【後編】第27回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

関白秀吉公薬剤

 プラネットの応接室には、ちょっと変わった古文書関白秀吉公薬剤がかかっています。  実は、玉生の家は古い家柄で、多くの古い書画が伝わっています。その中からこの『関白秀吉公薬剤』が面白そうな内容なので、表装をして飾ってみました。  家訓のようなことが書いてあるのですが、最初は半分ほどしか読めませんでした。しかし、毎日眺めているうちに、全文を読み解くことができました。例えば、“無理”の無はすぐ読めましたが、“無心”の無はなかなか読めませんでした。同じ無の字なのですが、崩し方が違うからです。古文書字典を引くと、いく通りかの崩しが出ています。つまり、書き手は無理と無心を意図して変えているわけです。書き手の技量がかなりなものであることがうかがえます。


 なかなか含蓄のある内容です。「一、主人とは無理なる者と思え」とは秀吉が信長のことを言っているとしたら、さもありなんと合点します。  しかし、本当に秀吉の家訓なのでしょうか。家康には「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、必ず急ぐべからず」と言う有名な家訓がありますが、秀吉が家訓を残したとは伝わっていません。また、この古文書は江戸時代末期のもので秀吉の時代のものではありません。  実は、水戸光圀の遺訓に共通する記述が多くあります。これから推察すると、多分、光圀の遺訓を下敷きに、江戸時代の人が創作したものではないかと思われます。

この古文書『関白秀吉公薬剤』は水戸の近くの土浦で所蔵されていたもので、同所には藤田東湖の書も伝わっていますので、水戸学の関係者が創作したものではないかと考えています。江戸時代においては、徳川の敵であった秀吉を評価するような書を表すことは、通常は憚りあることだったのですが、幕末に尊皇攘夷を唱えた水戸学の人達は、比較的自由にものを言っていたようです。国善龍という署名と落款がありますが、この人物が残念ながら特定できません。これがわかると、なぜこのような書が存在するのかがはっきりするでしょう。更に、研究をしてみたいと思います。

[文献7] 道修町の今昔 In くすりの道修町資料館 館長 日本医史学会  http://jshm.or.jp › journal › 61-1_

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豊臣時代,北船場の地域は長崎からの輸入品を扱う貿易商の町であった.中国から輸入される唐薬種. (漢薬)を商う人たちが,次第に東横堀の平野橋辺りから北側の …

道修町の今昔:深澤 恒夫 くすりの道修町資料館 館長

 はじめに 道修町は,豊臣秀吉が大坂城の城下町を作った頃,船場の一郭に形成され始めたものと考えられている.天正 16 年(1588)に町家 20 軒を焼失したという火事の記録の中に,「道修町」の名が記載されている.豊臣時代,北船場の地域は長崎からの輸入品を扱う貿易商の町であった.中国から輸入される唐薬種(漢薬)を商う人たちが,次第に東横堀の平野橋辺りから北側の道修町へ移っていったと考えられている.その契機は,寛永年間(1624~1644)に堺の商人である小西吉右衛門が,道修町一丁目に薬種屋を開いたとされている. 道修町が,現在のように「くすりの町」として知られるようになったのは,八代将軍徳川吉宗の享保 7年(1722)以降のこと.道修町薬種中買仲間124軒が幕府から“株仲間”として公認された.株仲間は,諸薬種を吟味(検査)のうえ適正価格を付けて,独占的に全国に供給するようになってからのことで ある.明治に入ってからは西洋薬が主流となったが,当初は神戸・横浜の外国商館からの輸入であって,明治中期には欧米からの直輸入が始まった. 一方,道修町薬種商たちは共同の薬品試験所の設置や,製薬事業にも着手し始め,その多くは薬種問 屋から製薬企業へと発展していった.今では薬のみならず医療,健康関連産業の分野にも進出して,さらに躍進を続けている.現在,製薬業界はグロ―バル化で国際競争のまっただなかであるが,今回「温故知新」をキーワードに薬の町「道修町」の 400 年をひもといてみる.

Ⅰ.道修町のはじまり ・ 船場:豊臣時代は「船着場」であった. ・ 道修町:当時は「道修谷」と呼ばれる谷であった. ・ 豊臣秀吉が大坂城の城下町を作った頃,北船場の地域は長崎からの輸入品を扱う貿易商の町であった が,中国から輸入される唐薬種(漢方薬)を商う商人が,次第に東横堀から道修町へⅡ.江戸時代の薬 やくしゅ 種中 なかかい 買仲 なか 間 ま 1.道修町と薬種商 ・ 江戸時代の二代将軍徳川秀忠ときに堺の商人「小西吉右衛門」が道修町一丁目に「薬種商」を開いた のが始まり. ・ 道修町が「くすりの町」として有名になったのは? 八代将軍徳川吉宗の享保 7 年(1722)「享保の改革」以降. これまでの中国の「唐薬」にかわる「和薬」を奨励した. 江戸で「小石川御薬園」と「小石川養生所」を開設. 関西では,享保 14 年(1729)奈良県大宇陀町の「森野旧薬園」開設. 「和薬」の改め役(検査担当)である道修町薬種中買仲間 124 軒「株仲間」として幕府より公認さ [市民公開講座Ⅰ] 第 116 回 日本医史学会総会 市民公開講座Ⅰ 15 れてから今年で 293 年. 2.道修町は全国の薬種流通の中心地 ・長崎で輸入した「唐薬種」,各地から集まった「和薬種」の目方を改め,品質を鑑別し,価格を決定 して諸国に売り捌いた.江戸時代の大坂は,物流・経済の中心地. ・長崎で輸入された唐薬種を落札する「五ヶ所商人」と大坂に送られた唐薬を荷受けする「唐薬問屋」, その唐薬を鑑別・値決めして本商人から買取る「道修町薬種中買仲間」の三者間で商売が円滑にする ための協定書「三方申合條目」作成.

.薬種問屋から製薬企業へ(明治期) 1.漢方医学から西洋医学へ 江戸時代の草根木皮を原料とする漢方医学から明治政府は漢方薬から化学薬品を扱う西洋医学(ドイ ツ医学)の時代へ ・化学・洋薬の知識=化学博士ハラタマ(オランダ人) ・薬学(司薬場)=薬学博士ドワルス(オランダ人) ・明治 19 年 薬品取締制度「日本薬局方」第一版公布される. 2.大阪製薬から大日本製薬へ 「日本薬局方」に適合する薬品を製造するのは個人では無理であったため大阪の「大阪製薬株式会社」 と東京の半官半民「大日本製薬会社」が合併して「大日本製薬株式会社」設立して「局方」の薬品製造 を行った. 3.大阪(道修町)における薬学校 大阪薬学校(M19) 大阪道修薬学校(M37)    ↓     ↓ 大阪薬学専門学校(T6) 帝国女子薬学専門学校(T14)    ↓     ↓ 大阪大学薬学部(S30) 大阪薬科大学(S25)

.薬種問屋から製薬企業へ(大正期) 大正 3 年(1914)に第一次世界大戦が始まり,我が国の医薬品はその殆どをドイツからの輸入に依存 していたため,品不足と価格の高騰を招いた. 政府は医薬品の国産品による自給自足体制を進めた,翌年に「染料医薬品製造奨励法」を公布し,こ れに刺激されて国内製薬工業が急速に成長した.

Ⅴ.戦時統制経済下での医薬品業界(昭和前期) ・昭和 6 年(1931)満州事変,昭和 12 年日中戦争が勃発により,統制経済が強化され「医薬品生産・ 配給統制規則」が実施された. ・昭和 18 年(1943)会社の本質を,社名によって明確にすることが要請され,医薬品業界でも従来の ○○商店→○○製薬会社,○○薬品工業会社に社名が改称された. 田邊屋五兵衞商店 → 田邊製薬株式会社 伏見屋市兵衛商店 → 小野薬品工業株式会社 近江屋長兵衞商店 → 武田薬品工業株式会社 ・昭和 18 年 12 月から太平洋戦争に入り,軍需優先により民需は圧迫され,戦争末期には人手不足,戦災等により医薬品の生産量は激減し,また,東南アジアに工場を展開していた医薬品業界の海外資産 も,敗戦によりすべて失った.

Ⅵ.製薬企業の戦後から現在(昭和前後~平成現在) 〈昭和 20 年代~30 年代〉 1.昭和 20 年(1945)8 月終戦 → 戦後復興 2.抗生物質の登場 アメリカ進駐軍が優れた菌株を提供わが国にぺニシリンの製造を指導 3.結核薬,その他の画期的新薬の製造(各製薬企業) 4.ビタミン剤の花形時代(各製薬企業) 5.海外製造技術の導入(国産化へ) 「国民皆保険」制度の実施(昭和 36 年) 〈昭和 40 年代~50 年代〉 1.薬害問題の発生(睡眠剤サリドマイド,止痢薬キノホルム) 2.「製造特許制度」から「物質特許制度」へ 3.国産の自主開発新薬の登場 4.GMP(製造管理・品質管理基),GLP(安全性試験の実施基準) 5.医薬品製造業 100% 資本自由化(海外製薬企業との提携) ・外国の画期的な新薬が,海外企業との提携で導入・販売 ・外資系企業の日本市場へ参入が相次ぎ,市場争奪 〈昭和 60 年代~平成 現在〉 1.国際化と海外売上高の伸長(海外に対抗できる新薬開発の成否) 2.国際的な新薬の研究開発競争へ(研究開発力の強化) 3.ジェネリック薬(後発医薬品)の登場 4.製薬企業のグロ-バル化,情報化時代へ

参考資料:

・温故知新!日本最古の「カルテ」は安土桃山時代から | メディコム PHC Holdings Corporation https://www.phchd.com › … › 医療テック

薬の歴史 | 樋屋製薬株式会社・樋屋奇応丸株式会社 樋屋製薬 https://hiyakiogan.co.jp › content › fukuyo › history

日本人とくすり|からだとくすりのはなし 中外製薬株式会社 https://www.chugai-pharm.co.jp › history › history002

・日本医史学雑誌第29巻1号p.50-63 昭和58年1月30日発行 昭和五十七年十一月二日受付 日葡辞書から見た安土桃山時代の医学 二、くすり 亀 節子、大槻彰、前川久太郎

・啓迪集(けいてきしゅう) in京都大学貴重資料デジタルアーカイブ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp › item   コトバンク https://kotobank.jp › word › 啓迪集-59060

・古文書『関白秀吉公薬剤』 in株式会社プラネット https://www.planet-van.co.jp › shiru › chairman_essay  関白秀吉公薬剤

・道修町の今昔 In くすりの道修町資料館 館長 日本医史学会  http://jshm.or.jp › journal › 61-1_shimin-1

*信長と薬草園については、次回に関連情報とともにまとめる予定です。

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