「天下布武」を掲げて日本の国内再統一事業を推し進めた織田信長、その後継者として統一を実現した豊臣秀吉の時期を、日本史上では、2人の居城の地名にちなんで「安土桃山時代」と称し、この時代の文化を一般に「桃山文化」と呼んでいる(「安土桃山文化」と呼ばれることもある)。「桃山」の名の由来となった京都市伏見区の桃山丘陵は、秀吉がその晩年にきずいて本営を設けた伏見城の跡地で、廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植林され、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったという[1][3]。□□この時代、約100年におよんだ戦国時代の争乱をおさめて権力と富を集中させた統一政権のもと、そのひらかれた時代感覚が、雄大・壮麗にして豪華・絢爛、かつ溌剌として新鮮味にあふれた桃山文化を生み出した[4][5]。この文化には、戦国の世を戦い抜いて新たに地域の支配者となった新興の大名や、戦争や貿易などを通じて大きな富をきずいた都市在住の豪商の気風や経済力が色濃く反映されている[4]。
秀吉着用と伝わる陣羽織(高台寺蔵)桃山時代の変わり兜(テキサス州ダラス、アン・アンド・ガブリエル・バービー=ミュラー博物館)
また、古代や中世の文化が神仏中心の傾向が強かったのに対し、この文化が人間中心主義的な性格を傾斜させたことも大きな特色となっている[4]。それまで長きにわたって各方面の文化を支えになってきた寺院勢力は、信長や秀吉らの政策によって弱められ、かつ、多くは没落していったため、文化の面においても仏教色が薄められ、世俗的・現実的かつ力感のある作品が数多く生み出されたのである[4][注釈 3]。 統一政権の出現によって、文化の地域的な広がりや庶民への浸透もいっそう進み、京都・大坂・堺・博多などの都市で活動する商工業者(町衆)が新たな文化のにない手として台頭した。この時代の文化は、中世以来の来世主義が後退し、現世享楽主義的な要素が強まったが、それには、このような町衆の台頭も背景のひとつとなっている[4][注釈 4]。 一方、ポルトガル人の来航を機にヨーロッパ文化との接触がはじまった。また、後期倭寇に代表されるように、日本人自身のかつてないほどの活発な海外進出の影響も相まって、この時代の文化は多彩なものとなり、異国趣味を加えて世界性をもつようになった[4]。新来の焼き物や楽器を通じ、朝鮮文化や琉球文化からも影響を受けた。□□さらに、従来多岐にわたって文化をになってきた禅僧社会は大名らの文化顧問のような役割をにない、文化における公家社会の発言力も相応の経済的安定のもとに一定の高まりをみせるなど、一種の古典復興時代ともいうべき状況が現出した[4][注釈 5]。安土桃山時代は、武家文化・町人文化を基軸としながらも王朝文化や東山文化の系譜も継承してこれらを融合させ、国民文化の形成に大きな一歩を踏み出した時代ともいえるのであり、後続する江戸時代の文化につながる要素がきわめて大きい[4]。 なお、尾藤正英(日本近世史・近世思想史)は、桃山文化の特色として、 城郭の石垣のように、実用的・機能的であることが、かえって新たな美を生んでいる点 回遊式庭園の構造にみられるように、静的な鑑賞の対象ではなく、行動することによって現出される美を追求している点 □□前代からの会所の伝統が継承されており、個人的な空間ではなく、対話や社交・儀礼など集団的な活動の場において美が営まれている点の3点を指摘している[1]。
茶の湯の隆盛と茶室建築:[編集] 茶道の大成と北野大茶湯
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茶の湯は、安土桃山時代になると大名や豪商だけでなく、町人の間へも広がった。堺の商人出身で、武野紹鷗に師事した千利休(千宗易、本姓は田中)は、茶頭として信長に仕え、独特の茶道具や懐石を考案して茶の湯の儀礼を定めて茶道を確立し、さらに秀吉にも重用された[注釈 14]。利休は、村田珠光や武野紹鷗によってすでに始められていた侘び茶を大成した。□□茶の湯とは ただ湯をわかし 茶をたてて のむばかりなることと知るべし— 千利休□□利休が求めたものは、豪華な書院の茶ではなく、簡素な無一物の美を希求する草庵での侘び茶であった[4]。禅の影響を受け、「和敬清寂」をその根本精神とし、簡素と閑寂を旨とした侘び茶は、華やかさの目立つ桃山文化のなかで異彩を放っている[注釈 15]。しかし、天正19年(1591年)、利休は秀吉の不興を買い、自刃している[注釈 16]。□□茶の湯は、一方では、いわば生活教養文化として既成文化を包含・統合するかたちで成立したものであり、連歌や謡曲、能狂言などといった寄合の文化とも共存し、人びとに社交の場を提供するものとして歓迎された[20]。秀吉は、家康との講和後の大徳寺茶会、武家関白の権威を高めた禁中茶会につづいて天正15年(1587年)10月1日、京都の北野神社で大規模な茶会(北野大茶湯)をもよおした[21][注釈 17]。そこには秀吉自慢の「黄金の茶室」が持ちこまれ、秀吉・千利休・今井宗久・津田宗及の4人を茶堂とする茶席が設けられた[21]。4人の茶席には、貧富・貴賤の別なく愛好者の参加をゆるした[21]。参加者は8人ずつ入場させて各人にクジをひかせて2人組4組に分け、それぞれの茶堂の点前で茶をいただくという趣向となっていた[21]。1日803名もの拝服者があり、その内訳は公卿・大名から百姓・町人にいたるまであらゆる階層におよんだという[21][22]。茶会は当初10月1日から10日間の予定であったが、結局は1日だけとなった[21]。北野神社では9月25日から800余もの茶屋座敷の造営がはじまり、当日は経堂から松梅院までぎっしりと建ち並び、その数1,500以上におよんだといわれている[21]。□□今井宗久も津田宗及もともに堺の豪商出身であった。この2人に利休を加えて「天下三宗匠」と称された。山上宗二も堺の商人出身で利休に20年師事し、秘伝書『山上宗二記』をのこした。博多の豪商、島井宗室と神谷宗湛もまた茶人としても有名である[23]。宗室はとくに豊後国の大名大友宗麟との関係が密接であり、また、信長自刃の前日には本能寺に同宿して信長の収集した茶道具を見ており、宗湛はまた、北野大茶湯に博多からかけつけた際、秀吉に大名以上の待遇で厚く迎えられたといわれている[23]。
武人と茶道:[編集]
諸大名もさかんに茶会をもよおした。茶の湯が武士や大名の間であまねく広まっていった功労者としては織田信長が挙げられる。信長は義昭を奉じて入京したのち、堺の町衆に対し「名物狩(強制買い上げ)」をおこない、また、家臣に対しては茶の湯を功績ある者に対する許可制とした(「茶の湯御政道」)[20]。茶をたしなむことは、武人にとって一種の威信になったのである。こうして利休に師事した武将には蒲生氏郷、芝山宗綱(監物)、細川忠興(三斎)、高山右近(南坊)などがおり、「利休七哲」などと称されることがある[24]。□□また、茶道史において特に重要な武人としては、織田有楽斎(長益)、古田織部(重然)、小堀遠州(政一)が挙げられる。織田有楽斎は信長の弟で、かれがつくった茶室も有名である[注釈 18]。古田織部も信長・秀吉に仕え、武士好みの茶風として知られる織部流を創始した。織部焼(後述)はかれの名にちなむ。関ヶ原合戦以後は、徳川秀忠の茶道師範として活躍したが、大坂の役で末子が豊臣秀頼方についたため、内応を疑われ、非業の死を遂げている。利休が自然の侘びを求めたのに対し、織部は、普通ならば窯のなかで打ち捨てられるような「へうげもの」銘の茶碗を愛したように、人工の侘びを見いだしたと評される[7]。織部に師事した小堀遠州は、武家茶道のひとつ遠州流の祖となった人物で、将軍の茶の湯師範となったほか、作庭でも有名で、幕府関係の作事奉行として多くの名園を造作した。□□なお、茶道の隆盛にともない、茶入や茶壺、茶器、茶釜など茶道具にもすぐれたものがつくられている[注釈 19]。茶入「九十九髪茄子」や茶釜「古天明平蜘蛛」は、利休七種茶碗や秀吉が所持したといわれる高麗物の井戸茶碗などとともに、「名物」といわれた。
茶室建築:[編集]
「茶室」も参照
武野紹鷗の茶室は4畳半で書院造風の端正なつくりであったと考えられている[14]。それに対し、千利休唯一の遺作といわれる、山崎天王山の麓の妙喜庵(京都府大山崎町)内の「待庵」は、当時の上流階級で愛された山荘や茶屋、あるいはその原形となった民家建築をベースにした、わずか2畳敷の草庵であり、世俗的な身分差を解消する手立てとして「躙口(にじりぐち)」をともなっている[5][14][注釈 20]。ここでは、にじり口と土庇、そして露地(路地)によって庭と室内の一体化が図られており、一見質素で狭隘にみえながらも、天井の複雑な構成や窓の自在な配置、床内の入隅柱、天井を土壁で覆った室床など細部にいたるまで吟味と配慮が行き届き、驚くばかりの拡がりを見せている[5][14][25]。天正10年(1582年)の山崎の戦いののち、秀吉はしばしば利休らと茶会をもよおしているが、待庵もこれに用いられた可能性がある[22][注釈 21]。□□利休にかかわる茶室としては他に、大徳寺龍光院書院内に設けられた茶室「密庵席(みったんせき)」がある。密庵席の名は、中国・宋代の禅僧密庵咸傑の現存唯一の墨跡に由来している。墨跡は禅宗寺院はもとより利休はじめ多くの茶人より厚く尊崇され、密庵席にはこの一幅だけを飾るために密庵床(みったんどこ)が設けられている。密庵の墨跡は利休の添状とともに国宝指定されている。□□利休はまた、紹鷗の示した4畳半茶室の草庵化も進めた。これは、裏千家の茶室「又隠(ゆういん)」(京都市上京区)に伝わっている[14]。□□織田有楽斎、古田織部、小堀遠州ら大名茶人も茶室をつくった。これには草庵風のものもあれば書院風のものもある。□□織田有楽斎が京都建仁寺正伝院につくった茶室如庵は、建仁寺から東京の三井家、神奈川県大磯の三井家別荘へと移築を繰り返し、現在は愛知県犬山市の有楽苑に所在する。壁の腰張りに暦が張ってあるところから「暦張りの席」とも呼ばれ、国宝に指定されている。古田織部の好みを最も残すといわれる燕庵(京都市下京区)は、織部が大坂の陣に際して京屋敷の茶室を義弟にあたる藪内流の剣仲紹智に与えたものと伝えられている[26]。如庵と燕庵は、いずれも草庵風茶室の空間に格式を創出したところに特徴がある[14]。いっぽう、大徳寺孤篷庵に設けられた「忘筌(ぼうせん)」は小堀遠州がつくり、18世紀末に松江藩の藩主松平治郷が再建した茶室で、書院造を基本としているが草庵風の意匠も採用されている。□□このように、茶室建築は茶人の精神すなわち「数寄」が表現されたもので、「数寄屋」の呼称もこれに由来するが、上述『匠明』に数寄屋が収載されていることは、17世紀初頭の段階で上層武家の接客施設として茶室がすでに定着していたことを示している[14]。□□秀吉は、大坂城内に豪華な茶室をつくり、また、折りたたみ可能な「黄金の茶室」を千利休につくらせ、各地に運んで茶会をひらいた。「黄金の茶室」は京都御所や肥前名護屋城(佐賀県唐津市)にも運び込まれ、また、北野大茶湯でも披露されている。これらは、秀吉の派手好み・成金趣味の現れと評されることも多いが、秀吉自身はそれよりも「山里」と名づけられた、木立によって俗塵を遮断した静寂な茶室での侘茶を好んだといわれる。□□なお、高台寺境内において伏見城遺構と伝承される2つの茶亭「時雨亭」「傘亭」について、堀内家出身の堀内他次郎(宗完)は、これが伏見城に秀吉が設けたとされる学問所の高堂と草堂ではなかったかと指摘している[27]。□□茶室建築はのちの住宅建築にも影響をあたえた。住まいに数寄屋(茶室)の要素を採り入れた「数寄屋造り」がそれである。
壁や襖に描かれる絵を「障壁画」という。屏風絵をそれに含めることもあるが、含めないこともある。また、含めることを明示した「障屏画」という用語もある。
桃山時代、城郭や寺院内部の壁、襖、屏風ないし天井には、金箔の地の上に青や緑の雄渾な線で彩色していく濃絵(だみえ)の手法による豪華な障壁画(障屏画)が描かれた。濃絵は、本来的には彩色絵画一般を指し、墨絵に対する語である[34][注釈 24]。濃絵のなかで全面に金箔が押され「碧」すなわち青色系統で濃彩したものは、「金碧画」と称され、室町時代に端を発している[34]。障壁画には、濃絵(金碧画)と水墨画の2種類あったが、一般に、金碧障壁画は建築内部において表座敷や客間など公的な空間で飾られ、私的空間の装飾には水墨画が愛された[35]。□□天下統一の活気あふれる時代にあっては、ことに黄金が好まれ、濃密な色彩とともに力強い絵画が求められた[36]。城郭は新しい権威の象徴であったが、その内部にも権威が示されなくてはならず、黄金の輝きはそうした効果を発揮させるにはきわめて有効な手だてとなった[28]。そして、金色への志向は、その豪華さが単に天下人や大名らの美意識を満足させたからばかりではなく、十分な灯火の得られない当時の座敷において相当の照明効果をもたらしたからでもあった[34]。そこでは、花鳥風月など日本的な画題や唐獅子・竜虎など漢画(宋元画)風の画題が好まれた。金雲や金地が大画面のなかの風景を仕切り、画題となる対象を実物大に描くことで、真にせまった迫力を得ようとしたのである[36]。□□金碧障壁画の中心となったのは狩野派であった[36]。狩野派は前代より日本古来の大和絵の色彩主義と室町時代にさかんになった水墨画の構成主義を総合しようとしてきた[5][37]。狩野元信の孫にあたる狩野永徳はそれを受け継ぎ、豊かな色彩と力強い線描、雄大な構図を特色とする新しい装飾画を大成した[5]。永徳は信長と秀吉に仕えたが、かれの絵は主殿や広間などといった大空間において、天下人とその家臣たちが、居ながらにして絵画のなかの自然と一体化し、互いに共通の時間を生きる演出をになった[36]。その意味で、障壁画はすぐれて政治的な要素も持ち合わせていた[28][36]。永徳は、雌雄一対の獅子を描いた『唐獅子図屏風』や信長から上杉謙信に贈ったことで知られる『源氏物語屏風』『洛中洛外図屏風』、あるいはまた『檜図屏風』『花鳥図』など多くの傑作を手がけ、狩野派全盛の基礎を築いた[28]。永徳とその門下の絵師たちは安土城、大坂城、聚楽第の障壁画を任されたものの、永徳自身の遺筆は必ずしも多くない[36]。永徳が安土城天守閣の二層から七層のそれぞれに描いた障壁画の画題の記録がのこっているが、その数は膨大であり仏画の範疇に属するもの、儒教的な画題もあり、また、それ以上に人物や花鳥、鳳凰・龍虎・獅子などの霊獣を題材にしたものが多かった[4][7][28][注釈 25]。□□秀吉の小姓から永徳の門人になった狩野山楽は永徳の養子となり、その画風を継承した。山楽の作品としては、装飾性の高い金碧障壁画である『牡丹図』や水墨画の『松鷹図』がとくに著名で、いずれも大覚寺所蔵である。永徳の後継者のうち江戸幕府に仕えた狩野派が江戸狩野と称されたのに対し、京にのこった山楽の系統は京狩野と呼ばれた[37]。
狩野派の躍進に対し、大和絵の名門であった土佐派は公家の衰微もてつだって16世紀中葉以降、著しく凋落した[35]。土佐派は、天下人の支援を受けた狩野派の宮廷への進出に対抗することができず、足利義昭邸の障壁画を描いた土佐光茂は、その晩年、京を去って堺に移り住んだ[35]。また、その子の土佐光元が秀吉に従軍して戦死したこともあって、土佐派は宮廷絵所職の地位を失った[35]。□□狩野派による中央画壇の独占的な支配のなかから、漢画系の海北派・長谷川派・雲谷派・曽我派などの諸派が勃興してきたのも桃山時代であった[35]。
海北派の祖として知られる海北友松は、北近江の戦国大名浅井氏の重臣海北氏の出身である[38]。信長の小谷城攻めによって海北氏一族は滅んだが、若年より出家して京の東福寺にあった友松のみが生き残り、中国の梁楷や顔輝、室町時代の水墨画、狩野永徳などから画風を学んだ[38]。友松は濃彩の装飾的作品とともに特に水墨画において個性的ですぐれた作品を多数生みだしている。建仁寺大方丈に水墨画『山水図』を描いたほか、建仁寺には『竹林七賢図』『琴棋書画図』『雲龍図』『花鳥図』などの膨大な諸作品をのこしており[注釈 26]、妙心寺もまた『花卉図』『三酸・寒山拾得図』『琴棋書画図』などの友松作品を所蔵している。なお、2代海北友雪以降の海北派は禁裏の御用絵師となった[38]。□□長谷川派の祖長谷川等伯もまた、その子長谷川久蔵との共作によって祥雲禅寺(現智積院)の金碧画(『桜図』『楓図』『松と葵の図』『松に秋草図』)を描いた[30][注釈 27]。代表作『楓図』は、楓の巨木の下から湧きあがるように咲く花々など、狩野派ではあるいは切り捨てられていたであろう丹念な細部表現、金箔を効果的に用いての空間処理、余韻を持たせた背景の描写など様々な表現技法を駆使した傑作である[35]。能登国に生まれ、堺の町衆文化と接触して京で水墨画の技量を学んだ等伯もまたすぐれた水墨画を多くのこしている[39]。智積院襖絵に相前後する時期に描かれたと推定される『松林図屏風』は、豪壮をほこる桃山絵画のなかにあって静寂瀟洒な味わいをもつ水墨画の傑作であり、きわめて高い造形的な結晶度とあふれる詩情はつとに名高い[5][39]。雪舟弟子の等春に学んだ等伯は、晩年に自分の作品に「雪舟五代」と記し、みずからの水墨画が雪舟に連なるものであることを主張した[40]。なお、等伯は聚楽第の内部装飾について狩野派と制作を分担したが、狩野派の人びとと衝突して永徳を非難したため、以後、宮廷の造営においては永徳らによって疎んじられ、しりぞけられた[35][注釈 28]。□□水墨画では毛利氏に仕えた武人画家雲谷等顔も名高い。等顔の本姓は原で、肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主で松浦氏に仕えた原直家の次男として生まれた[38]。父の戦死後、毛利輝元に引き取られ、そこで雪舟等楊筆『山水長巻』の模写をおこなったが、そのできばえには輝元は驚き、文禄2年(1593年)、輝元は等顔に禄100石と長巻をあたえ、山口における雪舟の居宅兼アトリエであった雲谷庵を委ねた[38]。等顔はみずから「雪舟末孫」と称して雪舟流の正統を主張、長谷川等伯と張り合った[38]。代表作に大徳寺黄梅院障壁画や東福寺普門院障壁画がある。また、等顔筆と伝わる『梅に鴉図』(京都国立博物館蔵)は墨と金だけを主調色とする大胆な表現で知られる[38][41]。等顔の後継者(雲谷派)は毛利氏の御用絵師として活躍し、江戸時代を通じて中国地方から北九州地方にかけての画壇に影響力を有した。□□曽我派では、戦国時代に越前国の大名朝倉氏の庇護を受けた曽我紹仙の系統から曽我直庵があらわれた[38]。高野山宝亀院の『鶏図』、高野山遍照光院の『商山四皓及虎渓三笑図』などが代表作である。なお、曽我二直菴など直庵以降の曽我派は活躍の場を堺にうつしている[38]。
参考資料
・滋賀県の歩み年表他
・【安土桃山時代】 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・南蛮文化 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・【桃山文化】 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
*次回は「No.2: 安土・桃山時代、医療(仮題)」についてを予定。