【後編】第24回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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[(3)李朱医学について]

in李朱医学(りしゅいがく)とは? 意味や使い方 コトバンク https://kotobank.jp › word › 李朱医学-1435849

李朱医学(読み)りしゅいがく日本大百科全書(ニッポニカ) 「李朱医学」の意味・わかりやすい解説漢方医学の一学派。中国の金(きん)・元(げん)の時代(12~14世紀)に「金元医学」とよばれる新しい潮流が、劉完素(りゅうかんそ)(劉河間(かかん))、張従正(ちょうじゅうせい)(張子和(しわ))、李杲(こう)(李東垣(とうえん))、朱震亨(しんこう)らによってつくられた。このうち李杲は、病気の原因は体外ではなく体内の環境にあると考え、朱震亨は李杲の考えを発展させて治療法などを生み出した。この2人の医説を李朱医学とよぶ。この医説を室町時代の日本の医家、田代三喜(さんき)が、中国に留学して修めて帰国、田代は日本における李朱医学の開祖と称される。田代に師事したのが曲直瀬道三(まなせどうさん)で、彼は京都で多くの後進を指導、李朱医学は日本化され、充実して江戸時代初期まで日本の医学に重要な位置を占めた。なおこの医説は後世派とよばれる。

内田 謙][参照項目] | 朱震亨 | 張子和 | 李東垣 | 劉河間

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の李朱医学の言及

【医学】より:…それまで日本では,宋代の,発汗剤,吐瀉剤,下剤を中心にした,体内のものを外に出す激烈な処方を主としていたが,より緩やかな栄養補給的な処方に変わったのを学んできたのである。このような医学を李朱医学という。曲直瀬は,田代に学び,京都に出て大いに名声を博した。…

【金元医学】より:…明以後の中国医学は金元医学をさらに進展させたものである。この医学,特にそのなかの李杲,朱震亨の系統の李朱医学は日本にも導入されて,曲直瀬道三(まなせどうさん)などの医家が出たが,その医学理論は日本では好まれなかった。中国医学【赤堀 昭】。…

【朱震亨】より:…彼は〈陽は常に余りあり,陰は常に不足している〉という説をたて,陰を養って火を下す薬剤をよく用いたため,滋陰派といわれる。似た傾向の李杲の説といっしょにして李朱医学といわれ,日本にも導入された。曲直瀬道三(まなせどうさん)などがこの派に属する。…

【中国医学】より:…その後,金・元の四大家といわれる劉完素,張従正,李杲(りこう),朱震亨(しゆしんこう)をはじめ,張元素,王好古(1210?‐1310?),羅天益(1220?‐1290?)など多くの医家が出現し,それぞれ特徴のある理論と治療法を主張した。たとえば劉完素と張従正は寒涼派といわれるように激しい作用を持った薬を多く用い,李杲と朱震亨は温補派(この2人の流れに従った医学を李朱医学ともいう)といわれるように温和な薬を用いることを提唱した。これらの医家がそれぞれの治療理論の共通のよりどころとしたのは《素問》,《難経(なんぎよう)》などの書である。…

【李杲】より:…彼は元気を損ずると内傷を起こして病気になるとして内傷学説を唱え,最も重要な臓器が脾と胃で,その気を補益することが大切であるとして補剤を多く用いた。彼の一派は温補派と呼ばれ,彼の説は朱震亨(しゆしんこう)の説といっしょにして李朱医学といわれる。《脾胃論》《内外傷弁惑論》《蘭室秘蔵》などの著書がある。…

※「李朱医学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

李朱医学とは何ですか?

李朱医学」とは李東垣(りとうえん)と朱丹渓(しゅたんけい)が提唱した医学を指します。 金元時代の医学は陰陽論五行論六気といった理論を臨床レベルに導入したという点で革命的なものでした。 今風に表現すれば医学界のイノベーションが金元の時代に起こったということです。

世界三大医学とは何ですか?

ユナニ医学とは、イスラム文化圏の伝統的医学で、中国医学、アーユルヴェーダと合わせて「世界三大伝統医学」と呼ばれており、世界中で使用されている人気のある健康リソースです。2023/01/11

[(4)田代三喜(1465~1544)]

in田代三喜 たしろ さんき 医療法人社団伝統医学研究会 http://www.akibah.or.jp › smarts › index  漢方医学の国内における源流をさぐると、室町時代の田代三喜(1465-1537)にたどりつく。すでに紀元後数世紀の昔からわが国に大陸由来の医学は行われていたが、学統をたどることができるのは三喜までである。その意味で日本の医学は田代三喜からはじまった。□□ 三喜は武蔵国越生(おごせ)の人とされているが、川越が生地との説もある。明に留学し、当時隆盛であった彼の地の医学をまなんで12年後の1498年に帰朝した。三喜がもたらしたのは李東垣、朱丹渓らがとなえた医学で、両者の名前から李朱医学とも、その時代名から金元医学とも呼ばれている。□□ 帰国して鎌倉に居を構え、のちに下野の足利、さらに古河に移り医業を実践した。三喜がなぜ京ではなく東国を目指したのかは一考に値する。それは帰路に上陸した港が博多であったにせよ堺であったにせよ、都に近づくにつれて、将軍の威令が山城国一国におよぶのみという応仁の乱以降の疲弊した京のありさまをつぶさに知ることができたからである。□□ 三喜は自分がもつ医学知識の価値を十分に承知していた。戦乱を避けて、おそらく、自らの治療を実践しそれをひろめる環境ができることを欲していた。京を離れて東国の旧都鎌倉をおとずれ、足利からさらに古河に赴くという転変にもそれがうかがえる。□□ 古河を終の住み処とした三喜は、そこで足利学校に遊学していた曲直瀬道三を見出した。道三は十数年三喜の下でまなび、師の歿後に帰京して学舎啓廸院をひらき多くの医生を育てるのである。これは師の夢想の実現であった。□□ 書経由来の啓廸の語は、三喜の著書に「啓廸庵」としてすでにみえている。みちをひらく、という自負のこもった語は先駆者にふさわしい。□□

 三喜の著書、『三喜廻翁医書』は薬物名が隠名で書かれている。隠名とは漢語のカンムリやヘン、ツクリなどを組み合わせた漢字風の符牒のことで、部外者の直の理解を困難にする仕掛けである。これも舞台が整うまでは自らの学術を秘匿したいという意志の表出であろう。□□ 三喜の夢はかくして道三に托された。その結果、自らのもたらした医学の普及も権力への接近も、ともに果たされることになるのである。

[(5)曲直瀬道三(1507~1594)]

in京の医史跡を訪ねて|健康のために 武田病院グループ https://www.takedahp.or.jp › health › entries › post3656

傷病死は人の常で、医学も京都で発展していく数々の証左が今に残っています。 そんな『京都の医史跡』を訪ねます。※医師やスタッフの肩書き/氏名は掲載時点のものであり、現在は変わっている可能性があります。 2014.09.11医学の礎を築いた「医聖」曲直瀬道三

禅僧の食事の世話をしながら学問を学ぶ「喝食(かつじき)」から、22歳で北関東の日本最古の足利学校で医学の道を目指した道三は、38歳で京都に戻り医学舎「啓廸院(けいてきいん)」を設立し、800人もの医生を世に送り出しました。今日の医学大学の礎を築いた「医聖」の生涯をたどります。

相国寺門前町の柳原(現・上京区柳原町)で生まれ、幼くして両親と死別した道三は、永正13(1516)年、五山文学の中心であった相国寺で、13歳から喝食として修行僧の世話をするかたわら詩文や書を学習。22歳の時に、日本最古の下野国足利学校(栃木県)で、中国・漢、唐の詩や算理博物学を修めたが、24歳の折に同校の先輩で、戦国の名医として知られた田代三喜(さんき)と出会い、入門して李朱医学(中国・明の漢方医学)を学びました。三喜は、道三を自身の後継者として指導、死期近い病床でも口述を続け、79歳で没しましたが、以後、李朱医学は道三によって広められていきました。

三喜の死を期に、天文15(1546)年、10年ぶりに京都へ戻った道三は医業に専念、たちまち名声は高まり、室町幕府13代将軍・足利義輝を治療したことから、細川勝元、三好長慶(修理)、松永久秀(弾正)ら幕府重臣の信任を得ました。幕府の支援もあって道三は、医学界発展の人材育成を目途に、現在の医科大学といえる「啓迪院(けいてきいん)」を創建し、約800人の医生を世に送り出しました。 道三は学舎での指導のかたわら、古来の内外医書の調査にも心血を注ぎ、八巻に及ぶ『啓廸集(けいてきしゅう)』を脱稿したのをはじめ、『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』など、記した医学書は多数に上ります。特に『啓廸集』は、自らの臨床体験を基に、74部門(内科、外科、婦人科、小児科、薬学など)に上っています。

天正2(1574)年には正親町(おおぎまち)天皇に拝し診察、天皇守護を御旗に京を制圧した織田信長も治療しています。晩年の道三は、天皇御一家、豊臣秀吉、毛利元就(もとなり)、蒲生氏郷(がもう・うじさと)らの治療にあたったほか、徳川政権になって以後は、曲直瀬家を世襲の侍医典薬とする内規が定められ、二代目道三・曲直瀬玄朔(げんさく)など江戸後期まで、代々曲直瀬流医法は引き注がれました。

文禄3(1594)年1月4日、88歳で永眠。死後、正二位法印が追贈された。墓所は京都市上京区寺町今出川上ル鶴山町、十念寺に顕彰碑とともに祀られています。

*【コラム】薬医門 in大阪文化財ナビhttps://osaka-bunkazainavi.org › glossary › 薬医門

薬医門 (やくいもん) 日本古建築 建物名称 門・築地塀等用語

鎌倉時代末期か室町時代初期の、武家または公家の屋敷などに現れる門形式の一本柱控柱に荷重が分散され構造上の安定が得られるためか、或いは施工性に優れていたのか、後に城郭や社寺にも広く使われるようになる。棟の芯と、本柱の芯をずれているのが特徴で、妻側に回ってみれば、一見してそれとわかる。 本柱(角柱)控柱(角或いは円柱)に、肘木である女梁(めうつばり)に下支えされた、腕木である男梁(おうつばり)を架け、その上に本柱とは芯をずらして板蟇股や束立てなどを乗せ、棟木を受けるところに特徴がある。(急峻で巨大な「板蟇股」を時折みかけることができる)規模の大小はさまざまで、高台寺表門のような、桃山時代の堂々たる例もある。 屋根は、一軒の切妻破風造の門がほとんどであるが、入母屋造の場合もある。また、切妻ではなく平唐門風の唐薬医門」もある。 一説には、元は門扉がなく「病人の往来を妨げない」ことの表明として、医師の門に使われたとも言われる。しかし通常は、上六分を竪連子、下四分は横板とした両開き戸とするが、閂(かんぬき)は通さない。 門の格式としては、棟門・唐門・上土門より下で、平門・冠木門より上とされる。

薬医門の由来は?

薬医門:薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。 また、かつて医者の門として使われたことからとも。 門の脇に木戸をつけ、たとえ扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもといわれていますが、この構造でなければならない理由はなさそうです。

参考資料:

・漢方の歴史 日本東洋医学会 https://www.jsom.or.jp › universally › story › note

・漢方の歴史国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp › view › prepareDownload

・『内外傷弁惑論』『脾胃論』『蘭室秘蔵』解題 大学病院医療情報ネットワークセンター https://square.umin.ac.jp › paper01 › toenkaidai

・金代の医薬書4 大学病院医療情報ネットワークセンター https://square.umin.ac.jp › mayanagi › paper01 › kindai4

・元代の医薬書(その6) 大学病院医療情報ネットワークセンター https://square.umin.ac.jp › mayanagi › paper01 › gendai6

・欲と鬱の間 儒医朱丹渓鬱説の展開における宋代道学の受容 … 東京大学 https://www.l.u-tokyo.ac.jp › postgraduate › database

・李朱医学(りしゅいがく)とは? 意味や使い方 コトバンク https://kotobank.jp › word › 李朱医学-1435849

・田代三喜 たしろ さんき 医療法人社団伝統医学研究会 http://www.akibah.or.jp › smarts › index

・京の医史跡を訪ねて|健康のために 武田病院グループ https://www.takedahp.or.jp › health › entries › post3656

・大阪文化財ナビhttps://osaka-bunkazainavi.org › glossary › 薬医門

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