「日本における医療と使用薬物に関する記録」が、数多く見られるようになっている。
そこで、今回は[大和時代から飛鳥・奈良そして平安時代]に見られる主な出来事に焦点をあて、「くすりに由来する事柄・出来事」を繙いてみたい。その1として、「(2)-1大和時代におけるくすり文化」を次のようにまとめてみた。
1.わが国の「くすり文化」の発祥(3~12) 【大陸から伝わった】
史記の中に、「秦の始皇帝が徐福に命じて『不老不死の薬』を東方に探しに行かせる」記述がある。徐福は数千人を連れて出発したとあるが帰国したと言う記述はなく、また、渡航先を日本と書かれている記述も史記の中にはない。(第1、2報)
ところが、わが国の瀬戸内、紀伊の南岸、などに「徐福伝説(第2報)」が残されているので、何艘かの舟が辿り着いたのかも知れない。この頃は、縄文時代から弥生時代に移る時期で稲作農耕が始まったばかりで、徐福は辿りついた土地で生活するためには、「くすり文化」に留まらず、稲作農耕文化などを持ち込んだのかも知れない。いづれにしても、始皇帝の不老長寿の医薬文化を継承して身体が元気になる薬を最上のものとした。同じ頃のわが国の薬の伝説としては[大国主之命の因幡の白兎]が有名である。これは現代でいうところの「擦り傷・掻き傷等に酸化亜鉛の粉末を振付けた」と同じ医療の原型が行なわれていた事が残されていたことを示し、粟の花粉を振り掛けて、傷を癒す医療の原点が神話になっている。
その後、6、7世紀には大和王権*が確立して行くことになり、大陸との交流が活発化し、文明が開かれていくことになる。そして、わが国での「くすり文化の発祥の地」として、「古代の大阪」がひとつ浮かび上がってくると考えられる。その理由の一因に、古代の交通および輸送は「海路」によっており、大阪の地は瀬戸内海の奥にあって淀川・大和川の河口に水路の入り乱れる「天然の港」となり、都への水路も淀川・木津川・大和川と開かれていたことから、古くから交通の要衝であり、人が集まる商業の地でもあったという背景がある(図1-13)。
(*邪馬台国が姿を消した後、奈良盆地の南東、大和古墳群に象徴されるように三輪山山麓に初期ヤマト王権は誕生した。この崇神天皇の王朝が順調に発展し、古代国家が形成されたのではない。河内に新たな巨大古墳が出現し、応神・仁徳天皇を祖とする河内王権が成立した。In大和王権と河内王権 – 株式会社 吉川弘文館www.yoshikawa-k.co.jp ›出版年月日: 2009/02/01(7))
さらに、[なにわ・飛鳥・奈良・京都]と都が移っても総て「なにわ」を通過することになる。これはヨーロッパ文明の発祥の地「メソポタミア」に酷似して、医療文化もわが国でもっとも早く発達したと考えられる。その船着場としての津は「なにわ津*」と呼ばれ、とくに都への物品の運搬の港であったので「御津」と云えば「難波の港」を指していた。古代の難波津については、その位置から次のように検討が試みられている。(in古代難波津の位置をめぐる研究史⑴西本 昌弘關西大學『文學論集』第六十六巻第四号p.25-502017.3.10(8))
「古代の難波津は大和政権の外港として、遣外使節の出発港となり、外国使節の到着港となるなど、重要な機能を担った。この難波津の位置を探ることは、日本古代史の大きな課題であるとともに、大阪地域史の懸案でもあるといってよい。このため、古くから幾多の先人がこの問題について議論を積み重ねてきた。過去の議論にはいまや乗り越えられたものも多いが、なかには現在でも通用する貴重な指摘を含むものが少なくない。 難波津が淀川下流の難波地域に存在したことは疑いないが、その具体的な位置をめぐっては、主として北浜に近い高麗橋に求める説と、難波(なんば)に近い三津寺町に求める説とが対立しており、近年では高麗橋説の方が有力視されている。ただし、最近の研究では考古学的な遺構・遺物の検討が大きな比重を占めており、過去の研究史に関する追跡が必ずしも十分であるとはいいがたい。しかし、長年にわたる研究蓄積を見過ごしてしまうのは問題であろう。 そこで本稿では、江戸時代から昭和戦後期にいたる時期を対象に、古代の難波津の位置をめぐる研究の歴史を振り返ってみたい。難波津に深く関わるものとして、難波における外交・内政の拠点たる難波大郡・小郡や、外国使節の迎接施設である難波館などが存在するので、これらの位置に関する研究史についてもあわせて検討する。」
*なにわ津:このあたりは、上町台地の先端で、縄文時代は台地より東側は生駒山麓まで<河内潟
*>と呼ばれていた内海で、<チヌの海>と呼ばれた大阪湾とは上町台地の先端でつながり、潮の流れ
が速く、ここから<浪速>の呼び名が生まれたといわれる。弥生時代には海退と淀川と大和川の堆積で
<河内潟>は<河内湖>から<河内平野>になり、仁徳天皇が淀川と大和川の合流地を改修しこ
のあたりは<難波堀江>と呼ばれた。古代の国際交流の港<難波津>の発祥地である。飛鳥、奈良
時代には国際交易も盛んで<難波堀江>の両岸には寺や貴族の荘が集まり、倉が建ち並び、また外
国使節のための客館<難波館>の施設があった。行基がかけた<難波ノ橋>もこの辺りにあった。平安
時代には<渡辺ノ津>と呼ばれ、紀州熊野詣での上陸地であった。豊臣時代に天神橋・天満橋がか
けられた。江戸時代には<八軒家>と呼ばれ、淀川を上り下りの三十石船の発着場で賑わった場所で
ある。(in難波津 – 永田屋昆布 www.nagatayakonbu.jp › 周辺の歴史(9))
図1:*五世紀頃の河内潟(9)、赤枠:八軒浜】
図2:左:約7000~6000年前 海水面が現在の水位より1~2m高く上昇し、河内平野を覆った水面が、東は生駒山麓、南は八尾、北は高槻付近まで広がっていました。偏西風の影響のもとに沿岸州が発達し、現在の松屋町筋付近には砂浜が続いていました。
図3:右:約1800~1600年前 天満長柄の砂州が北へ延びきって、河内平野(河内潟)への海水の流入をさえぎり、河内潟は淡水湖となりました。 [in古代大阪の変遷|水都大阪 https://www.suito-osaka.jp › history › history_2(10)]
図4:5世紀以降 仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。
河内平野の変遷:(in昔は海だった!? ~河内平野 (市政だより2020年8月1日号補足) 東大阪市 上下水道局下水道部 下水道計画総務室http://www.city.higashiosaka.lg.jp ›(11))
河内平野は、今から約7000年から6000年前までは「河内湾」でしたが、淀川と旧大和川から運ばれた土砂により河内湾が徐々に埋め立てられ、約3000年から2000年前には「河内潟」となり、5世紀から6世紀頃には「河内湖」、1600年頃の江戸時代初頭には河内平野と呼ばれる低湿地帯が広がっていました。(図‐5,6参照) それまでは河内平野を幾つもの川に枝分かれ、大きな池をつくり、上町台地の北あたりで旧淀川(現・大川)と合流し大阪湾に注いでおり、淀川下流部・寝屋川筋・大和川下流部は沼沢の多い低湿地が広がり、排水は悪く、出水時には集まった水が寝屋川に集まり、淀川の逆流で行く手を失い、河内平野の低湿地に溢れ、度重なる洪水被害が発生していました。
1704年に大和川の付け替え工事によって、大和川と石川の合流点(柏原市)から河内平野を経由せずに、直接西方の大阪湾に流れるようになりました。
図5 [赤枠:天満八軒家]
図6 注)現在の地形に汀線を重ね合わせています。
図7:[浪華三大橋 松川半山 画「浪華の賑ひ」より(安政二年、1855年) (9)]
図8:[八軒屋 秋里籬島 文 竹原信繁 画 「摂津名所図会」より(安政二年、1855年) (9)]
図9:[浪花大湊一覧(9) :この「風景版画」は、江戸時代末期の絵師歌川貞秀別名「五雲亭貞秀」の「浪花大湊一覧」の錦絵で、木橋の優美な天満橋を渡る当時の大名行列の賑わいと八軒屋船着場、大坂城、上町、船場、島之内をはじめとした浪花のまちを眺望した貴重な作品である。 (永田屋昆布本店蔵 ) ]
図10:[八軒家船着場 野村廣太郎 画 (永田屋昆布本店蔵) (9)]
図11:左:澱川(よどがわ)両岸一覧「大坂八軒家」(松川半山画、1863年)大阪市立中央図書館蔵
右:現在の八軒家浜
図12(写真1):[大川左岸が今の天満橋八軒家浜( 天満橋より天神橋・中之島方面を望む 平成30年、2018年) (9)]
図13(写真2):[大川左岸が今の天満橋八軒家浜(天満橋より天神橋・中之島方面を望む) 2020(令和2)年11月28日(土)15時過ぎ著者撮影)]
3、4、5世紀頃朝鮮半島との交流があり。朝鮮半島の南の端(百済)は九州北部の部族及び中国地方の北西部の部族との交流があり、文化の交流も盛んに行なわれていたと考えられる。百済は中国文化を吸収して、わが国より文化度が高く、仏教文化や医療文化など学ぶべきものを数多く持っていたと考えられる。
[少名彦之命]:出雲地方*、四国の海岸、瀬戸内*、紀州など外国から入ってきた渡来人の持っていた医療文化を伝承した人で大阪にその神社「少彦名神社(すくなひこなじんじゃ、大阪市中央区道修町2丁目1番8号)」がある。“神農さん”と慕われ毎年11月22,23日にお祭り「神農祭」が行なわれる。大阪ではその年の最後の祭りとして“とめの祭り”といわれている。
[なにわの薬師(くすし)]:高麗から来た医師徳来**が大阪に住み着いて医療を行った。その子孫を“なにわのくすし”と呼んだ。中国の医師は薬師(くすし)と呼ばれて、診断を行なった上、薬を調合して、患者に直接渡した。この東洋医学の原型が20世紀まで行なわれてきたわが国医方の原型である。
*出雲地方、瀬戸内沿岸には渡来人が齎したと考えられる医文化の伝説が残っている。
・日本大百科全書(ニッポニカ)の解説:佐藤農人、出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
医者の古称。『日本書紀』允恭(いんぎょう)天皇3年(413)の条に「医」の文字がみえ、同じく欽明(きんめい)天皇14年(553)の条に「薬物」の文字があるが、大己貴(おおなむち)・少彦名(すくなひこな)の2神を薬師の神とよび、日本医道の祖とされている。初めて薬師とよばれたのは、推古(すいこ)朝7世紀初頭、隋(ずい)に渡って医術を学び、帰国して大仁(だいにん)に叙せられた恵日(えにち)で、その後、薬師恵日は630年(舒明天皇2)犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)とともに最初の遣唐使として派遣され、子孫は758年(天平宝字2)難波連(なにわのむらじ)の姓を賜り、以後、医者を一般に薬師とよぶようになった。官医、僧医、民間医の別があって、薬医者のほか呪(のろ)い医者や鍼灸(しんきゅう)医をも含めてよんだが、薬師の語源はさだかでなく、「薬を用いる」の他動詞「くすす」の名詞化説が有力視されている。
・世界大百科事典内の難波薬師の言及:出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について
【医学】より、…文書記録上,最初の外来の医療は,允恭天皇の病気の治療のため新羅から来た金武と名乗る医師によるものである(414)。459年にも徳来という医師が来日し,帰化して難波薬師(なにわのくすし)として,子孫も同じく医業を営んだとある。積極的に外国医学を摂取したのは,恵日と福因の2人が小野妹子とともに隋に留学して帰ったのが最初だと思われる。…