

(2)-7:江戸時代(1603-1867)-No.8
[江戸時代の病気、治療、くすり-3:名医家、著書]
[年次にみられる主な出来事]
in薬の歴史と配置薬の沿革(薬の年表)
[江戸時代] 1683年:富山藩2代目前田正甫公、反魂丹の調製岡山の医師万代常閑の伝授 1690年:江戸城において三春藩主秋田河内守の腹痛を治して販売権を得る 「先用後利」を教えた 富山配置販売の始まり 1730年:森野薬草園(奈良県大宇陀町)御所今住、蘇命散・三光丸、奈良の配置薬の始まり 甲賀、神教丸・万金丹 日野、感応丸、滋賀県の配置薬の始まり 鳥栖・田代地区 万金膏 鹿島地区 唐人膏、佐賀県の配置薬の始まり 1866年:仲間取締議定書連印帳現各都道府県協議会の前身
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江戸時代 慶長8年(1603)家康が覇権を握り、江戸に幕府を開いて250年近く続いた戦乱の世に終止符をうち、幕政の安定と民心掌握に努めたので、次第に泰平の世を謳歌するようになりました。 大陸との交流も盛んに行われ、明の李時珍が30年を要して編纂、1892種の本草(生薬)について薬効などを詳しく記述した「本草綱目」(ホンゾウコウモク)(1590)が、慶長11年(1606)に輸入され、活版印刷技術が勃興したこともあって、その和刻本が寛永14年(1637)には早くも京都において刊行されています。
この本の導入は、江戸時代(1603~1867)の本草学(漢方で用いる生薬類を研究対象とする学問)の目覚しい発達に多大の影響を与えています。また、本草学の発達の他に、生薬の採取と栽培の奨励(享保末期には朝鮮人参の栽培成功)し、実物経済から貨幣経済への移行もあり、交通や経済も大いに発達してまいります。 このような時代背景があって、医薬(あわせ薬)が”売薬”の名称で、民衆の簡易な治療薬として、広く一般大衆に融け込んで普及し、用いられるようになったのは、8代将軍吉宗の治世(1716~45)の頃からであったと思われます。 幕府は医薬の生産を奨励し、率先してその販売を支援したこともあって、薬種問屋や成薬店(配合製剤、あわせ薬店)などがおこり、医薬の普及、大衆化が大いに進み、江戸時代末期にかけて売薬の最盛期を迎えます。また、江戸時代中期以降には、医薬の民間普及と救民を目的とした配合製剤(あわせ薬)の調整法、薬効や使用法を詳しく解説した実用書が、実に数多く出版されるようになっています。このことは各地の家伝薬や秘薬が、売薬として次第に販売されるようになった経緯を物語っています。この頃の売薬の主なものとしては、延齢丹、竜脳丸、反魂丹、奇応丸などがあります。 藩の経済基盤の安定向上を目的に、越中、田代、近江、大和などの配置売薬が始まったのもこの頃です。なお、肥前国(佐賀県)田代は対馬藩の離れ領地で、田代の代表的売薬”人参奇応丸”、”朝鮮秘伝奇応丸”は、当時対馬藩が朝鮮からの独占的な輸入専売権をもっていた高貴薬人参を配合していること、医薬先進国であった朝鮮国を販売政策上販売名に表示したものとして興味がもたれます。 売薬には丸剤の剤型のものが多く、使いやすさや印篭に入れて携帯するのに便利な剤型で、一般に好まれたためではないかと考えられます。
南蛮医学、蘭方医学と洋薬の伝来
南蛮医学、蘭方医学と洋薬の伝来 西洋医学が伝来したのは16世紀の中頃です。天文12年(1543)ポルトガル人が初めて種子島に漂着後、多くのポルトガル人やスペイン人が渡来するようになりました。 彼等はキリスト教伝導のかたわら医療を施し、好評を得ました。 ポルトガル人、スペイン人が行った西洋医学を南蛮医学(ナンバンイガク)といい、長崎、京都に病院を設けるなど、盛んに医療を行っていました。しかし、彼等の医療は、手持ち洋薬が少なく、軟膏、硬膏を創傷(ハレモノ)などに用いる膏薬外科の域を越えなかったともいわれています。 オランダ人の来日は、慶長2年(1597)九州平戸に来たのが最初です。寛永16年(1639)から200年余に及ぶ鎖国の間も、オランダ人と中国人のみ、長崎での交易が許されていました。幕府は医学、天文に関する書籍の輸入を禁じなかったので、医学、薬学、博物学関係の書籍が輸入され、長崎出島のオランダ商館は貴重な海外文明に接する窓口となっていました。この頃には蘭方医学で使用する薬物(蘭方薬)が輸入されています。 アニス、アラビアゴム、カミツレ、キナ、ゲンチアナなどの西洋生薬の他、アンモニア、安息香、塩酸、酒石、硝酸銀、炭酸カリ、炭酸アンモニウム、吐酒石などの化学薬が使われたようです。 さて、江戸文化最盛期の文政6年(1823)に、オランダ医官として長崎に赴任したドイツ人医師シーボルトは、その博識をもって西洋医学の他、博物学、動植物・鉱物の知識なども教授し、臨床講義を行いました。師事した門人は7年間に60人余に及び、多くの医師、自然科学者が育ち、その後の日本の医薬学、博物学や自然科学の発展向上の基礎をつくりました。 そして、初めは膏薬外科の域をでなかった西洋医学を、初めて本来の姿で、その使用薬物とともに日本に紹介し、伝授しました。 シーボルトの慣用薬には、アンモニア水、阿片、テリアカ(底野迦:アヘンを含む製剤。解毒薬、鎮痛万能薬)、カミツレ、カノコソウ、サフラン、吐根、ベラドンナ(ロート根)、ジギタリス、ビリリ(牛胆)、エーテル、カンフル、塩酸、炭酸アンモニウム、鉄粉、葡萄酒をはじめ欧米に産する本来の西洋薬物(洋薬)が多く、その他丁字、薄荷、ラベンダー、桂皮、胡椒など東南アジア産の多くの香辛料や漢方でも用いる薬物(生薬)などがあり、実に多岐にわたる薬物が医療の場で使用されたことが分かります。
この西洋薬物の多くは、西洋医学でよく使用されていた代表的用薬です。
また、江戸時代には多くの名医家も輩出されている。そして、それに伴い、著書等が世に出ている。
in医史学研究 日本TCM研究所 http://www.japan-tcm.com › medical-history-research
日本の名医・24選:それぞれの名前をクリックすると、各医家の伝記とともに、肖像や著書などが表示されます。
⇒ これらの中で「名古屋玄医」および「医方問余(いほうもんよ)」については後述する。
in京都府立医科大学附属図書館:古医書コレクション京都府立医科大学 https://www.kpu-m.ac.jp › digital-archive › collection (抜粋)

【歴代名醫傳略 巻上・下】寛永10年(1633)刊 OPAC 画像(抜粋)
吉田意安(宗恂)編。2巻(2冊)。宗恂は父宗桂同様、中国・明に渡り最新の医学を日本に紹介した(【歴代名医一覧】の項参照)。豊臣秀吉・徳川家康に仕え『古今医案』などを著した。本書は「上古」の伏羲・神農・黄帝に始まり、明の龔廷賢にいたるまで401名の名医を対象とする。宗恂は曲直瀬道三の学統に連なり、慶長2年(1597)の序にも「医は意なり。理なり。けだし意をもって理を窮むるの称なり。それ性理を明むるものは儒学にして、寿命を保んずるものは道教なり。これを兼ねて有するものは医ならくのみ」と記す。これまでまとまった名医の伝記がないので、諸書を参考にして本書を著したという。

【新編霊宝薬性能毒】寛文9年(1669)刊 OPAC画像(抜粋)
曲直瀬玄朔著。6冊(6巻)。曲直瀬道三(正盛)の『薬性能毒』を養子玄朔(正紹)が増補改訂した。いく度か版を重ねたが、本書は京都・西村九郎右衛門が開板したもので最も古い。もともとの書名は中国の明の医書『医学正伝』に「薬性に各々能毒あり」による。薬というものは病気の人には効果があり、そうでない人には毒になるという。本書冒頭の「服薬の用心」には、市販の薬や藪医者による処方には十分気をつけるようにと呼びかけている。

蘆川桂洲著。8冊(序目1巻、7巻)。貞享3年(1686)序。病名1822項目をいろは順に並べ解説を施す。『外科正宗』『医学綱目』などから引用する。当初は治療法にも言及するつもりであったが、繁多を極めたため省略したという。疾病は六気(風寒暑湿燥火)七情(喜怒憂思悲恐驚)の過不足によると断言している。すべての病名にルビを付し、カタカナ交じりの本文とするなど、初学者向けの内容である。

【広益本草大成】元禄11年(1698)刊 OPAC画像(抜粋)
岡本為竹著。10冊(23巻、総目1巻)。岡本為竹(一抱、一抱子)は後世派に属する京都の医師であった。難解な医書を簡単に解説する書物を多く著したが、兄近松門左衛門にそれでは医師を堕落させると批判された。本書も李時珍の『本草綱目』にもとづいているが、異名や和訓をのせたり、総概・使薬・毒・畏悪・附方・愚案・修治といった項目を立てるなど、工夫も見受けられる。内容は草部・木部・果部・穀部・菜部・金石部・水部・火部・土部・服器部・人部・虫部・鱗魚部・介部・獣部・禽部に分かれ、合計1,834種を挙げる。

香月牛山(1656~1740)著。3巻6冊。牛山は筑前出身で儒学を貝原益軒に、医学を鶴原玄益に学んだ。のち京都で開業する。李東垣の医説を信奉する後世派であるが、みずからの経験も加味した。本書は啓蒙的な産科書であり、中国の古典を引用しつつ、産前産後の過ごし方について説明する。胎教についての一節もあり、「妊婦、其子の容貌端正に心行正直ならんことを欲せば、つねに口に正言を談じ、かりにも雑話婬乱なることをかたるべからず。身に正事をおこなひ、放逸無慙なるふるまひをなすべからず」などと記されている。

【歴代名医一覧】天明7年(1787)序 OPAC画像(抜粋)
吉田宗愔著。1冊(1巻)。吉田家は医業と土倉を営み権勢を誇っていたが、桃山時代の宗桂は中国の明に渡り世宗の病を療した。その際、「医は意なり」にもとづき意安の号を賜り、あわせて「称意」の二文字を贈られた。ここでいう「意」とは状況に応じて臨機応変に対応することで、特に薬の配分に経験と知識を要した。以後、吉田家の医学塾を称意館と呼んだ。
宗桂の長男角倉了以は土倉業を継ぎ、高瀬川の開削で有名である。次男の宗恂は医業を継ぎ、『歴代名医伝略』を著す。宗?はこれにならって本書を編纂した。「太古」の伏羲から「清」の銭峻までを掲出するが、なかには字(あざな)だけの紹介にとどまるものもある。
