【前編】第30回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

(2)-7:江戸時代(1603-1867)-No.1

[歴史背景(主な出来事)](in滋賀のあゆみが分かる歴史年表)

[前期[]:1603:徳川家康が征夷大将軍になる 1607:第一回朝鮮通信使(1811年までに計12回来日) 1615:豊臣氏がほろびる武家諸法度 1635:参勤交代の制 *1641:鎖国 [中期]:1685:徳川綱吉の生類憐みの令 1716~:徳川吉宗の享保の改革(街道の賑わいとともに、各地の街道沿いの豊かな町衆が曳山(ひきやま)と呼ばれる山車(だし)が巡行する華やかな祭礼を行う) 1742:公事方御定書、百姓一揆が増える(街道筋を中心に産品の発達(近江上布・青花紙・大津絵・和中散伊吹もぐさなど) [後期]:1787~:松平定信の寛政の改革(近江商人の活躍(八幡・日野・五個荘・高島)) 1825:異国船打払令(東海道五十三次の浮世絵で有名な歌川広重は、近江八景の浮世絵も制作し、人気を博した) 1833~39:天保のききん 1842:甲賀・野洲・栗太郡の農民による天保一揆 1841~:水野忠邦の天保の改革 1853:ペリー来航  1854:日米和親条約 1858:大老井伊直弼が日米修好通商条約を結ぶ、開国、安政の大獄、尊王攘夷運動(彦根藩主井伊直弼は、17歳から32歳までの15年、彦根 城下の屋敷で下積み時代を過ごしていた) 1867:大政奉還・王政復古の大号令

  註:前期、中期、後期の区分けは江戸時代の約260年を年数を基に3つに区分した。

元禄文化:俳諧(松尾芭蕉)1690:松尾芭蕉が幻住庵(大津市)に入る 浄瑠璃(近松門左衛門) 小説(井原西鶴) 浮世絵(菱川師宣) 歌舞伎 朱子学  禁書(洋書)をゆるめる

化政文化:蘭学・国学 解体新書」(杉田玄白) 日本地図(伊能忠敬) 浮世絵(葛飾北斎、歌川広重) 「東海道中膝栗毛」(十返舎一九) 川柳・狂歌

in薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表)

江戸時代:1683 年:富山藩2代目前田正甫公、反魂丹の調製 、岡山の医師万代常閑の伝授 1690年:江戸城において三春藩主秋田河内守の腹痛を治して販売権を得る「先用後利」を教えた、富山配置販売の始まり 1730年:森野薬草園(奈良県大宇陀町) 御所今住 蘇命散三光丸奈良の配置薬の始まり 甲賀 神教丸万金丹 日野 感応丸 滋賀県の配置薬の始まり 鳥栖・田代地区 万金膏 鹿島地区 唐人膏 佐賀県の配置薬の始まり 1866年:仲間取締議定書連印帳 現各都道府県協議会の前身

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江戸時代

 慶長8年(1603)家康が覇権を握り、江戸に幕府を開いて250年近く続いた戦乱の世に終止符をうち、幕政の安定と民心掌握に努めたので、次第に泰平の世を謳歌するようになりました。  大陸との交流も盛んに行われ、明の李時珍が30年を要して編纂、1892種の本草(生薬)について薬効などを詳しく記述した本草綱目(ホンゾウコウモク)(1590)が、慶長11年(1606)に輸入され、活版印刷技術が勃興したこともあって、その和刻本が寛永14年(1637)には早くも京都において刊行されています。  この本の導入は、江戸時代(1603~1867)の本草学(漢方で用いる生薬類を研究対象とする学問)の目覚しい発達に多大の影響を与えています。また、本草学の発達の他に、生薬の採取と栽培の奨励(享保末期には朝鮮人参の栽培成功)し、実物経済から貨幣経済への移行もあり、交通や経済も大いに発達してまいります。  このような時代背景があって、医薬(あわせ薬)売薬”の名称で、民衆の簡易な治療薬として、広く一般大衆に融け込んで普及し、用いられるようになったのは、8代将軍吉宗の治世(1716~45)の頃からであったと思われます。  幕府は医薬の生産を奨励し、率先してその販売を支援したこともあって、薬種問屋や成薬店(配合製剤、あわせ薬店)などがおこり、医薬の普及、大衆化が大いに進み、江戸時代末期にかけて売薬の最盛期を迎えます。また、江戸時代中期以降には、医薬の民間普及と救民を目的とした配合製剤(あわせ薬)の調整法、薬効や使用法を詳しく解説した実用書が、実に数多く出版されるようになっています。このことは各地の家伝薬や秘薬が、売薬として次第に販売されるようになった経緯を物語っています。この頃の売薬の主なものとしては、延齢丹竜脳丸反魂丹奇応丸などがあります。  藩の経済基盤の安定向上を目的に、越中、田代、近江、大和などの配置売薬が始まったのもこの頃です。なお、肥前国(佐賀県)田代は対馬藩の離れ領地で、田代の代表的売薬人参奇応丸朝鮮秘伝奇応丸は、当時対馬藩が朝鮮からの独占的な輸入専売権をもっていた高貴薬人参を配合していること、医薬先進国であった朝鮮国を販売政策上販売名に表示したものとして興味がもたれます。  売薬には丸剤の剤型のものが多く、使いやすさや印篭に入れて携帯するのに便利な剤型で、一般に好まれたためではないかと考えられます。

南蛮医学、蘭方医学と洋薬の伝来

 西洋医学が伝来したのは16世紀の中頃です。天文12年(1543)ポルトガル人が初めて種子島に漂着後、多くのポルトガル人やスペイン人が渡来するようになりました。  彼等はキリスト教伝導のかたわら医療を施し、好評を得ました。  ポルトガル人、スペイン人が行った西洋医学を南蛮医学(ナンバンイガク)といい、長崎、京都に病院を設けるなど、盛んに医療を行っていました。しかし、彼等の医療は、手持ち洋薬が少なく、軟膏、硬膏を創傷(ハレモノ)などに用いる膏薬外科の域を越えなかったともいわれています。  オランダ人の来日は、慶長2年(1597)九州平戸に来たのが最初です。寛永16年(1639)から200年余に及ぶ鎖国の間も、オランダ人と中国人のみ、長崎での交易が許されていました。幕府は医学、天文に関する書籍の輸入を禁じなかったので、医学薬学博物学関係の書籍が輸入され、長崎出島のオランダ商館は貴重な海外文明に接する窓口となっていました。この頃には蘭方医学で使用する薬物(蘭方薬)が輸入されています。  アニス、アラビアゴム、カミツレ、キナ、ゲンチアナなどの西洋生薬の他、アンモニア、安息香、塩酸、酒石、硝酸銀、炭酸カリ、炭酸アンモニウム、吐酒石などの化学薬が使われたようです。
 さて、江戸文化最盛期の文政6年(1823)に、オランダ医官として長崎に赴任したドイツ人医師シーボルトは、その博識をもって西洋医学の他、博物学、動植物・鉱物の知識なども教授し、臨床講義を行いました。師事した門人は7年間に60人余に及び、多くの医師、自然科学者が育ち、その後の日本の医薬学博物学自然科学の発展向上の基礎をつくりました。  そして、初めは膏薬外科の域をでなかった西洋医学を、初めて本来の姿で、その使用薬物とともに日本に紹介し、伝授しました。  シーボルトの慣用薬には、アンモニア水、阿片、テリアカ(底野迦:アヘンを含む製剤。  解毒薬、鎮痛万能薬)、カミツレ、カノコソウ、サフラン、吐根、ベラドンナ(ロート根)、ジギタリス、ビリリ(牛胆)、エーテル、カンフル、塩酸、炭酸アンモニウム、鉄粉、葡萄酒をはじめ欧米に産する本来の西洋薬物(洋薬)が多く、その他丁字、薄荷、ラベンダー、桂皮、胡椒など東南アジア産の多くの香辛料や漢方でも用いる薬物(生薬)などがあり、実に多岐にわたる薬物が医療の場で使用されたことが分かります。  この西洋薬物の多くは、西洋医学でよく使用されていた代表的用薬です。

[くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事]和中散: 伊吹もぐさ: 反魂丹の調製: 富山配置販売: 蘇命散: 三光丸: 奈良の配置薬: 神教丸: 万金丹: 感応丸: 滋賀県の配置薬: 万金膏: 唐人膏: 佐賀県の配置薬: 本草綱目: 本草学: 医薬(あわせ薬)”売薬”の名称: 延齢丹: 竜脳丸: 奇応丸: 人参奇応丸: 朝鮮秘伝奇応丸: 南蛮医学: 蘭方医学: 薬物(蘭方薬)が輸入: アニス: アラビアゴム: カミツレ: キナ: ゲンチアナなどの西洋生薬: アンモニア: 安息香: 塩酸: 酒石: 硝酸銀: 炭酸カリ: 炭酸アンモニウム: 吐酒石などの化学薬: アンモニア水、阿片、テリアカ(底野迦:アヘンを含む製剤: 

[配置薬について]

「配置薬、歴史」で検索すると、AI による概要および配置薬の歴史の詳細について次のような記述が示されました。

[AI による概要] +10:配置薬の歴史は、約300年前に富山藩2代目藩主前田正甫が、江戸城内で腹痛を起こした大名に「反魂丹」を与えたことがきっかけで始まりました。この出来事が評判となり、諸大名から自領内での販売を依頼されたことで、配置薬の販売システムが確立されました。このシステムは、使用した分だけ後で代金を支払う「先用後利」という独特なもので、人々の健康を支える重要な役割を果たしてきました。

[配置薬の歴史の詳細]:

  • 始まり:江戸時代、富山藩2代目藩主前田正甫が、江戸城内で腹痛に苦しむ三春藩主・秋田河内守に反魂丹を与えたところ、たちまち痛みが治まったことが配置薬の起源とされています.
  • 「先用後利」のシステム:配置薬は、家庭に薬を預けておき、後日訪問した際に使用した分だけ代金を支払う「先用後利」というシステムが特徴です.
  • 富山の薬売り:この「先用後利」のシステムと、前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神が、配置薬を全国に広めるきっかけとなりました.
  • 近代化:江戸時代から続く配置薬の販売は、昭和の高度成長期まで、その基本精神を受け継ぎながら、近代化が進みました.
  • 現代:現代では、医療技術の進歩や生活の変化に伴い、配置薬の役割も変化していますが、その歴史と信頼関係は、今もなお多くの人々に愛されています.

配置薬は、単なる薬の販売だけでなく、地域の人々の健康を見守り、信頼関係を築く重要な役割を担ってきました。

「おきぐすり」の歴史 – 一般社団法人 全国配置薬協会

[文献1]:in 配置薬の由来 株式会社富士薬品  https://www.fujiyakuhin.co.jp › home_medicine › history

配置薬の由来:誕生からご家族の皆様の健康を守り続けています。 300年の配置薬物語:配置薬の販売業は300年以上も前から富山で始まった商法です。
1690年(元禄3年)に富山藩第二代藩主・前田正甫(まえだまさとし)公が江戸城内でにわかの腹痛で苦しむ三春(福島県)の藩主・秋田河内守(あきたかわちのかみ)に印籠から取り出した自藩の『反魂丹(はんごんたん)』という妙薬を与えたところ、ピタリと腹痛が治りました。それを見た諸国の大名から、ぜひ自分の領内でも販売してほしいと依頼されたのがルーツとされています。

配置薬のルーツは?

長崎にいたオランダ人から膏薬製造の秘法を習得して作られたという「唐人膏」がそのルーツといわれています。 富山十万石の二代目藩主・前田正甫の「用を先に利を後にせよ」という精神から生まれた「おきぐすりの先用後利」販売システムは、当時としてはかなり画期的な商法でした。

江戸時代の置き薬とは?

江戸時代に岡山地方ではじまり、のちに富山の薬売りとして、全国を薬を担いで回りながら、医薬品を前もって預け、使用した分の代金は後日支払いという方式での薬の販売方法として確立していきました。 一般には「置き薬」と言われ親しまれています。

三大配置薬県は?

昭和期には設備の近代化が進み、販路も国内ばかりでなく アジア諸国にまで広がり、滋賀県の家庭薬工業は富山奈良と並んで三大配置薬県として発展した。2018/09/19

[文献2]:in 配置薬の歴史  一般社団法人東京都医薬品配置協会  http://www.okigusuri.or.jp › rekisi

置き薬の歴史:富山十万石の二代目藩主前田正甫公は、質実剛健を尊び自らも薬を調合する名君でした。元禄三年(一六九〇年)、江戸城内で福島県岩代三春の藩主が突然腹痛を訴えました。そこに居合わせた正甫公が常備の薬を与えたところ、たちまち痛みがおさまり、この光景を目のあたりにした諸国の藩主はその薬効に驚き、「ぜひ自分たちの国でも売り広めてほしい」と願い出ました。富山のくすりが一躍有名になった事件です。
正甫公は、松井屋源右衛門に調剤を命じ、八重崎屋源六に行商をさせたといわれています。

売薬版画:富山のくすり屋さんといえば、紙風船と売薬版画(絵紙)です。歌舞伎の名場面や役者絵、名所絵、武者絵などのほかに暦や食べ合わせ表まであって、娯楽の少なかった時代に、これらのおみやげ品はとても喜ばれました。□□またくすり屋さんの豊富な情報や話題も大切なおみやげで、こうした人とのつながりが厚い信頼関係を育み、ときにはお嫁さんの紹介などもして、地域の人々とのコミュニケーションを深めました。

[文献3]:in 配置薬の歴史(3) ashitaka-yakuhin.co.jp  https://www.ashitaka-yakuhin.co.jp › three

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