今回は、5月28日に泉大津薬剤師会学術講演会でお話ししたものです。内容は、これまでの投稿にさらに得た情報を加味したものでまとめました。「大和・飛鳥・奈良時代のくすり文化」に改めて接していただければ幸いです。
今日のお話
1.国指定史跡 池上曽根遺跡 ームラの形成ー
2.縄文時代から弥生時代、そして四大文明
ー くすりはいつごろから世に現れたか・・・ ー
3.徐福伝説&天台烏薬
4.大和時代(4世紀半ば~600年頃)、飛鳥・奈良時代 (600~794)での「くすり文化」に関係する事柄
今日のお話
1.国指定史跡 池上曽根遺跡 ームラの形成ー
1.「国指定史跡 池上曽根遺跡」について
この遺跡は「池上曽根遺跡公園や大阪府立弥生文化博物館」が整備され保存されている。その案内板には「歴史の流れ」の年表があり、それによると、
(1)[2400年前ごろ:米つくりが伝わる] ⇒
(2)[2200年前ごろ:秦の始皇帝が中国を統一
(徐福という人物がいた)] ⇒
(3)[2000年前ごろ:池上曽根栄える、奴国王が
後漢(中国)から金印をもらう、クレオパトラが女
王になる] ⇒
(4)[1700年前ごろ(弥生時代):卑弥呼が魏(中国)
に使いを送る、古墳がつくられはじめる] ⇒
(5)[1867年:江戸幕府がほろび、武士の世の中
が終わる](⇒ 明治時代へ・・・)
といった主だった事柄・出来事が記載されている。
また、その池上曽根遺跡については、和泉市、泉大津市のHP等には次のような記載(抜粋)がある。 (in計画的配列の高床式建物跡4棟出土 大阪・池上曽根遺跡 2004/11/09 asahi.com)
大阪府和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代の環濠(かんごう)集落「池上曽根遺跡」から、計画的に配列された弥生中期後半(紀元前1世紀)の倉庫とみられる高床式建物跡が4棟見つかった。9日、府文化財センターと和泉市教委が発表した。いずれの建物も柱穴を結ぶ線が東西南北を向いている。方位を意識し整然と並んだ建物群としては最古の例で、佐賀県の吉野ケ里遺跡など謎の多い環濠集落の構造解明に有力な資料となりそうだ。 建物群は遺跡中枢部の最も高い部分(標高約9メートル)で見つかった。最大の建物は、東西7.8メートル、南北10メートル(面積78平方メートル)で、ほかの3棟は53、23、11平方メートルあった。4棟のうち同時期に立っていたのは2棟ずつ。うち2棟は同じ場所から見つかり、建て替えられたらしい。 今回の建物群は、95年に見つかり復元された高床式大型建物跡(東西19メートル、南北7メートル)の北東約100メートルに位置し、出土遺物からほぼ同時期の建設と判明した。 同センターは、建物群の用途を倉庫と推測する。「周囲に竪穴式住居や井戸など生活の痕跡がない」「約6ヘクタールの環濠集落内で最も高台に位置し、水の影響を受けにくい」などから判断した。コメやアワなどを保管する富の集積場だった可能性があるという。 代表的な大規模環濠集落の吉野ケ里遺跡では、弥生後期の大型建物跡や倉庫群などが発見されているが、方位に基づく計画的な配置は確認されていないという。
現地説明会は13日午後1時から。JR阪和線信太山駅下車、徒歩10分。
〈池上曽根遺跡〉
近畿地方では、奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ弥生時代中期の大規模な環濠集落。遺跡全体の広さは約60ヘクタール。95年に、神殿とみられる高床式大型建物跡(133平方メートル)と井戸跡が見つかった。年輪年代法による調査で、この建物跡に残っていたヒノキの柱の伐採年が紀元前52年と判明した。76年に中心部約11ヘクタールが国史跡に指定され、史跡公園として大型建物や井戸が復元されている。 (11/09 22:30)
池上曽根遺跡も、弥生時代後期になると衰退します。再び池上曽根遺跡が姿を現すようになるのは明治時代末期でした。 きっかけとなったのが後に「池上曽根遺跡の父」と呼ばれる南繁則氏です。明治時代末期、当時中学生の南氏が自宅の土塀に挟まった石器を発見したことがきっかけでした。南氏は、大人になってからも遺物の採集を続け、考古学者を池上に招いたりしていました。しかし、発掘が行われることはなく、具体的な遺跡の内容はわからないままでした。 1950年代になり池上曽根遺跡は次第に姿を現すようになりました。泉大津高校地歴部と森浩一氏が遺物の分布範囲からその遺跡の大きさと重要性について言及し、1961年には発掘によって遺跡の南北が確認され、遺跡の北端では巨大な溝と竪穴住居33棟を発見しました。
図:弥生時代後期~古墳時代前期(約1800~1600年前) 天満長柄の砂州が北へ延びきって、河内平野(河内潟)への海水の流入をさえぎり、河内潟は淡水湖となりました。
【四ッ池(よついけ)遺跡】
四ッ池(よついけ)遺跡は、大阪湾に注ぐ石津川下流の左岸にある縄文時代から中世にかけての集落のあとです。特に弥生時代には、周辺の遺跡と比べても住居跡や土器・石器などがひときわ多く出土しており、和泉市・泉大津市にまたがる池上曽根(いけがみそね)遺跡とともに和泉地方で最も栄えたムラの一つでした。近畿地方の代表的な弥生遺跡であり、また当時の和泉地方の様子を知る上で重要な遺跡であることから、中心部の約10万平方メートルは国の史跡に指定されています。
図:左:約7000~6000年前 海水面が現在の水位より1~2m高く上昇し、河内平野を覆った水面が、東は生駒山麓、南は八尾、北は高槻付近まで広がっていました。偏西風の影響のもとに沿岸州が発達し、現在の松屋町筋付近には砂浜が続いていました。
図:右:約1800~1600年前 天満長柄の砂州が北へ延びきって、河内平野(河内潟)への海水の流入をさえぎり、河内潟は淡水湖となりました。
[in古代大阪の変遷|水都大阪 https://www.suito-osaka.jp › history › history_2]
1704年宝永元年住吉と堺の間に新大和川が掘削される(摂陽奇観) in 住吉大社歴史年表