首都大学東京理学研究科坂井貴臣准教授および井並頌リサーチ・アシスタントらの研究グループは、ショウジョウバエが環境光を利用して長期記憶を維持している分子メカニズムを解明した。同研究成果は、動物にとってネガティブな記憶が残り続けてしまうトラウマ記憶の消去技術の発展に寄与する可能性を示唆するものとして、注目されている。
光は、動物の脳機能に影響を与え、動物の約1日の行動周期や睡眠・覚醒などの調節に役立っている。人やマウスは物を覚える時、すなわち「記憶を作る」時にも環境光の影響を受ける。だが、獲得した記憶を維持する過程において、そもそも光のような外部環境要因が影響を与えるのかは明らかにされていない。
動物は1日を通して様々な記憶を獲得するが、翌日にはそのほとんどを忘れてしまう。だが、非常にインパクトのある経験や同じ経験の繰り返しにより獲得された新たな記憶は、安定した長期記憶へと変換される。長期記憶の形成には、転写因子CREBの活性化や、それに伴う新規タンパク質合成が不可欠であることが様々な動物種において報告されている。だがその一方で、長期記憶が維持されるメカニズムの詳細はよく分かっていなかった。
こうした中、坂井氏らのグループは、動物が獲得した記憶を長期間維持する過程に環境光が影響を与えるかどうかを、遺伝学の発達しているショウジョウバエを用いて調べた。
哺乳類では、過度なストレスによるトラウマ記憶によりオスの性的モチベーションが長期間低下する。昆虫であるショウジョウバエでも同様の現象が知られており、「求愛条件付け」と呼ばれている。
オスはメスの性フェロモンに反応して求愛を始めるが(図1①)、一度交尾したメスは、求愛するオスに対して過度なストレス(性交拒絶、オスが忌避する匂い物質)を与える(図1②)。このメスからのストレス刺激に長時間さらされたオスは、その後、未交尾のメスとつがわせてもあまり求愛しなくなる。
求愛条件付けでは、メスからストレスを受けたオスのトラウマ記憶により、求愛モチベーションが低下すると考えられている(図1③)。
坂井氏らは、このようなハエのトラウマ記憶を利用して、環境光がトラウマ記憶に及ぼす影響について研究した。求愛条件付けでは、未交尾のオスを交尾したメスと7時間以上つがわせ(7時間学習)、その後オスを明暗サイクル条件下(明期12時間、暗期12時間)で飼育すると、少なくとも5日間以上持続するトラウマ記憶(長期記憶)が確認された。
だが、7時間学習直後から恒暗条件下で5日間オスを飼育すると、長期記憶が消失していた。さらに、24時間だけ恒暗条件下で飼育しても長期記憶は維持されるものの、48時間続けて恒暗条件下で飼育すると長期記憶が消失することが分った。
今回発見した「光による長期記憶維持システム」の分子機構を解明するため、光受容タンパク質が発現しているハエ脳内のPDFニューロン、および、PDFニューロンから分泌される神経ペプチドPDF(神経伝達物質の一種)に着目して研究を行った。
その結果、明暗サイクル条件下においても、PDFの発現を抑制すると長期記憶を維持できなくなることを発見した。また、恒暗条件下でPDFニューロンを人為的に活動させると、長期記憶を維持できるようになったことから、PDFニューロンが長期記憶の維持に必須であることが判明した。
さらに、PDF受容体が働かない変異体においても長期記憶が確認されなかったため、光によりPDF/PDF受容体を介した情報伝達経路が活性化されて長期記憶が維持されることが分かった。
PDF受容体の活性化は細胞内のcAMP(細胞内の情報伝達にかかわる物質)の濃度を上昇させる。また、転写因子CREBはcAMPの上昇に伴い転写が活性化される。長期記憶の維持にCREBの転写活性が必要かどうかを明らかにするため、ハエの記憶維持期に、記憶中枢において特異的にCREBの転写を抑制したところ、長期記憶が消失した。
この結果は、長期記憶を維持するために転写因子CREBの活性化による新たな遺伝子発現が必要であることを意味する。
さらに、ハエ記憶中枢におけるCREBの転写活性を測定したところ、CREB活性が光とPDF受容体により制御されていることも明らかになった。
これらの結果から、環境光によりPDF/PDF受容体/CREB経路が活性化され、その結果ハエの長期記憶が維持されると考えられる(図2)。
長期記憶は一度獲得されると長期間維持されるため、動物が自然界で生き抜くために必須な脳機能であると言える。一方、長期記憶は簡単には忘却されず消去が困難であるため、トラウマによる記憶などのネガティブな記憶も残り続けてしまうという弊害も生じる。
同研究により、ハエのトラウマ記憶を維持する機構が光を利用したものであることが明らかになった。もし、ヒトにおいても光を利用してトラウマ記憶が維持されていれば、非侵襲的にトラウマ記憶を消去できる可能性がある。
これらの研究成果は、将来的には人のトラウマ記憶の治療原理の創造や消去技術の開発へと発展する可能性が期待される。
なお、同研究内容は、13日付け(米国東部時間)で、Society for Neuroscience(北米神経科学会)が発行する英文誌Journal of Neuroscienceに発表された。同研究の一部は、JSPS科研費(基盤研究(B)16H04816、新学術領域「性スペクトラム」18H04887)の助成を受けている。