16日に堺市内のホテルで開催された堺市薬剤師会定時総会の研修会で、児玉孝前日薬会長が「これからの薬剤師、過去、現在、未来」、藤垣哲彦大阪府薬会長が「平成から令和への変遷」をテーマに講演。両氏ともに「平成を医薬分業推進の変革時代」とし、今後の薬剤師職能を展望した。
児玉氏は、1970年代を「医薬分業0%時代」と位置づけ、薬局薬剤師はOTC安売り競争、病院薬剤師は調剤マシーン、製薬薬剤師はプロパー(販売・接待係)に明け暮れ、薬価差益全盛の「医療荒廃の時期であった」と振り返った。
そこで、当時の薬剤師は、「この状況を打破し、薬剤師職能を発揮する環境を作るには、医薬分業を実現させるしかない」と考えた。
1994年には、当時の𠮷矢佑日薬会長が厚生省の担当局長を2時間説得し、「厚生省管轄の国立病院等の30%分業」を表明させたことが、現在の院外処方箋発行率(74%)に至る発端となる。
厚生省若手薬剤師技官と日薬若手執行部がタイアップし、薬剤師国会議員も院外処方箋推進をバックアップした。当時の薬価差益(R幅)は1兆3000億円にも上り、R幅縮小方針が打ち出された。
さらに、診療報酬対策として、「処方箋発行料の引き上げ」、「調剤基本料の引き上げ」、「病棟業務点数の創設(100点業務)」などの施策も展開された。
医療法改正も医薬分業推進を後押しする。1992年に「薬剤師が医療の担い手」として、2006年には「薬局が医療提供施設」と位置づけられた。
児玉氏は、「医薬分業推進の先鋒となられた薬剤師の方達の中で、がんやくも膜下出血で命を落とされた実例もある」と明かし、「物事を動かす時には、大きなエネルギーがいる。命がけで、医薬分業が進めてきた」と強調する。先人の努力が花開き、平成の時代に医薬分業は30%から70%台へと飛躍を遂げる。
同時に、2006年に薬学教育6年制がスタート、国家公務員医療職の薬剤師奉給表の改正(初任給17万8000円から20万0600円に引き上げ)、製薬薬剤師の職能確立(総括製造販売責任者を薬剤師とする薬事法の改正)、「ジェネリック医薬品の使用推進」などの事案が次々と実施された。
児玉氏は、「これも医薬分業推進政策の賜で、日本国民にとって患者中心の医療に分業が貢献してきたのは明白な事実である。我々の施策は正しかった」と言い切る。
その一方で、医薬分業70%の負の遺産にも言及し、「国民が気軽に相談できる薬局の激減」、「処方箋応需による受け身の姿勢」、「政治力低下」、「ハングリー精神の欠如」を挙げる。
今後の課題では、「世界中で薬剤師が医療行政に入っていないのは日本だけ」と断言し、「医療は厚労省の医政局が担っており、その傘下にある病院(病院薬剤師)は非営利・医療法人である」と説明。
さらに、「薬局は、薬事振興の医薬・生活衛生局の傘下にあり、営利追求の株式会社方式が糾弾されている」と指摘し、「チェーン薬局が株式上場するのは、医療行政下に薬局・薬剤師がないためで、この状況を打破するには、医療行政の中に薬局・薬剤師が入れる以外に手立てはない」と断言。
「実現には、政治力が必要不可欠となる。このままでは、処方箋がなくても相談できる街の小さな薬局は消滅してしまう」と警鐘を鳴らす。
一方、藤垣氏は「平成の大阪府薬の医薬分業推」を振り返った後、薬機法改正の主なポイントとして、「服薬期間中のフォロー」、「他医療提供施設への医師等への情報提供」、「オンライン服薬指導」、「機能別薬局の知事認定制度」、「添付文書の電子化」などを紹介。
その上で「今回の薬機法改正には、患者さんにとってプラスとなる内容がたくさん盛り込まれている。一番最悪なのは、参議院で廃案になることで、衆議院で継続審議してもらって是非成立してほしい」と訴えかけた。