【前編】くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

第2報 【徐福について】

  • では、「徐福が探し求めた不老不死の薬(1、2)」とはどういったモノなんだろうか。一つには、「天台烏薬(てんだいうやく)」であると言われている。これは、紀伊半島に自生するクスノキ科の常緑樹の植物で、、効用としては、根は腎臓・胃・リウマチなどの薬となり,また体内で増えすぎた活性酸素を消す働きもあることがわかっている。そして、「本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう・1803年、小野蘭山(おのらんざん)が書いた書物)」の巻30には木部で香木類35種が収載されている。この中の鳥薬(うやく)の項の説明には「享保年中(1720年ころ)漢種二品渡ル天台鳥薬ト衡州鳥薬トナリ伝エ栽テ今花戸(花屋のこと)ニ多シ天台鳥薬ハ木ノ高サ八九尺多ク叢生ス一二尺ノ小木モ能花ヲ生ス・・・・・秋ニ至リ熟シテ赤色大サ南天燭子ノ如シ後ニ漸ク黒色ニ変ズ地ニ下シテ生シ易シ油ヲ搾リ燈ニ用ユベシ臭気アリ此根和州ノ宇多城州ノ八幡ニ多ク栽テ四方ニ貸ス・・・・・」という記述がある。テンダイウヤクは、中国の揚子江(ようすこう)以南の各地が原産地であり、古くに日本に渡来して野生化している。

[天台烏薬(徐福公園)]

薬効:リューマチ、神経性胃腸炎、腸管癒着(ゆちゃく)、臍(へそ)周辺の疼痛(とうつう)、泥状便、打撲傷(うちみ)

使い方:鳥薬(うやく)は、神経性胃腸炎、腸管癒着(ゆちゃく)による軽度の通過障害などに見られる、臍(へそ)周辺の疼痛(とうつう)、腹鳴、泥状便などの症状がある場合に適しています。また、月経痛にも用いていて、月経の後半に疼痛(とうつう)がある場合には、沈香、延胡索(えんごさく)、当帰(とうき)、肉桂(にくけい)を配合して、月経前の腹痛には、木香(もっこう)、縮砂(しゅくしゃ)、香附子(こうぶし)を配合する。
芳香(ほうこう)性健胃薬、鎮痛薬として1日量5~10グラムを水0.5リットルで煎じて、約2分の1量まで煮詰めて服用する。
健胃(けんい)整腸、腸蠕動(ぜんどう)の促進作用は木香(もっこう)の作用より効果がある。
また、テンダイウヤクの葉を鳥薬葉(うやくよう)といい、鳥薬(うやく)と同じように健胃薬として1日量4.5グラム~9グラムを煎じて服用する。新鮮な葉は、もみ潰して油で炒め、関節リューマチ、打撲傷の患部などに塗布する。

科名:クスノキ科/属名:クロモジ属
和名:天台鳥薬/別名:ウヤク/生薬名:鳥薬(うやく)/天台鳥薬(てんだいうやく)/学名:Lindera strychnifolia
その他:中国中部原産、日本に渡来したのは享保年間(1716~1736)

  • 人物像(3):徐福像(和歌山県新宮市 徐福公園)
:徐福(じょふく,別名 徐市:じょふつ) 出身地:斉の国 琅邪(現在は山東省)
江蘇省連雲港市かん楡(ゆい)県金山郷で徐阜村(徐福村)発見(古来は琅邪郡であったところ) 職業:方士(呪術師,祈祷師,薬剤師,占星術・天文学に秀でた学者)
時の流れ:BC.278:徐福誕生 ⇒ BC.259:始皇帝誕生 ⇒ BC.221:始皇帝即位、斉の国滅亡 *始皇帝は不老不死の薬を探し求めていたところ、徐郷県(山東省龍口市)で徐福と出会う。⇒ BC.219:徐福 出航 ⇒ BC.210:始皇帝崩御 ⇒ BC.208:徐福死去
(富士古文書により推測 参考文献・資料より)
 
①   徐福伝説(3)
今から2200年前、日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき、秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいた。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物であったが、1982年、江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり、実在した人物だとされている。そして、徐阜村には石碑が建てられた。驚くことに、その村には現在も徐福の子孫が住んでいて、代々、先祖の徐福について語り継がれてきたそうである。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていた。
 徐福は始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出た(司馬遷の『史記』がもとになっている)。この願いが叶い、莫大な資金を費やして一度旅立つが、得るものがなくて帰国した。何もなかったとは報告が出来ず、この時は「鯨に阻まれてたどり着けなかった(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)と始皇帝に報告した。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可した。
 若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになった。そして、何日もの航海の末にどこかの島に到達した。実際、徐福がどこにたどり着いたかは不明だが、「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれている。この「平原広沢」は日本であるともいわれている。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し、その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在する。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれない。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき、東方の島、新たな地への脱出を考えていたかもしれない。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれない。
 中国には、徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものである。徐福は中国を出るとき、稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われている。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされるが、実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくる。(⇒かなり興味深いね!)
 日本各地に徐福伝説は存在している。実際はどこにたどり着き、どこに居住し、どこに行ったかはわからない。もちろん、徐福という人物の存在を証明する物は何もないが、しかし、徐福の伝説地はあまりに多い。徐福という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人にはなじみがない。実在したかどうかもわからない人物を重要視しないのは当然かもしれない。今から2000年以上も前のことなのに、江戸時代にあったことかと思ってしまうような話として伝わっているものもある。語り継がれる間に、背景となる時代が混乱してしまう。でも、それでも許せてしまうのは、歴史的事実よりも歴史ロマンとして大切にしたい気持ちもあるからかもしれない。徐福は確かにいた。それでいい。数多い伝説地の中で、「佐賀県、鹿児島県、宮崎県、三重県熊野市、和歌山県新宮市、山梨県富士吉田市、京都府与謝郡、愛知県」などを訪ねてみた。

[徐福伝説めぐり]

1.秋田県 ⇒ 2.青森県 ⇒ 3.佐賀県 ⇒ 4.福岡県 ⇒ 5.鹿児島県 ⇒ 6.宮崎県 ⇒ 7.和歌山県新宮市 ⇒ 8.熊野古道 ⇒ 9.京都府丹後半島伊根町 ⇒ 10.熊野から富士山 ⇒ 11. 最後に行き着いたところ、山梨県河口湖町~富士吉田市

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後編に続きます。

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