【前編】第25回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

(2)-6-3:吉野室町時代(1334~1573)

 ②-2室町時代(1392-1573)

【時代背景】 in滋賀県の歩み年表他

  • 室町時代の主な出来事:1392:[南北朝が合一される] 1404:[足利義満が日明貿易を開始]  1428:[正長の土一揆]  1429:[尚氏によって、琉球が統一される] 1467:[応仁の乱がはじまる(〜 77)]  1485:[山城の国一揆、守護を追放(〜 93)]  1488:[加賀の一向一揆、約百年間の自治を行う(〜 1580)] 1543:[種子島に鉄砲が伝わる]  1549:[ザビエルがキリスト教を伝える]  1568:[織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京]
  • 室町文化(概要)能、狂言、金閣、書院造、銀閣、水墨画、御伽草子

[能]:in能の基礎知識 – 能楽協会https://www.nohgaku.or.jp › guide › 能の基礎知識 山中玲子 室町時代(14世紀)に成立した能は、六百年を越える歴史の中で独自の様式を磨き上げてきた日本の代表的な古典芸能であり、同時に、現代に生きる世界の演劇の一つでもある。その特徴を一言で言えば、面と美しい装束を用い、専用の能舞台で上演される歌舞劇、とまとめることができるだろう。□□能舞台の上では、日本版コメディの狂言も演ぜられる。能と狂言は源を同じくし、同じ能舞台の上でそれぞれ別の側面を発展させてきた。能が歌舞劇として、どちらかと言えば人間の哀しみや怒り、懐旧の情や恋慕の想いなどを描くのに対し、狂言は笑いの面を受持ち、科白劇として洗練を重ねてきた。また狂言の役者は能の中で一役を担ってもいる。[代表的な役柄]:能にはどんな役が登場するのだろうか。現在の上演曲目はおよそ240曲、そのうち普通演じられるのは120曲ぐらいだが、能の筋書きは非常に単純で、登場人物も類型化されている。代表的な役柄には『源氏物語』『伊勢物語』などの古典文学に登場する優美な男女の霊、『平家物語』で語られる「源平の戦」で死んだ武将の霊、地獄に堕ちて苦しんでいる男女の霊、というように、幽霊が多い。また、松や桜など草木の精、各地の神々、天女、天狗、鬼など、人間以外のものも多く登場する。こうしたものたちが人間の世界に現れ、我々と交渉を持つのである。もちろん、現実に生きている人間が主人公の能もたくさんある。白拍子のような芸能者、曾我兄弟や義経、弁慶などのヒーローが、さまざまなドラマを繰り広げるほか、別れ別れになった親子や夫婦の物語では市井の人々が主役となる。中国ネタの能も多いので中国人も登場するが、外国人であることは出立で示すのみで演技に違いはない。[能の流儀(流派)]:能役者は、シテ方ワキ方囃子方笛方小鼓方大鼓方太鼓方)、狂言方と役割が分かれており、それぞれに複数の流儀(流派)がある。現在の流儀は以下の通り。

今日の能は宝生流だ」「金春流の羽衣を見た」などと言うときは、シテ方の流儀のことを言っている。ただし、観世流の能の時は囃子方も観世流で揃えなければならないとか、金春流の能だから太鼓も金春流でなければいけない、などということはまったくない。ワキ方、囃子方、狂言方、どの流儀も、シテ方のどの流儀の相手もできるし、互いにどのような組み合わせでも上演ができるようになっている。

[狂言]:in狂言とは-史上初女性狂言師「和泉淳子」izumi-junko.jp https://izumi-junko.jp › what-is-kyogen

狂言は室町時代に成立した伝統芸能で、室町時代の人たちが日常話していた言葉で演じられるせりふ劇です。 「能」と同じく「猿楽(さるがく)」から発展したものですが、貴族や歴史上の人物を演じる悲劇的要素の強い演目の多い能と異なり、明るいキャラクターの登場人物(太郎冠者など)が演じる笑いの芸能となります。 日本の伝統芸能に触れる入り口としても好まれ、近年では外国人の方や若い方が公演を見ることも増えており、英語で狂言が演じられる機会も増えてきました。[狂言の流儀]:現存する流儀は、大蔵流和泉流の二つの流儀です。明治後期までは鷺流も合わせ三流が数えられましたが、鷺流宗家が絶えてしまったため、二流となりました。なお鷺流は、郷土芸能として山口市と佐渡市に伝承されています。それぞれの流儀には宗家の他に「職分家」といわれる家があります。

狂言の世界に名取制度はなく、職分であっても全員が「和泉」や「大蔵」と名乗ることはありません。
三宅藤九郎家は和泉流の職分筆頭の家柄ですが、苗字は「三宅」です。
公演活動は各家単位で行われていることが多いため、出演者の名前からは何流の狂言か分かりづらい事もあるようです。

和泉流:和泉流宗家、三宅藤九郎家、野村又三郎家、野村万蔵家、狂言共同社など

大蔵流:大蔵流宗家、茂山家、善竹家、山本東次郎家など

[能と狂言の違い]

能、狂言ともに「猿楽(さるがく)」から発展したものです。
能は歴史上の有名な武将などを主役とする悲劇的で象徴的な内容であるのに対し、狂言は一般庶民の日常生活を題材とする滑稽で写実劇な内容となります。
このため能はお面を付けることが多く「~にて候」という文語調で演じられるのに対し、狂言は「~でござる」という室町時代の日常語(室町口語)で演じられます。

狂言と能の生い立ち

狂言と能の違い

[金閣]:in京都府ホームページ

世界遺産(世界文化遺産) 鹿苑寺(金閣寺)

名称:鹿苑寺(ろくおんじ):金閣寺(きんかくじ)

所在地・アクセス郵便番号603-8361京都市北区金閣寺町1(市バス「金閣寺前」下車すぐ)成り立ち足利義満が応永4年(1397年)西園寺家の山荘を譲り受け「北山殿」と呼ぶ別邸をおいた。義満の死後、鹿苑寺と名付け、寺とした。

見所:北山文化の象徴として国内外に知られる名刹。□□金閣は舎利殿として建てられたもの。鏡湖池に臨む三層の楼閣は二層・三層に金箔をはった室町期楼閣建築の代表的例。庭園は特別史跡・特別名勝に指定されている。□□三島由紀夫や水上勉(みずかみつとむ)の小説で知られるように、現在の金閣は昭和25年火災で焼失したものを再建したもの。

お問い合わせ先:電話:075-461-0013 鹿苑寺(金閣寺)ホームページ(外部リンク) 観光等のお問い合わせは、それぞれの寺社等へお願いいたします。

in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派寺院である[1]大本山相国寺の境外塔頭山号は北山(ほくざん)。本尊聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺(きんかくじ)とも呼ばれている[2]。正式名称は北山鹿苑禅寺(ほくざんろくおんぜんじ)である[3][4]。□□寺名は開基室町幕府第3代将軍足利義満法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた[5]。寺紋は五七桐[6]、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建された。

また1994年平成6年)にはユネスコ世界遺産文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。歴史:鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代元仁元年(1225年)に藤原公経西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である[7]。またこれ以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。西園寺家は代々朝廷鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。□□応永4年(1397年)、金閣寺の開祖である足利義満河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年(1394年)に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。□□応永6年(1399年)には現在の金閣寺舎利殿が完成したと推定される[8]相国寺七重大塔も同年に完成。高さ約109メートル、日本史上で最も高い仏塔とされる[9]。□□応永10年(1403年)、相国寺七重大塔が落雷により焼失すると[9]、義満は当地に七重大塔(北山大塔)を再建。相国寺七重大塔と同程度の規模とされる[10][11][12]。□□応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。□□応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で再度焼失。義持は当地ではなく、相国寺に七重大塔を再建するよう命じた[13]。□□当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に日野康子が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺建仁寺に寄贈された[14]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。□□足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた[15][16]。□□足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。□□応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年明治27年)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。□□舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき1897年(明治30年)12月28日に「特別保護建造物」に指定され、1929年昭和4年)7月1日の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。また、1904年(明治37年)から1906年(明治39年)に解体修理が行われた。庭園は史蹟名勝天然紀念物保存法文化財保護法の前身の1つ)により1925年大正14年)10月8日に史跡名勝、文化財保護法により1956年(昭和31年)7月19日に特別史跡・特別名勝に指定されている。

1935年(昭和10年)には、満洲国の皇帝である愛新覚羅溥儀が、国賓として来日した際、鹿苑寺を訪れている。□□1950(昭和25年)72日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ[17]1952年(昭和27年)着工、1955年(昭和30年)竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。□□1986年(昭和61年)から1987年(昭和62年)に金閣の「昭和大修復」が行われたほか、1997年平成9年)に茶室「夕佳亭」の解体修理、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)に方丈の解体修理も行われている。□□1994年(平成6年)12月、当寺が構成要素のひとつとなったユネスコ世界遺産文化遺産)「古都京都の文化財」が登録された。□□2003年(平成15年)茶室「常足亭」 にチタン屋根を用い、最新技術を伝統建築に融合させた代表例となっている。

鏡湖池と金閣
雪化粧した神秘的な金閣
金閣(北東から) 
 舎利殿(金閣)焼失前の金閣
焼失前の金閣(1893年
焼失前の金閣をデザインした絵葉書(1905年
焼失直後の金閣(1950年7月2日

[銀閣]:in京都府ホームページ 世界遺産(世界文化遺産) 慈照寺(銀閣寺)

名称:慈照寺(じしょうじ):銀閣寺(ぎんかくじ)

所在地・アクセス郵便番号606-8402京都市左京区銀閣寺町(市バス「銀閣寺前」下車徒歩5分 又は 市バス「銀閣寺道」下車徒歩10分)

成り立ち:東山文化の代表として知られる銀閣寺の正式名称は、慈照寺。足利義政が文明14年(1482年)に開いた山荘である。義政はここを拠点に様々な文化を育んだ。

見所:銀閣(国宝)は、観音殿として質素高貴な意匠であり、東求堂は日本最古の書院造りで、住宅建築遺構として国宝に指定されている。 庭園(特別史跡・特別名勝)は、白砂を段形に盛り上げた銀沙灘(中国の西湖の型)や、向月台が、月の光を反射して銀閣を照らすという。

お問い合わせ先:電話:075-771-5725 慈照寺(銀閣寺)ホームページ(外部リンク) 観光等のお問い合わせは、それぞれの寺社等へお願いいたします。

in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

慈照寺(じしょうじ)は、日本京都市左京区銀閣寺町にある臨済宗相国寺派寺院大本山相国寺の境外塔頭山号は東山(とうざん[1])。本尊釈迦如来。観音殿(銀閣)から別名、銀閣寺(ぎんかくじ)として知られている。正式には、東山慈照禅寺(とうざんじしょうぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利義政開山夢窓疎石とされているが、夢窓疎石は実際には当寺創建より1世紀ほど前の人物であり、勧請開山である。□□「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されている。銀閣は、金閣飛雲閣西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれる。歴史:[編集] 室町幕府8代将軍足利義政文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺(現・浄土院)のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。義政が山荘造営を思い立った当初(1465年)は、実際の造営地の約1キロメートル南、南禅寺子院の一つであった恵雲院戦国時代廃寺)の所在地を考えていたが、応仁の乱後に変更された[2]。元々は祖父で第3代将軍足利義満が北山殿(後の鹿苑寺)を造営して将軍職を譲った子の足利義持を後見したように、義政も養子となっていた弟の足利義視を後見する場として山荘造営を計画したもので、応仁の乱を経て後継者が実子の義尚と確定した後もその考え方は変わっていなかったとみられている[3]。□□当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は各地の守護大名に費用の負担を命じ、土岐成頼赤松政則山名政豊朝倉氏景らが負担に応じたことが記録され、さらに将軍家の御料所の一部が山荘造営のために振り分けられたが、決して十分ではなかった[4]。そのため、庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483年)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義満の北山殿ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂(とうぐどう)のみである。□□延徳2年(1490年)2月、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。寺号は義政の院号である慈照院殿にちなみ「慈照院」とされたが、翌年「慈照寺」に改められた[5]。義政の遺言によれば、西指院の書院に影像と安置して床下に遺骨を葬るように指示していたが、平安時代以来の天台宗の寺院であった浄土寺の土地に東山殿を造営したことに反発していた延暦寺が強く抵抗した。このため、相国寺大徳院に影像と遺骨を安置し、こちらを新しい「慈照院」とした[6]。なお、造営自体が完了したのは義政死去後である。□□戦国時代中期の天文19年(1550年)には第12代将軍足利義晴とその子で第13代将軍義輝により慈照寺の裏山に中尾城が築かれ(短期間で廃城)[7]、末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺6世の陽山瑞暉が前久の弟だったことによる[8]。前久の薨去後の法名は東求院龍山空誉であった。前久の死後は再び相国寺の末寺として再興された。

1952年昭和27年)3月29日には庭園が、国の特別史跡および特別名勝に指定された。1994年平成6年)12月17日には「古都京都の文化財」として ユネスコ世界遺産に登録されている。

かつて浄土寺の鎮守社で、後に慈照寺の鎮守社となった八神社が境内地の北にある。

[書院造]

書院造  in出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

慈照寺東求堂

書院造(しょいんづくり)は、日本室町時代から近世初頭にかけて成立した住宅の様式である。寝殿を中心とした寝殿造に対して、書院を建物の中心にした武家住宅の形式のことで、書院とは書斎を兼ねた居間の中国風の呼称である[1]。その後の和風住宅は、書院造の強い影響を受けている。かつては「武家造」とも呼ばれたように、中世以降、武士の住居が発展する中で生まれた。概要:[編集] 各部名称:書院造とは、平安時代の貴族の住宅様式「寝殿造」を元に、中世末期以降に始まり近世初頭に大いに発展完成した「書院」を主室に持つ武家の住宅様式である[2]。時代とともに、日常的な住まいから接客空間としての広間へ、さらに儀式の場としての対面所へという変遷が窺える[2]。武士の社会的地位の変化にともなう公的空間への移行と言い換えることもできよう。平和な平安王朝期と異なり、戦乱の多い武士の時代には、座敷が交渉や情報交換などの接客の場として重要性が増したため生まれたと考えられている[3]。当然、儀式を要しない階層の武士の間では接客空間としての書院造は健在で、後に洗練の度合いを増し数寄屋の座敷を生むことになる。□□寝殿造では十分でなかった間仕切りが書院造では大いに発達し、引き違いの建具によって分けられたを敷き詰めた室(座敷)が連なり、その室の床には高低差が付けられ、一段高い主室を上段、ときには上々段と呼び、低い室を下段と呼び席による階級差を明瞭に示すようになる。主室には、書院、押し板、棚、納戸構(帳台構・武者隠し)が設けられ、それらの壁には淡彩や濃彩の障屏画が描かれ上段に座す高位者を荘厳した。主室に必ずある「書院」とは 本来書斎の意で、畳を敷いた二畳程度の小スペースに書見のための造りつけの机を置きその正面には南に向けて明かり採りの窓「書院窓」を開け、傍らには書物やを置く棚も設けられた。後にこの書院は、物飾りのスペースであった押し板と一体化して座敷の「床の間」となり、書院窓も書見という目的から離れて床の間の明かり採りとなり、「付書院」と呼ばれるようになる。連なる各室を仕切るのは引き違いの建具「」でありここにもしばしば障屏画が描かれた。寝殿造では円柱であった柱がここでは面取り角柱となりその面取りも時代とともに小さくなる。外回りでは舞良戸を多用しそれに併置して明かり障子が設けられた。連なった室の南側には畳を敷いた廊下である「入り側」が設けられさらにその外側には濡れ縁である「落ち縁」が設けられた。桃山時代頃には「雨戸」も発明され半戸外であった入り側も室内空間に取り込まれるようになる。寝殿造の中門廊は簡略化されて「中門」となり、ときに南庭に突き出たテラス、あるいは車寄せ玄関へと変化を遂げる。□□以上に述べた書院造の説明に、「座敷」、「床の間」、付書院、棚、角柱、襖、障子、雨戸、縁側、玄関という現代和風住宅を特徴付けるすべての要素が認められる。 今日の宴席では、しばしば床の間の位置によって「上座(かみざ)」「下座(しもざ)」などと座席位置が決められることがあるが、これも床の間との位置関係が身分序列の確認を促した書院造の伝統が見られる。

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