

(2)-7:江戸時代(1603-1867)-No.4
[江戸時代の感染症とその対応等について-その1]
今回は、人類が日常生活を平穏に暮らしていく上から長年克服に積極的に関わってきている「感染症」についてレトロスペクティブに状況を把握して、歩んできた事象を客観的にとらえてみることにしました。その過程で第1回として今現在取り上げている「江戸時代」に視点を当ててみました。
検索項目を「江戸、感染症」で調べると先ず「AI による概要」として次のような記載が示されます。
「江戸時代、人々は**疱瘡(天然痘)、麻疹(はしか)、コレラ(コロリ)、水疱瘡(みずぼうそう)、流行性感冒(インフルエンザ)**などの感染症に苦しみ、これらは「御役三病」とも呼ばれ恐れられました。幕府は漢方や蘭方医学を取り入れ、疱瘡除けの「種痘」の導入(除痘館の設立)や、コレラ対策(隔離など)といった水際対策・医療・社会福祉政策で都市崩壊を防ごうと努めました。
[主な流行病]
疱瘡(天然痘)(ほうそう):最も猛威を振るった病気の一つで、将軍家も罹患し、痘痕(あばた)が残ることから「面定め」、麻疹より「いのち定め」と恐れられました。
麻疹(はしか):疱瘡と並ぶ「御役三病」で、死亡率が高く特に小児に危険でした。
コレラ(コロリ):幕末に大流行し、夕方まで元気な人が朝には亡くなるほどの急死が特徴で、江戸で数万人が死亡しました。
水疱瘡(みずぼうそう):「御役三病」の一つで、疱瘡・麻疹と共に恐れられました。
流行性感冒(インフルエンザ):「お七風」「琉球風」などと呼ばれ、西から江戸へ広がる傾向がありました。
梅毒(そうどく):瘡毒(そうどく)と呼ばれ、多くの患者がいた不治の病でした。
[当時の認識と対策]
原因:疫病は疫鬼(えきき)や神のたたりと考えられ、人々は疱瘡絵や絵馬などで魔除けをしました。
医学:漢方医学とオランダから伝わった蘭方医学が発展し、多くの医師が治療にあたりました。
幕府の対策:[水際対策] 薩摩藩などによる異国船の患者隔離などが行われました。
[予防接種] 杉田玄白や緒方洪庵らによる種痘(牛痘接種)が普及し、幕府公認も得て多くの命を救いました。[福祉政策] 洪庵のような医師への支援や、貧民への施米(ほどこし)、感染者隔離・救済(江戸の「持続化給付金」とも言える仕組み)が行われました。
江戸時代は疫病に苦しみながらも、現代にも通じる医療・福祉・社会システムを構築し、都市機能の崩壊を防いだ時代でもありました。」
という内容で、現在の我々も十分に理解できる事例であると思われます。特に時もだいぶ経ちましたが「新型コロナウイルス感染症」時のことを思い起こせば「江戸時代は疫病に苦しみながらも、現代にも通じる医療・福祉・社会システムを構築し、都市機能の崩壊を防いだ時代でもありました。」と。
では、「江戸時代の感染症」に関わる事例(文献など)をいくつかお示しします。
[文献1] In 第5回 江戸時代の感染症 日立システムズ https://www.hitachi-systems.com › report › specialist › edo

第5回 江戸時代の感染症

新型コロナウィルスの感染症は、3年以上経ってもなかなか終息する気配がない。こうした感染症のパンデミックは歴史上たびたび発生し、多くの人びとの命を奪ってきた。江戸時代も同様で、風邪、インフルエンザ、麻疹(ましん)、赤痢、梅毒といった感染症が波のように何度も襲った。あの5代将軍徳川綱吉も、麻疹によって命を落としている。 ただ、最も致死率が高かったのは天然痘である。当時は疱瘡(ほうそう)や痘瘡(とうそう)などと呼ばれ、多くの乳幼児が犠牲になった。たとえ健康を回復しても、顔にひどいあばたが残ることも少なくなかった。
しかも発症したら、効果的な治療法は存在しない。寛政10年(1633)刊行の志水軒朱蘭(しすいけんしゅらん)著『疱瘡心得草』を紐解くと、「疱瘡にかかったら酢、酒、麺類、餅類、脂っこいものは食べてはならない」といった根拠のない迷信が記されている。だから人びとは感染しないよう、子どもに疱瘡絵をお守りに持たせた。疱瘡絵とは、鍾馗(しょうき、厄除けの神様)や源為朝といった強い武将を赤一色で描いたもの。疱瘡は疫病神(疱瘡神)がもたらすとされ、武将の絵が厄除けになると信じられていたのである。
だが、19世紀になると、この状況が変わる。1798年、イギリスのジェンナーが、牛にも天然痘に似た感染症(牛痘)があり、感染した牛の膿(牛痘苗)を人体に入れると水疱性の発疹が現れるものの、彼らは決して疱瘡に罹患しないことを知り、牛痘種痘法を考案したのだ。 まもなく日本にもその知識が伝わり、やがて佐賀藩主の鍋島直正が長崎在住の佐賀藩医・楢林宗建(ならばやしそうけん)にオランダ人から牛痘苗を手に入れるよう命じたのである。
そこで、宗建は出島のオランダ商館長に依頼し、嘉永元年(1848)、商館医モーニッケがバタビアから運んできた牛痘苗を子どもに接種したが、水疱は現れずに失敗に終わった。しかし、宗建は諦めず、翌年、今度はモーニッケから痘痂(とうか、牛痘苗でなく瘡蓋〈かさぶた〉)を手に入れ、3人の乳児に接種した。すると、1人に水疱が現れたのである。これが日本初の牛痘種痘法の成功例であり、なんとその乳児は宗建の子・建三郎だった。宗建は次々と乳児に種痘を行い、水疱が現れた子どもたちを痘苗として佐賀へ送った。藩主の直正は領民が接種を恐れぬよう、嫡男の淳一郎に牛痘を接種。これにより藩内では急速に種痘が広まったのである。

AI による概要:緒方洪庵(おがたこうあん、1810-1863)は、江戸時代後期の蘭学者・医師・教育者で、西洋医学を日本に広め、「適塾(てきじゅく)」を開いて福沢諭吉や大村益次郎ら多くの人材を育て、天然痘ワクチン普及やコレラ対策など、近代医学の基礎を築いた人物です。彼の教育の場である適塾は、現在の大阪大学の前身の一つであり、その建物は国の重要文化財として現存しています。
長崎ではさらに痘苗の植え継ぎが行われ、越前藩、薩摩藩、水戸藩などに運ばれて多くの領民に接種がなされた。いずれも松平春嶽、島津斉彬、徳川斉昭など名君がいる藩だった。このように藩主のリーダーシップのもと、当該藩の接種が進んだが、例外として幕領である大坂でも、庶民の多くが牛痘を接種した。これを実施したのは、蘭学塾「適塾」を営む緒方洪庵だった。 長崎の痘苗を京都の日野鼎哉(ていさい)や越前の笠原良策が入手したことを知った洪庵は、頼み込んで苗を分けてもらい、大和屋喜兵衛(豪商で薬種問屋)の協力で家を借りて除痘館(じょとうかん、種痘所)を設け、無償で種痘を始めたのである。施設の開所にあたり、洪庵は喜兵衛と日野葛民(かつみん、鼎哉の弟)と3人で「種痘は仁術のため。謝礼を受け取ることもあろうが、個人の利益とせず、仁術を広めるための費用にしよう」と誓いあった。そして、町医者たちにも種痘免状を与え、大坂各地に分苗所(除痘館の支部)をつくらせていった。
だが、しばらくすると、除痘館に人が全く来なくなってしまう。というのも「牛痘を接種すると健康を害する」という流言が広まったためだった。 それでも洪庵は疱瘡の病没者を無くすため、貧しい人びとに米や銭を与えて来館を促したり、各地で種痘の効能を説いたのである。こうした苦労の末、ようやく信用を得ていったのだった。ただ、種痘をさらに広めるには、幕府の公認が必要だと考えた洪庵は、大坂町奉行所に「除痘館を公的な施設にしてほしい」と嘆願した。ところが、許可が全く降りる気配はない。それでも彼は諦めず、何十度も嘆願し続けた結果、とうとう除痘館を開いてから9年後の安政5年(1858)に幕府の公認を得られたのである。これにより、除痘館に人びとが集まるようになり、その2年後、除痘館をさらに広い屋敷に移転させた。
幕府はこうした功績を高く評価し、文久2年(1862)に洪庵を奥医師(将軍家侍医)として江戸へ招き、西洋医学所の頭取に任じた。が、残念ながら翌年、洪庵は54歳の若さで亡くなってしまった。「道のため」「人のため」「国のため」。それが洪庵の口癖だったという。 このように江戸時代にも、政治的リーダーシップを発揮した名君や優れた医師が、感染症から多くの人びとを救ったのである。 [河合 敦 記]
参考文献
深瀬泰旦著『わが国はじめての牛痘種痘 楢林宗建』(出門堂)
緒方洪庵記念財団除痘館記念資料室編『緒方洪庵の「除痘館記録」を読み解く』(思文閣出版)
『御触書天保集成 下』(岩波書店)
酒井シヅ著『絵で読む江戸の病と養生』(講談社)
石島弘著『水戸藩医学史』(ぺりかん社)
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第2回:江戸時代の「はしか」と令和のアウトブレイク
2023.04.06中野 隆史(大阪医科薬科大学医学部 教授)
こんにちは、とろろです。まだまだ連載手探りの第2回です。前回のお話は新型コロナウイルス感染症による不自由な生活はいつまで続くのかなあ、というものでした。本コラムの執筆時点(2023年3月1日)では、5月になると同感染症は感染症法上の2類相当から5類へと取り扱いが変わるという報道がなされていますね。日常生活はどのように変わるのでしょうか。
徳川宗家は麻疹によって断絶した!?
さて、巷では松本潤さん演じる徳川家康が主役の大河ドラマ『どうする家康』が放送されていますが、江戸時代にも感染症のアウトブレイクは何度も記録されています。とくに麻疹(はしか)の流行はひどかったようで、江戸時代260年間で麻疹のアウトブレイクは計13回、記録されているそうです。図1は当教室で撮影した麻疹ウイルスの電子顕微鏡写真です。教科書では球形とされていますが、この写真では不定形ですね。そんなところも微生物のおもしろいところですが、それはまたの機会といたしまして、今回は、この麻疹のお話をさせて頂こうと思います。

AI による概要:麻疹ウイルスは、麻疹(はしか)を引き起こす非常に感染力の強いRNAウイルスで、空気感染・飛沫感染・接触感染で人から人へ伝播し、発熱・咳・鼻水・結膜炎などの症状の後に全身に発疹が出ます。一度感染するとほぼ100%発症し、一生免疫が持続しますが、肺炎や脳炎などの重い合併症を起こすリスクもあり、ワクチンで予防できます。
みなさん日本史の授業でご存じの「生類憐れみの令」で有名な犬公方、徳川5代将軍・綱吉は成人麻疹で亡くなっています。図2は徳川将軍15代の家系図です。5代綱吉のあと、6代家宣の子は正室が産んだ女子1人と側室が産んだ男子3人がいたそうですが、つぎつぎと幼死し、残ったひとりの男子である家継がわずか4歳で7代将軍となりました。ところがこの家継も8歳で病死します。彼らの死因はいずれも麻疹であると想像されています。とうとう跡継ぎがいなくなってしまい、紀州から8代将軍として、テレビ時代劇『暴れん坊将軍』で松平健さんが演じて有名になった吉宗が江戸に迎えられることになります。

図2 徳川将軍家略系図
*数字は歴代将軍の代数、オレンジは養子を示す。図には男子のみを示す。
[徳川美術館:尾張徳川家歴代の系図,https://www.tokugawa-art-museum.jp/about/owari-family/,(アクセス日:2023年3月8日)/刀剣ワールド:徳川家康の直系の子孫,https://www.touken-world.jp/tips/79380/,(アクセス日:2023年3月8日)を基に作成]
そうなんです、実は家康の直系、徳川宗家は第7代で滅びているのです。歴史の授業で「御三家」というのを習ったことがあると思います。紀伊(現在の和歌山県)、尾張(同愛知県)、水戸(同茨城県)ですね。
私、個人的には徳川家康は感染症が原因で家系が断絶するのを防ぐため、おのおの離れた場所に息子たちを分散させて住まわせたのではないかと想像しています。もしそれが事実なら、家康は感染症のことをよく分かっていたんだなと感心します。どうする家康、なかなかやりますねえ。いえ、あくまでも想像ですが。。。
「麻疹はいのち定め」
江戸時代当時、「疱瘡は面定め、麻疹はいのち定め」と言われたそうです。ほうそう=痘瘡(天然痘)は当時から死亡率の高い疾患でしたが、治癒すると顔面などに「あばた(痘痕)」を残します。これが「面定め」。しかし、とくに小児の場合、痘瘡より麻疹のほうがより致死的な疾患(=「いのち定め」)であると認識されていたのでしょう。将軍家だけでなく、一般市民にも麻疹は広く流行していたことが分かります。
錦絵が麻疹を防ぐ情報源に
図3は麻疹を軽くするための言い伝えを記した当時の錦絵です。このような錦絵は、麻疹にかからないための教訓が書かれた情報源として重宝されたと思われます。魔除けとして壁に貼られたのかもしれません。
この絵は富士山の絵の上に「はしかをば かろくするがの ふじのやま いづれのかみも さわりなすなよ」と詠んでいます。はしかを「軽くする」と「駿河(するが:現在の静岡県)」を、そして「不治の病」である麻疹と「富士山」をかけています。その下では武士が飼い葉桶を子どもの頭にかぶせていますが、これは麻疹にかからない、かかっても軽く済むという、一種の「おまじない」なんだそうです。

図3 江戸時代の錦絵「麻疹を軽くさせる伝」(一松齋芳宗 画)
[伊藤恭子:くすり博物館収蔵資料集(4) はやり病の錦絵,p.78,https://search.eisai.co.jp/cgi-bin/historyphot.cgi?historyid=E01997,(アクセス日:2023年3月7日より引用)]
江戸時代にも漂った「自粛ムード」
富士山と武士の絵の間に書かれている細かい字をよく読むと、はしかにかからない、かかっても軽くするために食べてよいものや悪いもの、やっていいことや避けるべきことなどがびっしりと書かれています。食べてよいものとしては、かんぴょう、人参、大根、さつまいも、どじょう、こんぶ、たくあんなど、食べてはいけないものは、川魚(鰻など)、梅干し、ごぼう、そらまめ、ねぎ、もろこし、里芋などが読み取れます。
また、やってはいけないこととして、「房事七十五日、入湯七十五日、灸治七十五日、酒七十五日、そば七十五日、かえ月代(さかやき)五十日」と書かれています。房事とは男女の交わりのこと、かえ月代とはちょんまげを結うために前頭部を剃ることで、今でいう散髪でしょうか。つまり当時、現在でいうところの性風俗店、キャバクラや居酒屋やバー、鰻屋やそば屋などの飲食店、銭湯・サウナ・健康ランド、マッサージ店、理容・美容店などに行ってはいけない、とされたわけで、これらのお店は「商売上がったり」になったことが想像されます。新型コロナウイルス感染症が我が国で流行し出した2020年前半、パチンコ店やライブハウスなどが感染リスクの高い場所としてバッシングを受けたことは記憶に新しく、その頃から始まった「自粛騒動」となんら変わらない状態が江戸時代にもあったと考えると、まさに「歴史は繰り返す」なんでしょうか。
時は過ぎて2015年、我が国はWHO(世界保健機関)から「麻疹排除国」と認定されました。しかし、麻疹は現在でも輸入感染症としての注意が必要で、時に海外由来株による国内アウトブレイクが見られます。実は、麻疹は今でも有効な抗ウイルス薬は存在せず、重症化すると死亡率が高いので、ワクチンによる予防がたいへん重要な疾患なのです。図4は現在の麻疹に関する啓発ポスターですが、このポスターでも「マジンガーZ」と「ましんがゼロ」をかけて、麻疹が輸入感染症であるとして注意を呼びかけています。掛詞でうまいこと言って麻疹を予防してもらおうとしているのも、ある意味「歴史は繰り返し」ているのかもしれませんね。

図4 現在の麻疹啓発ポスター
[厚生労働省:報道発表資料;渡航者向けの「麻しん」の予防啓発活動に「マジンガーZ」を起用,2017年7月27日,https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/0000172672.html,(アクセス日:2023年3月7日)より引用]
中野 隆史:大阪医科薬科大学医学部 教授、大阪医科大学(現・大阪医科薬科大学)医学部卒業後、同大学院医学研究科博士課程単位取得退学(博士(医学))。大学院時代にHarbor-UCLA Medical Centerに留学。同大学助手時代に国際協力事業団(現・同機構;JICA)フィリピンエイズ対策プロジェクト長期専門家として2年間マニラに滞在。同大学講師・助教授(准教授)を経て2018年4月より現職。医学教育センター長、大学安全対策室長、病院感染対策室などを兼任。日本感染症学会評議員、日本細菌学会関西支部支部長、大阪府医師会医学会運営委員なども勤める。主な編著書は『看護学テキストNiCE微生物学・感染症学』(南江堂)など。趣味は遠隔講義の準備(?)、中古カメラの収集など。
