【前編】第6回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

わが国の薬の歴史

くすり文化ゆかりの地をめぐる:(1)奈良(県)地方編(1-8)

「わが国のくすり文化」については、これまで「縄文・弥生時代(第1回報)から大和時代(第4回報)そして飛鳥・奈良時代(第5回報)でのくすりに纏わる事柄や出来事」などについてまとめてきた。今回は、これらの内容を踏まえ「各々の時代でのくすり文化にゆかりのある地」に焦点をあて、わが国の薬の歴史にゆかりのある地域を巡ってみようと思う。その第1回目として、これらの時代にゆかりの深い「奈良(県)辺り」を取り上げ、巡ってみる。

 奈良(県)地方とくすり文化との関わりは古くから培われてきている。また、奈良には古代都が作られ、わが国の首都として歴史にも刻まれており、その始まりが「藤原京」で、今から約1300年前に中国の都城を参考して造営された日本で初めての本格的な都である。藤原京の大きさは、南北約4.8km、東西約5.2kmと非常に広く、京域のほぼ中央には、政治の中枢機関であり、天皇が住んでいた藤原宮がおかれ、宮殿が京の中心に在るのは他の都城と異なる藤原京の特徴である。藤原京は、東西南北に張り巡らされた道路によって街並みが碁盤目状に区切られ、その中に多くの寺院や役所のほか、市場や役人、庶民の住宅や寺院などが計画的に配置されていて、人口は約3万人と推定されている。藤原宮では初めて屋根に瓦を葺き、200万枚もの瓦が使われたようで、これは法隆寺の瓦の約100倍という。(in橿原市/藤原京とはwww.city.kashihara.nara.jp › kankou › fujiwara › about)

このように、大和時代そして飛鳥・奈良時代の中で特に奈良時代は「遷都」の時代ともいえることから、この遷都とそのゆかりの地を探ってみる。

【遷都とゆかりの地】

その遷都は、[藤原京平城京⇒(恭仁京・難波京・紫香楽宮)平城京⇒長岡京(⇒平安京)]をたどっている。その遷都の背景はどうであったのか、ちょっと探ってみると、奈良時代では平城京が都とされていたが、聖武天皇の治世にあたる740年~745年の5年の間には「恭仁京・難波京・紫香楽宮」へと度々都が遷されている。恭仁京は、奈良に近い現在の「京都府木津川市」に設置され、難波京はその名の通り現在の「大阪都心部」に、そして紫香楽宮は滋賀県甲賀市の「信楽地区」に設置されている。それぞれの遷都については、海上交通の要衝にあたる難波津(in第4回報(2)-1大和時代編)を元より有していた「難波京」以外は十分な基盤整備も行われないままに終わったため、平城京から大規模に都市機能が移るようなことはなかったようである。なお、恭仁京の跡地は「山城国分寺」へと転用される異例の措置が講じられた。遷都が繰り返された理由については不明点が多くある中、その契機としては太宰府で発生した「藤原広嗣の乱」に伴う混乱時に天皇が東国行幸を行ったことから始まっている。また、時代背景としては戦乱に限らず疫病・地震・火災等当時の天平時代は国に災いが次々と降りかかる状況があったとされ、鎮護国家思想の展開と共に、災厄を回避する・国を守る意図もあったと推測する事も可能である。

(in平城京空白の5年間?「恭仁京・難波京・紫香楽宮」への …narakanko-enjoy.com › 奈良の歴史解説)

ここに示したように、奈良時代の遷都の背景には、いろんな要因が働いていたようである。その中で「くすり文化」に関わる事柄としても「疫病」などがあることが分かる。

古代都城位置図(左側)(in長岡京市公式ホームページwww.city.nagaokakyo.lg.jp ›)

右側図:in全県地図/奈良県公式ホームページ www.pref.nara.jp ›

[遷都について 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)]

(1)藤原京:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。南側から見る

藤原宮 大極殿院閤門跡 列柱は実際位置から南30mで標示。   奥に大極殿跡(樹叢)。
藤原宮 大極殿跡

藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代都城日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた

日本書紀』などの正史には「新たに増した京」という意味の新益京(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている。藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので、当時の皇居が『日本書紀』で藤原宮と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。本項ではこの藤原宮についても述べる。

  1. 概要:『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である。
  2. 藤原京の範囲・構造:
  3. 藤原宮:藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地ではまず全域に格子状の街路を建設し、そののちに宮城の位置と範囲を決定してその分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。
  4. 藤原京の遺構:木簡約1200点が出土している。金石文や、後年になり日本書紀など潤色が疑われる史料とは異なり、木簡は現場の律令の実践で使用された潤色の必要性のなかった史料とされる。このため、大宝律令の内容の復元も期待されている。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており書誌にはない史料を含んでいる。
    1. 郡評論争に決着を付けた木簡:藤原宮跡出土木簡(複製)

概要:『日本書紀』の天武天皇5年(676年)に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述がある。これらの地が何処を指すのかは明確な結論は出ていないが、発掘調査で発見された規格の異なる条坊などから、藤原京の造営は天武天皇の時代から段階的に進められたという説が有力である。

天武天皇の死後に一旦頓挫した造営工事は、持統天皇4年(690年)を境に再開され、4年後の694年飛鳥浄御原宮倭京)から宮を遷し藤原京は成立した。 以来、宮には持統・文武元明の三代にわたって居住した。

それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例から3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都建設となった。 藤原京に居住した人口は、京域が不確定なため諸説あるが、小澤毅による推定では4 – 5万人と見られている。その多くは貴人や官人とその関係者や、夫役として徴集された人々、百姓だった。自給自足できる本拠地から切り離された彼らは、食料や生活物資を外界に依存する日本初の都市生活者となった。

708年和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。 藤原宮の遺構からは、平城遷都が決まる時期に至っても朝堂を囲む回廊区画の工事が続いていたことを示す木簡が出土しており、藤原京が未完成のまま放棄された可能性を示唆している。 その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。

藤原京の範囲・構造:

藤原京 朱雀大路跡 北方に藤原宮跡を望む。後背は耳成山。 
藤原宮の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵) 東側から見る

藤原京は岸俊男などによる研究初期の想定では、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、12条8坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかり、発見当時は「大藤原京」と呼んでいた。この広大な京域は、南側が旧来の飛鳥にかかっており、「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域を加え、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに倭京から独立した空間として認識されたとみられている。

特色として、以降に建設される、北に宮殿や政庁を配した北朝形式の太宰府、平城京や平安京とは異なり、京のほぼ中心に内裏・官衙のある藤原宮を配している。これは天武天皇のへの対抗意識として、敢えて長安城や大興城に倣わず『周礼』冬官考工記にある理想的な都城造りを基に設計されたと考えられている。 条坊制を採用し、東西5.3km(20坊)、南北4.8km(18条)の範囲内に碁盤目状に街路を配したとされる。

藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があり、これを境に東側が左京、西側が右京が置かれた。朱雀大路は、後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の広いものではなく、幅24メートル強(側溝中心間)と非常に狭いものであった。想定される宮都域には「和田廃寺」「田中廃寺」「豊浦寺(向原寺)」の遺構などが確認され、宮都はこのような既存施設との兼ね合いで飛鳥川の南側の朱雀大路や羅城門が整備されなかったとする説もある。

東西を通る京極を除いて縦横9本ずつの大路が計画され、南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方にが存在したことが明らかになっている。大和三山にかかる部分は条坊が省略されたと考えられるが、右京の四条付近にあった古墳群は、神武陵綏靖陵を除いてこのときに削平されてしまったと見られている。また広大な宮都の南東が高く北西が低い地形のまま造営されており、汚物を含む排水が南東部から宮の周辺へ流れていたとみられる。なお藤原京には外的防衛の機能はなく、都を囲む城壁や正門が存在しない。

藤原宮:藤原宮の調査の結果、宮城内に、宮城外の街路の延長線上で同じ規格の街路の痕跡が見つかっている。通常、宮城内には一般の人が通行する街路があるはずがないので、藤原京の建設予定地ではまず全域に格子状の街路を建設し、そののちに宮城の位置と範囲を決定してその分の街路を廃止したと考えられる。そのことは、薬師寺跡の発掘でも立証されている。

藤原宮はほぼ1km四方の広さであった。周囲をおよそ5mほどの高さので囲み、東西南北の塀にはそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。南の中央の門が正面玄関に当たる朱雀門である。塀の構造は、2.7m間隔に立つ柱とそれで支えた高さ5.5mの瓦屋根、太さ4、50cmの柱の間をうめる厚さ25cmの土壁が藤原宮の大垣である。平城宮の発掘調査で、藤原宮から再利用したものが発見されている。藤原宮は、南北約600m、東西約240mにおよぶ日本で最大の規模を持つ朝堂院遺構である。大極殿(基壇は東西約52m、南北約27m[10])などの建物は礎石建築がなされ、中国風に日本の宮殿建築でははじめてを葺いた建築がなされていた。

(1)朝堂院南門 
(2)朝堂院東門 
 (3)朝堂院西門

(1)列柱は実際位置から北20メートルで標示。後背は耳成山

(2)列柱は実際位置から北10メートルで標示。後背は天香久山

(3)列柱は推定位置から北10メートルで標示。後背は畝傍山

藤原宮焼亡説:『扶桑略記』に、藤原京と大官大寺が和銅4年(711年)に焼失したという記事がある。これが事実だとすると、遷都の翌年に焼けたことになる。しかし、藤原京跡での発掘で、火災の痕跡は発見されていない。一方、大官大寺は金堂回廊で焼け落ちた痕跡が見つかった。遺物から8世紀ごろのものとみられる。

藤原京の遺構:木簡約1200点が出土している。金石文や、後年になり日本書紀など潤色が疑われる史料とは異なり、木簡は現場の律令の実践で使用された潤色の必要性のなかった史料とされる。このため、大宝律令の内容の復元も期待されている。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており書誌にはない史料を含んでいる。

郡評論争に決着を付けた木簡:藤原宮跡出土木簡(複製)

「上捄国阿波評松里」の表記が見られる。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

「郡評論争」とは、大化の改新の記述の中に、政治改革の方針の中に、地方を「」、「」、「」を単位として組織する制度の施行が含まれており、大化年間に郡の制度ができたことになっている。この「郡」に対して、疑問を呈する説が出されていた。この「郡評論争」に決着をつけたのが、藤原宮跡から発見された木簡である。1967年に藤原宮跡から発見された木簡には、「己亥年十月上捄国阿波評松里」とあり、「己亥年」は文武天皇3年(699年)、「上捄国阿波評」は、上総国安房郡(後の安房国安房郡)ことと考えられることから、7世紀末には、「郡」ではなく、「」であったことを明らかにした。一方、701年(大宝元年)を境に、「評」は発見されなくなり、「郡」のみとなる。このことから、改新の詔によってではなく、大宝律令の施行後にその規定に従って、「評」が「郡」に変更されたということが立証された。

藤原京の遺構:木簡約1200点が出土している。金石文や、後年になり日本書紀など潤色が疑われる史料とは異なり、木簡は現場の律令の実践で使用された潤色の必要性のなかった史料とされる。このため、大宝律令の内容の復元も期待されている。「大宝元年」という年号や「中務省」・「宮内省」などの官庁名も混じった文書、当時の高官の名前なども書かれており書誌にはない史料を含んでいる。
郡評論争に決着を付けた木簡:藤原宮跡出土木簡(複製)
「上捄国阿波評松里」の表記が見られる。奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
「郡評論争」とは、大化の改新の詔の記述の中に、政治改革の方針の中に、地方を「国」、「郡」、「里」を単位として組織する制度の施行が含まれており、大化年間に郡の制度ができたことになっている。この「郡」に対して、疑問を呈する説が出されていた。この「郡評論争」に決着をつけたのが、藤原宮跡から発見された木簡である。1967年に藤原宮跡から発見された木簡には、「己亥年十月上捄国阿波評松里」とあり、「己亥年」は文武天皇3年(699年)、「上捄国阿波評」は、上総国安房郡(後の安房国安房郡)ことと考えられることから、7世紀末には、「郡」ではなく、「評」であったことを明らかにした。一方、701年(大宝元年)を境に、「評」は発見されなくなり、「郡」のみとなる。このことから、改新の詔によってではなく、大宝律令の施行後にその規定に従って、「評」が「郡」に変更されたということが立証された。
呪符木簡:災いの原因となる邪気や悪鬼を防いだり、駆逐するための呪文や符号を書いた木札を呪符木簡というが、7世紀に出現する。7世紀の例は全国で8例あるが、そのうち6例は藤原宮跡から出土している。
門号:藤原宮は、東西南北にそれぞれ3か所、全部で12か所に門が設置されていた。それぞれの門号は、古くから天皇に仕え、守ってきた氏族の名前をとったものと考えられる。まず、宮の正面にあたる南辺中央の門である朱雀門は、大伴門の別称があった。他にも分かっている門には、北辺中央の猪使門、北辺東の蝮王門と多治比門、東辺北の山部門、西辺に佐伯門と玉手門、東辺中央の建部門、北辺西の海犬養門がある。ただ、まだ実際に発掘調査が行われたのは朱雀門など一部にすぎず、早い調査が待たれる。
現状:

発掘調査現場


 奈良県橿原市高殿町に藤原宮の大極殿の土壇が残っており、周辺は史跡公園になっている。藤原宮跡の6割ほどが国の特別史跡に指定されており、藤原宮及び藤原京の発掘調査が続けられている。
1968年(昭和43年)9月13日、歴史的風土特別保存地区に指定されている。公共施設である橿原市斎場と橿原市昆虫館等の建設のために道路が作られて、香具山(歴史的風土特別保存地区)と分断されることになる。2005年(平成17年)、大和三山は国の名勝に指定された。
2007年(平成19年)1月、日本政府は世界遺産登録の前提となる暫定リストに「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」を登録した。

白鳳文化:
この都で華咲いたのが、おおらかな白鳳文化であった。白鳳文化は、天皇や貴族中心の文化でもあった。大官大寺(大安寺、高市大寺)や薬師寺などが造営されていた。白鳳文化を代表するものとしては興福寺仏頭などがある。 大宰府は、藤原京に先立って日本列島で最初に条坊制をしいた都城であり、日本古代史以外の「世界史」に倣えば、都城の出現を以って国家が確立したとみなすため、九州王朝(倭国)を日本最初の王朝とする主張がなされた(九州王朝説参照)。第一期大宰府政庁の条坊築造時期については、7世紀末との説が発表されたが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示されている。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、藤原京と同時期あるいはさらに古くなる可能性が出てくる。
交通アクセス[編集]:近鉄大和八木駅南口1番のりばより橿原市コミュニティバスを利用[16]
橿原市藤原京資料室前 下車。
近鉄最寄り駅より徒歩 :畝傍御陵前駅または耳成駅より各徒歩約30分。
JR最寄り駅より徒歩 :畝傍駅または香久山駅より各徒歩約30分。

平城京:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平城京の復元模型(奈良市役所の展示物)。南側から見る

平城京(へいじょうきょう、へいぜいきょう、ならのみやこ)は、奈良時代に日本の首都であった都市。
唐の都長安城を模倣して建造された都城であり、現在の奈良県奈良市の西部の一部、中心部及び大和郡山市北部に位置し東西8坊 (約 4.3km) の面積をもち、全域 72坊に区画設定されていた。中央北域に大内裏を置き、中央を南北に走る朱雀大路によって左京・右京に二分され、さらに南北・東西を大路・小路によって碁盤の目のように整然と区画されていた。平安時代に遷都されたため荒廃し、外京のみが東大寺、興福寺の門前町として残った。
歴史:藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の慶雲4年(707年)に審議が始まり、和銅元年(708年)には元明天皇により遷都の詔が出された。しかし、和銅3年(710年)3月10日 (旧暦)に遷都された時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程度と考えられており、寺院や邸宅は、山城国の長岡京に遷都するまでの間に、段階的に造営されていったと考えられている。恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、745年(天平17年)には、再び平城京に遷都され、その後784年(延暦3年)、長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
弘仁元年(810年)9月6日、平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、9月12日、平城上皇は剃髪した(薬子の変)。これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。
薬子の変以後平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、9世紀末に宇多上皇が南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していた
名称:平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。
戦後の学校の教科書において、平城京には「へいじょうきょう」と振り仮名が振られていた。その後、少なくとも1980年代には「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記が、一部の出版社に見られるようになる。これは平城天皇が「へいぜい」と読むことや、漢字音で「平」が漢音の“へい”と呉音の“ひょう”、「城」が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、この音を漢音に統一すると“へいぜい”になることによるものと見られている。ただし「京」を“きょう”と読むのは呉音である。
研究者を中心に「へいぜい」の読みが見受けられ、『国史大辞典』の見出しも「へいぜいきょう」であるが、一般には「へいじょう」が普及しており、奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も「へいじょう」と発音されている。
このように、平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)と呼ばれた。762年の正倉院文書の記述に加え、平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。

都市計画の概要
大極殿(再建)

平城京は南北に長い長方形で、中央の朱雀大路を軸として右京と左京に分かれ、さらに左京の傾斜地に外京(げきょう)が設けられている。
東西軸には一条から九条大路(十条については後述)、南北軸には朱雀大路と左京一坊から四坊、右京一坊から四坊の大通りが設置された条坊制の都市計画である。各大通りの間隔は約532メートル、大通りで囲まれた部分(坊)は、堀と築地(ついじ)によって区画され、さらにその中を、東西・南北に3つの道で区切って町とした。京域は東西約4.3キロメートル(外京を含めて6.3キロメートル)、南北約4.7キロメートル(北辺坊を除く)に及ぶ。
平城京の市街区域は、大和盆地中央部を南北に縦断する大和の古道下ツ道・中ツ道を基準としている。下ツ道が朱雀大路に当たり、中ツ道が左京の東を限る東四坊大路(ただし少しずれる)に当たる。二条大路から五条大路にかけては、三坊分の条坊区画が東四坊大路より東に張り出しており、これを外京と呼ぶ。また、右京の北辺は二町分が北に張り出しており、これを北辺坊と称する。
市街地の宅地は、位階によって大きさが決められ、貴族が占める12町の物を筆頭として、2町・1町・1/2町・1/4町・1/8町・1/16町・1/32町などの宅地が与えられた。平城宮の東側の一坊大路と二坊大路の間には、8町の宅地を占有した藤原不比等、4町を占有した長屋王、藤原仲麻呂の邸が集まっていた。土地は公有制であるため、原則的には天皇から与えられた物であった。
唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、中国の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。
平城京の建築物:平城宮(内裏)は朱雀大路の北端に位置し、そこに朱雀門が設置された。平城宮は平城京造営当初から同じ位置に存在した。その中心建物で、朱雀門の北にあった大極殿は740年の恭仁京遷都の際に取り壊され、745年の平城京遷都後に旧位置の東側(壬生門の北)に再建された。朱雀大路の南端には羅城門があり、九条大路の南辺には京を取り囲む羅城があった。ただし、実際には羅城は羅城門に接続する極一部しか築かれなかったのではないかとする説が有力である。
寺院建築は非常に多い。京内寺院の主要なものは、大安寺、薬師寺、興福寺、元興寺(以上を四大寺と称した)で、これらは藤原京から遷都に際して移転されたものである。東大寺は東京極大路に接した京域の東外にあり、聖武天皇によって天平勝宝4年(752年)に創建、西大寺は右京の北方に位置し、称徳天皇により天平神護元年(765年)に創建された。これらに法隆寺を加えて七大寺(南都七大寺)と称する。この他、海龍王寺、法華寺、唐招提寺、菅原寺(喜光寺)、新薬師寺、紀寺(子院が残る)、西隆寺(廃寺)などがあった。
2006年3月10日、大和郡山市教育委員会らが、平城京が十条大路まで造られていたのは確実であると発表した。下三橋遺跡で発見された道路の遺構に加え、羅城(城壁)跡の一部が発見されたことに依る。この羅城は中国の都城の様な土壁ではなく、南面だけは高い築地塀があったが他は簡単な瓦葺きの板塀ではないかと推定されている。
発掘・調査:北浦定政が、自力で平城京の推定地を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることを見つけ、1852年(嘉永5)『平城宮大內裏跡坪割之図』にまとめた。さらに関野貞は、大極殿の基壇を見つけ、平城宮の復元研究を深めて、その成果を『平城宮及大内裏考』として1907年(明治40年)に発表した。 棚田嘉十郎によって「奈良大極殿保存会」が設立され、1924年から平城宮の発掘調査が行われた。 1959年以降は、奈良国立文化財研究所が発掘を継続しており、2004年現在では、約30%が発掘されている。
大内裏に相当する辺りは現在の近鉄奈良線大和西大寺駅と新大宮駅の中間にあり、1922年には史跡に指定、1952年には特別史跡(平城宮跡(へいじょうきゅうせき))として保存されている。
1961年に初めて木簡が出土し、1967年には、平城宮東の張り出し部分に奈良時代の庭園が発見された。東西70メートル、南北100メートルにわたるもので、その中に、池を掘り、橋をかけ、建物を建てていた。「続日本紀」にある「東院の玉殿、葺くに瑠璃の瓦を以てす」という記事のとおり、釉薬をかけた瓦がまとまって出土した。このことから、発見された庭園は、平城宮東院庭園と呼ばれ国の特別名勝の指定を受けている。
さらに1978年に宮域外ではあるが平城京左京三条二坊宮跡庭園が1978年に国の特別史跡、および1992年に特別名勝、また朱雀大路の一部(二条-三条あたり)は1984年に史跡に指定されている。
平城宮のすぐ東南、宮跡庭園の北に隣接する左京三条二坊に、敷地4町の長屋王の邸宅があった。「奈良そごう」(当時)建設に際した発掘調査で1988年に出土した木簡は3万点を超える数であり、その解読の結果、長屋王家の生活が明らかになった。米を管理する大炊司、氷を貯蔵する氷室の管理をする水取司などの家政機関や使用人の居住区、倉庫などがあった。倉庫には、米・麦・鮑など、さまざまな物資が運び込まれていた。また、木簡から、当時の皇族や貴族が食べたという乳製品である蘇(そ)も長屋王家の食卓にあがっていたことが分かっている。

近鉄奈良線の移転計画:

平城宮跡内を横切る近鉄奈良線(2010年12月)

近鉄奈良線は平城京を横断する形で走行している。大阪電気軌道が1914年に現在の近鉄奈良線を開業した際には平城京の正確な範囲が不明になっており世間の注目も薄かったため問題なかったが、その後正確な範囲が判明したことで結果的に平城京の中を横断する形となってしまった。このため、開かずの踏切対策を兼ねて線路を移動し高架化する移転計画が進められている。
その他:遷都の年号の語呂合わせは「奈(7)良、唐(10)にならって平城京」、「奈良の710(納豆)平城京」。もしくは「710(なんと)○○平城京」(「なんと」は感嘆詞の“何と”または“南都”、○○には“きれいな”“大きな”“素敵な”“立派な”“美しい”などの言葉が入る)などがある。
• 平城京はシルクロードの終着点でもあることから、国際的な都市であった。京内には唐や新羅、遠くはインド周辺の人々までみられたという。その時代をうかがわせるのが東大寺正倉院の宝物などである。
• 桓武天皇が、平城京から長岡京へ遷都を決めた理由として、平城京の地理的条件と用水インフラストラクチャーの不便さがあった。平城京は大きな川から離れているため、大量輸送できる大きな船が使えず、食料などを効率的に運ぶことが困難であった。比較的小さな川は流れていたが、人口10万人を抱えていた当時、常に水が不足していた。生活排水や排泄物は、道路の脇に作られた溝に捨てられ、川からの水で流される仕組みになっていた。しかし、水がほとんど流れないため汚物が溜まり、衛生状態は限界に達していた。なお、平城京が模範とした長安も、大運河から離れていることによる水運の不便さが一因となって五代以降洛陽・開封などに首都の地位を奪われている。
• 近年の説としては平城京の外港であった難波津における土砂の堆積と三国川(現在の神崎川)の工事による淀川との接続が首都の所在地を大和国(飛鳥京・藤原京・平城京)から山城国(長岡京・平安京)に変えたとする説がある。古代の日本の東西間の交通は西国より水路で難波津に上陸し、奈良盆地を横断して鈴鹿関を通って伊勢湾を横断して東国に向かう経路が採用されており、大和国はその中継地点であった。ところが、8世紀に入ると、土砂の堆積で難波に船を着けることが困難になったことで西国との交通に支障が生じ、東国との交通においても馬の同伴が困難な伊勢湾横断が敬遠され、尾張国から美濃国の不破関を目指す不正規な迂回ルートが用いられるようになっていった。こうした中で難波津-大和国-鈴鹿関(東海道)ルートの優位性が失われ、代わりに淀川-山城国-不破関(東山道)ルートが採用されるようになると、首都もそのルートの中継地点である山城国に移ったとするものである。これは三国川の工事に合わせるかのように長岡京への遷都と平城京・難波宮の廃止が行われていることから指摘されている[19]。
• 平城京遷都に際しては田上山(たなかみやま、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して用いた[20][21]。このため田上山ははげ山となり、江戸時代から現在に至るまで緑化が続けられているがいまだ植生は回復していない[22]。
ギャラリー:

平城宮跡、第1次大極殿(復元)
内部
朱雀門(復元)
ライトアップされた朱雀門

平城宮の復元模型
再建工事中の第1次大極殿(写真中央)背後に東大寺大仏殿や若草山がみえる(2010年1月)

アクセス:近鉄奈良線大和西大寺駅または新大宮駅より徒歩。

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