【前編】第15回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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(2)-3:平安時代(794~1185)-(2)「平安京」と「平安神宮」を探る

【時代考証】平安時代の時の流れと出来事を「人と薬のあゆみ-年表 www.eisai.co.jp › museum › history」と「奈良県薬業史略年表」および「[公式]Heian Jingu Shrine 平安神宮」を基にまとめる。

1.平安京について、ちょっと探ってみる・・・

平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)または平安城(へいあんじょう)は、794年延暦13年)から1869年明治2年)までの日本首都。□□桓武天皇により、長岡京に代わる都として山背国山城国愛宕葛野の両にまたがる地が選ばれ、中国洛陽城長安城を模して793年延暦12年)から建設された。翌794年延暦13年)に遷都。北部中央に宮城・平安宮大内裏が建設され、以降歴代の皇居が置かれた。□□遷都以来、平清盛により断行された福原遷都1180年)の期間を除いて、東京奠都まで1100年近くに亘って都であり、形式的には1869年(明治2年)まで続いた。今日の京都市街が形成されるに至る。(in平安京 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 平安京

宮城の平安宮平安京の北部中央には、天皇が身を置き、まつりごとが行なわれる施設群となる宮城(大内裏)の平安宮が建造された。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(「朝堂院」、朝堂院の正殿が「大極殿」)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立った。なおそれらは、平安京の衰微とともに、太政官庁など大内霊場(おおうちれいじょう)と呼ばれた4つの建物を残して荒廃し、後にこれらも倒壊して遂に当時の大内裏を偲ばせるものはすべて無くなってしまった。ただし、新たな内裏である京都御所が建設されるとこれを平安宮と称するなど、その名が完全に忘れ去られることはなかった。

[平安京全体図建物名等は他の資料を参考に追記した。] 延暦十三年(七九四)十月二十二日、桓武天皇は十年間住んだ長岡京を捨て、山背国葛野郡(やましろのくにかどのぐん)・愛宕郡(おたぎぐん)に造営中の新しい都に車駕を進めた。同月二十八日には「葛野の大宮の地は山川も麗しく、四方の国の百姓の参り出で来ん事も便にして、云々」という遷都(せんと)の詔(みことのり)が発布された。かつての平城京の時代は、「青丹(あおに)よし奈良の都」と謳われた栄華とは裏腹に、政権の内部では血で血を洗う権力抗争が繰り返されていた。桓武天皇自身が皇位を射止めることができたのも、義母の皇后・井上内親王とその子の皇太子・他戸親王を失脚させるという謀計あってのことだったのである。長岡京に遷ってからもそうした犠牲は後を絶たなかった。天皇の寵臣であった造長岡宮使・藤原種継は闇夜の工事現場で暗殺され、その犯罪の責任を問われる形で天皇の実弟である皇太弟・早良親王が無惨な死に追いやられた。その後、天皇の周囲には早良親王の怨霊の影が色濃くまとわりつくことになる。□□桓武天皇はおそらく、長岡京を捨てて新しい都を造ることによって、こうした暗い影を一掃することを狙ったのであろう。この新しい都は、平安京と名づけられた。それまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていた(たとえば、山背国乙訓郡(おとくにぐん)長岡村に造られたから「長岡京」と呼ばれた)。それに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければならない。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていたのである(in平安京へ出かけよう – 風俗博物館 https://www.iz2.or.jp › heiankyo

 平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていた。両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていた。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませた。鴨川の洪水がいかに猛威を奮ったかは、独裁君主白河法皇すら「賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師、これぞわが心にかなはぬ」(『平家物語』巻一)と嘆いていたことからも伺い知ることができよう。

 平安京の中央北端を占めるのが大内裏(平安宮)である。ここには、国家の重要儀式をとりおこなう朝堂院(ちょうどういん)(八省院)、天皇の住居である内裏、公式の宴会場である豊楽院(ぶらくいん)、さらにはその他の官衙(かんが)群が集中しており、まさに平安時代の国家の中枢といってよい場所であった。大内裏は、北は一条大路(現・一条通)、南は二条大路(二条通)、東は大宮大路(大宮通)、西は西大宮大路(御前通)に囲まれた、東西約一一四六m、南北約一三七二mの範囲を占めていた。□□内裏は、大内裏の中央やや東寄りのところにある。平安時代中期以降になると天皇は平安京内に造られた里内裏(さとだいり)に居住することが多くなったけれども、それでも大内裏に所在する本来の内裏は「大内(おおうち)」と呼ばれ、天皇の本来の居住地として尊重され続けていた。内裏は外郭と内郭という二重構造からなっており、外郭(東西約二一九m、南北約三一八m)は築地塀(ついじべい)、内郭(東西約一七一m、南北約二一六m)は廻廊によって取り囲まれていた。外郭の正門である建礼門(けんれいもん)、内郭の正門である承明門(じょうめいもん)をくぐると、白砂を敷き詰めた広い南庭があり、そこに面して内裏の正殿である紫宸殿(ししんでん)がそびえていた。平安宮の内裏は、絢爛(けんらん)たる王朝文化の主要な舞台となったのである。(in平安京へ出かけよう – 風俗博物館 https://www.iz2.or.jp › heiankyo

右図:in朝日新聞デジタル 記事:平安京の東寺と西寺、左右非対称だった空海が変更?高井里佳子2020年10月22日18時29分

 京都の町といえば、整然とした碁ご盤ばんの目状の街並みであることで知られている。つまり、道路のほとんどは東西南北に直交しており、斜めに走る道は例外的なのである。これは、平安京の都市区画が今もなお京都の街並みの基本を形づくっていることによる。たとえば、現在の寺町通は平安京の東京極大路(ひがしのきょうごくおおじ)、烏丸通(からすまどおり)は烏丸小路(からすまるこうじ)、新町通は町小路、千本通は朱雀大路(すざくおおじ)、一条通は一条大路、御池通は三条坊門小路、松原通は五条大路にほぼ該当しているのである。□□ただ、現在の道路と平安京の街路を比べると、その規模はまったく違う。平安京のメイン・ストリートである朱雀大路(すざくおおじ)は幅二八丈(約八四m)の広大さを誇っていたが、現在の千本通は広いところでも二五m程度、狭いところではせいぜい六mくらいしかない。逆に、平安京の烏丸小路は幅四丈(約一二m)であったが、現在の烏丸通は倍以上に広がっている。一見すると何気なく見える道の幅にも、一二〇〇年におよぶ京都の歴史の厚みが現れているのである。(in平安京へ出かけよう – 風俗博物館 https://www.iz2.or.jp › heiankyo

 京都のルーツを体感しよう!平安京遷都ものがたり

建物名等は他の資料を参考に追記した。

では、平安京は、今の京都のどの辺りにあったのでしょうか、ちょっと探ってみます。

(平安京の敷地はほぼ完全に市街地化されている)

(in平安京 どんな都?場所はどこ?そして, なぜ京都に都が? https://blog.kanko.jp › heiankyo › heiankyo)

平安京の内裏(だいり)と大内裏(だいだいり)

建物名等は他の資料を参考に追記した。 平安京の大極殿や内裏は今どうなっているか?(_京都ブラ歩き in https://blog.goo.ne.jp › 38_gosiki) 1232019/02/28   京都の西陣へ行く機会があり、少し時間もあったので、内野(うちの)と呼ばれる平安京大内裏の跡地を歩きながら訪ねてみました。□□大極殿・内裏・建礼門といった平安京の中心施設の跡地には石碑だけがひっそりとたたずむ鎌倉・室町時代には荒地として放置され、京都の町の重心が東へ移動していった痕跡でもある秀吉の聚楽第や昔あった寺の名前など、町名にのみ往時の記憶が伝えられている平安京の敷地はほぼ完全に市街地化されているため、平城京のように大極殿が復元されて往時の空間を体験できるようなことはありません。しかしそれも京都と奈良が歩んできた歴史の結果です。
 

朝堂院跡  
大極殿跡(公園は工事中で入れませんでした)

 平安京の中心の大内裏(だいだいり)は、現在の千本丸太町交差点付近にあった大極殿を中心とする南北1.4km/東西1.2kmほどの長方形の敷地でした。現在の地図で説明すると、東南角に二条城、西北角のすぐ北に北野天満宮があり、京都御苑よりは一回り大きいサイズです。□□大極殿跡のすぐ西にあり、1/1000サイズの平安京の復元模型が展示されている平安京創生館には、現在と平安時代の洛中の地図を重ね合わせて見ることができる「平安京オーバレイマップ」端末が設置されています。ネット上でも公開されており、京都の歴史を知るにはとても重宝する地図です。
【立命館大学アート・リサーチセンター,歴史都市防災研究所】 平安京オーバレイマップ
二条駅のすぐ北にある、大内裏の正門・朱雀門(すざくもん)跡には行けなかったので、千本丸太町交差点のすぐ西にある朝堂院跡と、すぐ北にある大極殿跡から行脚を始めました。□□政庁エリアである朝堂院(ちょうどういん)は大極殿から南に広がっており、石碑は跡地の北端に建っていることになります。大極殿(だいごくでん)は実際には平安京の中心・朱雀大路に相当する千本通の真上にあったため、千本通から西に入った内野公園の中に石碑が建てられています。□□大極殿跡の石碑は京都に数ある跡地の石碑の中でも際立った大きさです。平安神宮は当初、明治時代の創建時、実際に大極殿があった跡地に復元して造られる計画でした。用地買収ができなかったため岡崎に建設されましたが、そんなエピソードもあるほど、大極殿は京都人にとって原点のような存在です。□□千本丸太町交差点の北西角には大極殿跡の発掘調査で確認された正確な位置などの結果がパネル解説されています。ほとんど市街地化されているため発掘調査が中々できない京都で、史実が確認できた貴重な調査結果となります。

内裏跡
山中油店(江戸時代を彷彿とさせる町屋建築が美しい)

 朝堂院の北東には天皇の居住エリアである内裏(だいり)がありました。下立売通りの山中油店の敷地に内裏跡の解説パネルが設置されています。パネルは厳密には内裏の少し外側に位置します。ピンポイントに石碑やパネルを設置しようにも、土地所有者の許可がないとできません。発掘調査ができず場所が特定されていない場合もあり、石碑やパネルはあくまで”おおむねの位置”と考えなければなりません。
 内裏のさらに北東、大内裏の北東角にあたる位置に、秀吉は聚楽第(じゅらくだい)を築きました。内野は室町時代にはおおむね北野天満宮が所有する農地となっており、内野は500年の時を経て政治の中心地に返り咲くことになります。□□聚楽第は秀吉が京都の拠点として築いた豪華絢爛な邸宅で、現存していれば狩野永徳らの障壁画に埋め尽くされた、とんでもなく極上の文化財になっていたことは間違いありません。しかし聚楽第は秀次事件の影響もあってわずか8年で取り壊されます。桃山時代の内野の輝きは、そんなはかないものでした。聚楽第跡の石碑は中立売通に通ずる東西二つの門の跡地に建てられています。

[京都にのこる歴史の痕跡ガイドの決定版]


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