今日のお話
1.国指定史跡 池上曽根遺跡 ームラの形成ー
2.縄文時代から弥生時代、そして四大文明
ー くすりはいつごろから世に現れたか・・・ ー
3.徐福伝説&天台烏薬
4.大和時代(4世紀半ば~600年頃)、飛鳥・奈良時代
(600~794)での「くすり文化」に関係する事柄
2.縄文時代から弥生時代、そして四大文明
ー くすりはいつごろから世に現れたか・・・ ー
わが国の「縄文時代(紀元前数千年~前3世紀頃)から弥生時代(紀元前3世紀頃~後3世紀頃)」での文化や社会制度或いは食生活が、予想以上に高いレベルにあったといわれる中、その数千年前に、すでに世界には四つの文明の「黄河文明、メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明」(世界四大文明)が生まれ、人類が生活をはじめている。
このように人類が世界のあちこちで生活を営み続けてきた地域では、生きていく上において身に降りかかる「病気やケガ」は避けられず、時間の流れと共にそれらを「克服するための知恵(医療)」が発達してきたと考えられる。そして、その中で「病気やケガの治療に役立つ薬や技術」が発見され、さらに新たなもの(薬・技術)が考えだされ、また創造されてきたと推察される。
日本薬学会では、「薬学の歴史」の中で「BC~ACの時代*」を「祈祷から医学の基礎づくりヘ」と位置付けて、「病気との戦いは、人類の誕生と同時に始まりました。しかし、病気の原因についてはよく分からずに、病気をはらうために祈祷などが行われていました。そうした中で、紀元前400年頃*に、ギリシャで病気の原因を解明しようという機運が生まれました。その中心が医学の父・ヒポクラテスでした。また、中国でも生薬を用いた医療が紀元前後に体系化されました。当時は、草木や鉱物などが、そのままくすりとして用いられていました。」と解説している。 (in薬学の歴史 – 日本薬学会 www.pharm.or.jp › shosasshi › pdf)
*紀元前(BC)400年:ヒポクラテス(ギリシャ)が病気の原因を追究、 弥生時代早期で、皇紀261年頃
⇒ AC78年:デイオスコリデス(ギリシャ)が「薬物誌」を刊行(薬学の誕生)⇒ AC200年:ガレノス(古代ローマ)がギリシャ医学を集大成、「神農本草経」「傷寒雑病論」が著される(中国医薬学の体系化)
に過ぎず、病気になったときは薬物よりも、むしろ加持祈祷(カジキトウ)やまじないが主であったともいわれている。日本の医薬史において、「祈祷・原始医学時代」といわれる時代である。
このような記述内容から、「くすりはいつごろから世に現れたか・・・」の答えは「6世紀頃」と推察できるようである。
【縄文時代から弥生時代】
しかし、前項にもあるように「縄文時代(紀元前数千年~前3世紀頃)から弥生時代(紀元前3世紀頃~後3世紀頃)の文化や社会制度或いは食生活が、予想以上に高いレベルにあったことが明らかにされている。」とあるように縄文から弥生時代においても生活水準は高く、何らかの「健康維持」に役立つもの「くすり」は使っていたものと考えていいように思う。それを物語るようにお隣の中国では秦の始皇帝(紀元前259年2月18日 – 紀元前210年:ちょうど日本の弥生時代初期にあたる)が「徐福という人物に蓬莱(中国の仙境)から仙人を連れて来るようにと命じた(史記にその記録が残されている)が、徐福は結局、目的のものを探すことができず、始皇帝の元へ戻ることもできずに日本へ亡命したとされている。実際に日本では、徐福が訪れたという言い伝えが各地にあり、三重県熊野市には徐福ノ宮という徐福を祀る神社もあり、その社地には蓬莱山と呼ばれる山もある。」
211年※[神功皇后摂政11年] 神功皇后、住吉大神を住吉の地に鎮斎(帝王編年記)
※ 住吉大社鎮座伝承における神功皇后摂政十一辛卯年は『帝王編年記』によって推定される西暦を記載する。 実年代の表記については、学術的議論を含むものがあるが、以降の記事においてもこれに準じた (住吉大社歴史年表より)
また、秦の始皇帝が生涯にわたって探し続けた不老不死の妙薬「霊芝」は、2000年ほど前に編さんされた世界最古の薬物書である『神応本草経』にその薬効が記されている。この本は、漢方薬を専門に扱う者にとって教本であり、多くの薬物の中から信頼性の高いものを厳選し、それぞれを「上品」「中品」「下品」の三段階に分類している。「上品」とは様々な難病を治して健康維持、病気を予防し、霊芝は最高のランクにある。霊芝の項目には、生命を養い、無毒で副作用がなく、元気を増し、寿命を延ばす薬効があると記されている。一般にきのこ類の菌糸は硬い細胞壁を持っているため、消化しにくい。現在は厳選したサルノコシカケ科マンネンタケ(霊芝)の発芽直前の活性化状態にあるものを酵素分解法により細胞壁を分解する。菌糸から効率よくエキスを抽出した製剤が発売され、安価でせんじる必要もなく簡単に服用できるようになった。
では、この当時に中国と日本の架け橋役となった「徐福」という人物について探ってみる。
3.徐福伝説&天台烏薬
徐福は、古来の日本に深いかかわりがある人物で、そして、数奇な運命を辿った人でもあった。
「始皇帝と不老不死の秘薬」
今から2200年ほど前の日本では「縄文時代から弥生時代に移り変わろうという時代」に、秦の時代の中国に『徐福(じょふく)』という人物がいた。徐福の身分は方士で、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者でした。この時、秦の始皇帝は『不老不死の仙薬』を求めており、そこに目が付けられたのが、徐福である。不老不死の仙薬の入手を命ぜられ、徐福の運命が動いた瞬間であった。
徐福は秦に滅ぼされた斉の国の出身であったが、始皇帝の命に背くことは出来ず、東方に仙薬を求めて渡海することを上申した。このことは、司馬遷の『史記』にも、東方の遥か海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)という3つの神山があり、ここには仙人が住んでいた。童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。と徐福が願い出たと記述されている。
始皇帝は徐福の申し出を快く受け入れ、童男童女三千人、
五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣 し、徐福に託した
のでした。
戻らずそして・・・
中国では1982年に江蘇省連雲港市贛(がん)楡(ゆ)県にある「徐阜(じょふ)村」が、以前は『徐福村』と呼ばれていたことが発見され、現地で確かに徐福伝説が伝承されていることが確認された。
そして、徐福出生の地として『徐福祠』が建設され、伝説上の人物ではなく、歴史上の人物として知られるようになった。そして徐福は紀元前219年、大船団を率いて中国を出航した。しかし、徐福は何日もの航海の末辿り着いた先で『平原広沢』得て、中国には戻らなかったとされている。一説には、辿り着いた『平原広沢』が日本であり、農耕・製紙などの技術を伝え、日本の発展の大きな礎を築いたと言われている。
実際にこの伝説は、現在も青森県から鹿児島県まで多くの地域で受け継がれている。
一方、中国では1982年に江蘇省連雲港市贛(がん)楡(ゆ)県にある「徐阜(じょふ)村」が、以前は『徐福村』と呼ばれていたことが発見され、現地で確かに徐福伝説が伝承されていることが確認された。 そして、徐福出生の地として『徐福祠』が建設され、伝説上の人物ではなく、歴史上の人物として知られるようになった。<写真:上記徐福像の説明>
『徐福氏、字を君といい、秦の瑯(ろう)琊(が)郡贛(がん)楡(ゆ)県出身、有名な方士である。紀元前二百十年、秦の始皇帝の命令に従い、童男童女三千人、職人百人及び武士を引き連れて、五穀の種とシルクを船に乗せ、東に向かって渡航した。
途中様々な苦難を乗り越えて、やっと平原にたどり着いた。 上陸したところは日本であり、始皇帝は来なかったが、そのまま日本に住み、日本の文化と経済の支えに大きな影響を及ぼし、後世の人々に尊敬されている。
徐福の渡航から二千二百年が過ぎ、国際間の友好及び文化と経済の交流を促進するため、特に來夾山の石を使い、ここに像を立てることとする。
江蘇省贛楡県人民政府
一九九〇年十二月五日』
徐福とヤマコの縁
弊社故白羽清会長は、若き日から広大肥沃な中国で、海苔を作るロマンを追い求めていました。
その夢が具体化するのは、1983年に初めて広州交易会に出かけたのがきっかけでした。
その後も中国に何度も赴き、海苔生産に適していると、ようやく巡り合った地が『江蘇省連雲港市』。
連雲港市といえば、『西遊記で有名な孫悟空の出身地である花果山』があり、そして日本では古来より敬われている『徐福の出身地』。
ヤマコは、奇しくも海苔作りを始めることとなった地が、徐福の故郷でした。 連雲港市の場所
【徐福について】
では、「徐福が探し求めた不老不死の薬」とはどういったモノなんだろうか。一つには、「天台烏薬(てんだいうやく)」であると言われている。 これは、紀伊半島に自生するクスノキ科の常緑樹の植物で、効用としては、根は腎臓・胃・リウマチなどの薬となり,また体内で増えすぎた活性酸素を消す働きもあることがわかっている。そして、「本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう・1803年、小野蘭山(おのらんざん)が書いた書物)」の巻30には木部で香木類35種が収載されている。 この中の鳥薬(うやく)の項の説明には「享保年中(1720年ころ)漢種二品渡ル天台鳥薬ト衡州鳥薬トナリ伝エ栽テ今花戸(花屋のこと)ニ多シ天台鳥薬ハ木ノ高サ八九尺多ク叢生ス一二尺ノ小木モ能花ヲ生ス・・・・・秋ニ至リ熟シテ赤色大サ南天燭子ノ如シ後ニ漸ク黒色ニ変ズ地ニ下シテ生シ易シ油ヲ搾リ燈ニ用ユベシ臭気アリ此根和州ノ宇多城州ノ八幡ニ多ク栽テ四方ニ貸ス・・・・・」という記述がある。テンダイウヤクは、中国の揚子江(ようすこう)以南の各地が原産地であり、古くに日本に渡来して野生化している。
【人物像】
名:徐福(じょふく,別名 徐市:じょふつ)
出身地:斉の国 琅邪(現在は山東省)
江蘇省連雲港市かん楡(ゆい)県金山郷で徐阜村(徐福村)発見(古来は琅邪郡であったところ)
職業:方士(呪術師,祈祷師,薬剤師,占星術・天文学に秀でた学者)
時の流れ:BC.278:徐福誕生 ⇒ BC.259:始皇帝誕生 ⇒ BC.221:始皇帝即位、斉の国滅亡 *始皇帝は不老不死の薬を探し求めていたところ、徐郷県(山東省龍口市)で徐福と出会う。⇒ BC.219:徐福 出航 ⇒ BC.210:始皇帝崩御 ⇒ BC.208:徐福死去
(富士古文書により推測 参考文献・資料より)
[天台烏薬(徐福公園)]
薬効:リューマチ、神経性胃腸炎、腸管癒着(ゆちゃく)、臍(へそ)周辺の疼痛(とうつう)、泥状便、打撲傷(うちみ)
使い方:鳥薬(うやく)は、神経性胃腸炎、腸管癒着(ゆちゃく)による軽度の通過障害などに見られる、臍(へそ)周辺の疼痛(とうつう)、腹鳴、泥状便などの症状がある場合に適しています。また、月経痛にも用いていて、月経の後半に疼痛(とうつう)がある場合には、沈香、延胡索(えんごさく)、当帰(とうき)、肉桂(にくけい)を配合して、月経前の腹痛には、木香(もっこう)、縮砂(しゅくしゃ)、香附子(こうぶし)を配合する。
芳香(ほうこう)性健胃薬、鎮痛薬として1日量5~10グラムを水0.5リットルで煎じて、約2分の1量まで煮詰めて服用する。
健胃(けんい)整腸、腸蠕動(ぜんどう)の促進作用は木香(もっこう)の作用より効果がある。
また、テンダイウヤクの葉を鳥薬葉(うやくよう)といい、鳥薬(うやく)と同じように健胃薬として1日量4.5グラム~9グラムを煎じて服用する。新鮮な葉は、もみ潰して油で炒め、関節リューマチ、打撲傷の患部などに塗布する。
科名:クスノキ科/属名:クロモジ属
和名:天台鳥薬/別名:ウヤク/生薬名:鳥薬(うやく)/天台鳥薬(てんだいうやく)/学名:Lindera strychnifolia
その他:中国中部原産、日本に渡来したのは享保年間(1716~1736)
【徐福伝説】
今から2200年前、日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき、秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいた。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物であったが、1982年、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとされている。そして、徐阜村には石碑が建てられた。驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住んでいて、代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうである。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていた。 徐福は始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出た(司馬遷の『史記』がもとになっている)。
この願いが叶い、莫大な資金を費やして一度旅立つが、得るものがなくて帰国した。何もなかったとは報告が出来ず、この時は「鯨に阻まれてたどり着けなかった(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)と始皇帝に報告した。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可した。 若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになった。そして、何日もの航海の末にどこかの島に到達した。実際、徐福がどこにたどり着いたかは不明だが、「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれている。この「平原広沢」は日本であるともいわれている。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在する。
もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれない。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれない。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれない。
中国には、徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものである。徐福は中国を出るとき、稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われている。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされるが、実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくる。(⇒かなり興味深いね!)
日本各地に徐福伝説は存在している。実際はどこにたどり着き、どこに居住し、どこに行ったかはわからない。
もちろん、徐福という人物の存在を証明する物は何もないが、しかし、徐福の伝説地はあまりに多い。徐福という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人にはなじみがない。実在したかどうかもわからない人物を重要視しないのは当然かもしれない。今から2000年以上も前のことなのに、江戸時代にあったことかと思ってしまうような話として伝わっているものもある。語り継がれる間に、背景となる時代が混乱してしまう。でも、それでも許せてしまうのは、歴史的事実よりも歴史ロマンとして大切にしたい気持ちもあるからかもしれない。徐福は確かにいた。それでいい。
数多い伝説地の中で、「佐賀県、鹿児島県、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡、愛知県」などを訪ねてみた。
【和歌山県新宮市 徐福公園】
平成6年,徐福の墓を中心として整備され「徐福公園」としてオープンしました。
(和歌山県新宮市)
蓬莱山南面(阿須賀神社):蓬莱山の南側からは竪穴式住居跡や弥生式土器などが出土することから,この地一帯には弥生時代より集落があったことがわかります。
また,遺跡が発見された場所と隣接して阿須賀(あすか)神社が鎮座しています。
蓬莱山と熊野川:不老不死の薬を求めて蓬莱山をめざした徐福は,熊野川河口にまるで椀をふせたような形の山を見つけました。これこそ神々が降臨するとされる蓬莱山だと思ったのです。
この小山は徐福の伝承が元になって蓬莱山(標高約50m)と名付けられ,現在もそう呼ばれています。
徐福上陸記念碑(阿須賀神社南):熊野川河口近くを航行していた徐福たちは蓬莱山を見つけてこの地に上陸することを決めました。
平成9年,徐福が上陸したとされる場所に記念碑が建てられました。
波田須:三重県熊野市波田須(はたす)は,もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。
大船団で船出した徐福は嵐にあい三重県熊野市の波田須(はたす)・矢賀(やいか)の磯に流れ着きます。当時ここには3軒しか家がなかったそうです。
【丹後半島 京都府伊根町】
【徐福伝説の最近の話題】
Episode 1
「徐福伝説」研究者が語る 川崎市日中友好協会が主催
In 川崎市中原区 2022/5/1 22:00 (JST) © 株式会社タウンニュース社 講演するジャーナリストの壱岐氏
川崎市日中友好協会(青木松枝〈叶春華〉会長)は4月20日、稲毛神社(川崎区)で「徐福の日本における足跡」と題した講演会を開催。ジャーナリストで古代史研究家の壱岐一郎氏が講師で訪れた。
徐福は約2200年前、秦の始皇帝の使者として不老不死の薬を求め、3000人の若い男女や技術者と東の海へ旅に。日本にも訪れ、各地に徐福伝説が残されている。壱岐氏は「神奈川県内の寺の縁起を見ると、徐福の足跡がうかがわれる。神奈川県での徐福研究は今後やりがいがある」とも。
中国・前漢時代の歴史家・司馬遷が編纂した『史記』に、徐福が4回以上登場していることを紹介した壱岐氏は、「単なる伝説ではない」と強調。日本にある中国の銅鐸が、徐福が渡航した証拠だとした。
徐福研究をめぐっては、中国、韓国、日本の研究者がユネスコ登録遺産を目指していることから、壱岐氏は「これから運動が活発になる」とも展望を語った。
Episode 2
「徐福伝説」に触れる講演会 筑紫野市で24日開催
2022/4/13 5:55 [有料会員限定記事] In 「徐福伝説」に触れる講演会 筑紫野市で24日開催 – 西日本新聞
https://www.nishinippon.co.jp › … › 九州ニュース › 福岡
福岡県筑紫野市の市民団体「身近な歴史お話会」(井上初恵代表)は、同市天山にある「童男丱女(どうなんかんじょ)岩」をテーマにした講演会を24日午前11時から、同市武蔵の茶房ぶくらで開催する。
童男丱女岩は宮地岳の中腹(標高約160メートル)にある巨岩で、約2千年前に中国・秦の始皇帝が不老不死の神薬などを求めて日本に大船団を向かわせた、徐福伝説ゆかりの地と言われている。…
Episode 3以降は、【その3に続く】