【後編】第34回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

[文献1]

1862 司馬凌海 『七新藥』  in 1862年 司馬凌海 『七新藥』

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七新薬 3 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

Miradorビューワ · 七新薬 3巻. レコードID. RB00002885. 出版年. 1862. タイトルヨミ.

京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

額田文庫デジタルコレクション | 額田記念東邦大学資料室

1862年(文久2年)刊。本書は、当時日本に紹介された新薬や新処方のなかから、7種類の新薬について薬効を論じたもの。 上…

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[文献2]:額田文庫デジタルコレクション

額田文庫デジタルコレクション

七新藥 3巻(シチシンヤク 3カン) / 司馬凌海著 ; 關寛齋校

出版地・出版社:大阪 秋田屋太右衛門

出版年:3冊, 220mm

冊数・大きさ:3冊、181mm

注記:外題 : 七新藥上、七新藥中、七新藥下、版心に、尚新堂藏 とあり。
藏原芳枝の序と、司馬凌海の自序あり。見返しに、文久二壬戌孟春新雕 凌海司馬虧公損著 七新藥 尚新堂藏 とあり。

 1862年(文久2年)刊。本書は、当時日本に紹介された新薬や新処方のなかから、7種類の新薬について薬効を論じたもの
 上巻は沃顛(ヨード)、中巻は硝酸銀酒石酸塩;、規尼(キニーネ)、下巻は珊多尼(サントニン)莫非(モルヒネ)肝油で構成される。
 著者が典拠としたのは、長崎海軍伝習所の医師ポンペ(Johannes L. C. Pompe van Meerdervoort)の学説をはじめとするドイツ、オランダ、イギリス、フランス等の最新の学説と各国の薬局方。序文で参考書籍名をあげている。本書で用いられた薬の名前は、薬の成分の分析結果にもとづいた科学的な方法によって新たに名づけられたものである。
 著者の司馬凌海(1840-1879)は佐渡生まれ。江戸で漢学、医学、オランダ語を学び、後に長崎でオランダ医学を学ぶ。英・独・仏・蘭・露・中の6ヶ国語に精通し、日本最初のドイツ語辞典である『和譯獨逸辭典』を出版している。

[文献3]:日本医史学雑誌 第 65 巻第 2 号(2019)p.188 ポンペの『簡約薬物学提要』と 司馬凌海の『七新薬』と『朋百氏薬論』 相川 忠臣 日本赤十字社長崎原爆病院 ポンペのオランダ語薬物学講義ノートは Beknopte handleiding tot de geneesmiddelleer『簡約薬物学提 要』として 1862 年末,Desima の Nederlandsche Drukkerij(出島阿蘭陀出版所)から出版された.ポンペ のオランダ語各科講義ノート中出版されたのはこの書のみであり,ポンペの日本語に翻訳した各科の講 義録は日本各地で見つかるが,出版されたのは司馬凌海の『七新薬』と『朋百氏薬論』だけである.ポン ペによれば『簡約薬物学提要』はウーストルレン Oesterlen,ペレイラ Pareira,メッチェルリク Mitscherlich の 3 書からの引用であり,ウーストルレンを主とし,日本人に合わせて薬用量を減らしている.1859 年末海軍伝習派遣隊がオランダに帰国する際,出島阿蘭陀出版所はフォン・シーボルトに引き継がれ, 出版所の責任者インデルマウル G. Indelmaur (派遣隊看護長,家業印刷業)は帰国せず別名シーボルト出 島印刷所で働いた.日赤松江病院所蔵のこの書には中表紙裏に G. Indelmaur の名があり,活字が明瞭な 印刷である.この本は総論と各論に分かれ,明治 2 年に出版された司馬凌海の『朋百氏薬論』2 巻は総 論のみの翻訳である.その序文に松本良順から門人にポンペの多くの講義録を翻訳分担させる際,凌海 は薬性之学を勉めるようにとの命を受けたことが書かれていて,その責務を果たすべく総論を翻訳出版 したが,各論は出版されなかったらしく,明治 3 年には W. ウイリスの薬物学講義の凌海による翻訳, 東京医学校官版『薬範』が出版されている.愛知県公立医学校で診断学,薬物学,羅典学,処方学の講 義を担当したことからもわかるように,凌海が専門とするのは薬物学であった.文久 2 年(1862)出版 の凌海の『七新薬』は,ポンペの薬物学講義ノートを基礎にしてヨード化合物(梅毒瘰癧,結膜炎), 硝酸銀(潰瘍収斂剤),酒石酸アンチモニウムカリウム(駆虫剤),キニーネ(解熱剤),サントニン(駆 虫剤),モルヒネ(鎮痛剤),肝油(滋養剤)について原典のように健康作用と醫治作用を書き,凌海の 意見を入れており,当時評判の高い書であった.ポンペの所説はウーストルレンとワグネル R. Wagner (ポンペのオランダ語化学講義ノートの主たる原典, De scheikunde 1856 重訳)に基づいていると凌海は 書いているが,ポンペはワグネルでなく,定評のあるミッチェルリク E. Mitscherlichの化学書(Lehrbuch der Chemie 独)を使用した.凌海はしばしば出島の書庫に入り,『七新薬』によれば薬物学ではウースト ルレン,リクトル,コステル(重訳),アッセン,ウ井ットステーン,ペレーラ,シャンパンエ,化学書で はレーマン,ワグネル,ギラルディン,トィリクト,局方ではオランダ,ジャワ,イギリス,新報紙では オランダ,イギリス,アメリカと広範に調べた.ポンペの機嫌をそんじたが,ポンペ時代の出島の書籍 がわかる. 文久元年 3 月には『七新薬』の版下を大坂に送っている.ポンペは「二,三の学生が江戸から出島に 派遣された.その中には将軍の侍医の子息松本良順も含まれていた.」と書いている.良順の門人帳, 登籍人名小記の最初の 3 人には土肥普裕,榊原養庵,司馬凌海とある.土肥,榊原がまず長崎に来て,佐 渡から凌海が少し遅れて到着した.ところが榊原が文久元年 5 月に有罪除籍,凌海も 6 月に有罪除籍に なっている.『七新薬』の出版計画がポンペを怒らせたので,良順はやむをえず出版に関わったかもし れぬ榊原,ついで凌海を破門したのであろうか.関寛斎の校補を受けて凌海の『七新薬』は翌年出版さ れるが,遅れぬようにポンペは『簡約薬物学提要』を多忙な中 1 年もかけて書かざるを得なくなった.

[文献4]:

司馬凌海(しば りょうかい):in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日1839年4月11日) – 明治12年(1879年3月11日)は、医学者言語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。日本初の独和辞典を刊行した[1]。  は盈之(みつゆき)、凌海は通称。他に、号に「揖軒」「無影樹下」「船楼」があった[2]。本名は「司馬津」[2]。  幼名、島倉伊之助[3](なお「島倉亥之助」の表記もある[2]。弟に島倉家を譲り、司馬と改姓した[2]。  語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。  ドイツ語学者司馬亨太郎は長男、囲碁棋士喜多文子は二女。

略歴:[編集]天保10年(1839年)2月28日、島倉栄助・ラクの長男として佐渡島雑太郡新町村に生まれる。  6歳で佐渡の相川学館に入塾。  嘉永3年(1850年)11歳で、質屋を営む祖父伊右衛門に連れられ江戸に出て唐津藩儒者山田寛漢学を学び、13歳で奥医師松本良甫松本良順のもとでオランダ語と医学を学ぶ。 下総国印旛郡佐倉の佐藤泰然の私塾順天堂蘭学蘭方を学ぶ。  佐渡に帰島。  安政4年(1857年)、師の松本良順と長崎へ行きオランダ軍医ポンペに学ぶ。  文久元年(1861年)、ポンペに破門される。

文久2年(1862)、『七新薬』を著し、尚新堂から刊行。  肥前国松浦郡平戸で平戸藩医師・岡口等伝の娘の婿になる。長男・司馬亨太郎が生まれる。  祖父伊右衛門により佐渡に連れ戻される。  横浜に出る。  江戸の下谷練塀町で私塾「春風社」を開く。

教え子に生田秀(ビール醸造)、清水郁太郎(医学者、東京大学教授)。

明治元年(1868年)、医学校(現・東京大学医学部)三等教授。  明治3年(1870年)3月、少博士・正七位。  明治3年(1870年)7月、少助教。  明治5年(1872年)1月、大学大助教。後に文部大教授。  明治5年(1872年)、日本最初のドイツ語辞典『和訳独逸辞典』を出版。  但し、『孛和袖珍字書』という辞典も同時期に出ている。日本初というのは辞典、辞書の定義によると思われる。  明治8年(1875年)5月、元老院少書記官。  明治8年(1875年)12月、辞職。  明治9年(1876年公立医学所(後に愛知医学校愛知県立医学校愛知県立愛知医科大学名古屋医科大学と改称。現・名古屋大学医学部)教授。  教え子に後藤新平。  明治10年(1877年)名古屋で開業。

明治12年(1879年)3月11日、肺結核で神奈川県戸塚にて死去。享年40(満39歳没)。

著書:[編集]

七新薬(司馬凌海 著、関寛斎 校)  和訳独逸辞典(日本最初のドイツ語辞典)

独逸文典字類(明治4年)  ドイツ語はドイツ草書体で表記され、品詞も記載されている。アルファベット順(ドイツ語)で記載。  朋百氏薬論(訳、明治2年)  ポンペの薬物学講義を翻刻したもの  薬物学(別題「百氏薬性論」)

エピソード:[編集]

医学校時代に指定した教科書を買い占め、原価より高く売り利益を得ていた。その金で放蕩していたので、謹慎処分になる。  医学校に教師として来たドイツ人医師レオポルト・ミュルレルテオドール・ホフマンと話したとき、あまりに上手に話すので「あなたはドイツに何年いましたか」などと聞かれた。しかし、実際には日本から出たことはない。

医学校に外国の教師を呼んだが、凌海以外に通訳できる者がいなかった。したがって好きの凌海が二日酔いで休むと自然と休講になった。  通訳するときに、日本語にない単語はその場で即座に造語した。漢文に精通していたため、的確な訳語だったといわれている。

参考資料:

・薬学の歴史 in 日本薬学会:医学、薬学が近代科学として確立

・薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表)江戸時代

・令和3年度テーマ展:江戸時代の感染症と人々のくらしin日光市二宮尊徳記念館

・虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)、AIによる概要

・災厄を払う虎   國學院大學  https://www.kokugakuin.ac.jp › 國學院大學メディア

・虎頭殺鬼雄黄円 エーザイ株式会社 https://search.eisai.co.jp › cgi-bin › historyphot

・MEDCHEM NEWS Vol.32 No.4 45/56  | 公益社団法人 日本薬学会  https://www.pharm.or.jp › pageindices › index45

・七新薬(しちしんやく)、AIによる概要

1862年 司馬凌海 『七新藥』 名古屋大学医学部総合ポータル https://www.med.nagoya-u.ac.jp › history › archive › print

・額田文庫デジタルコレクション 七新薬3巻

・日本医史学雑誌 第 65 巻第 2 号(2019)p.188

・司馬凌海(しば りょうかい):in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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