私こと、いま住んでいるのが「大阪府内」なので、親近感から「河内国」「和泉国」「摂津国」にある「藤井寺市(国府:こう、河内国)」、「和泉市(府中町:ふちゅうちょう、和泉国)」と「天王寺区(摂津国)」、「中央区(摂津国)」の状況についてみてみる。
- 「藤井寺市(国府:こう、河内国)」
(in Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 藤井寺市)
藤井寺市(ふじいでらし)は、大阪府の南河内地域北部に位置する市。
[概要]:大阪市から南東へおよそ15kmで同市のベッドタウン。大小の古墳が密集する古市古墳群や、西国三十三所第5番札所の葛井寺の門前町として知られる。かつてはプロ野球近鉄バファローズの本拠地・藤井寺球場があったことでも知られている。全国の市の中で5番目に面積が小さい。また、人口密度は大阪府下で8番目であり、南河内では最も高い。市章は、市内に多く所在する前方後円墳と国府遺跡(国史跡)から出土した縄文時代の玦状耳飾り(けつじょうみみかざり)をモチーフにしている。
[歴史]:市名は市内にある「葛井寺」(ふじいでら)に由来する。葛井寺は百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されたと推定されている。市内には国府(こう)の地名が残り、同地に河内国の国府が置かれたとされている。大正末期から昭和初期にかけて、大阪鉄道が藤井寺駅付近に住宅や教材園、野球場などを建設し、田園都市として発展した。
- 4~6世紀頃、古市古墳群に古墳が造営される。
- 1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で道明寺の戦いが起きる。
- 1704年(宝永元年)、大和川が付け替えられる。
- 1898年(明治31年)3月、河陽鉄道が柏原-古市間を開業し、道明寺駅ができる。
- 1922年(大正11年)4月、大阪鉄道が道明寺-布忍間を開業し、藤井寺駅ができる。
- 1928年(昭和3年)5月25日、藤井寺球場が完成する。
- 1929年(昭和4年)、大阪鉄道が藤井寺経営地に、花卉・果樹園、温室などを備えた自然学習の場として教材園を開設。
- 1933年(昭和8年)、教材園が閉鎖される。
- 1959年(昭和34年)、教材園の跡地に春日丘団地が建設される。
- 1969年(昭和44年)、西名阪自動車道開通、藤井寺インターチェンジ設置。
- 1973年(昭和48年)、藤井寺市民総合会館が完成(現在の愛称はパープルホール)。
- 1978年(昭和53年)3月、三ツ塚古墳の周濠から古墳時代のものと推定される大小2つの修羅が出土する。
- 2005年(平成17年)1月31日、藤井寺球場が閉鎖される。
- 2006年(平成18年)、市制40周年式典が執り行われる。
- 2009年(平成21年)4月、藤井寺球場跡地に四天王寺学園小学校が開校。
- 2016年(平成28年)11月、市制50周年式典が執り行われる。
- 2017年(平成29年)7月、堺市、羽曳野市とともに共同提出した『百舌鳥・古市古墳群』がユネスコ世界文化遺産国内候補として推薦される。
- 2019年(令和元年)7月6日、『百舌鳥・古市古墳群』が世界文化遺産に登録される。
- 「和泉市(府中町:ふちゅうちょう、和泉国)」
(in Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 和泉市)
②和泉市(いずみし)は、大阪府の泉北地域に位置する市。面積は84.9 km²、人口は約18万6千人。オイルショック後から大阪都心のベッドタウンとして開発が進み、かつては人口増加率で大阪府下1位を記録するなど、宅地造成が活発に行われていた。よって市では、新しい道路や施設の整備、企業誘致や観光振興など、様々なサービス改善に力を入れている。2012年には、「ココロ トリコ イズミ」をキャッチフレーズとして採択。都市環境と豊かな自然が調和した「トカイナカ」のシティプロモーションを行っている[2]。また2014年度には、東洋経済新報社「都市成長力ランキング」にて全国第4位となった。
[歴史]:
古くより和泉国の中心地であり国府があったことから、近代に入り「和泉町」と名付けられた。その後、市制を施行し、更に周辺町村と合併して現在に至っている。市域は全域和泉国和泉郡に属し、国府の他に国分寺と総社もある。江戸時代には、伯太藩の陣屋が置かれていた。なお、和泉国の歴史は「和泉国」を参照のこと。
市の沿革:
[昭和]1956年(昭和31年):9月23日 初の市長選挙・市議会議員選挙が行われ、初代市長に横田磯治(前和泉町長)が当選。市制施行当初は、和泉町役場がそのまま使用された。
11月16日 市の広報誌『広報いずみ』が創刊され、市内全世帯への配布が始まる。以降毎月1回発行。 1957年(昭和32年):1月25日 市の市章・市歌が制定される。4月14日 槇尾山の第1回サクラ祭りが行われる。7月21日 第1回体育記録会が和泉中学校校庭で行われる。9月2日 信太山の兵舎がアメリカ軍から返還され、防衛庁(現・防衛省)陸上自衛隊信太山駐屯部隊が発足する。11月3日 第1回市民芸術展が行われる。
1958年(昭和33年):4月10日 槇尾山一帯が金剛生駒国定公園に指定される。7月 和泉市体育連合会が結成される。10月20日 現在の「和泉市役所本館」が完成し、10月27日より業務が始まる。12月26日 市の全地域が都市計画区域に指定され、市の将来を見据えた本格的な街づくりがはじまる。1959年(昭和34年):7月3日 泉北郡八坂町、信太村で合併問題連絡協議会が発足。同月30日、両町村が和泉市に対し合併を申し入れる。
11月5日 和泉市が自治庁(現・総務省)から優良新市として表彰される。1960年(昭和35年):3月16日 和泉上水道組合・泉大津市・泉北郡高石町(現・高石市)の共同で「泉北用水組合」が結成される。8月1日 泉北郡八坂町、信太村を編入し、現在の市域となる。1961年(昭和36年)9月16日 第2室戸台風が近畿地方に上陸し、和泉市では当時の金額で約50億円の被害が発生。1962年(昭和37年)12月10日 国鉄(現・JR西日本)和泉府中駅の駅前整備のため、和泉市が周辺地域の敷地約2万平方メートルを買収する。1963年(昭和38年):4月1日 「大阪府立和泉工業高等学校」が開校する。4月15日 和泉市と泉大津市が共同で運営する「公立和泉病院」の分院が府中町に開院する。10月23日 東京オリンピック前年祭聖火コース国土美国民大行進が和泉市役所前を通過するイベントが開催される。1964年(昭和39年):9月26日 東京オリンピックの聖火リレーが和泉市を通過するイベントが開催される。この年、建設省(現・国土交通省)から和泉市に対し、国道26号(第二阪和国道)の建設計画が発表される。
1965年(昭和40年):7月25日 和泉府中駅の駅前再開発が完成し、駅前の商店街の竣工祝賀式が行われる。8月19日 和泉市・泉大津市・高石市・泉北郡忠岡町の3市1町で広域行政について話し合う「泉北広域都市行政協議会」が発足。後に堺市も加わり、現在の 泉北地域広域行政推進協議会 となる。1966年(昭和41年):和泉市が市制施行以来初めてとなる、深刻な財政危機に陥る。そんな中、和泉市・堺市・泉大津市の泉北3市による合併の話が持ち上がり、10月3日に合併協議会が発足する。11月21日 「NHK 和泉市民のつどい」が市民会館で行われる。11月25日 和泉市・堺市・泉大津市の泉北3市の合併調印式が行われる。11月29日 和泉市議会と堺市議会で合併議案が可決成立するが、泉大津市議会では議決されず。12月7日 当時の左藤義詮大阪府知事が定例府議会に泉北3市の合併議案を提出しないことを求める。1967年(昭和42年):和泉市・堺市・泉大津市の泉北3市による合併が白紙撤回され、3月13日に合併協議会の解散式が行われる。
11月1日 少しでも経費を削減する目的で公民館や農協に置かれていた市役所出張所がすべて廃止され、市の窓口業務が市役所の本庁舎に一本化される。1968年(昭和43年):2月1日懸命な経費削減努力も実らず、和泉市議会で財政再建団体の指定を受けることが議決され、和泉市は地方財政再建促進特別措置法に基づき、財政再建団体となる。
1969年(昭和44年):2月24日 財政再建の中、和泉市の20年後の街づくりを構想する「和泉市総合計画審議会」が設置される。4月1日 公立和泉病院分院の増築工事が完成し、竣工式が行われる。6月20日 池田下町にある高橋家住宅が江戸初期の貴重な民家建築として国の重要文化財に指定される。1970年(昭和45年):3月 懸命な再建努力の結果、和泉市の財政が好転し、財政再建団体の指定が解除される。7月27日 「大阪府警 和泉警察署」の現在の庁舎が完成し、本格的な業務が開始される。9月1日 市制15周年記念式典が市民会館で行われる。11月3日 市民憲章発表大会が市民会館で開催される。また、市の花「水仙」、市の木「楠」が制定され、同大会で発表される。1971年(昭和46年):
4月1日 大阪府立横山高等学校が設立される。(大阪府立鳳高等学校の分校から独立)
11月末に和泉市の人口が10万人を突破。大阪府で14番目の10万都市となる。1972年(昭和47年):4月1日 公立和泉病院分院が、「和泉市立病院」となり、正式な市立医療機関として発足する。1973年(昭和48年):3月30日 松尾寺の楠が大阪府の天然記念物に指定される。1974年(昭和49年):11月 和泉市が初めて、移動図書館を開始。「くすのき号」という名称で市内各地の巡回をはじめ、その試みは、現在 も続いている。
1975年(昭和50年):3月31日 松尾寺のやまももが大阪府の天然記念物に、松尾寺の中世文書が大阪府の文化財(書蹟)に指定される。9月1日 市制施行20周年記念式典が市民会館で行われる。11月30日 市長選挙が行われ、第4代市長に池田忠雄が当選する。池田は歴代の和泉市長の中では最も長い1995年(平成7年)までの5期20年に渡り和泉市長を務め、和泉市久保惣記念美術館など市の公共施設の整備、和泉市に隣接する和歌山県伊都郡かつらぎ町(1988年(昭和63年))および中国江蘇省南通市、米国ミネソタ州ブルーミントン市(いずれも1993年(平成5年))との友好都市提携、光明台地区とトリヴェール和泉の街開きおよびそれに伴う事業の整備(泉北高速鉄道線の延伸と和泉中央駅の開業や桃山学院大学の和泉市への誘致など)など、数々の実績を残す。
1976年(昭和51年):4月26日 池上曽根遺跡が国の史跡に指定される。5月6日 市民体育館が完成する。11月23日 和泉市立休日急病診療所がオープンする。この年、大阪府が宅地開発公団(現・UR(独立行政法人都市再生機構) 西日本支社)に和泉中央丘陵(後のトリヴェール和泉)の開発を依頼する。1977年(昭和52年):1月28日 聖神社三神社本殿と滝神社本殿が国の重要文化財に指定される。8月20日 泉北高速鉄道線「光明池駅」が開業し、それまでに比べ、堺・大阪方面への交通アクセスが大幅に便利になる。ちなみに、当時の泉北高速鉄道の路線計画では、中百舌鳥 – 光明池間であったが、前年に大阪府が宅地開発公団(現・UR(独立行政法人都市再生機構 西日本支社))に和泉中央丘陵の開発を依頼したことにより、泉北高速鉄道を更に延伸させる話が持ち上がる。12月12日 和泉市立病院の新館が完成し、産婦人科や麻酔科などそれまで無かった診療科目が相次いで新設される。1978年(昭和53年):4月1日「和泉市立光明台南小学校」・「和泉市立光明台中学校」・「大阪府立伯太高等学校」・「大阪府立和泉養護学校」(現・大阪府立和泉支援学校)が同時に開校する。11月30日 和泉市初の公立図書館 が府中町で開館(現在の「和泉市立和泉図書館」)する。1979年(昭和54年):6月6日 松尾寺の「絹本著色孔雀経曼荼羅図」が国の重要文化財に指定される。10月 光明池運動場が整備され、テニスコートなどが設置される。1980年(昭和55年):5月 久保惣太郎が自身のコレクションである国宝・重要文化財などを和泉市に寄贈する。9月1日 市制施行25周年記念式典が市民文化ホールで行われる。また同日、それまで無料だった事業所からのゴミ(産業廃棄物)処理が有料化される。11月30日 信太山丘陵で、和泉市体育連合陸上競技連盟主催の第1回市民マラソン大会が開催される。1981年(昭和56年):4月21日 和泉市域周辺の第二阪和国道(国道26号)が開通し、堺市から泉南市まで通行可能になる。 5月21日 運輸省(現・国土交通省)から大阪府・和歌山県・兵庫県の1府2県に対し、新空港の「計画案」・「環境影響評価案」・「地域整備の考え方」の3点セットの本編が提示され、現在の関西国際空港建設に向けたプロジェクトが本格的に始動する。11月22日 第1回和泉市農業祭が行われる。12月20日 府民劇場の一環として、朝比奈隆が指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団を招き、市民文化ホールで第九シンフォニーの夕べが開かれる。1982年(昭和57年):10月26日 和泉市久保惣記念美術館の開館記念式典が行われ、11月2日から一般公開される。1983年(昭和58年):6月30日 大阪外環状線(国道170号)が一部開通する。8月6日 第1回和泉市民まつり盆おどり大会が和泉市立国府小学校運動場で開催される。12月4日 世界人権宣言採択35周年を記念して和泉市民の集いが行われる。12月21日 核兵器廃絶・平和都市宣言が市議会で決議される。
1984年(昭和59年):5月13日 光明池球技場が完成し、一般に開放される。1985年(昭和60年):3月 光明池の改修工事が完成する。4月1日 和泉市立保健センターが開設される。4月21日 光明池緑地公園が開園する。9月1日 市制施行30周年記念式典が市立解放総合センターで行われる。9月8日 市制施行30周年を記念して市民音楽祭が行われる。
10月20日 市制施行30周年を記念して、和泉市植樹祭が黒鳥山公園で行われる。11月27日 和泉市の産業の活性化を目指して、和泉市コスモポリス地域(現・テクノステージ和泉)開発推進機構が設立される。1986年(昭和61年):4月23日 和泉中央丘陵新住宅市街地開発事業の起工式が行われ、トリヴェール和泉の建設が本格始動する。11月 全国伝統地名(旧国名)市町村連絡会議が結成される。また同月30日には、第1回和泉市合唱祭が行われる。1987年(昭和62年):12月10日 コスモポリス事業(トリヴェール和泉の建設事業)の主体となる「(株)いずみコスモポリス」の設立総会が行われる。1988年(昭和63年):6月22日 鍋谷峠をはさんで和泉市と接する和歌山県伊都郡かつらぎ町との間で『峠を越えて手をつなごう』を合言葉に友好都市提携が結ばれた。これをきっかけに、当時2つの街を結んでいた「大阪府道・和歌山県道泉大津粉川線」を国道に昇格させる話が持ち上がり、後の1993年(平成5年)4月1日の「国道480号線」への昇格につながった。[平成]1989年(平成元年):3月 横山地区と光明台地区にサービスセンター(市役所出張所)が新しく開設される。また、同月29日には、市立コミュニティー体育館の竣工式が行われ、こけらおとしとして女子バレー、「ユニチカVSダイエー」が行われる。
4月1日 槇尾山に「和泉市立青少年の家」がオープンする。1990年(平成2年):3月29日 日本道路公団(現・NEXCO西日本)阪和自動車道の岸和田和泉インターチェンジ – 阪南インターチェンジ間が開通する。4月1日 鶴山台地区と南松尾地区にサービスセンター(市役所出張所)が新しく開設される。9月1日 市制施行35周年記念式典が市立解放総合センターで行われる。1991年(平成3年):2月2日 大阪府立弥生文化博物館が開館する。3月15日 高石市綾園 – 堺市平井間の「堺泉北有料道路」が開通する。
3月29日 槇尾山施福寺の「参詣曼荼羅図」(甲本)が大阪府の有形文化財に指定される。 11月4日 「峠を越えて走ろう」をテーマに、和泉市・かつらぎ町友好マラソン大会が開催される。12月12日 桃山学院大学の和泉市への全面移転について、和泉市と桃山学院が共同の記者発表を行う。1992年(平成4年):4月1日 中部の住宅・産業都市であるトリヴェール和泉が街開きする。10月8日 和泉市の人口が15万人を突破する。1993年(平成5年):3月27日 桃山学院大学和泉キャンパスの起工式が行われる。4月24日 中国江蘇省南通市との間で友好都市提携が結ばれる。9月25日 阪和自動車道の岸和田和泉インターチェンジ – 堺インターチェンジ間が開通する。10月24日 「和泉市立槇尾山グリーンランド」がオープンする。11月24日 米国ミネソタ州ブルーミントン市との間で友好都市提携が結ばれる。1994年(平成6年):2月20日 関西国際空港の開港を機に「泉州国際市民マラソン大会」が開催される。8月31日 高槻市と泉佐野市を結ぶ大阪外環状線(国道170号)が全線開通し、開通式が行われる。9月4日 関西国際空港が開港し、トリヴェール和泉からのアクセスにリムジンバス「Sorae」が導入される。1995年(平成7年):1月17日に発生した阪神淡路大震災の救援活動の一環として、和泉市からも「横山みかん」などの救援物資が送られる。4月1日に泉北高速鉄道線が延伸され、和泉中央駅が開業。4月2日には、トリヴェール和泉の本格的な街開きを記念して「いずみ・まちフェスタ’95」が開催される。また同月、桃山学院大学が堺市から全面移転し、和泉キャンパスが開学する。4月3日には、「和泉市役所和泉丘陵出張所」が開設(現在では、和泉シティプラザに移転し、「和泉市役所シティプラザ出張所」となっている)される。9月1日 「夢いっぱい 緑いっぱい ふれあいの街 和泉」をキャッチフレーズに市制施行40周年記念式典が市立解放総合センターで行われる。9月17日 市制施行40周年記念市民健康まつりが市立コミュニティセンターで行われる。同年、工業団地「テクノステージ和泉」への企業誘致活動が始まる。1996年(平成8年):4月1日 大阪府立産業技術総合研究所が開設される。4月27日 池上曽根遺跡史跡指定20周年記念講演会が行われる。6月24日 池上曽根遺跡史跡指定20周年を記念して、NHKの「バラエティー生活笑百科」(NHK大阪放送局制作のテレビ番組)の公開録画が行われる。12月1日 池上曽根遺跡史跡指定20周年記念シンポジウムが行われる。1997年(平成9年):10月26日 第52回国民体育大会「なみはや国体」が開催され、和泉市では、馬術競技が杉谷馬事公苑と近隣の特設野外競技場で行われる。11月12日には、日本・モンゴルの国交樹立25周年を記念し、「モンゴル国立馬頭琴交響楽団 泉州コンサート」が市立解放総合センターで行われる。また同月、和泉市久保惣記念美術館の新館が完成する。1998年(平成10年):3月14日 和泉中央駅の歩行者デッキ「アムゼモール」が完成。また、「エコールいずみ」がグランドオープンする。4月15日岸和田和泉インターチェンジの和泉市側からの乗り入れ道路が開通する。同年、和泉市の人口が17万人を突破する。1999年(平成11年):5月18日 槇尾山で山火事が発生し、22ヘクタールが焼失する。12月1日 和泉市の公式サイトが開設される。2000年(平成12年):4月1日 「和泉市観光情報ステーション」が和泉府中駅前商店街(和泉府中)にオープンする。5月2日 「ミレニアム・フェスタ池上曽根 いずみの国弥生まつり 2000」が行われる。11月5日 第13回全国健康福祉祭大阪大会「ねんりんピック2000 大阪」が開催され、テクノステージ和泉周辺では和泉市交流マラソン大会が開催される。2001年(平成13年):2月13日 和泉中央駅前に「和泉郵便局」が開局する。4月1日 米国ミネソタ州ブルーミントン市の「ジェファーソン高等学校」コンサートバンドが和泉を訪問する。4月2日 幸二丁目にある市内のガラスメーカー「佐竹ガラス」の工場などが国の登録有形文化財に登録される。5月2日 池上曽根遺跡公園がオープンし、「いずみの国 弥生まつり2001」が行われる。9月1日 市制施行45周年記念式典が開催される。11月14日 和泉市役所が環境国際規格「ISO14001」の認証を取得する。12月1日 和泉市コミュニティバス「めぐ〜る」の運行が始まる。
2002年(平成14年):3月29日 和泉市を含む泉北4市1町(和泉市・堺市・高石市・泉大津市・忠岡町)で構成される『泉北地域広域行政推進協議会』が 公式サイト を開設させ、インターネットを通じた泉北地域の広域行政に関する情報の発信が始まる。4月18日 テクノステージ和泉の本格的な街開きが行われる。5月3日 第1回いずみの国太鼓クリエイション「弥生まつり2002」が池上曽根遺跡公園で開催される。8月3日 第20回和泉市民まつりがテクノステージ和泉を会場にして行われる。8月7日 和泉市・泉大津市・忠岡町の間で、合併問題などを調査研究するため、泉北2市1町広域行政研究会が設置される。9月7日 「サイエンスフェスタいずみ」が大阪府立産業技術総合研究所で開催される。2003年(平成15年):3月15日 西日本旅客鉄道(JR西日本)の特急「はるか」の一部列車が和泉府中駅に停車するようになる。4月27日 泉北高速鉄道線 和泉中央駅前に「和泉シティプラザ」がオープンする。同年、和泉市の人口が18万人を突破する。
2004年(平成16年):3月29日 和泉市立病院の南館が完成する。4月1日 職業安定法の改正に伴い、和泉市が全国の市町村で初めて「和泉市無料職業紹介センター」という名で求人情報の提供や職業相談(いわゆる公共職業安定所の業務)を行う施設を設置する。
10月29日 新潟県中越地震への救援活動の一環として、和泉市職員36名が新潟県に派遣される。2005年(平成17年):1月21日 若樫町のサクラが大阪府の天然記念物に指定される。12月11日 槇尾山へのアクセスにコミュニティバス「オレンジバス」が導入される。同年、市内の信太山駐屯地からイラクの復興支援のため陸上自衛隊員が派遣される。
2006年(平成18年):4月1日 大阪府立南大阪高等職業技術専門校がテクノステージ和泉に開校する。4月14日 市制50周年を記念して「NHKふるさと自慢 うた自慢」(NHK大阪放送局制作のラジオ番組)の公開録音が市立市民文化ホールで行われる。
4月29日 「和泉市観光情報ステーション」の2号店が和泉中央駅構内にオープンする。
5月20日 市制施行50年記念事業としてNHKジュニアサッカー教室が桃山学院大学で行われる。6月8日 トリヴェール和泉に新しく「和泉市立青葉はつが野小学校」が開校する。9月1日 市制施行50周年を迎え、新しく市民愛唱歌が制定された。タイトルは『ふるさと翔歌』。9月3日 「50年 活かして拓く ゆめ和泉」をキャッチフレーズに市制施行50周年記念式典が行われる。2007年(平成19年):1月 「人がきらめき 共に育む 元気なまち・和泉」を将来の和泉市の都市像とする街づくりの新しい総合計画が発表される。
2008年(平成20年):3月31日 大阪府が府立高等学校の再編を実施。その結果、「大阪府立横山高等学校」がこの日をもって閉校となり、37年の歴史に幕を下ろす。 5月10日 泉北ニュータウンと岸和田市山直地区を結ぶ市の都市計画道路『和泉市道光明池春木線』が午後3時に全線開通。これによって、大阪府立成美高等学校前(大阪府道208号堺泉北環状線)と阪和自動車道「岸和田和泉インターチェンジ」(大阪府道230号春木岸和田線)が一本の道路で結ばれ、車でのアクセスが大幅に便利になった。本来、和泉市の道路計画では、平成19年度中の全線開通の予定だったが、暫定税率廃止などの影響もあってか、工事の中断を余儀なくされた時期があったという。7月20日 大阪外環状線(国道170号)沿い(仏並町)に「道の駅」とともに、行政サービス窓口や多目的ホール・各種会議室・調理実習室・図書室などがある「南部リージョンセンター」が併設され同日オープン。2009年(平成21年):4月10日 泉北高速鉄道線 和泉中央駅前に「ヤマダ電機 テックランド和泉中央店」と複合商業施設「PIVO和泉中央」が同時にオープン。11月27日 泉北高速鉄道 和泉中央駅前に複合商業施設「エコールいずみ 東館」がオープン。2010年(平成22年):1月5日 市のふるさと納税寄附制度として、「和泉市ふるさと元気寄附」が始まる。11月 和泉警察署内に年末などの防犯対策を強化する「歳末警戒部隊」という新しい部署が設けられることになり、12月1日午前9時から和泉府中にある「芦洗公園横広場」でその発足式が行われる。2011年(平成23年):1月24日 NHK大阪放送局制作のテレビ番組「生中継 ふるさと一番!」で和泉市の伝統産業のひとつであるガラス工芸が紹介される。2月25日 JR阪和線 和泉府中駅前に和泉市営の複合商業ビル「フチュール和泉」がオープン。3月14日 東日本で3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」に対する和泉市の対応として、辻宏康和泉市長を本部長とする「和泉市東北地方太平洋沖地震救援対策本部」を和泉市役所内に設置し、午前8時30分から第1回目の会議を開催。また、4日後の3月18日午前には、福島県いわき市に和泉市職員を派遣し、被災地救援物資支援として、食料や医薬品などの救援物資を届ける。3月28日 国道480号線のJR阪和線横断の立体交差事業の内、アンダーパス部分の「和泉府中地下道」が午後2時に開通。5月1日 トリヴェール和泉にテニスコートを併設した新しい児童公園「くすのき公園」が開園する。2012年(平成24年):5月1日 あゆみ野に「つくしの公園」が開園する。2013年(平成25年):6月2日 和泉市長辻宏康氏が、市の更なる経済振興などを公約に掲げて再選。2014年(平成26年):4月1日 「和泉市立病院」が医療法人 徳洲会による指定管理者制度に移行。6月1日 阪和自動車道 岸和田和泉インターチェンジ付近に「コストコ」和泉倉庫店がオープン。10月30日 コストコ和泉倉庫店に隣接して「ららぽーと和泉」がオープン。また、これがきっかけとなり、それまで空き地が目立っていたトリヴェール和泉西部「あゆみ野」地区に相次いで他市から企業が進出。2015年(平成27年):7月4日 和泉市北部の信太山地区に「北部リージョンセンター」がオープン。9月30日 にぎわいの創出・経済活性化を目的に「和泉市ホテル・旅館の誘致に関する条例」が制定される。2016年(平成28年):6月3日 市制60周年を記念して「NHKふるさと自慢 うた自慢」(NHK大阪放送局制作のラジオ番組)の公開録音が和泉シティプラザ弥生の風ホールで行われる。8月28日 和泉シティプラザ弥生の風ホールにて市制施行60周年記念式典が行われる。9月1日 市制施行60周年を迎える。10月2日 和泉市制60周年和泉だんじり大集合実行委員会によるJR阪和線和泉府中駅前にて和泉市内の35町の地車が一堂に集結する「和泉市制60周年だんじり記念曳行」を開催。市内の和泉大連合所属の18町、信太連合所属の9町、松尾連合所属の7町、および神社合祀、宮入神社の関係で泉大津市の曽根・助松地区(十二町連合)所属の池上町の計35町の地車が集結するのは、和泉市史上初めてである。10月14日 はつが野地区5丁目において、総開発10.4ヘクタール・総戸数404戸にわたる「メグリエシティ」が分譲開始され、まちびらきセレモニーが行われる。2017年(平成29年):4月1日 和泉市の友好都市かつらぎ町とのアクセスを大幅に改善する国道480号の「父鬼バイパス」と「鍋谷峠道路」が全線開通し[10]、大阪府側では、和泉市役所の関係者や松井知事も出席し、記念の式典が開かれる。4月7日 和泉市初・大阪府内で2番目となる施設一体型・小中一貫教育を行う義務教育学校「和泉市立南松尾はつが野学園」が新しく開校し、入学式が行われる。5月27日 「和泉市総合スポーツセンター」が全面オープン。野球場やサッカー公認サイズの人工芝・多目的グラウンド、テニスコート4面などが完成した。また同施設に市初となるネーミングライツ契約を関西トランスウェイ株式会社と締結し、「関西トランスウェイスポーツスタジアム」の呼称が使用されることとなった。2018年(平成30年):4月1日 「和泉市立病院」が移転新築し、「和泉市立総合医療センター」に改称。[令和]2019年(令和元年):5月 国府小学校に新元号を祝う「令和」の人文字を制作。「第1回和泉商工フェスタ」が和泉中央で開催。「開運なんでも鑑定団」が和泉市で開催される。また、「いずみいのちの森プロジェクト」の18万本の植樹達成。2021年 (令和3年):5月 市役所新庁舎が完成、5月6日より利用開始。
- 「天王寺区(摂津国)」
(in Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 天王寺区)
天王寺区(てんのうじく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。天王寺の名は、日本最古の官営寺院であり、聖徳太子建立の天王寺(難波古地図に上町台地先端に天王寺跡と記載されている)、または四天王寺に由来。大阪都心6区の一角を成す。
[概要]:
大阪市都心部の南東に位置し、大阪環状線内の区の一つである。北・西側は中央区・浪速区、東側は東成区・生野区、南側は阿倍野区および西成区に接する。 区の中部に位置する大阪上本町駅と南端に位置する天王寺駅の周辺に商業地域が広がる。とりわけ梅田、難波に次ぐターミナル駅の天王寺駅周辺は、隣接する阿倍野区の北端に位置する大阪阿部野橋駅周辺の商業地域と共に「天王寺・阿倍野」と位置づけられ、近畿地方でも有数の商業地域となっている。上町台地上は全体的に住宅地が多く、公園、教育機関、医療機関も多い。真法院町、小宮町、北山町には閑静な住宅地が残されている。戸建て住宅やアパート等の低層住宅も一部地域を除くと少なく、ビルやマンションなど土地の高度利用が進んでいる。
区の人口は1950年代に85,000人あまりを記録して以来地価の高騰や生活環境の稠密化のため長年減少傾向が続いていたが、近年地価の下落や再開発などが進み『交通の便が良い、市内有数の文教地区』としての特性が見直されつつあり、再び増加に転じている。2005年に行われた国勢調査では中央区、西区、福島区、北区に次ぐ+9.0%という高い増加率を記録した。
区の中心駅となる天王寺駅は大阪府の泉州地域や中河内地域南部、大阪市内の天王寺駅以南、奈良県や和歌山県などからの主要玄関口であり、優等列車も停車する。Osaka Metro谷町線やOsaka Metro御堂筋線だけではなく、JRの各線からでも最初のターミナル駅のため、奈良県民や和歌山県民(いわゆる奈良府民、和歌山府民)の利用者も多い。
[歴史]:
天王寺区の歴史は古く大王(オオキミ)と呼称された倭国の首長である仁徳天皇の皇居東高津宮(元高津)があり、『日本書紀』に593年(推古天皇元年)、聖徳太子の創建と記され、日本最古の官寺である天王寺(難波古地図に上町台地先端に天王寺跡と記載されている)、または四天王寺によってその名を知られる天王寺一帯は、古代においては上町台地先端付近の難波宮から南に位置していた。難波宮から四天王寺を経由し長尾街道、竹内街道の交点がある堺市までを繋ぐ難波大道が建設される。また、京・堺・平野・奈良方面を結ぶ熊野街道や奈良街道が交わる交通の要衝だったこともあり門前町が形成されていった。室町後期から江戸時代にかけて度々戦場となり、大坂の陣においても茶臼山は、冬の陣においては徳川方の、夏の陣においては豊臣方の真田信繁の陣営が置かれた。
大坂の陣後に松平忠明によって寺院整理が行われ、天満の北縁と上町台地の空堀以南に寺町群が形成された。そのうち小橋寺町(12ヶ寺)・八丁目東寺町(11ヶ寺)・八丁目中寺町(15ヶ寺)・八丁目寺町(13ヶ寺)の東半分・生玉中寺町(12ヶ寺)・生玉寺町(14ヶ寺)・天王寺寺町(14ヶ寺)・下寺町(25ヶ寺)が当区に位置しており、大阪市24区のうち最も寺院が多い区となっている。堀越神社や下寺町界隈の上町台地の崖線には口縄坂、源聖寺坂、清水坂などの四天王寺七宮や天王寺七坂があり今も風情を残している。
夕陽丘の地名は、藤原家隆がこの地から見た大阪湾に沈む夕陽の絶景を歌ったことに由来する。
江戸・明治にかけて早くから住宅地化が進み、特に明治以降は多くの学校や病院が立地したため、現在でも比較的閑静な住宅街である。また1889年には天王寺駅が開設、1895年には後に大阪環状線となる城東線が天王寺駅から分岐・開通し、交通の要衝としても栄えるようになった。また1903年には第5回内国勧業博覧会が開かれ、跡地は天王寺公園となった。
1925年に東区から旧東成郡西高津村と東平野町に当たる地域が、南区から旧東成郡天王寺村・生野村の城東線内にあたる地域が分区されて天王寺区が誕生。1943年の区再編の際に、末吉橋通以南・上町筋以東を東区から編入、千日前通以北・上町筋以西を南区へ移譲、松屋町筋以西を浪速区へ移譲して現在の区域となった。
1934年9月21日、室戸台風による暴風雨があり、強風により四天王寺の五重塔や山門などが破壊[1]。さらに天王寺第五小学校の木造校舎が倒壊するなどして多数の死傷者が出た[2]。
- 「中央区(摂津国)」
(in Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 中央区)
中央区(ちゅうおうく)は、大阪市を構成する24行政区のうちの一つ。大阪都心6区の一角であり、北区とともに、大阪市および大阪都市圏の中心業務地区(CBD)を含む。大阪府庁所在地である。
[概要]:
郡区町村編制法施行以来110年間続いた東区と南区の合区により、1989年2月13日に発足した。発足後も、中央区内にはかつての区名である「東」「南」を冠した税務署・警察署・普通郵便局が存在する。隣り合う西区が日本最古の行政区に対して、中央区は大阪市の行政区で最も歴史が浅い区の一つである。
旧・東区内は谷町筋の東西で街の性格が変化し、東側に大坂城や難波宮跡と大阪府庁などの官公庁街、西側にオフィス街が広がる。旭区から編入された北東端の城見は大規模オフィス街の大阪ビジネスパーク (OBP) に再開発され、現在では超高層ビル街となっている。旧:南区内は堺筋の東西で街の性格が変化し、東側に問屋街と寺町、西側には梅田を中心としたキタと双璧をなす商業地である大阪ミナミ(難波・道頓堀・千日前・心斎橋など)の一大繁華街が広がる。弥生時代後期〜古墳時代、国内流通の中心であった大阪市の上町台地周辺からやや西部、北浜や本町などの船場地区は江戸時代からの大阪市の中心地であり、明治以降も隣接する北区の中之島や堂島とともに大阪市の中心業務地区 (CBD) として伝統的なオフィス街の役割を担ってきた。また、当時から商業の中心であった名残から、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に近世から歴史を持つ問屋街が発達しており、現在もその伝統を継承している。また、北浜には大阪証券取引所や三井住友銀行(旧住友銀行)大阪本店ビル(通称:住友ビルディング)が所在するなど、大阪を代表する金融街であった。しかし、ハービスOSAKAやグランフロント大阪などオフィス機能を併設した複合商業施設中心の大規模再開発により北区の梅田が急速に発展し、鉄道交通の利便性が高い梅田に大阪本社・関西支社を置く企業が増加した。大規模再開発による梅田の急速な発展によって船場のビジネス街として相対的な地位は低下することとなった[1]。北浜から本町を経由して難波までメインストリートである御堂筋が南北を貫き、地下には大阪の大動脈である地下鉄御堂筋線が通る。御堂筋の沿道は大阪の商業・ビジネスの中心地であり、心斎橋以北はオフィス街、心斎橋以南は主に繁華街となっている。
2010年に行われた国勢調査速報では、対前回比人口増加率が17.9%増となり、全国的な都心回帰の影響で政令指定都市の行政区の中ではトップとなった。これは東京都中央区の24.8%増と並び全国でも屈指の伸びである。伝統的な大阪の中心業務地区 (CBD) であるため、早くから居住に適さない環境となり、30年以上にわたってドーナツ化現象による人口減少が続いてきた中央区だが、バブル崩壊以降老朽化し取り壊されたオフィスビルの跡地などに居住用の大型マンションが建ち並ぶなどして再び夜間人口が上昇。特に谷町筋沿いでタワーマンションの建設が盛んに行われ、著しい人口増加となった。谷町筋以東でも上町台地の東斜面に当たる地域は、天王寺区にかけて文教地区の側面も併せ持っており、比較的閑静な住環境である。区の大部分が商業地であるため純粋な住宅地は限られており、マンションや団地などの集合住宅が大半を占め、低層住宅の戸建住宅やアパートなどは極めて少ない。道路は碁盤目状で、市内他地域と比べると整備が進んでいる。
なお1980年頃と2010年を比較すると、当時の東区と中央区の東側との比較では27,227人から37,469人に増加、当時の南区と中央区の南側との比較では36,380人→41,321人に増加している[2]。現在も大阪府に本社を置くロート製薬やハウス食品、更には大阪発祥の企業である野村證券とUSENは大阪市中央区が発祥地である。
参考引用資料
・律令(りつりょう)制度の確立 – ADEAC https://trc-adeac.trc.co.jp ›
・藤井寺市観光サイト 歴史ロマン薫るみどりのまち 藤井寺・道明寺物語)
・国府 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 国府
・国府 – 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com › glossary › 国府
・Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 藤井寺市
・Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 和泉市
・Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 天王寺区
・Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 中央区