③-4難波(なにわ)の町(地域)を万葉集から垣間見てみる!
昨年10月から2ケ月(令和3年10月2日(土)から12月5日(日))ほど、大阪歴史博物館では特別展「難波(なにわ)をうたう-万葉集と考古学-」が開かれた。この企画に沿って「難波(なにわ)の町」を万葉集から繙いてみる。[大阪歴史博物館では、令和3年10月2日(土)から12月5日(日)まで、6階特別展示室において、特別展「難波(なにわ)をうたう-万葉集と考古学-」を開催します。□□日本最古の歌集『万葉集』。万葉集は大和(奈良)や東国に次いで難波(なにわ)(大阪)の歌が多く、難波は万葉人のもう一つのふるさとと言えます。本展では万葉集をひも解きながら、発掘調査で明らかにされた建物跡や祭祀の場、当時の暮らしや儀礼で用いられていた様々な出土品を手がかりにして古代の難波に迫ります。□□展示では、日本最古の万葉仮名を記した「はるくさ」木簡(大阪市難波宮跡出土)のほか、万葉歌が墨書された木簡(レプリカ)を、万葉集の古写本と共に紹介します。そして藤原宇合(うまかい)によって『「昔こそ難波田舎と言はれけめ 今は都引き都びにけり」(昔こそ 難波田舎と言われたろうが 今は都に倣(なら)って すっかり都会らしくなった)と詠まれた奈良時代の難波宮・難波京について、豊富な出土資料をもとにして実像を描き出します。』さらに、まじないに使われた人面墨画土器や木製形代(かたしろ)などを通して、幸(さ)くあれと願った万葉人の多様な祈りに触れてみたいと思います。□□考古資料と万葉歌・古代史の出会いによって生み出される古代大阪の新たな世界をご覧ください。(in大阪歴史博物館:特別展:難波をうたう-万葉集と考古学-www.mus-his.city.osaka.jp › news › naniwawo_utau )]
『日本最古の歌集「万葉集」を切り口に古代の大阪に迫る特別展「難波(なにわ)をうたう」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。難波宮跡(中央区)や大坂城跡(同)、細工谷遺跡(天王寺区)などの出土品約290点を展示。“難波人”の暮らしや信仰、国際港難波津の実態についても考察を進めている。12月5日まで。
万葉集には、大和(奈良)や東国に次いで難波(大阪)の歌も多く詠まれている。当時は上町台地の東西に水域が広がっており、太陽の光が水面を照らし返す枕詞(まくらことば)「押照(おしてる)」を使った「直越えの この道にしておしてるや 難波の海と 名付けけらしも」(神社老麻呂、巻六・977)もある。□□展示では、万葉仮名を記した最古の歌木簡である「はるくさ木簡」(難波宮跡出土)や万葉歌が墨書された木簡(レプリカ)を万葉集の古写本とともに紹介。□□難波宮に関しては「昔こそ 難波田舎と言はれけめ 今は都引き 都びにけり」(藤原宇合、巻三・312)などと併せて、飛鳥時代の宮殿(前期難波宮)に使われた柱やくぎ、壁土、奈良時代の宮殿(後期難波宮)の瓦などを展示。□□大澤研一館長は「当時の難波の風景や、暮らしていた人々の心情にも思いをはせながら、ご覧いただきたい」と話していた。□□午前9時半~午後5時(金曜は同8時)、入館は閉館30分前まで。火曜休館(11月23日は開館し、24日は休館)。大人千円、高大生700円、中学生以下、大阪市内在住の65歳以上(要証明書提示)は無料。問い合わせは電話06(6946)5728。(in万葉集から「難波」考察 大阪歴史博物館で特別展 – 日本海新聞 www.nnn.co.jp › dainichi › news)』
[出土品] in特別展「難波(なにわ)をうたう-万葉集と考古学-」 – シニアコム www.seniorcom.jp › gifts › view
【なにわに関わる万葉の和歌】 (in万葉集: 難波宮(なにわのみや) art-tags.net › manyo › map › naniwa)
①0312: 昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり
原文: 昔者社 難波居中跡 所言奚米 今者京引 都備仁鷄里
作者: 藤原宇合(ふじわらのうまかい)
よみ: 昔こそ、難波田舎(なにはゐなか)と言はれけめ、今は都(みやこ)引き、都(みやこ)びにけり
意味: 昔は、「難波は田舎」なんて言われたけれど、今は(難波の)都の造営をしているので、すっかり都会風になりましたよ。
藤原宇合(ふじわらのうまかい)は、神亀3年(726)に知造難波宮事(難波宮の造営のための長官)に任命され、難波の宮の造営をし、天平4年(732)に完成させました。
②0929: 荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ
反歌二首。0929荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ(荒野等丹 里者雖有 大王之 敷座時者 京師跡成宿)
「荒野らに里はあれども」は「(難波宮)は確かに荒野であるけれど」という意味である。「敷きます時」は「お治めになる時」。
「(難波宮)は確かに荒野であるけれども、大君がいらっしゃってお治めになるので、都の体をなしている」という歌である。
(in万葉集読解・・・66ー1(928~ 941番歌) | 古代史の道 ameblo.jp › entry-12478341890)
③0933: 天地の遠きがごとく日月の長きがごとく…….(長歌)
頭注に「山部宿祢赤人が作った歌と短歌」とある。赤人は伝未詳なるも自然を詠った代表的万葉歌人。
0933番 長歌 天地の 遠きがごとく 日月の 長きがごとく おしてる 難波の宮に 我ご大君 国知らすらし 御食つ国 日の御調と 淡路の 野島の海人の 海の底 沖つ海石に 鰒玉 さはに潜き出 舟並めて 仕へ奉るし 貴し見れば
(天地之 遠我如 日月之 長我如 臨照 難波乃宮尓 和期大王 國所知良之 御食都國 日之御調等 淡路乃 野嶋之海 子乃 海底 奥津伊久利二 鰒珠 左盤尓潜出 船並而 仕奉之 貴見礼者)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「御食(みけ)つ国」は「大君に水産物等を奉る国」、淡路島もその一国とされていた。「日の御調(みつき)」は「天皇への貢ぎ物」のこと。
(口語訳)「天地が限りなく広がっているように、また日月が長久であるように、難波の宮のわれらが大君はずっと国々をお治めになっていらっしゃる。その大君に食料を奉る国が貢ぎ物を献上しようと、淡路島の野島の海人たちが海底の岩礁に潜ってアワビを数多く取り出そうと、舟を並べているのを見ると貴い」という歌である。
(in万葉集読解・・・66ー1(928~ 941番歌) | 古代史の道 ameblo.jp › entry-12478341890)
④0067: 旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし
0067旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえざりせば恋ひて死なまし (旅尓之而 物戀之○○ ○○鳴毛 不所聞有世者 孤悲而死萬思) この歌も前歌と同じく旅先での歌。当時の旅はすべて徒歩。かつ、幾日もかかる大変な旅である。望郷の念に駆られて死にたくなる気持、よく分かる。 「旅空にあってただでさえもの恋しいのに、鶴の鳴き声さえ聞こえなかったら、故郷の家恋しさに死んでしまいたい」という歌である。 左注に「右は高安大嶋(たかやすのおほしま)の歌」とある。
(in万葉集読解・・・6(54~67番歌) | 古代史の道 – Ameba ameblo.jp › entry-12478340460)
⑤1062: やすみしし我が大君のあり通ふ難波の宮は…….(長歌)
頭注に「難波宮にあって作った歌と短歌」とある。
1062番 長歌 やすみしし 我が大君の あり通ふ 難波の宮は 鯨魚取り 海片付きて 玉拾ふ 浜辺を清み 朝羽振る 波の音騒き 夕なぎに 楫の音聞こゆ 暁の 寝覚に聞けば 海石の 潮干の共 浦洲には 千鳥妻呼び 葦辺には 鶴が音響む 見る人の 語りにすれば 聞く人の 見まく欲りする 御食向ふ 味経の宮は 見れど飽かぬかも (安見知之 吾大王乃 在通 名庭乃宮者 不知魚取 海片就而 玉拾 濱邊乎近見 朝羽振 浪之聲躁 夕薙丹 櫂合之聲所聆 暁之 寐覺尓聞者 海石之 塩干乃共 ?渚尓波 千鳥妻呼 葭部尓波 鶴鳴動 視人乃 語丹為者 聞人之 視巻欲為 御食向 味原宮者 雖見不飽香聞)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「あり通ふ」は「往来する」という意味。「鯨魚(いさな)取り」は枕詞。「朝羽振る」は「鳥が羽を振るように波立つ」という形容。「海片付きて」は「海が片方に寄っている」すなわち「海が近い」という意味。「味経(あぢふ)の宮」は「難波の宮」のことで、大阪市天王寺区味原町付近とされる。
(口語訳)「我れらが大君(四十五代聖武天皇)が通われる難波の宮は海が入り江になっていて近く、浜辺の石や貝殻を拾うのによい。その浜辺は清らかで、朝は鳥が羽を振るように波立ち、夕なぎ時は舟を操る梶の音が聞こえる。暁どきになると、潮がひいて浜の美しい石が姿を見せる。そして現れる州には千鳥が妻を呼ぶ声がし、葦辺には鶴の鳴き声があたりを響かせる。この光景を見た人は人に語り、それを聞いた人は自分も見て見たいと思い、味の国なる地に建つ味経(あぢふ)の宮に向かう。ほんに難波の宮は見ても見ても見飽きないところよ」という歌である。
(in万葉集読解・・・74-2(1062~1067番歌) | 古代史の道 ameblo.jp › entry-12478342066)
⑥1063: あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる舟見ゆ
反歌二首 1063 あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる舟見ゆ(有通 難波乃宮者 海近見 <漁>童女等之 乗船所見) 「あり通ふ」は「いつも通う」という意味である。「海近み」は「~なので」の「み」。 「いつも通う難波の宮は海が近いので、海人(あま)の娘子(おとめ)たちが乗っている舟が見える」という歌である。
(in万葉集読解・・・74-2(1062~1067番歌) | 古代史の道 ameblo.jp › entry-12478342066)
⑦4360: 皇祖の遠き御代にも押し照る難波の国に…….(長歌) 頭注に「私(ひそ)かに拙懐を陳べる一首、並びに短歌」とある。
4360番長歌 皇祖の 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今の緒に 絶えず言ひつつ かけまくも あやに畏し 神ながら 我ご大君の うち靡く 春の初めは 八千種に 花咲きにほひ 山見れば 見の羨しく 川見れば 見のさやけく ものごとに 栄ゆる時と 見したまひ 明らめたまひ 敷きませる 難波の宮は 聞こし食す 四方の国より 奉る 御調の船は 堀江より 水脈引きしつつ 朝なぎに 楫引き上り 夕潮に 棹さし下り あぢ群の 騒き競ひて 浜に出でて 海原見れば 白波の 八重をるが上に 海人小船 はららに浮きて 大御食に 仕へまつると をちこちに 漁り釣りけり そきだくも おぎろなきかも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代ゆ 始めけらしも (天皇乃 等保伎美与尓毛 於之弖流 難波乃久尓々 阿米能之多 之良志賣之伎等 伊麻能乎尓 多要受伊比都々 可氣麻久毛 安夜尓可之古志 可武奈我良 和其大王乃 宇知奈妣久 春初波 夜知久佐尓 波奈佐伎尓保比 夜麻美礼婆 見能等母之久 可波美礼婆 見乃佐夜氣久 母能其等尓 佐可由流等伎登 賣之多麻比 安伎良米多麻比 之伎麻世流 難波宮者 伎己之乎須 四方乃久尓欲里 多弖麻都流 美都奇能船者 保理江欲里 美乎妣伎之都々 安佐奈藝尓 可治比伎能保理 由布之保尓 佐乎佐之久太理 安治牟良能 佐和伎々保比弖 波麻尓伊泥弖 海原見礼婆 之良奈美乃 夜敝乎流我宇倍尓 安麻乎夫祢 波良々尓宇伎弖 於保美氣尓 都加倍麻都流等 乎知許知尓 伊射里都利家理 曽伎太久毛 於藝呂奈伎可毛 己伎婆久母 由多氣伎可母 許己見礼婆 宇倍之神代由 波自米家良思母)
長歌は用語の解説を最小限にとどめる。「今の緒に」は「ずっと今日に続くまで」という気持ちの表れた用語。「絶えず言ひつつ」は「ずっと言い伝えて」という意味。「かけまくも」は枕詞。「見の羨しく」と「見のさやけく」の「見の」は「見るのが」が縮まった言い方か。「あぢ群の」は「トモエガモの群れの」のこと。トモエガモは小型の美しい鴨。「はららに浮きて」は「ぽつりぽつりと浮いて」という意味。本歌一例しか用例がない。「そきだくも」は「こきばくも」と同意で、232番歌と234番歌に用例がある。「甚だしく」という意味。
(口語訳) 「皇祖の遠い時代にも、照り輝く難波の国にあっても、天下をお治めになってきたと今日に至るまで、ずっと言い伝えてきた。本当に恐れ多い神さながらの大君。草木がなびく春がやってくると、色とりどりの花々が咲き誇り、山は山で見るのに心惹かれ、川は川で見るからにすがすがしい。そういう風物が栄える頃になると、ご覧になり、御心をお晴らしになる。都としていらっしゃる難波の宮には、お治めになっていらっしゃる四方の国々からの貢ぎ物を運ぶ船が難波の堀江に水跡を引きながらやってくる。朝なぎどきには梶を操ってやってくる。夕潮どきには棹を海底にさして操つりつつ下ってくる。あたかもあじ鴨の群れのように騒ぎ競って・・・。浜に出て海原を見ると、白波が重なり合う海上に海人小舟がぽつりぽつりと浮いている。大君の御膳に供しようと、あちこちで釣りを行っている。何と甚大で広大なことか。なんと豊かな光景か。こんな光景を目にすると、なるほど神代の昔から今日までお治めになってこられたのももっともなことだ」という歌である。
(in万葉集読解・・・285(4360~4370番歌) | 古代史の道 ameblo.jp › entry-12478345106)
⑧4361: 桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ
4361 桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ (櫻花 伊麻佐可里奈里 難波乃海 於之弖流宮尓 伎許之賣須奈倍) 「聞こしめすなへ」の「なへ」は「と共に」という意味。「お治めになるにつれて」という意味になる。
「桜花は今真っ盛り。難波の海に照り輝く宮はお治めになるにつれて輝く」という歌である。
(in万葉集読解・・・285(4360~4370番歌) | 古代史の道 ameblo.jp › entry-12478345106)
⑨巻六(九二八)冬十月、難波(なには)の宮に幸しし時に、笠朝臣金村の作れる歌一首并せて短歌
(in押し照る 難波の国は 葦垣の 古りにし郷と 人皆の 思ひ息みて …manyou.plabot.michikusa.jp › manyousyu6_928) 押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
巻六(九二八)
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一面に日が輝く難波の国は、葦垣が枯れたような古い都と人々が皆忘れてしまって、見向きもしなかったが、積んだ麻糸のように長い長柄の宮に、立派な柱を太く高く天皇が君臨なさりご領地をお治めになると、沖を飛ぶ鳥の味経の原に、もののふのたくさんの廷臣たちは仮の宿りを作ってさながら京のように作り上げたことだ。旅ではあるのだけれど
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この歌は聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首です。
題詞に「冬十月」とあるのは、巻六(九二〇)の題詞を受けてのことで、この難波行幸が神亀二年十月の聖武天皇の行幸であることを示しています。難波宮は大化の改新の後の孝徳天皇の頃に都のあった場所で、後に聖武天皇も一時期、難波宮を京としました(巻六:一〇三七などを参照)。「長柄(ながら)の宮」は孝徳天皇の時代の都で、難波宮のこと。そんな難波宮への聖武天皇の行幸時に笠金村が詠んだ長歌ですが、冒頭では難波宮を葦垣が枯れたような古い都だとして人々が皆忘れてしまって、見向きもしなかった都であると詠っています。そしてそんな古びた難波宮も聖武天皇が行幸されたことでたくさんの廷臣たちが仮の宿りを作って、さながら都のように賑やかになったと誉め讃えています。まあ、この時の行幸の様子そのものを詠って、聖武天皇の威光を讃えた一首といったところでしょうか。
同時に、古びた難波宮の土地を慰めているようにも読める歌ですね。