【後編】第21回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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5.小結
(ⅰ)初唐の『崔知悌方』に「地衣草」と称される薬物が記載される。これは地面に生える下等な植物で、セン綱植物の可能性がある。
(ⅱ)『日華子本草』には「地衣」という植物も記載されていた。この「地衣」は、生態からコケ植物に近い生物と考えられた。
(ⅲ)歴代の本草書は「地衣草」と「地衣」を別々に記載したが、『本草綱目』は両者を同一物とみなし、単一の項目にまとめて記載した。 – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –
引用文献と注
(1)小曽戸洋監修・篠原孝市ら編集『宋版外台秘要方(下)』東洋医学善本叢書5、東洋医学研究会、1981年、404頁(第21巻20葉)。「雀目方四 首…崔氏療雀目方。七月七日、九月九日、取地衣草、浄洗陰乾、末之、酒和服方寸匕。日三服、一月即愈。出第四巻中」。
(2)『重修政和経史證類備用本草』南天書局、1976年、171頁。および『経史證類大観本草』正言出版社、1977年、175頁。「(第六巻 四十六種陳蔵器余…)地衣草。味苦、平、無毒。主明目。崔知悌方云、服之令人目明、地上衣、如草。生湿処是」。
(3)李経緯主編『中医人物詞典』上海辞書出版社、1988年、575頁。
(4)池田知久訳『荘子(下)』学習研究社、1986年、82頁。「種有幾。得水則為{斷-斤}。得水土之際則為鼃蠙之衣。生於陵屯則為陵舄…」(郭慶藩 輯『荘子集釈』中国哲学叢書、河洛図書出版社、1974年、624-625頁)。
(5)郭慶藩輯『荘子集釈』中国哲学叢書、河洛図書出版社、1974年、625頁。「鼃蠙之衣、青苔也。在水中若張綿、俗謂之蝦蟆衣」。
(6)『爾雅注疏』台湾中華書局、1977年、第8巻 第8葉。
(7)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1408-1409頁。「(第82巻)風土記曰。石髮、水衣也。青緑色。皆生於石」。 『文選』李善注に引かれる『風土記』は「衣」を「苔」に作る。
(8)尚志釣・林乾良・鄭金生『歴代中薬文献精華』科学技術文献出版社、1989年、200-201頁。
(9)『重修政和経史證類備用本草』南天書局、1976年、237頁。『経史證類大観本草』正言出版社、1977年、268頁。「臣禹錫等謹按日華子云。 垣衣冷。又云。地衣、冷、微毒。治卒心痛、中悪。以人垢膩為丸、服七粒。是陰湿地被日曬起苔蘚是也。并生油調傅馬反花瘡良」。
(10)『重修政和経史證類備用本草』南天書局、1976年、236-237頁。『経史證類大観本草』正言出版社、1977年、267-268頁。「…大 抵苔之類也。以其所附不同、故立名。与主療亦異。在屋則謂之屋遊、瓦苔。在垣墻則謂之垣衣、土馬騣。在地則謂之地衣。在井則謂之井苔。在水中石土則謂之陟 釐…」。
(11)許愼『説文解字』中華書局、1963年、22頁。
(12)『重修政和経史證類備用本草』南天書局、1976年、237頁『経史證類大観本草』正言出版社、1977年、268頁。「(陟釐項)今按。別注本 云此即石髪也。色類似苔而麁渋為異。且水苔性冷、陟釐甘温。明其陟釐与苔全異。池沢中石上名陟釐、浮水中名苔爾」。
(13)斉治平校注『拾遺記』中華書局、1981年、213-214頁。「祖梁国献蔓金苔、色如黄金、若蛍火之聚、大如鶏卵、投於水中、蔓延於波瀾之上、 光出照日、皆如火生水上也。乃於宮中穿池、広百歩、時観此苔、以楽宮人。宮人有幸者、以金苔賜之、置漆盤中、照耀満室、名曰夜明苔。著衣襟則如火光。帝慮 外人得之、有惑百姓、詔使如苔塞池。及皇家喪乱、猶有此物、皆入胡中」。なおヒカリモ自体は微細な単細胞生物なので、すくい取るか、スポンジに吸わせるか などして採取する必要がある。すると『拾遺記』に記される「大如鶏卵(大きさは鶏卵くらい)」という説明は、ヒカリモ自体の大きさをいったのではないと考 えられる。
(14)長沢規矩也・尾崎康編『通典』第8巻、汲古書院、1981年、499頁および547頁。「鞠国在抜野古、東北五百里、六日行。其国有樹無草、但有 地苔。無羊馬、家畜鹿如中国牛馬。使鹿牽車、可勝三四人。人衣鹿皮、食地苔。其国俗聚木為屋、尊卑共居其中」。
(15)譚其驤主編『中国歴史地図集』隋・唐・五代十国時期、地図出版社、1982年、74頁。当地図によれば、鞠(国)はバイカル湖とエルグン川(大興 安嶺山脈北西、ロシアとの国境沿いに流れる川)に挟まれた地域(現ロシア領)にあたる。
(16)加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』恒文社、1986年、131-178頁。
(17)佐藤正己『有用植物分類学』養賢堂、S32、456-457頁。
(18)葛野浩昭『トナカイの社会誌』河合出版、1990年、262頁。
(19)欧陽詢撰・汪紹楹校『芸文類聚』上海古籍出版社、1999年、1409頁。「古今注曰。苔。或紫或青、一名員蘚、一名緑銭、一名緑蘚」。
(20)『六書故』の編者、戴侗は南宋の人で、徳祐初(1275)年に秘書郎という官職に就いたという(呉楓主編『簡明中国古籍辞典』吉林文史出版社、 1987年、146頁)。これをもとに、筆者は成書年を1275年前後と記した。
(21)陳彭年ら『校正宋本広韻』芸文印書館、1976年、99頁。「苔、上同。又蘚也」。
(22)陳彭年ら『校正宋本広韻』芸文印書館、1976年、290頁。「蘚、苔蘚」。
(23)戴侗『六書故』四庫全書珍本、商務印書館、1976年、第24巻 第39葉表裏。「苔、徒哀切。苔生於水者、青緑如髪。生海浜者人多取裛而食之、又名陟釐。陸地下湿亦生蒼苔。蘚、息浅切。苔之浅駁者曰蘚、猶人之疥癬」。
(24)『本草綱目』第6冊、科学技術出版社、1993年、第21巻 第5葉。
(25)宮下三郎「本草の図として-本草綱目附図の解説として-」『本草綱目附図』春陽堂、1979年、7-24頁。
図の出典
図5-1 魯軍主編『御製本草品彙精要』九州出版社(中国)、2002年、1741頁(垣衣図)、1744頁(陟釐図)、1759頁(土馬騣図)。
図5-2 柏谷博之責任編集『植物の世界』週刊朝日百科、朝日新聞社、1996年、第12巻(第138号)178頁。伊沢正名撮影「ハナゴケとワラハナゴ ケモドキ」。上方はハナゴケ (Cladonia rangiferina)、下方はワラハナゴケモドキ (Cladonia mitis)
図5-3  柏谷博之責任編集『植物の世界』週刊朝日百科、朝日新聞社、1996年、第12巻(第138号)172-173頁。伊沢正名撮影「オオトリハ ダゴケ」。オオトリハダゴケ(Pertusaria subfallens) 。
図5-4 金陵本(左図) 『本草綱目』第1冊、科学技術出版社、1993年、第2巻 第45葉。銭本(右上図) 鈴木真海訳・白井光太郎注・牧野富太郎ら頭註『頭註国訳本草綱目』第6冊、 春陽堂、1931年、558頁。合肥本(右下図) 『本草綱目附図』春陽堂、1979年、145頁。
図5-5 『本草彙言』(上図) 『本草彙言』内閣文庫所蔵本、第7巻図 第4丁表。『植物名実図考』(下図) 『植物名実図考』中華書局、1963年、425頁。

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In 第6章 日本における「地衣草」と「地衣」 umin.ac.jp https://square.umin.ac.jp › students › kubo › chap6

6章 日本における「地衣草」と「地衣」

 第1章では、日本で現在、Lichenの訳語に用いている「地衣」が、中国の『植物学』に由来することを明らかにした。さらに第2章から第5章におい て、地衣という語の初出は、後漢から晋にかけて著わされたと考えられる『金匱録』および『神仙服食経』の可能性が高いことを明らかにし、また地衣が車前の 別名であったことも分かった。そして『金匱録』の佚文は、平安時代に著わされた『医心方』(984) に記されていた。その後の中国で、地衣は敷物をさす場合と、車前ではない別の植物をさす場合とに分かれて記載されていた。このように多様な意味をもつ地衣 は、日本でどのように認識されていたのだろか。

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1.日本における「地衣草」「地衣」の初出文献と認識
 日本人が「地衣」という語を目にしたのは、いつ頃のことであろうか。また日本の文献において、「地衣」はいつから現れるのであろうか。
 さて平安時代に編纂された『本草和名』(1)(918頃)および『和名類聚抄』(2)(931) に、地衣の記述はない。しかし前章でとり挙げた『本草拾遺』(739) は「地衣草」の項を収録するが、『本草和名』の編述に利用されている(3)。すると平安時代以前に日本へ渡「地衣草」という薬物名が伝わった可能性はあ る。一方、地衣という語句の日本における初出文献は、第3章で論じた『医心方』(984)になるであろう。『医心方』には『金匱録』なる書から引かれ、地衣は車前(オオバコ)の異名であると説明されていた。
 その『医心方』から300年経た後に成立した『本草色葉抄』(1284)には、下記の条文がある。
『本草色葉抄』地部
●地衣草 『證』第6巻に、「味苦く、性は平。目をはっきりさせる。地上のこけで、草のようなもの。湿った場所に生える」とある(4)。
○地衣 『證』第9巻の「垣衣」に、「暗く湿った土に陽が当たると、発生するこけである」とある(5)。  文中の『證』は『経史證類大観本草』(1108) をさす。薬名の頭につけられた丸印は原本にあるもので、標準の名称を「●」、異名等を「○」として区別した記号である(6)。ただし、「地衣」の「○」 は、「地衣草」の異名としてつけられものではない。「地衣草」は『経史證類大観本草』の「陳蔵器余」に記された薬物名であり、独立した項目である。しかし 「地衣」は『経史證類大観本草』の垣衣項に付記されたもので、独立した条項がない薬物であった。よって『本草色葉抄』の撰者である惟宗具俊は、垣衣の項か ら「地衣」を抜抄し、こうしたものにも「○」印をつけて並記していたことがわかる。惟宗具俊は、さらに「地衣草」と「地衣」の生態についての記述も引用し ている。
 『本草色葉抄』と同じ鎌倉時代に著された『万安方』(1315) の「薬名類聚上」土馬騣項には、前章で挙げた掌禹錫『嘉祐補注本草』(1060)土馬騣項とほぼ同じ文がある(7)。さらに曲直瀬道三(1507- 1594)が著したと伝わる『炮炙撮要』(8)(1582) にも、類似した文がみられる。
『炮炙撮要』陟釐項
陟釐は川や海に生える石髪である。屋根瓦の苔を屋遊という。垣根に生えるのを垣衣といい、地面に生えるのを地衣といい、井戸に生えるのを井苔という (9)。

 この文は『嘉祐補注本草』土馬騣項と内容的には類似するが、文体や内容に違いがある。また『嘉祐補注本草』では土馬騣項に記された文であるが、『炮炙撮 要』では陟釐の項にこの文がある。一方、李時珍『本草綱目』(1593)も、陟釐項にこうした分類を記載する。『本草綱目』は1593年に成り、日本に伝 わった最も早い記録が1604年になるというから(10)(11)、曲直瀬道三(1507-1594)が『本草綱目』をみることができたとは考えにくい。 もし『本草綱目』からの引用であれば、『炮炙撮要』の編者が曲直瀬道三とされる点に矛盾が生じる。そこで各原文を挙げて比較してみよう。
『嘉祐補注本草』土馬騣項
在屋則謂之屋遊、瓦苔。在垣墻則謂之垣衣、土馬騣。在地則謂之地衣。在井則謂之井苔。在水中石土則謂之陟釐(12)。

『炮炙撮要』陟釐項
屋瓦苔曰屋遊、在垣墻曰垣衣、在地曰地衣、在井曰井苔(13)。
『本草綱目』陟釐項
蓋苔之類有五、在水曰陟釐、在石曰石濡、在瓦曰屋游、在墻曰垣衣、在地曰地衣(14)。  『炮炙撮要』と『本草綱目』では、「在~曰~」という語法の一致もみられる。しかし挙げられた薬物名を比較すると、『炮炙撮要』の4種(「屋遊」「垣 衣」「地衣」「井苔」)を、『嘉祐補注本草』はすべて挙げているのに対し、『本草綱目』では2種(「垣衣」「地衣」)しか一致しない。ならば『炮炙撮要』 陟釐項の文は、『證類本草』所引の『嘉祐補注本草』土馬騣項をもとに、編者が文体を変えて記したものと考えてよかろう。つまり『炮炙撮要』は、『本草綱 目』より以前の文献を使用しているといえる。また『炮炙撮要』には土馬騣の項がなく、そのため陟釐の項に移したと考えられる。とすれば、曲直瀬道三が編者 だった可能性は高いといえよう。
 『嘉祐補注本草』の上掲文は、『万安方』『炮炙撮要』に加え、李氏朝鮮の『東医宝鑑』(1597)地衣項にもみられる(15)。こうした引用は、この分類・命名法が朝鮮や日本で広く受け入れられていたことの証左であろう。またアイヌ語においても、下等 な陸上生物を付着する対象物で区別している(16)。これらは、植物解剖学に基づいた近代植物分類学が東アジアにもたらされる以前、人々が生物に対してど のような植物の分類観念をもっていたのかを知る一つの手がかりともいえよう。

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2.『本草綱目』渡来以降の「地衣草」「地衣」
 前章で述べたが、歴代の正統本草書に区別して記されていた「地衣草」と「地衣」を、李時珍は同一物とみなし、『本草綱目』にまとめて記した。そのため 『本草綱目』の影響下にあった江戸時代の本草・博物学者も、「地衣草」と「地衣」を区別なく用いている。
 この『本草綱目』にいち早く注目した林羅山は、『多織編』(1630)において、地衣草に「こけ」の和名をあてた(17)。次に『大和本草』 (1706)と『和漢三才図会』(1713刊)をあげる。
『大和本草』第9巻 地衣草項
地衣草(コケ)陰湿ノ地ニ生ス苔蘚ナリ詩歌ニ多ク詠ス本草載ス(18)
『和漢三才図会』第97巻 地衣項
地衣 こけ…(19)

 ともに『多識編』同様、「こけ」という和名をあてているが、地衣草・地衣がどのような植物か明示していない。「陰湿ノ地ニ生ス苔蘚ナリ」という『大和本 草』の記載は、『本草綱目』の文を読み下したものにすぎない(20)。
 そして地衣・地衣草を具体的に記述する文献は、以下の『本草綱目啓蒙』(1803-1806年刊)まで待たねばならない。
『本草綱目啓蒙』第17巻 地衣草項

ヒカリグサ 古歌  ヂゴケ  アヲゴケ  ビロウドゴケ  一名 青膚 事物紺珠 陰地ニ一面ニ生ズル緑苔ナリ。形鵞毛絨ノ如シ。数品アリ(21)。  ここにいう和名のヂゴケは地面に生えること、アヲゴケは緑色であることに由来する名であろう。ビロウドゴケは「鵞毛絨のようだ」とも述べられており、独 特の手触りをいうと考えられる。こうした記述から、地衣草がセン綱植物 (Musci) 全般をさすことはほぼ間違いなかろう。第1章に挙げた三好らの「地衣」に対する見解の根拠を、ここに見出すことができる。一方、地衣草がセン綱であるな ら、ヒカリグサはセン綱ヒカリゴケ(Schistostega pennata)に相当すると考えられよう。

 『本草綱目啓蒙』では、さらに「白竜鬚」と「玉柏」の項に以下の文がある。なお「地衣」を含む部分に下線を引いた。
『本草綱目啓蒙』第16巻 白竜鬚項に付記された「万纒草」の文
万纒草ハイトゴケナリ、山中樹根ニ着キ垂ル、形地衣ニ同シテ、 長サ二三尺、又枝ニ懸テ下垂ス縁色其茎甚タ細クシテ糸ノ如シ…(22)
『本草綱目啓蒙』第17巻 玉柏項に付記された「高野ノマンネングサ」の文
又、別ニ一種高野ノマンネングサト呼者アリ苔ノ類ナリ根ハ蔓ニシテ地上ニ延処処ニ茎立テ地衣〔ヂゴケ〕ノ如キ細葉簇生ス深緑色ナリ採貯ヘ久クシテ乾 キタル者ハ浸セハ便チ反リ生ノ如シ是レ物理小識ノ千年松ナリ(23)。

 ここに記される「万纒草」は、『古名録』(1843)に掲載された万纒草の図(図6-1)があり、これはセン綱イトゴケ属(Barbella)であろ う。同じく「高野ノマンネングサ」には、ヒカゲノカズラ科(Lycopodiaceae)植物と思われる図が描かれている。また「地衣ノ如キ細葉簇生ス」 とは、小葉がセン綱植物の葉と同じように細小であることをいったのであろう。これら「万纒草」「高野ノマンネングサ」の説明文から、小野蘭山が「地衣草」 をセン類綱植物と判断していたことが分かる。

小野蘭山以降の他の文献をみると、例えば、岩崎常正(灌園)『本草図譜』(1828) の地衣草項でもセン綱らしき植物が描かれている(図6-2)。ここに『本草図譜』の地衣草項は、「一種、じやばらごけ」としてタイ綱 (Hepaticae)も描かれているが、これは付録である。したがって地衣草の主体が、セン綱植物であることに違いはない。上述の如く、江戸時代におけ る地衣草・地衣は、漠然とした「こけ」の意味から、1800年頃を境としてセン綱植物を指す名称になったことが理解される。

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3.小結
(ⅰ)「地衣」および「地衣草」は、平安時代に引用された中国医薬書に記されており、古くから日本人の目に触れることがあった。
(ⅱ)日本おける地衣という語句の初出文献は『医心方』(984) であり、地衣は車前(オオバコ)の別名として記述されていた。
(ⅲ)『本草色葉抄』(1284)には、『證類本草』から地衣・地衣草の生態・形態について引用されていた。これは前章で扱った「地衣」と同じ意味であ る。
(ⅳ)中国の『嘉祐補注本草』(1060) 土馬騣項に記述された隠花植物の分類・命名法は、『万安方』(1315)と『炮炙撮要』(1581) に引用されていた。
(ⅴ)日本における地衣草および地衣の認識は、19世紀初頭を境にセン綱植物 (Musci) を指す名称になった。 – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – – –
引用文献と注
(1)台湾故宮博物館蔵 森立之仿写 紅葉山文庫旧蔵 深江(根)輔仁『本草和名』第1巻 17葉。
(2)源順撰・狩谷棭斎注『箋注倭名類聚鈔』朝陽会、1921年。
(3)真柳誠「『本草和名』引用書名索引」『日本医史学雑誌』第33巻 第3号(1987年)381-395頁。
(4)惟宗具俊『本草色葉抄』内閣文庫、1968年、111頁。
(5)惟宗具俊『本草色葉抄』内閣文庫、1968年、116頁。
(6)「内閣文庫検索サブシステム」http://www2.archives.go.jp/。『本草色葉抄』の関連事項に、「漢音で音読された薬名の下 に二行の割注で本名に●、異名に○が加えられ、本草学上、国語学上貴重な資料といえる」とある(2003年11月現在)。
(7)梶原性全『万安方(全)』科学書院、1986年、598頁。「垣衣大苔之類也。在屋則謂之屋遊、瓦苔。在垣墻則謂之垣衣、土騣。在地則謂之地衣。在 井則謂之井苔。在水中石土則謂之陟釐」。
(8)国立国会図書館(白井文庫)所蔵『炮炙撮要』。当書の奥書によれば、白井光太郎が1902年とその翌年に、古書肆でこの『炮炙撮要』を発見したとい う。したがって、『(初版)日本博物学年表』には載せられなかったが、『増訂日本博物学年表』には記載されている。しかし、上野益三『日本博物学史』およ び磯野直秀『日本博物誌年表』には著録されていな

2.丹波行長:衛生秘要抄」について

丹波行長:鎌倉時代後期の医師。生没年未詳。正四位下。典薬頭・左京大夫・穀倉院別当。施薬院使に三度補せられた。西園寺公衡の所望により衛生秘要抄を著した。『増訂国書解題』によると、その内容 は「都契、居処、臥起、眼目、言語、沐浴、服用、厨膳、月食禁、夜食禁、不多食物、合食禁、酒徳、酒失、酔後禁、酒合禁、房内大体、交換名目、和志、臨御、環精、施寫、択女、悪女相、用少女、不用一女、不交接成病、交接日時、房内禁日、房内雑忌、雑禁。以上31目に就き和漢の諸書を引き漢文にて説明した。正応元年戊子[1948]8月7日の記にかかる。『続群書類従』巻九百、雑部第五十にあり。」という。

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各医学会のホームページを閲覧すると、1947年に設立された「日本公衆衛生学会(Japanese Society of Public Health)」は、長與と同じように「衛生(学)」という言葉は荘子の『庚桑楚篇』にある「衛生の経」に由来するとしているが、意外なことに「日本衛生学会(The Japanese Society for Hygiene)」のほうは、鎌倉時代の1289年に丹波行長が撰述した『衛生秘要抄』の「衛生」に由来するとしている。言うまでもなく、「養生(の法)」の背景には「無為自然」を重視する老荘思想があるので、丹波行長も荘子の中の「衛生」が念頭にあったものと思われる。なお、この丹波行長という人物は代々典薬頭・鍼博士(宮廷医官ないし侍医)として朝廷に仕えた丹波氏の出で、行長が撰述した『衛生秘要抄』は、1302年に僧医梶原性全(12661337)が仮名まじり文で著した『頓医抄』とともに、日本において最も古い部類の予防医学書、すなわち「生(命)を衛(る)医学書」として認知されている。さらに、この丹波氏は渡来した唐代の漢籍医書を参考にその当時の医学知識全般を網羅した『医心方(全30巻)』を編集して、平安時代の984年に朝廷に献上した功績により典薬頭に採りたてられた丹波康頼(912~995)を始祖とする医家であり、その子孫から多くの名医を輩出していることを付記しておく。

(in「衛生」に関する管見[エッセイ]日本医事新報社 https://www.jmedj.co.jp › journal › paper › detail

参考資料:

・本草学・伝統医学の歴史について−日本(1) odn.ne.jp http://www2.odn.ne.jp › ~had26900 › Honzo_history

・『本草色葉抄』所引の医学文献 umin.ac.jp  https://square.umin.ac.jp › mayanagi › paper02 › ishi90

・第6章 日本における「地衣草」と「地衣」umin.ac.jp  https://square.umin.ac.jp › students › kubo › chap6

・Google Books  https://books.google.com › about

・ハナゴケ 花木毛 三河の植物観察 https://mikawanoyasou.org › tiirui › hanagoke ・第5章 医方書・本草書における地衣 umin.ac.jp https://square.umin.ac.jp › students› kubo › chap5

・第二章 中国、日本の養生文化の流れ概要 武蔵野学院 https://www.musashino.ac.jp › hakase_sya_2

・「衛生」に関する管見[エッセイ]日本医事新報社 https://www.jmedj.co.jp › journal › paper › detail


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