月に、穂積老を留守官に任じて難波京に遷都、さらに745年(天平17年)5月に都は平城京に戻された。

遷都後、748年(天平18年)恭仁宮大極殿は山背国分寺に施入されている。

宮は平城宮を簡略化した程度で、南北750メートル、東西560メートルの南北に長い長方形であった。朝堂院も平城宮より東西に幅が狭く、板塀で囲まれていた。西側は狭い谷間、東側は木津川の氾濫原によって宮や京の造営が制約され、全体的に小規模であったとみられ、条坊制を示す遺構も確認されていない。

大極殿跡






 第1次平城宮大極殿(復元)
内裏地区
恭仁京大極殿は第1次平城宮の移築とされる。

 発掘・調査:2015年10月8日、京都府教育委員会は、新年を祝う儀式である「元日朝賀」に用いる旗やのぼりを立てたとみられる柱穴の跡が恭仁宮跡で見つかったと発表した。このような遺構の発見は、還都後の平城京、長岡京の遺跡に次ぐ3例目であり、「正月を祝う習俗の跡としては国内最古」という。京都府教育委員会は、741年(天平13年)と742年(天平14年)の正月に儀式をした跡とみている。
文化財:国の史跡  恭仁宮跡(山城国分寺跡)
1957年(昭和32年)7月1日、「山城国分寺跡」として国の史跡に指定。
2007年(平成19年)2月6日、史跡範囲の追加指定および指定名称を「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」に変更。
2008年(平成20年)7月28日・2010年(平成22年)2月22日・2015年(平成27年)3月10日・2017年(平成29年)2月9日・2018年(平成30年)2月13日、史跡範囲の追加指定。
交通アクセス:JR関西本線(大和路線) 加茂駅 徒歩30分
周辺情報:木津川市立恭仁小学校(隣接) 海住山寺  常念寺  恭仁京東北道
(4)難波京:出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
難波京(なにわきょう、なにわのみやこ)は、古代日本において難波(現在の大阪府大阪市)の地に設営された都城である。飛鳥時代に宮が設置された(前期難波宮)が、京の存在は確認されていない。奈良時代に設置された宮(後期難波宮)と合わせて京として実質を伴ったとする見解が有力である。
沿革:古代の主要交通路だった瀬戸内海の東端に位置する難波には古くから倭国王の王宮が営まれており、古墳時代、仁徳天皇が最初に難波 (なにわ) に宮を置いたとする伝承があり (難波高津宮) (なにわのたかつのみや)(『日本書紀』)、飛鳥時代、孝徳天皇が難波長柄豊埼宮を設けた。天武天皇は683年(天武天皇12年)に「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」と詔して、難波を例外な双京の都とし、677年(天武天皇6年)に丹比公麻呂が摂津職大夫となっていたのを正式に京官摂津職としこれを配した。難波京は度々遷都により相対する京が転じる中で継続的に維持され続けた。
奈良時代前期の726年(神亀3年)、聖武天皇が藤原宇合に命じ、難波宮に瓦葺の離宮を造営した。744年(天平16)には恭仁京から難波京への遷都が実施された。発掘調査によれば、奈良時代の後期難波宮周辺には正東西南北方位(正方位)にのびる溝が広い範囲で多数検出されており、建物跡も正方位に築かれたものが多い。さらに、溝からは墨書土器を含む多数の土器が出土しており、相当数の人間が生活していたことが想定されている。また、官人へ宅地を支給したとする記録もある(『続日本紀』)。難波京想定地は都市化が進んでいることから発掘は困難を極めており、近年になり発見が相次いでいる。2010年には天王寺区上町遺跡において後期難波宮の条坊に架かっていた橋の橋脚の痕跡が発見され、2013年には四天王寺から南へ500m地点の想定される難波京の南端において大規模な建物群跡を発見した。2014年には前期難波宮の朱雀門跡(1993年発見)から南に約140メートルの地点に朱雀大路の側溝が発見された。
聖武天皇は遷都の翌年745年に再び平城京に座を遷るが、その後も陪都として、また遣唐使や海運の港として外交物流において栄えた。その後、平城京から長岡京、長岡京から平安京への遷都を行った後、793年に摂津職を廃し摂津国府に転じ朝廷直轄116年の歴史の幕を閉じた。
(5)紫香楽宮:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
紫香楽宮(しがらきのみや、信楽宮)は、奈良時代に聖武天皇が近江国甲賀郡(現在の滋賀県甲賀市)に営んだ離宮。のちに「甲賀宮(こうかのみや)」とも。
名称:「紫香楽」の地名表記については、正倉院文書には「信楽宮」としたものが3件ある一方で、「紫香楽」と表記したものが全く無いため、続日本紀が編纂されたときの修辞の可能性が考えられる。また744年(天平16年)を境に、宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が造営されたものとも言われる。
歴史:

中国、龍門石窟の盧舎那仏
紫香楽宮跡宮町地区(宮町遺跡)(滋賀県甲賀市)

 紫香楽宮:740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。これが紫香楽宮である。
翌743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものとみられる。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。
甲賀宮:744年(天平16年)、信楽宮から甲賀宮へ宮名の変化が徐々にあらわれ、11月には甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられた。
745年(天平17年)1月には新京と呼ばれ、宮門に大楯と槍が立てられ、甲賀宮が都とされた。更に同年4月15日には、流罪となっていた塩焼王を許して京に入ることを許していることから、実態は不明ながら京(紫香楽京)の範囲が設定されていたとみられる。しかし人臣の賛同を得られず、また山火事や天平地震などの天災と不幸なことが相次ぎ、同年5月に平城京へ戻ることになった。このため甲賀寺の盧舎那仏の計画は、「奈良の大仏」東大寺盧舎那仏像として完成されることになった。
紫香楽の地は、当時の感覚においては余りに山奥である事から、ここを都としたことを巡っては諸説があり、恭仁京周辺に根拠を持つ橘氏に対抗して藤原仲麻呂ら藤原氏に関与したとする説や天皇が自らの仏教信仰の拠点を求めて良弁・行基などの僧侶の助言を受けて選定したとする説などがある(なお、藤原氏と同氏出身の光明皇后に関しては紫香楽宮放棄と大仏計画中止の原因になった紫香楽周辺での不審な山火事に関与したとする説もある)。
遺構:かつては甲賀市信楽町内裏野地区の遺跡が紫香楽宮跡と考えられていたが(1926年「紫香楽宮跡」として国の史跡に指定)、北約2kmに位置する宮町遺跡から大規模な建物跡が検出され、税納入を示す木簡が大量に出土したことなどから、宮町遺跡が宮跡と考えられるようになり、内裏野地区の遺跡は甲賀寺(甲可寺)跡であるという説が有力である。2005年には宮町遺跡を含む19.3ヘクタールが史跡「紫香楽宮跡」に追加指定されている。
現在でも、「宮町」「勅旨」「内裏野」などの地名が残り、往事の宮城の名残を残している。
交通:信楽高原鐵道/信楽線・紫香楽宮跡駅下車 徒歩20分
周辺情報:恭仁京東北道  
(6)長岡京:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長岡宮跡碑(京都府向日市鶏冠井町)

 長岡京(ながおかきょう)は、山城国乙訓郡(現在の京都府向日市、長岡京市、京都市西京区)にあった古代日本の都城。宮域跡は向日市鶏冠井町(かいでちょう)に位置し、「長岡宮跡」として国の史跡に指定されている。
延暦3年(784年)11月11日に平城京から遷都され、延暦13年(794年)10月22日に平安京に遷都されるまで機能した。
概要:長岡京は桓武天皇の勅命により、平城京から北へ40キロメートルの長岡の地[注 1]に遷都して造営され[注 2]、平城京の地理的弱点を克服しようとした都市であった。長岡京の近くには桂川や宇治川など、3本の大きな川が淀川となる合流点があった。全国からの物資を荷揚げする港「山崎津」を設け、ここで小さな船に積み替える。そこから川をさかのぼると直接、都の中に入ることができた。長岡京にはこうした川が3本流れ、船で効率よく物資を運ぶことができ、陸路を使わざるを得なかった平城京の問題を解消できた。
発掘調査では、ほぼ各家に井戸が見つかっていることから、そこに住む人々も豊かな水の恩恵を受けていたと言える。平城京で問題となっていた下水にも対策が立てられた。道路脇の流れる水を家の中に引き込み、排泄物を流すようになっていた。長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を自然に南東へ流れ、これによって汚物は川へ押し流され、都は清潔さを保っていた。
桓武天皇は自らの宮殿を街より15メートルほど高い地に築き、天皇の権威を目に見える形で示し、長岡京が天皇の都であることを強調した。
歴史:「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し、種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある場所でもあった。その他の理由として、
• 既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
• 新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係
• 父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人心一新
• 難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国が東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国の経路が成立したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)
などの説がある。784年(延暦3年)は甲子革令の年であり、桓武天皇は天武系とは異なる天智系の天皇であった。
785年(延暦4年)の正月に宮殿で新年の儀式を行ったが、これは都の建築開始からわずか半年で宮殿が完成していたことを意味する。その宮殿建設では、反対勢力や遷都による奈良の人々への影響を意識した段取りをする。当時、宮殿の建設では元あった宮殿を解体して移築するのが一般的であったが、平城京から宮殿を移築するのではなく、難波宮の宮殿を移築した。また、遷都の際に桓武天皇は朝廷内の改革に取り組み、藤原種継とその一族を重用し、反対する勢力を遠ざけた。
しかし、同年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、792年(延暦11年)6月10日にその原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2ヵ月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害を蒙ったことから、治水担当者であった和気清麻呂の建議もあって、793年(延暦12年)1月15日には再遷都のための公式調査が葛野郡宇太村で行われた。2月には賀茂大神への再遷都奉告、3月には再遷都先の百姓に立ち退き補償が行われ、再遷都作業が始まった。そして長岡京への遷都からわずか10年後となる翌794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。もっとも、789年(延暦8年)の造営大工への叙位記事を最後に長岡京の工事に関する記録は姿を消しており、791年(延暦10年)平城宮の諸門を解体して長岡宮に運ばせたものの、実際には平安宮にそのまま転用されていることから、延暦10年の段階で既に長岡京の廃止決定と新たな都の計画が進められていたと考えられている。
発掘調査:長岡京は近年まで「幻の都」とされていたが、1954年(昭和29年)より、西京高校教員であった中山修一(後、京都文教短期大学名誉教授)と、その教え子であった袖岡正清(NHKブックス74[長岡京発掘]より抜粋)を中心として発掘が開始され、翌1955年(昭和30年)、大内裏朝堂院の門跡が発見されたのを皮切りとして、1962年(昭和37年)大極殿[4]跡が発見され、今日までにかなり発掘調査が進み、1964年(昭和39年)に国の史跡に指定された。1967年(昭和42年)内裏内郭築地(ついじ)回廊北西部が確認され、1979年(昭和54年)内裏南方の重要官衙の存在を証明する遺構として大規模な築地塀が発見された。
発掘の結果わかったことは次の通りである。
• 未完成で放棄されたとした従来の定説と異なり、難波宮や他の旧宮、平城京の建造物を移築し、かなり完成した姿であった
• 平城京、平安京と並ぶ京域を持つ都であった。
遺跡の一角で2003年に日本電産の本社建設が行われることとなり、事前に調査が行われた。出土した墨書土器の文字によって、桓武天皇が長岡京から平安京に移る1年余りの間滞在した長岡京東院であることが判明した。日本電産では学会などの保存要望に応えようと、地下に遺跡を保存するため当初の設計を大幅に変更して施工された。社屋では発掘された出土品一部を展示している。

大極殿跡
後殿跡
宝幢(復元)
朝堂院跡
朝堂院 西第四堂跡
 朝堂院 会昌門跡 
長岡京朝堂院復元模型(向日市文化資料館)最奥の殿舎は大極殿

 (7)吉野宮:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉野離宮顕彰碑(奈良県吉野町)
宮滝遺跡 吉野宮正殿推定地(2018年現在)

吉野宮(よしののみや)は、大和国・吉野川の側に置かれた古代日本の離宮。

概要:『日本書紀』には応神天皇や雄略天皇の吉野行幸の記事が見られるものの、確実に離宮が存在したと言えるのは、斉明天皇2年(656年)にある吉野宮造営の記事以降のことになる。その後、天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)が妃の鵜野皇女(後の持統天皇)や子供の草壁皇子ともに吉野宮に隠棲したが、後に弘文天皇(大友皇子)と対立してここで挙兵した(壬申の乱)。こうした事情もあってか、天武天皇は同8年(679年)に皇后となった鵜野皇女や草壁皇子らを連れて吉野宮に行幸した(吉野の盟約)。その後、天武天皇および皇太子となっていた草壁皇子が相次いで没し、やむなく鵜野皇女が即位して持統天皇になったが、在位中に31回、孫の文武天皇に譲位後の大宝元年(701年)にも行幸しており、通算して33回の吉野宮行幸を行っている。文武天皇・元正天皇・聖武天皇によってその後も吉野宮への行幸が行われ、吉野宮の管理のために芳野監という官司が設けられたことが知られている。
吉野宮がどこにあったかについては過去において様々な説が行われてきたが、吉野川の右岸(北側)にある宮滝遺跡(奈良県吉野郡吉野町)の発掘調査によって複数期にわたる建物群の遺構および瓦や土器などの出土品が発見され、同遺跡が吉野宮の遺跡であることが確実なものとなった。
(8)保良宮:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
保良宮(ほらのみや)は、奈良時代に近江国(滋賀県)に淳仁天皇が営んだ宮で、平城京の北の都「北京」(ほくきょう)とされた。保良京、保良離宮とも呼ばれた。また、天智天皇の大津宮に近かったことから、大津宮と記した古文書(天平宝字6年(762年)3月1日付「造東大寺司告朔解」(『大日本古文書』第5巻125))もある。
背景:聖武太上天皇の晩年、藤原仲麻呂が光明皇后の支持を得て台頭。聖武太上天皇の死後、天平勝宝9年(757年)、橘奈良麻呂の乱を平定し政権を掌握した仲麻呂は、大炊王を擁立。天平宝字2年(758年)、孝謙天皇からの譲位を受ける形で即位させる(淳仁天皇)。
孝謙上皇と淳仁天皇の時代の天平宝字3年(759年)11月16日、藤原氏と縁が深く(仲麻呂の祖父不比等は淡海公、父武智麻呂は近江守)仲麻呂も近江国守であったことから、近江国に保良宮の造営が開始された。保良宮の近くにあった勢多津は東山道・北陸道方面からの物資の集積地であり、保良宮造営以前より朝廷や貴族・寺院が倉庫や別荘の形で勢多付近に施設を有していたと考えられている。また、保良宮行幸後には民部省(仁部省)や式部省(文部省)などの官司(あるいはその出先機関)が置かれていた。
行幸と廃都:天平宝字5年(761年)
• 1月21日、保良京で諸司の役人に宅地を班給する。
• 10月11日、保良遷都のためとして、藤原仲麻呂らに稲束を支給。
• 10月13日、淳仁天皇と孝謙上皇が保良宮に行幸。
• 10月28日、天皇は平城宮の改作のため、しばらく保良宮に移ると詔し、更に「朕思う所有り、北京を造らんと議る」と勅して、都に近い2郡(滋賀郡と栗太郡と見られる)を割いて永く畿県とし、庸を停めて平城京に準じた調を納めるようにした。これは唐の陪都「北京太原府」を意識したものとみられる。
天平宝字6年
• 1月1日、保良宮が未完成のため朝賀の儀をとりやめる。
• 3月3日、保良宮の西南に新しく池亭を造り、曲水の宴を設ける。
• 3月25日、保良宮の諸殿と屋垣の工事を諸国に分配して一時に完成させる。
• 5月23日、淳仁天皇と孝謙上皇の不仲で平城宮に戻ることになり、淳仁天皇は中宮院に、孝謙上皇は出家して法華寺に入る。前年に孝謙上皇が病気に倒れ、弓削道鏡の看病を受けて平癒。2人の関係を批判した淳仁天皇と上皇が対立していた。
天平宝字8年
• このころ、孝謙上皇と関係が深い吉備真備が台頭。藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)勃発。仲麻呂の敗退により造営中止。廃都。
遺跡:琵琶湖から流れ出す瀬田川右岸に位置し、滋賀県大津市の石山国分遺跡の周辺に比肩する説が有力。ここからは築地塀の跡や平城京と共通の天平宝字年間前後の瓦が出土しており関連した施設の跡であると考えられる。周辺には石山寺や近江国分寺、瀬田川対岸には近江国庁があり環境も整っており、国分2丁目には「へそ石」とよばれる保良宮の礎石の一つと伝えられている石が残っている。さらに関津遺跡の幅18メートルの道路跡も関連する遺跡であると考えられる。
• 紫香楽宮跡近くの玉桂寺(滋賀県甲賀市信楽町勅旨)を跡とする説がある。同寺には「保良宮跡に空海が一堂を建立した」との言い伝えがある。
• 宝亀11年12月25日(781年)付で作成された『西大寺資材流記帳』(『寧楽遺文』所収)に神護景雲2年(768年)に近江国の荘園2件を称徳天皇(孝謙上皇)の勅によって西大寺に寄進したことを記した太政官符の写しが含まれている。その中の一つと推定されている滋賀郡保良荘が保良宮の跡地と言われている。
• 琵琶湖の北部にある長浜市西浅井町管浦の須賀神社がこれに当たるとの伝承がある。神域は裸足で参拝しなければならないとの慣わしが現在も厳しく守られている。また、この神社では50年ごとに「淳仁天皇祭」が斎行されており、平成25年(2013年)に1250年祭が奉祀された。

洞神社近津尾神社境内社
保良宮趾碑 洞神社旧社地
伝保良宮礎石実際は近江国分寺の塔心礎失敗作か

(9)大津宮:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

近江大津宮 内裏正殿跡
(錦織遺跡第2地点)

近江大津宮(おうみおおつのみや/おうみのおおつのみや)は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。天智天皇6年(667年)に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位し、近江令や庚午年籍など律令制の基礎となる施策を実行。天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子(弘文天皇)は天武天皇元年(672年)の壬申の乱で大海人皇子に敗れたため、5年余りで廃都となった。
史料上は「近江大津宮」のほか「大津宮(おおつのみや)」・「志賀の都(しがのみやこ)」とも表記されるが、本来の表記は「水海大津宮(おうみのおおつのみや)」であったとの指摘もある。1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。
概要:背景:斉明天皇6年(660年)百済が新羅と唐に攻められて亡んだ。倭国(後の日本)にとって百済は同盟国であり、国外にある防波堤でもあったため、当時の倭国の政治指導者である中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済復興を強力に支援しようと、朝鮮半島へ出兵した。しかし、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いにおいて倭・百済連合軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済復興は失敗に終わった。
百済復興戦争の敗北は、中大兄政権にとって大変な失策であり、国外に大きな脅威を抱えることとなった。そのため、北部九州から瀬戸内海沿岸にかけて多数の朝鮮式山城(例えば、筑前にあった大野城)や連絡施設を築くとともに、最前線の大宰府には水城という防衛施設を設置して、防備を固めた。
遷都:このような状況下で、天智天皇6年(667年)3月19日、中大兄皇子は都を近江大津へ移した。その翌年(668年)1月、称制実に7年にわたったが、中大兄皇子は即位して天智天皇となった。日本で最初の律令法典となる近江令(おうみりょう)が制定されたともいわれる。 なお、この遷都の理由はよく判っていないが、国外の脅威に対抗しうる政治体制を新たに構築するため、抵抗勢力の多い飛鳥から遠い大津を選んだとする説が有力である。また、大津を遷都先に選んだ理由については、対外関係上の危機感が強く働いていたと思われる。大津は琵琶湖に面しており、陸上・湖上に東山道や北陸道の諸国へ向かう交通路が通じており、西方へも交通の便が良いためとする説がある。日本書紀によるとこの遷都には民衆から大きな不満があり、昼夜を問わず出火があったという。
廃絶とその後:天智天皇10年(671年)天皇が崩御すると、子の大友皇子が近江朝廷の首班となった。生前の天智天皇から皇太子に指名されていた大海人皇子は近江朝廷に反旗を翻し、天武天皇元年(672年)6月に吉野から東国へ脱出。美濃国を拠点に軍兵を徴発して近江へ進軍し、同年7月、近江朝廷軍を破って大友皇子を自殺に追い込んだ(壬申の乱)。勝利した大海人は即位して飛鳥に浄御原宮を造営したため、大津宮は僅か5年で廃都となった。この期間を近江朝(おうみちょう)と呼ぶこともある。
万葉集には、柿本人麻呂が滅亡後の近江大津宮へ訪れて往事を偲んだ歌「ささなみの 志賀の大曲 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも」が残されている。奈良時代には近江国の国府が近郊の瀬田(現在の大津市瀬田)に置かれ、大津宮の跡地は「古津(古い港の意味)」と呼ばれるようになった。しかし平安京遷都とほぼ同時期の延暦13年(794年)11月8日、桓武天皇(天智天皇の曾孫)の詔によって「大津」の呼称に復され、それ以降、大津地域は京都の外港や衛星都市・双子都市として発展していく。
所在地と遺構:

1895年(明治28年)建立の志賀宮址碑
塀跡を検出した錦織遺跡第4地点

日本書紀や『懐風藻』『藤氏家伝』などには「内裏」「宮門」「大殿」「仏殿」「漏剋台」「内裏西殿」「大蔵省」「浜楼」など宮の構造をある程度推定し得る施設名が見えているが、所在地については何ら明示されていない。ただ、『今昔物語集』『元亨釈書』や園城寺の寺誌には、大津宮西北の滋賀山中金泉谷(現在の大形谷)に崇福寺が建立されたとの記載があり、この位置関係を唯一の根拠として、近世以来、錦織(御所ノ内)説、南滋賀説、滋賀里説、穴太説、粟津説などが唱えられた。
1974年(昭和49年)錦織一丁目の住宅地の一画で発掘調査が行われ、初めて内裏南門跡と考えられる13基の柱穴が発見された。柱穴からは670年頃の時期を示す須恵器・土師器片が出土したため、錦織遺跡が大津宮の遺構と断定されるに至った。住宅街のため早急な調査範囲の拡大は困難だったが、住宅の新築や増改築などに伴って発掘が積み重ねられた結果、南門から東西に伸びる回廊(複廊)を境に、北側には内裏正殿とそれを囲む板塀、南側には朝堂院と想定される空間が広がっていることなどが判明した。遺構の復原に携わった林博通によれば、大津宮は構造上、前期難波宮(孝徳天皇の難波長柄豊碕宮)との類似点が多く見出され、前期難波宮をやや変形・縮小して造営されたものと評価されている。錦織地区は西側の丘陵が湖岸付近まで迫り平地が極端に狭いため、遺構の立地可能な範囲は最大限でも南北700m、東西400m程度とみられる。1979年(昭和54年)に近江大津宮錦織遺跡として国の史跡に指定され、一部は公園化するなど保存が図られている。
近江京と「大津京」:日本書紀には天智天皇の近江の都を「近江京」と表記しているが、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できない。このことから、近江京とは「おうみのみやこ」の意味であると考えられる。
明治時代に喜田貞吉(歴史学者)が条坊制の存在を信じて文献史料にはみえない「大津京」という語を用いて以降、歴史地理学や考古学の研究者がこの語を用いるようになった。近年では条坊制の存在を否定する研究者までがこの語を用いているためその概念や定義は極めて曖昧となり、研究に混乱をきたしている。
また、JR西日本湖西線の西大津駅は、地元自治体の請願により2008年3月に「大津京駅」に改称されたが(その後京阪石山坂本線の皇子山駅も2018年3月に「京阪大津京駅」に改称)、「大津京」という用語や概念をめぐり更なる誤解や混乱を生む恐れが指摘されている。 ※詳しくは、大津京駅#駅名改称に関する議論および脚注参照。
(10)由義宮:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

由義宮旧址碑
(大阪府八尾市の由義神社境内)

由義宮(ゆげのみや、ゆげぐう)は、河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)にあったとされる離宮。平城京の西の都「西京」(にしのきょう)とされた。奈良時代の神護景雲3年(769年)から宝亀元年(770年)頃まで存続した。八尾市八尾木北にある由義神社の境内に「由義宮旧址」の石碑が建っているが、『続日本紀』などの史書には具体的な所在地は記されていない。2017年時点までの発掘調査では、由義神社から南へやや離れた場所にある東弓削遺跡が、弓削寺(由義寺)及びその近くに造営された由義宮の所在地であった可能性が有力視されている。
概要:称徳天皇はこの地の出身の僧・道鏡を寵愛し、太政大臣禅師さらに法王に任じ、天皇に準じた待遇を与えた。
765年(天平神護元年)の紀伊行幸に際し、行宮を設けて立ち寄ると、弓削寺に参詣した。769年(神護景雲3年)、和気清麻呂の宇佐八幡宮神託事件直後、離宮を建て由義宮とした。離宮は道鏡の郷里である若江郡を中心に、高安郡、大県郡の広範囲にまたがって設営された。河内国を河内職と改め、特別な行政地域とし、長官に藤原雄田麻呂(後の百川)を河内大夫に任じた。
称徳天皇は770年(神護景雲4年)2月から4月にかけてに由義宮に行幸し、その時に船連浄足ら帰化人の男女230名余が歌垣を催したと『続日本紀』に記されている。 しかし、8月に天皇は崩御。道鏡が下野国へ下向した直後に河内職は河内国に戻されている。
参考資料:『日本大百科全書』小学館  ・『続日本紀』4 新日本古典文学大系14 岩波書店、1995年
• 『続日本紀』全現代語訳(中)(下)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年、1995年
【奈良(県)地方とくすり文化】
奈良(県)地方とくすり文化の関わりは古くて深いものがある。奈良県では、その辺のところを「奈良のく
すりのプロフィール2」の小冊子にまとめ、[1.奈良と薬の古い関係、2.伝統的な薬、3.優良な生薬、4.大和の置き薬、5.医薬品の生産、6.製造工場に対する応援、7.「奈良のくすり」めぐり、8.薬の年表、9.医薬品製造業一覧]の項目で調べられている。
その中に次のような紹介がある。[奈良と薬の関わりあいは古く、日本書紀には、推古天皇が現在の宇陀地方で薬狩りをされた(611年)という記述がある[推古天皇の薬狩り]。古くは、寺院が薬と深い関係を持っていた。中国から医薬術の導入、薬の輸入などをして、民衆を病から救済しようという寺院があった。有名な東大寺の正倉院には、当時のくすりが納められています[東大寺正倉院]。いくつかの寺院では、それぞれ秘伝の処方による薬が作られ、施薬が行われた。(in「奈良のくすり」めぐり-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6 奈良のくすりのプロフィール2p.1)] さらに、宇陀市のホームページには、[宇陀市は日本最初の薬猟(くすりがり)の記録があり、宇陀を舞台として薬猟が開始され、宇陀の地が王権の猟場であったことが日本書紀にある。宇陀地域からは何人もの製薬企業[ロート製薬、ツムラ(旧津村順天堂)、アステラス製薬(旧藤沢薬品)等]の創設者を輩出し、宇陀松山地区には、日本最古の「森野旧薬園」や薬問屋であった細川家跡の「薬の館」も存在します。このようなことから、宇陀市と薬は推古天皇時代から現在まで続いているものであり、薬の発祥の地として、薬草を活用したまちづくりを推進してきました。 (in飛鳥時代から続く薬草のまち宇陀市/平成の薬草のまちを目指してwww.city.uda.nara.jp › yakusou › introduction)]

(in「奈良のくすり」めぐり-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6 奈良のくすりのプロフィール2p.25)

 では、大和時代そして飛鳥・奈良時代にゆかりの深い奈良(県)地方を散策してめぐってみよう。

大和(やまと)は大きく3地区[北和(ほくわ)地区《奈良市・生駒市周辺》中和(ちゅうわ)地区《橿原市・明日香村・高取町・桜井市・宇陀市・天理市・大和郡山市・田原本町・大和高田市・御所市・五條市周辺》南和(なんわ)地区《吉野郡周辺》]に区別されるようである。(In全国薬品工業株式会社 大和のくすり歴史概要・古代ロマン …http://www.zenkoku-yakuhin.co.jp › newpage2)

in全県地図/奈良県公式ホームページ www.pref.nara.jp ›

その中で、市の特色として「くすり」を取り上げている「宇陀市」「高取町」を散策してみる。

[宇陀市]:宇陀市は、奈良県北東部に位置する町 [所在地:市奈良県宇陀市榛原下井足17番地の3、面積:247.6 km²、総人口:27,828人(推計人口、2021年2月1日)、人口密度:112人/km2人口:3.127万 (2015年4月1日)] 歴史:「宇陀」という地名自体は万葉の時代から存在し、歌人・柿本人麻呂が現在の大宇陀の阿騎野で「東の野にかぎろひの立つ見へて返り見すれば月傾きぬ」という秀歌を詠んだことは非常に有名である。また、大宇陀は城下町としても栄えた。榛原も万葉の時代からその名を残しているが、伊勢街道が本街道と青越え道に分岐する分岐点にある宿場町として近世に栄えた。本居宣長が宿泊した宿など、歴史的建造物も現存する。また、菟田野、室生も歴史上古くから存在し、多くの遺跡や文化財が存在する。 (in ウィキペディア)

一方、市のホームページには次のような記載がある。(in宇陀市/平成の薬草のまちを目指してwww.city.uda.nara.jp › yakusou › introduction 2016/09/15)

平成の薬草のまちを目指して:飛鳥時代から続く薬草のまち宇陀市

日本書紀によると、宇陀市は日本最初の薬猟(くすりがり)の記録があり、宇陀を舞台として薬猟が開始され、宇陀の地が王権の猟場であったことを示しています。宇陀地域からは何人もの製薬企業[ロート製薬、ツムラ(旧津村順天堂)、アステラス製薬(旧藤沢薬品)等]の創設者を輩出し、宇陀松山地区には、日本最古の「森野旧薬園」や薬問屋であった細川家跡の「薬の館」も存在します。

このようなことから、宇陀市と薬は推古天皇時代から現在まで続いているものであり、薬の発祥の地として、薬草を活用したまちづくりを推進してきました。 

飛鳥時代の薬狩りの様子

市役所庁舎2階には、東京の星薬科大学本館スロープに描かれた飛鳥時代の「薬狩り」「鹿茸狩り」を題材にした壁画を縮小したレプリカを展示しています。 この壁画は、星薬科大学設立者の星一氏の提案により関口隆嗣、清原重以知、服部亮英、内藤隶、笹岡了一、笹鹿彪の6名の画家が描いたもので、実物は幅が約9mもある大きな作品です。

大和当帰の栽培

本市では、現在70名余りの生産者が大和当帰(トウキ)を栽培しており、当帰の葉が2012年1月の薬事法改正で食用化が可能となりました。トウキの市場性は、今まで根のみを販売していましたが、これにより葉を利用した市場の増加が見込まれると予想されます。

トウキは、冷え性、血行障害、強壮、鎮痛薬などの漢方薬「当帰」として処方され、主に婦人科系疾患に効果があると言われています。特に効能から女性に特化した商品は付加価値を付け販売する事が可能であると思われ、今後、市内の特産品として薬草を活用した6次産業化を目指し、市民の健康維持や生産者の所得向上を目指していきます。 

関連リンク:宇陀市薬草協議会公式Facebook(外部サイトへリンク)
お問い合わせ:農林商工部商工産業課 宇陀市榛原下井足17番地の3
電話番号:0745-82-5874/IP電話:0745-88-9075 ファックス:0745-82-8211

[高取町]:高取町は、奈良県の中部に位置する町。[所在地:奈良県高市郡高取町大字観覚寺990番地1号
面積:25.77 km²、人口:6964 (2017年3月31日)]
歴史:古代:飛鳥の南に位置しており、町内にも古墳が多数見られる。また、飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる位置でもあった。渡来人の東漢氏がこの地域に定着した。『日本書紀』には、676年に高取山周辺の森林伐採を禁止する記述(日本最古の保安林的制度)が見られることから、古くから周辺の人口集中を支える地域として発展していたことが伺える。 またこの地に波多郷も有り波多氏一族が住んでいた。『日本書紀』推古天皇20年(612年)5月5日条に“薬猟(くすりがり)をして後、羽田に集い、引き続いて朝廷に赴いた”という記述がある。 この時の羽田を『和名類聚抄』では大和国高市郡波多郷としている。また『大同類聚方』によると、高市郡の波多神社には新羅伝来の「志路木藥」が伝わる。 『和名抄』に大和国高市郡波多郷は後世、波多庄を称し、至徳三年(1386年)文書に畑庄と見ゆ、(高取町市尾から羽内の辺り及び明日香村南部まで)波多郷稲淵山との記述が有る『五郡神社記』。 『大日本地名辞書 上方』には「波多《ハタ》郷 和名抄、高市郡波多郷。今高取村舟倉村是なり。霊異記に高市郡波多里、又今昔物語高市郡八多郷に小島小寺ありと見ゆ、小島は今高取村に大字存す」とある。 また波多神社の有る冬野の麓には畑という地名が残るのでこの辺りまで波多郷であったと思われる。
中・近世:大和国内で有力であった越智氏の勢力圏に属する。越智氏の本城は貝吹山城(橿原市との境に位置)であったが、その支城として高取山城が築かれていた。越智氏は北部の筒井氏とたびたび対立していたが、これに敗れ衰亡していく。 豊臣秀吉の弟秀長が大和の国主となり郡山城に入ると高取周辺もその領地となり、高取山城も改修の手が加えられ日本三大山城に数えられる高取城が姿を見せた。なお同城には秀長の家臣本多氏が入った。 江戸時代には引き続き本多氏が続くも断絶、天領の時期を経て譜代の植村氏が2万5千石で封ぜられる。この高取藩は一時分知により2万500石となるが再度加増を受け2万5000石に復帰、明治維新まで続いた。
近代:江戸時代末に起こった天誅組事件の舞台の一つとなる。五條代官所を襲撃した天誅組の一団が高取城を目指し進撃するも高取藩兵の迎撃を受け敗退、吉野方面に退却していった。(in ウィキペディア)

参考資料:
(1)人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history
(2)奈良県薬業史略年表
(3)八野芳已:くすり文化 第1回報 くすり文化の時代考証 縄文時代から弥生時代2020.2.8
(4)八野芳已:くすり文化 第4回報 わが国の薬の歴史(2)-1大和時代編、2021.1.4
(5)八野芳已:くすり文化 第5回報 わが国の薬の歴史(2)-2飛鳥・奈良時代編、2021.2.12
(6) 「奈良のくすり」めぐり-奈良県www.pref.nara.jp › secure › test6
(7)宇陀市/平成の薬草のまちを目指して
www.city.uda.nara.jp › yakusou › introduction
(8)「古代都城位置図」について、「長岡京」とは | 長岡京市公式ホームページwww.city.nagaokakyo.lg.jp ›

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