「一遍上人絵伝」などの中世の絵画によって知れるところでは、客を迎え入れることが多かった武家住宅において接客のための建物が発達し、座敷(畳を敷いた部屋の意)が生まれたと考えられる。この時期の座敷は、まだ畳が敷き詰められておらず、付け書院や後に床の間に変化する押し板などの要素も形式にまとまりがないが、書院造を構成する要素は鎌倉時代に出そろっていたことが分かる。とくに、13世紀中頃の都市鎌倉では、1236年(嘉禎2年)に執権北条泰時は将軍の御成のために「寝殿」を建てたが、その孫である北条時頼の代になると武家住宅の本来の客間であったデイ(出居)が発展し、寝殿に代わって御成に使用されるデイが誕生しており、その主室が酒宴などが行われる「座敷」と呼ばれていることから、これが和室の原型であったと考えられる。
室町・安土桃山時代:[編集]
室町時代に北山文化が発生し、客間として用いられた「会所(かいしょ)」などに座敷飾りが造られるようになり、そうした会所が東山文化で、茶道、華道、芸能など日常生活の芸術とともに発展した。この座敷飾りの場所は「押し板」と呼ばれる長板を敷いたスペースで、壁に画を掛け、前机に三具足(香炉・花瓶・燭台)をおいて礼拝していたものを、建築空間として造り付けるようになったもので、これと身分の高い人のすわる場所を一段高くして畳を引いた床を一体化したものが、一般に床の間と呼ばれているものであり、近世極初期に生まれたのではないかとされている。だが、そもそも会所とはさまざまの人々が集まる場所であり、本来的に住居である書院と混同するべきではない。プライベートスペースとしての「書院」の原型を、足利義政が慈照寺(銀閣がある寺)の東求堂(1485年(文明17年))に造った「同仁斎」に見ることができる。これは四畳半の小さな一間すなわち「方丈」の書斎であるが、付書院と棚を備え、畳を敷き詰めたものである。ただし同仁斎は書院としての要素は持っていてもまだ書院造とは言えない。 室町時代後期になって、押板や棚、書院を備える座敷が一般的になり、それらがヒエラルキーを持つ連続空間となって書院造の形式が整えられていった。亭主の座である上段は、原則として連続した室の東端もしくは西端に置かれ、その前方に座敷が東西に二室連なり、さらにその外側に「公卿の間」と呼ばれる小スペースが設けられ、ここに付設する車寄せを正式の入り口とした。公卿の間の南には「中門」が設けられ、ここには唐破風も設けられたからおそらくは公卿以外の人々の出入り口となった。そしてこれら連続した室の南側には、入り側を介して庭が広がっていた。上段の書院は、南側に窓を向け書見の明かり採りとするとともに上段を照らす明かり採りの用も担った。上段正面背部には押し板と違い棚が設けられ、座敷飾りの場所となった。聚楽第のような大規模な屋敷では、同様な室の並びがさらに一列北側に設けられた。聚楽大広間[4]では、これら二つの書院造の室群に挟まれた空間を「納戸」と称しているが、これが帳台とも呼ばれた住宅における寝室であり、それゆえここと座敷を仕切る建具を「帳台構」と呼ぶ。
織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の御殿の壁や襖障子には、狩野派の絵師により金碧濃彩の障壁画が描かれ、権力者の威勢を示すものであった。これらはいずれも現存しないが、徳川3代将軍徳川家光によって建てられた二条城の二の丸御殿大広間は、同様の障壁画を持つ書院造の現存例である。
江戸・明治時代:[編集]
江戸時代には書院造に室町中期に発生した茶室建築の要素を取り入れた数奇屋風書院造が造り出された。そこには格式にこだわらず、丸太を使い竹を多用し土壁を見せ、ときにしゃれたディテールも見せる、自由で豊かな表現が見られる。こうした数寄屋風書院は明治以降さらに洗練の度合いを増し、昭和初期に至ってついに単なる茶座敷を超えた数寄屋建築を完成させる。
庶民の住宅においても、名主相当の有力者の場合、代官を自宅に迎えるため、接客用の土地や部屋に書院造の要素である長押や、床の間、書院などの座敷飾りが取り入れられた。明治以降には、庶民住宅にも取り入れられたが、なお床の間のある座敷は一種特別な部屋であり、家主の家族であっても普段は立ち入れない場所であることがあった。現代に至り和風建築は急速に衰退し一室も和室を設けない建築も当たり前となっている。
書院造の例:[編集]
書院造の芽生え:慈照寺同仁斎 書院造の完成:園城寺光淨院客殿 書院造の進化:西本願寺白書院
対面所への特化:二条城二の丸書院、西本願寺対面所
[水墨画]:水墨画 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水墨画(すいぼくが)とは、唐代に成立したとされる墨で表現される墨絵(すみえ)の代表的画法。墨線だけでなく、墨を面的に使用し、ぼかしで濃淡・明暗を表す絵画である。墨絵とも表記される。海外ではZen(禅) painting と呼ばれる事もある。
中国における水墨画:[編集] 中国大陸では殷の時代には墨が使用され、墨を用いた絵画も漢の時代には存在した[1]。漢代の壁画などには墨による線と顔料による着色によって描かれたものが現存している[1]。
唐代には墨の濃淡で表現する絵画が作られるようになった[1]。水墨画は唐代後半に山水画の技法として成立した。また、9世紀、張彦遠は墨色には万物の色彩が含まれているとし「墨色に五彩あり」と画論で述べている[2]。水墨画は西洋画の油絵とは異なり筆墨が紙に浸潤するような画が特徴である[3]。また、水墨画では画家が物体の本質を知覚的・主観的に捉えたもののみが描かれ、自然再現描写を重視する西洋画のように光源を固定した背景(背景上の明暗や陰影)を描かない[4]。□□宋代には、文人官僚の余技としての、四君子(蘭竹菊梅)の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれた。
日本へ大陸から墨が伝来すると奈良時代前後には墨を用いた木簡、典籍、壁画などに墨書や墨画がみられるようになった[1]。
水墨画の様式は日本には鎌倉時代に禅とともに伝わった[1]。日本に伝わった絵画は、『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものであったが、徐々に変化を遂げ、「山水画」も書かれるようになった。
美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品については、おおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常である。着彩画であっても、水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多い。
平安時代初期、密教の伝来とともに、仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作された。絵巻物の中にも『枕草子絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがある。しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」(はくびょう)ないし「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通である。
[御伽草子]:
御伽草子 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『御伽草子』(おとぎぞうし)は、鎌倉時代末から江戸時代にかけて成立した、それまでにない新規な主題を取り上げた短編の絵入り物語、およびそれらの形式。お伽草子・おとぎ草子とも表記する。広義に室町時代を中心とした中世小説全般を指すこともあり、室町物語とも呼ばれる。
成立:[編集]
平安時代に始まる物語文学は、鎌倉時代の公家の衰微にともない衰えていったが、鎌倉時代末になると、その系譜に属しながら、題材・表現ともにそれまでの貴族の文学とは、全く異なる物語が登場する。それまで長編だったのが短編となり、場面を詳述するのではなく、事件や出来事を端的に伝える。またテーマも貴族の恋愛が中心だったのが、口頭で伝わってきた昔話に近い民間説話が取り入れられ、名もない庶民が主人公になったり、それが神仏の化身や申し子であったり、動物を擬人化するなど、それまでにない多種多様なテーマが表れる。□□お伽草子は、400編超が存在するといわれている。そのうち世に知られている物は100編強だともいわれるが、研究が進んで漸増している。ただし、同名でも内容の違うものや、その逆の違う名前でも内容が同じものなどがあり、正確なところはわからない。室町時代を中心に栄え、江戸時代初期には『御伽物語』や『新おとぎ』など「御伽」の名が入った多くの草子が刊行された。御伽草子の名で呼ばれるようになったのは18世紀前期、およそ享保年間に大坂の渋川清右衛門がこれらを集めて『御伽文庫』または『御伽草子』として以下の23編を刊行してからのことである。□□ただし、これも17世紀半ばに彩色方法が異なるだけで全く同型・同文の本が刊行されており、渋川版はこれを元にした後印本である。元々「御伽草紙」の語は渋川版の商標のようなもので、当初はこの23種類のみを「御伽草紙」と言ったが、やがてこの23種に類する物語も指すようになった。
文正草子 鉢かづき 小町草子 御曹司島わたり 唐糸草子 木幡(こはた)狐 七草草子 猿源氏草子
物ぐさ太郎 さざれ石 蛤の草子 小敦盛 二十四孝 梵天国(ぼんてんこく) のせ猿草子 猫の草子 浜出(はまいで)草子 和泉式部 一寸法師 さいき 浦島太郎 酒顛童子 横笛草子
内容:[編集] 古くからのお伽話によるものも多いが、たとえば『猫の草子』のように成立が17世紀初頭と見られるもの
もある。また、『平家物語』に類似の話が見られる『横笛草子』のように他のテキストとの間に共通する話もある。『道成寺縁起』のように古典芸能の素材になったり『一寸法師』のように一般的な昔話として現代まで伝えられるものもある。『一寸法師』や『ものぐさ太郎』、『福富太郎』などは、主人公が自らの才覚一つで立身出世を遂げ、当時の下克上の世相を反映する作品といえる。物語の設定に着目すると、時代は現在から神代の昔に至るまで様々であったのに対し、舞台は特定の場所が設定されている事がしばしば見受けられる。特に清水寺は、現存するお伽草紙作品のうち約1割に当たる40編に登場し、中世の人々の神仏に対する信仰や、縁起譚・霊験譚への関心の高さが窺える。一方で、鳥獣魚虫や草木、器物など人間とは類を異とするものが主人公になることも多く、「異類物語」と呼ばれる。その中には百鬼夜行絵巻のような、妖怪を描いた作品も含まれている。□□御伽草子の多くは挿絵入りの写本として創られ、絵を楽しむ要素も強かった。文章は比較的易しい。筋は多くの説話がそうであるように素朴で多義的であり、複雑な構成や詳細な描写には乏しい単純なものが多い。しかし、そのことをもって、御伽草子全てを婦女童幼の読み物であると断定するべきではなく、物語が庶民に楽しめるものになっていったこの時代に、色々な創作・享受の条件が複雑に重なった結果、御伽草子のような形の物語群が生まれたと思われる。面白さの裏にある寓意に当時の世相が垣間見られ、中世の民間信仰を理解する手がかりともなっている。また、後に生まれる仮名草子や浮世草子に比べて御伽草子の話の数々は作者未詳である。その部分は、日本の物語文学の伝統に則っている。
御伽草子の分類:[編集] 説話の内容により、一般的に下記のように分類される[1]。ただし、複数の領域にまたがる作品もあり、お伽草紙の多様性を示している。
公家物語:平安時代以来の王朝物語に連なる作品群。貴族の恋愛や継子物語や、小野小町や和泉式部などの歌人物語を含む。例:小落窪・伏屋の物語
僧侶・宗教物語:寺院や草庵で修行する僧侶たちの間で作られた稚児物語や発心遁世物語や、神仏の来歴を説き語る本地物語や寺社縁起など。例:三人法師・おようの尼
武家物語:武士などの英雄の怪物退治や剛勇を示す物語。御家騒動や軍記物語に取材した作品があり、特に源義経を主人公にした判官物は人気を博した。幸若舞や浄瑠璃と共通の題材が多い。例:酒呑童子・弁慶物語:
庶民物語:
公家・武家・僧侶以外の庶民を主人公とする作品群。当時の民間説話と関わりが大きい。笑い話的要素や祝儀性が強く、立身出世や求婚譚も多い。例:一寸法師・ものぐさ太郎
異国・異郷物語:
『新編御伽草子』
[編集]
国文学者の萩野由之は、蜂須賀氏所蔵の阿波国文庫及び不忍文庫などの原本から、江戸時代の渋川版26篇に漏れた古草子を集め、1901年(明治34年)に『新編御伽草子』を刊行した。 平安時代の公家がかつて手にしていた国文学が鎌倉時代を経て、室町時代より次第に下層に浸透、徳川時代には海内文章落布衣といはしむに至れりと荻野は「はしがき」に著している[2]。また、文学資料として刊行するには、その時代の最重なものをとるべきであるが、草子写本等の散失を留めおくべきとその理由を著している。□□上巻:福富草子 – 十番の物あらそひ – 音なし草紙 – 若草 – かざしの姫君 – 常盤のうば – 小おちくぼ – 今宵の小将 – びしゃもんの本地 – 貴船の本地 □□下巻:浄瑠璃十二段草子 – 築島 – 化物草紙 – 狐草子 – こうろき草子 – 玉虫の草紙 柿本の系図 – 立烏帽子 – 尤の草子
太宰治の『お伽草紙』:[編集] 詳細は「お伽草紙 (太宰治)」を参照
これらの御伽草子とは別物だが、太宰治が日本の昔話などを題材に執筆した『お伽草紙』(1945年)という短編小説集がある。□□日本人の誰もが知っている民話・御伽話の中に込められた作者独特のユーモア・ウィットに富んだ解釈や語り口調が特徴。大胆で自虐的な空想が日頃の作者の深い人間洞察を反映しており、太宰の数ある翻案小説・パロディ小説の中でも傑出した作品と言える。第二次世界大戦末期、太宰は『津軽』(1944年11月刊行)、『新釈諸国噺』(1945年1月刊行)、『惜別』(1945年9月刊行)、そして本書(1945年10月刊行)と、数多くの傑作を書き、発表し続けた。収録作品は以下の通り。
瘤取り 浦島さん カチカチ山 舌切雀 □□なお上記4編に加え、「桃太郎」で完結する全5編を構想していたことが、「舌切雀」の冒頭で語られている。
【医療関係の動きは】
(in日本の医療史 くらインターネット ttps://nikido69.sakura.ne.jp › medicine › medicine01)
この時代も前代と大きく流れは変わらなかったが、大陸(元・明など)の最新医学や医術を伝え、日本の医療を担った中に、僧侶以外の知識人が増加して行く事に変化があった。室町幕府が朝廷に対抗する上で、お抱えの民間医を僧官(僧正・僧都・律師など)に任命していくという動き等は在ったが(後に是正されるが、僧官に対して官医の官位は低かった)、徐々に医療の世界から仏教色が薄くなり、儒教の影響が強くなる流れが出来始める。□□この時代、医学・医術が幾つかの点で、大きく変化した。まず以前は患者の症状を観て、医書(マニュアル)に沿って対処するような局方医学がもっぱらであったが、より現場の医師の臨床経験や実証を重視するような医学が導入され始める。一つは曲直瀬道三の李・朱(明の医師)の医学(前項で述べた)で、ただ病魔を攻撃するのではなく、滋養強壮に努める事を旨とする(我々が東洋医学、漢方と聞いて連想するような療法と言える)。もう一つは明から招来された傷寒論医学で、後に永田徳本によって実地の医療に採用された。病は欝滞によるものであり、峻剤で攻撃せねばならないとしたが、やはり医師の主体的な経験と実証を重視した。これらの医学論派が近世医学を確立してゆく。また今までは内科、外科程度しか別れていなかった医術が、眼科、産婦人科、口腔科といった専門医術が特化し始めた事が挙げられる。□□さらには室町時代後期の南蛮人(ポルトガル人)の渡来により、日本人は初めて西洋医術との出会いを果たす。室町時代後期には宣教師達を中心とした南蛮人によって、江戸時代初期にはオランダ人によって伝えられた。眼鏡・タバコといった物が医療品として、また新たな感染症として梅毒が伝えられたのも、この時期である。とはいえ鎖国政策などもあり、西洋医術は簡単な外科処置程度しか伝わらず、西洋医学・医術が本格的に学ばれる様になるのは、18世紀前期の徳川吉宗の治世になってからである。
*傷寒論医学について:傷寒論は張仲景という方が著したといわれている。時は後漢の末期、著者の張仲景は長沙(現湖南省)の太守(知事)をしていました。張仲景には200人を超える親族がいましたが、10年も経たないうちに3分の2が亡くなってしまいました。このうち、7割が「傷寒」で亡くなったことに心を痛めて、「傷寒雑病論」という医学書を著しました。「傷寒雑病論」は宋の時代に「傷寒論」(「傷寒」(急性熱性病)に関する治療法)と「金匱要略」(慢性疾患に対する治療法)という2つの書物に分けられました。
(In 2022 年 5 月記載 東京女子医科大学 https://www.twmu.ac.jp › IOM › uploads › 2023/07)
傷寒雑病論(in傷寒雑病論 | 公益社団法人 日本薬学会 https://www.pharm.or.jp › words › post-4)
しょうかんざつびょうろん 作成日: 2024年05月09日 更新日: 2024年05月09日生薬天然物部会 © 公益社団法人日本薬学会3世紀の初めに、長沙(湖南省)の太守(知事)であった張仲景(ちょうちゅうけい)が記したとされている。この「傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)」は、古来より散逸と発見を繰り返し、現在では2部に分かれ、傷寒(急性熱性病)については「傷寒論(しょうかんろん)」、雑病(慢性病)については「金匱要略(きんきようりゃく)」として伝わっている。「傷寒論」では、傷寒の病態を三陰三陽(六病位)と呼ばれる6つのステージに分け、それぞれの病期の病態と、適応処方を記している。「金匱要略」では、循環器障害、呼吸器障害、泌尿器障害、消化器障害、皮膚科疾患、婦人科疾患から精神疾患までの慢性病の治法を論じている。なお、現在、中医学では「傷寒論」の六病論を経絡と結びつけ、六経説として捉えている。 「神農本草経」、「黄帝内経」とともに中国医学における三大古典の1つに数えられている。
(In傷寒論(ショウカンロン)とは? 意味や使い方 コトバンク https://kotobank.jp › word › 傷寒論-78970) 中国,漢末の200年ころに張仲景が撰したとされている中国の臨床医学の古典。張仲景は長沙の太守であったとよくいわれるが,この説には根拠はなく,むしろ伝説的な名医で,もっとも古いものとしては《三国志》の注にその名がみられる。《傷寒論》という書名も王燾(おうとう)の《外台秘要(げだいひよう)》(752撰)に出て来るのが最初であるが,そこに引用されている処方の内容は現行のものとかなり違っている。しかし現行本とほとんどそっくりの文が孫思邈(そんしばく)の《千金翼方》(660ころ撰)に含まれている。この書には《金匱玉函経》など多くの異本(王燾が引用したのもその一つ)があるから,各地に張仲景の流れを汲むと称する医師団があり,それぞれの集団内で伝えられて来た書の一つが現行本と考えるべきであろうし,それが最終的に現在の形にまとめられたのは唐代またはそれに近い時代であろう。ただしそれも北宋時代に校勘作業を受けているから,現行本にも唐代のものとのあいだに多少の違いのある可能性があり,巻によって内容量が大きく違っているから,完本でないことも明らかである。傷寒は急性の熱病で,発疹チフスかワイル病などを含めた複数の病気の総称であろう。《傷寒論》は傷寒の発病から死亡までの全経過を6段階に分け,各段階のさまざまの病状を記述し,それぞれに応じた治療法を指示したものである。このように一つの病気を取りあげて,その治療法を系統的に述べたり,治療過誤の対処法に触れた例は,中国医学古典ではほかには見られない。治療はほとんどすべて薬物によるもので,煎剤が多く,医学理論にはほとんど触れていない。この書は後世に大きな影響を残し,この書の治療法を《素問》(《黄帝内経》)で理論づけようとしたのが金元医学の始まりであり,その治療法を発展させたのが日本の古方派の漢方医学である。この書の処方は現在でも用いられているが,その使用法は原本とは違うことが多い。また,もとは《傷寒雑病論》という書があり,そのうちの傷寒の部分に相当するものがこれであって,残りが《金匱要略》であるという説もあるが,それほど簡単な関係ではないようである。
執筆者:赤堀 昭 出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について
参考資料
・滋賀県の歩み年表他
・能の基礎知識 – 能楽協会https://www.nohgaku.or.jp › guide › 能の基礎知識 山中玲子
・狂言とは-史上初女性狂言師「和泉淳子」izumi-junko.jp https://izumi-junko.jp › what-is-kyogen
・金閣寺、京都府ホームページ
・金閣寺:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・銀閣寺、京都府ホームページ
・銀閣寺:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・書院造 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・水墨画 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・御伽草子 in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・日本の医療史 くらインターネット ttps://nikido69.sakura.ne.jp › medicine › medicine01)
・2022 年 5 月記載 東京女子医科大学 https://www.twmu.ac.jp › IOM › uploads › 2023/07
・傷寒雑病論 | 公益社団法人 日本薬学会 https://www.pharm.or.jp › words › post-4
・傷寒論(ショウカンロン)とは? 意味や使い方 コトバンク https://kotobank.jp ›
word › 傷寒論-78970