【前編】第32回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

(2)-7:江戸時代(1603-1867)-No.3

【江戸時代のくすり事情】

資料1.調剤・製剤用器具機械:

In Net検索「江戸時代、製剤、薬」でのAIによる概要、AI の回答には間違いが含まれている場合があります。

江戸時代の製剤技術は、漢方や西洋医学を取り入れ、煎じ薬や丸薬などが一般的でした。生薬を扱った薬種問屋や、庶民向けの家庭薬を作る「くすり屋」が登場し、各地で様々な売薬が作られ、庶民の生活に深く溶け込んでいきました。

主な製剤の形態:(1)煎じ薬:薬草や生薬を刻み、やかんで煮出して服用する最も一般的な形態でした。 (2)丸薬:粉にした生薬に蜂蜜や寒梅粉などを混ぜて練り、丸く整形したものです。

薬の発展と普及 (3)薬種問屋の登場:幕府が医薬の発展を奨励し、薬種問屋が各地に誕生したことで、生薬の流通が活発になりました。 (4)製薬業の奨励:幕府は、民間医療の向上を目指して売薬を奨励し、冥加金(税金)を納めた業者には営業特権を与えるなど、製薬業の発展を後押ししました。 (5)庶民への普及:薬の販売が盛んになり、庶民でも気軽に薬を利用できるようになりました。 (6)家庭薬の流通:江戸後期には「江戸買物独案内」のようなガイドブックに、錦袋圓神効丸など、様々な売薬が紹介されるほど、庶民の生活に溶け込んでいました。

代表的な薬(1)紫雲膏(しうんこう):紫根、当帰、胡麻油などを配合した膏薬で、湿疹や火傷などに用いられました。 (2)萬金丹(まんきんたん):胃腸の不調に効果がある万能薬で、旅の携帯薬としても人気でした。 (3)その他

「さじ加減」の語源:医師が薬を調合する際に、薬さじ(スプーン)だけで計って調合していたことから、「さじ加減」という言葉が生まれたとされています。

西洋医学の伝来:江戸時代後期には、シーボルトの来日などを機に、アンモニア、キナ、ジギタリスなどの西洋薬が日本に伝わり、日本の医薬学の発展に大きく貢献しました。

江戸時代の薬の作り方は(AI による概要、AI の回答には間違いが含まれている場合があります。)

江戸時代の薬は、生薬を粉にして蜂蜜や水で練り、丸薬にする方法や、薬草を煎じて飲む方法が一般的でした。中外製薬株式会社が製造していた「神仙丹(しんせんたん)」は、5種類の生薬を蜂蜜で丸薬にした例です。粉末化した薬は篩(ふるい)にかけられ、鍋で加熱するなどの工程を経て、広口のビンに入れて保管されました。

薬の作り方:(1)生薬の計量と粉砕:処方に従って各生薬を計量し、乳鉢などで砕きながら混合します。 (2)混合と篩い:砕いた生薬を篩にかけ、百メッシュ程度の細かい粉末にします。 (3)練り合わせ:篩いを通過した粉末に蜂蜜やお湯を少量加え、かき混ぜます。 (4)加熱と保存:鍋にお湯を張り、その上でビーカーに入れた薬を加熱・攪拌しながら加工します。 (5)保管:広口のビンに入れ、冷暗所に保管します。

その他の作り方:(1)煎じる方法:薬草を熱湯で抽出して有効成分を取り出す方法で、お茶を入れる感覚で手軽に作れました。 (2)丸薬にする方法:粉末状の生薬に蜂蜜や寒梅粉を混ぜて練り上げ、真珠のように丸く成形した丸薬も作られました。 (3)黒焼き:石田散薬の例では、牛額草を乾燥後、黒焼きという蒸し焼きか炙り焼きの工程を経て製造されました。

薬の普及:(1)配置売薬:江戸中期からは、薬屋が家庭を訪問し、使用した分の薬の代金を受け取る配置売薬が盛んになり、全国に普及しました。 (2)売薬:京や大阪、江戸などの大都市には大きな店舗を持つ薬屋が数多く存在し、旅の土産としても各地の名薬が人気を集めました。

資料2.滋賀のくすりの歴史

in滋賀のくすりの歴史  滋賀県製薬工業協同組合 -  https://sigaseiyaku.jp › history滋賀のくすりの歴史

古代〜  中世〜  江戸〜  明治〜

日本の真ん中、琵琶湖のある近江、滋賀のくすりの歴史は遥か古代にさかのぼります ——

古代

「滋賀のくすり」のはじまり古代飛鳥の時代、額田王が大海人皇子に送った有名な万葉集の一節(上図)が、蒲生野(東近江市船岡山)に建つ石碑に刻まれています。
668年、この蒲生野で行われていた「くすりがり」の時に詠まれたものと云われており、これが滋賀県における最古の薬に関する記録と云われています。

「くすりがり」とは?5月5日に行われていた日本古代の習俗です。女性は薬草を摘み、男性は薬効がある若鹿の角を取る狩をしました。

薬草の産地・伊吹山

伊吹山:滋賀県は、昔から薬草の種類が豊富で、薬草栽培に適した自然環境に恵まれていました。織田信長公は薬草の産地として有名な伊吹山に目をつけ、ポルトガルの宣教師に命じて薬草園を開きました。(inくすり文化第29回報in25.5.26(Mon.)

中世甲賀忍者とくすり(甲賀売薬):甲賀流忍術の極意書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」には、忍者たちが薬草を育て、独自で加工し様々な生薬を生み出していたことが記されています。そして、山伏や修験者がお札や加持祈祷とともに全国にくすりを広め、忍びと云われる者は、町人や商人になり諸国を渡り歩きながら、独自で開発した常備薬や護身薬を旅先で売って歩いたと云われています。こうして、全国の情報を収集し、くすり創りにもたけ、火薬も取り扱う者(当時のハイテク集団)が後世には「忍者」と呼ばれたものと云われています。

万川集海

忍術の伝書「万川集海」には忍薬として飢渇丸・水渇丸のほか、敵をねむらせる薬、ねむ気をさます薬、敵を痴呆状態におとし入れる薬などが掲げられています。

忍者屋敷

忍術屋敷で有名な望月本実家には「朝熊の万金丹」などのくすりの記録が残っているよ。

滋賀のくすりは、近江商人と共に発展します ——

*江戸〜旅人の道中薬(街道売薬):「和中散」は、暑気もたれに効くとされた粉薬で、東海道の草津宿で旅人に販売されました。「和中散」という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々に付けられた名前といいます。
「有川赤玉神教丸」は、丸薬の胃腸薬で、中山道の彦根鳥居本宿で、参勤交代の大名や旅人の道中薬として売り出され、十返舎一九の「道中膝栗毛」にも「もろもろの病いの毒を消すとかや この赤玉も 珊瑚朱の色」などと詠まれています。

近江商人とくすり(日野売薬)日野の薬業の歴史は、日野売薬の創始者初代正野玄三に始まります。正野家では、「万病感応丸」が創られ、大勢の近江商人たちが道中薬として持ち歩き、その効能が話題を呼び、主要な取扱商品となって全国に広まりました。

近江商人たちの道中薬の効能が話題を呼び、全国に広まったんだね。

明治

甲賀町の配置売薬のおこり:

江戸末期に農閑期の副業として営んでいた売薬の将来性に着目し、渡辺詮吾が岡山県北部に行商、その後当時のテリアカ*」の処方の伝授を受けて製造販売しました。これが甲賀売薬の起こりです。(甲賀町史

*in第3回くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事-世界(西洋)の薬事情[くすり文化]を探るIn 20.11.12(Thu.) に記載している

(10)テリアカ:【解毒剤

古代文明の時代は健康か病気かと言う医学ではなく生きているか死んでいるのか、即ち、使われる物質も強烈な生理作用を持って居る物が使われた。この頃 病気と言う表現が無く、毒に当たった状態が今で言う病気と考える。したがって、解毒剤とは薬に相当する。文明が開かれて、5000年の間、人々は毒の恐怖を感じていたのかローマの皇帝はみんな解毒剤を作る専属の医師を雇用していた。  毒と有効な解毒剤や医薬品を手にした医師は“医師”と言う職業に留まらず。軍隊の長又は軍医となって各地に遠征している記録がある。皇帝ネロは医師ニカンドロスに命じて、テリアカと称する解毒剤を作らせた。これは非常に有名になって、かなり長い間使われた。ニカンドロスは軍隊を率いてスペインまで遠征している。  この為、解毒剤の処方テリアカは一般の人にも知られるようになり、毒と薬を施政者が使っている事が分かって来た。したがって、人々は医師が薬を持った時、病人を治すに留まらず政治や戦争に口を挟むと言う事を感じていた。古代戦場には必ず薬が登場する。

               

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