医療ビッグデータの大規模分析で明らかに
野間久史統計数理研究所/総合研究大学院大学教授らの研究グループは21日、高齢者における高血圧治療薬の選択が、その後の認知症発症リスクに与える影響を明らかにした。
アンジオテンシン受容体拮抗薬(ARB)による治療を新たに開始した群では、カルシウム拮抗薬(CCB)による治療を新たに開始した群と比較して、全認知症の発症リスクが有意に低いことが示された。
なお、同研究の結果は、CCBが認知症予防に無効または不適切であることを意味するものではない。CCBは現在も重要な降圧薬であり、同研究は、同じように血圧を下げる薬剤の間でも、長期的な脳血管・認知機能への影響が異なる可能性を示したものである。
認知症の予防は、世界的に進行する高齢化社会における最重要課題の一つです。新しい認知症治療薬の開発が進む一方で、すでに多くの高齢者が日常的に使用している薬剤の中に、認知症リスクを低減し得るものがあるかを明らかにすることは、公衆衛生上大きな意義を持つ。
同研究では、日本の自治体が保有する医療・健診情報を統合した500万人規模の大規模医療データベースであるLIFE Studyをもとに、最新のデータサイエンスの方法である標的試験エミュレーションによるARBとCCBの比較分析を行った。
標的試験エミュレーションは、リアルワールドの医療ビッグデータから、可能な限り理想的なランダム化臨床試験を再現するための統計的因果推論の方法である。
その結果、65歳以上で認知症のない高齢者5万2019人のうち、ARBによる治療を新たに開始した群では、CCBによる治療を新たに開始した群と比較して、全認知症の発症リスクが有意に低いことが示された。
追跡期間中の血圧は両群でほぼ同等であったことから、この差は単なる血圧低下効果だけでは説明しにくく、ARBが持つ脳血管保護作用などが関与している可能性が示唆される。特に、血管性認知症では、ARB群でリスクがより大きく低下していた。
同研究は、高齢者が日常診療で広く使用している降圧薬の選択が、認知症予防につながる可能性を示したもの。また、500万人規模の医療ビッグデータを高度なデータサイエンスの方法で解析することにより、通常の臨床試験では検証が難しい高齢者医療の重要課題に対して、現実社会に根ざしたエビデンスを創出できることを示した。
これらの研究成果は、2026年8月20日に国際学術誌「Alzheimer’s & Dementia: The Journal of the Alzheimer’s Association」にオンライン掲載された。

図1:500万人規模のLIFE Studyを用いた高齢者の降圧薬選択と認知症リスクの比較研究
認知症は、健康寿命の延伸を阻む最大級の疾患の一つであり、本人の生活の質だけでなく、家族、介護、医療制度、社会保障全体に大きな負担をもたらす。世界的に高齢化が進む中で、認知症の発症を少しでも遅らせることができれば、個人・社会の双方に大きな利益をもたらすと考えられる。
高血圧は、アルツハイマー病と血管性認知症の双方に関係する代表的なリスク要因で、脳の大血管や小血管に負担をかけ、動脈硬化、白質病変、微小梗塞、血液脳関門の障害などを通じて、加齢に伴う認知機能低下に関与すると考えられている。
これまで、多くの研究により、血圧を適切にコントロールすることが脳卒中や心血管疾患の予防に有効であることが示されてきた。一方で、降圧薬の「種類」の違いが、血圧低下とは独立して認知症リスクに影響するかについては、十分に明らかではなかった。
ARBとCCBはいずれも、高齢者の日常診療で広く使われている代表的な降圧薬である。CCBは血管平滑筋へのカルシウム流入を抑えることで血管を拡張し、血圧を下げる。
一方、ARBはアンジオテンシンIIの受容体を遮断することで、血圧低下に加え、炎症、酸化ストレス、血管内皮障害、微小血管障害などに関与する経路を抑制する可能性がある。これらの作用の違いが、脳血管の老化や認知症リスクに影響を与える可能性が考えられてきた。
だが、高齢者を対象に、認知症の発症を長期間追跡する大規模なランダム化臨床試験を実施することは容易ではない。高齢者では、糖尿病、腎機能低下、心疾患、フレイルなど複数の併存疾患を持つことが多く、また認知症の発症までには長い時間を要するためだ。
そこで研究グループは、LIFE Studyに集積された大規模なリアルワールドデータを用いて、標的試験エミュレーションという最新のデータサイエンスの方法により、ARBを開始した場合とCCBを開始した場合を、あたかも理想的な臨床試験で比較したかのように分析した。

図2:標的試験エミュレーションで明らかになったARB群とCCB群の認知症病型別リスク比較
同研究では、LIFE Studyに含まれる医療請求、診断、薬剤処方、入院、健診情報のデータベースを連結した解析を行った。対象期間は2014年4月から2024年9月までで、19自治体、約505万人の住民情報が含まれている。
解析対象は、65歳以上で、過去に認知症の診断がなく、ARBまたはCCBによる高血圧治療を新たに開始した高齢者。最終的に、ARB群1万7860人、CCB群3万4159人、計5万2019人が解析対象となった。
同研究では、治療開始時点での年齢、性別、BMI、血圧、脂質、腎機能、糖尿病、心血管疾患、脳卒中、うつ病、パーキンソン病、各種薬剤使用歴など、多くのバイアスを生じさせ得る背景要因を統計学的に調整した。追跡期間の中央値は3.6年で、この間に3,524件の新規認知症が確認されました。主な結果は次の通り。
・ARB群はCCB群に比べて、全認知症の発症リスクが有意に低かった
ハザード比 0.916、95%信頼区間 0.852–0.985
・5年後の認知症累積発症率
ARB群:8.0%
CCB群:8.8%
絶対差:0.8ポイント低下
・血管性認知症では、ARB群でより大きなリスク低下が認められた
ハザード比 0.617、95%信頼区間 0.409–0.930
・アルツハイマー病については、ARB群で低い傾向は認められたものの、統計学的に有意な差には至らなかった
ハザード比 0.930、95%信頼区間 0.849–1.018
・治療中の収縮期血圧および拡張期血圧は、両群でほぼ同等であった
年間の血圧差はいずれも1 mmHg未満
これらの結果は、ARB群で認められた認知症リスクの低下が、単に「血圧がよりよく下がった」ことだけでは説明しにくいことを示している。特に、血管性認知症で強い関連がみられたため、ARBが脳血管の老化、微小血管障害、血管内皮障害などに影響する可能性が考えられる。
一方で、アルツハイマー病については、リスク低下の方向性はみられたものの統計学的に有意ではなく、病型によってARBの関連の強さが異なる可能性が示された。また、同研究の結果は、CCBが認知症予防に無効または不適切であることを意味するものではない。CCBは現在も重要な降圧薬であり、同研究は、同じように血圧を下げる薬剤の間でも、長期的な脳血管・認知機能への影響が異なる可能性を示したものである。
同研究の第一の意義は、高齢者が日常診療で広く使用している降圧薬の選択が、将来の認知症リスクに関連する可能性を、500万人規模の医療ビッグデータから示した点だ。
認知症予防というと、高価な新薬や特別な医療技術が注目されがちだが、同研究は、すでに多くの高齢者に処方されている既存薬の使い方を見直すことで、社会全体の認知症リスク低減につながる可能性を示している。
第二の意義は、ARBとCCBという、いずれも高血圧治療で広く用いられる薬剤を直接比較した点である。臨床現場では、まず血圧を適切に下げることが重要視されるが、同研究は、達成された血圧が同程度であっても、薬剤の作用機序の違いが認知症リスクに関係する可能性を示した。特に、血管性認知症で強い関連が認められたことは、脳血管の保護という観点から重要である。
第三の意義は、LIFE Studyという大規模医療データ基盤と、標的試験エミュレーションという高度なデータサイエンスの方法を組み合わせることで、通常の臨床試験では検証が難しい高齢者医療の課題に対し、リアルワールドに即したエビデンスを創出した点だ。
高齢者は併存疾患や薬剤使用が多様であり、臨床試験から除外されやすい集団でもある。医療ビッグデータの適切な解析により、こうした高齢者医療の「空白」に科学的根拠を与えることができる。
ただし、同研究は大規模診療データを用いた観察研究であり、標的試験エミュレーションによりバイアスの低減を図っているものの、生活習慣、服薬遵守、医師の処方判断、認知機能検査の詳細など、データに含まれない要因の影響を完全に排除することはできない。
また、LIFE Studyに参加する自治体のデータに基づく研究であり、全国を代表する無作為抽出集団ではないため、結果の一般化には一定の留意が必要である。
同研究の結果は、患者が自己判断で薬を変更することを推奨するものではない。降圧薬の選択は、血圧、腎機能、心疾患、糖尿病、脳卒中歴、副作用、他の薬剤との相互作用などを総合的に考慮して、主治医と相談しながら決定されるべきものである。
今後は、他の医療データベースや海外データを用いた検証、より長期の追跡、認知症病型別の詳細な解析、個々のARB・CCB薬剤間の違いの検討が期待される。また、ACE阻害薬など他の降圧薬との比較、フレイル、介護認定、日常生活動作、腎機能、心血管疾患などを含めた包括的な高齢者アウトカムの評価も重要だ。
今回の成果は、LIFE Studyをはじめとする日本発の医療ビッグデータと、統計的因果推論・標的試験エミュレーションに代表されるデータサイエンスの力により、高齢社会の重要課題に対する実践的なエビデンスを生み出せることを示した。こうした研究の積み重ねは、認知症予防、健康寿命の延伸、そして一人ひとりの状態に応じた個別化医療実現への貢献が期待される。
