【後編】第9回 くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事- 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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②難波宮インフォメーション:前期難波宮の時代

前期難波宮の時代
朱雀門(すざくもん)の火災を示す柱穴(はしらあな) 難波宮跡(中央区上町1丁目)./.時期:7世紀

天皇(大王)の居所である内裏と重要な政務・儀式をとり行う朝堂院、 および東西に配された官衙(役所)からなる。すべて掘立柱の形式で建てられ、瓦は一切使われていない。 7世紀中ごろ、孝徳天皇の難波遷都に伴ってつくられた。 「難波長柄豊碕宮」と考えられ、全域に残る火災の痕跡は『日本書紀』の記述と一致している。

柱痕跡の周囲の土が赤く焼けしまっている。火災の際に柱が土中の部分まで焼けたためで、火の勢いのすさまじさがうかがえる。『日本書紀』に記された朱鳥元(686)年の火事で焼けたものと思われる。

前期難波宮、朝堂院東第4堂(ちょうどういんひがしだい4どう) 難波宮(中央区法円坂町 1 丁目)./.時期:7世紀

期難波宮の政治・儀式のための建物。朝堂は掘立柱構造で14棟が確認されている。東第4堂も他の第3堂・第5堂と同規模で、東西2間(約6m)、南北12間(35.4m)の南北に長い建物である。柱の抜取り穴に焼け壁が入っているので、『日本書紀』に記された朱鳥元(686)年の火事で焼けたものと思われる。

③難波宮インフォメーション:後期難波宮の時代

後期難波宮の時代
後期難波宮(こうきなにわのみや)大極殿跡(だいごくでんあと) 難波宮跡(中央区法円坂1丁目難波宮史跡公園内)

前期難波宮と同じく内裏と朝堂院を中心とする。 大極殿朝堂は 凝灰岩で覆われた基壇の上に礎石を置いて建てられ、瓦が葺かれた。軒瓦の文様には円や弧線による重圏文が考案され用いられた。 この宮殿は8世紀前半に聖武天皇の命令によってつくられた『続日本紀』に出てくる「難波宮」で、 一時期ではあるが首都とされたこともある。

1969年に調査された後期難波宮の中心の建物。 東西約42m、南北約21m、高さ約2mに復元できる基壇の上に礎石を置き、 9間×4間(東西35.2m、南北14.8m)の瓦葺きの建物である。 丹塗の柱と白壁でかざり、内部には政治や儀式の時に天皇が出御する、高御座(たかみくら)が設置されている。

後期難波宮(こうきなにわのみや)朝堂院東第2堂(ちょうどういんひがしだい2どう) 難波宮跡(中央区法円坂 1 丁目)./.時期:8世紀
重圏文軒瓦(じゅうけんもんのきがわら) 難波宮跡(中央区法円坂 1 丁目)./.時期:8世紀./.大きさ:軒丸瓦直径 18cm、軒平瓦幅約 18cm

蓮華・唐草文軒瓦(れんげ・からくさもんのきがわら)

難波宮跡(中央区法円坂1丁目)./.時期:8世紀./.大きさ:軒丸瓦直径約16cm、軒平瓦幅27cm

後期難波宮の中心部を構成する政治・儀式のための建物。 庭を囲んで8堂の建物があり、東側の北から2棟目。 土を盛って周りを凝灰岩で化粧した基壇上に礎石を置いて建物を建てる構造である。 宮廃絶後は、基壇の高まりまで削り取っているので、 基壇化粧の凝灰岩の抜取痕跡でしか確認できない。

これらの瓦は後期難波宮で使われていたもので、軒丸・軒平・鬼瓦を同じ文様で統一して宮殿を飾っている。 当時主流である蓮華・唐草文ではなく、このような文様で中心部を飾るのは、 難波宮から運んで再度使われた長岡宮を除いて、ほかの宮殿にはない特徴である。

後期難波宮の大極殿院・朝堂院地域は瓦葺きであり、重圏文の瓦が中心である。蓮華・唐草文の瓦がまとまって出土するのは、朝堂院の西側で塀と五間門で区画されたところである。これらの瓦は吹田市にある七尾瓦窯で焼かれたことが明らかにされている。

④難波宮インフォメーション:難波宮の保存と整備

難波宮跡の保存と整備
難波宮(なにわのみや)をあきらかにした山根徳太郎博士(やまねとくたろうはかせ)

大阪市中央区法円坂一帯にある難波宮史跡公園では、 飛鳥時代(7世紀)と奈良時代(8世紀)の前後2時期の難波宮を、 レンガ・土盛りなどにより表示し、保存と整備をはかっている。 難波宮の廃絶後は、永くその場所が分からなくなっていたが、 故山根徳太郎博士が1954年から発掘調査を始め、 61年には後期難波宮の大極殿を確認するにいたった。 現在は、国指定史跡となり、公園として活用されている。 また、2001年秋に開館した 大阪歴史博物館の地下には難波宮の遺構が保存・公開されている。

⑤難波宮跡(中央区法円坂1丁目難波宮史跡公園内)

山根博士遺墨

山根博士は大阪に生まれ、古代難波に興味をもって成長した。 偶然手にした瓦から難波宮の存在を確信し、 1954年、定年後から発掘調査という手段で長い間わからなかった難波宮を明らかにした。 何度も起こる開発の波に毅然として正面から立ち向かい、保存を訴え続けた。 その結果、大都市の中に難波宮史跡公園を実現することができた。

なお、大阪歴史博物館の10階には、山根徳太郎博士とその研究を紹介する展示コーナーを設けており、 ビデオ『われ幻の難波宮を見たり』を放映しております。ぜひ、ご覧下さい。

⑥難波宮インフォメーション:細工谷遺跡の概説

細工谷遺跡

この遺跡は、天王寺区細工谷1丁目において1996年に発見された。 全国初の発見となった和同開珎の枝銭や、 今まで知られていなかった「百済尼寺」の存在を示す多数の墨書土器や瓦が出土した。 また、金属加工に関連した遺物や富本銭尼の父の名前を記した木簡 など、飛鳥時代(7世紀)~奈良時代(8世紀)を中心とする数々の資料が見つかっている。
細工谷遺跡で推定されるような古代寺院は、難波宮の南側に点在しており、 条坊制が敷かれた「難波京」のようすを考えるうえで重要である。  (詳しくは写真で探す細工谷遺跡をご覧下さい。)

難波宮調査事務所 〒540-0006大阪市中央区法円坂1-6-41:難波宮跡、大坂城跡、森ノ宮遺跡などから出土した資料(約5,000年前から数百年前)を公開する小さな展示室がある。大阪歴史博物館に比べ、あまり目立たないが、生の資料をごく身近に感じることができる施設

(4) 第10節 難波宮跡発掘調査(NW12-4)に伴う自然科学分析

 本報告は、難波宮跡(NW12-4)周辺での古植生・堆積環境等の古環境推定を行う目的で、実施した自然科学分析の報告書の概報である。難波宮跡(NW12-4)は大阪市中央区法円坂2丁目地内に位置する遺跡である。本節では、当大阪市博物館協会が2012年度独立行政法人学術振興会科学研究費補助金基盤研究(A)「大阪上町台地の総合研究-東アジア史における都市の誕生・成長・再生の一類型-」(研究代表者 脇田修、課題番号:21242031)の補助金を用いて実施した自然科学分析(註1)の中から、本調査地に係わる部分を簡略して引用する。

図100 NW12-4 近辺での主な花粉分析地点 OS92-74MR94-8:[川崎地質1996]、NW97-3 :[古代の森研究舎2000]、NW04-1 :[パリノ・サーヴェイ 2005]、NW08-3 :[パリノ・サーヴェイ2010]、NW10-4 :[渡辺2012] その他は、大阪市博物館協会内部資料、 国土地理院1/5万地形図「大阪東北部」・「大阪東南部」を拡大して使用

図100:

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参考資料:

(1) 「なにわ」ってどこのこと?(謎解きクルーズ) – 日本経済新聞 https://www.nikkei.com › article

(2) 難波宮発掘60年 展示でたどる苦闘の跡 – 日本経済新聞www.nikkei.com › article

(3) 報道発表資料 前期難波宮の南限を確認しました ー「朱雀門」の西に延びる塀跡の発見ー

in問合せ先:教育委員会事務局総務部文化財保護課(06-6208-9069)公益財団法人大阪市博物館協会 大阪文化財研究所(06-6943-6833) 平成30年8月28日 14時発表 ページ番号:442572

(4) 難波宮の保存と整備 www.occpa.or.jp › ikou › naniwa_info › naniwa_gaiyou › ikou_03_01_04

(5) 難波宮址の研究第十九 第10節 難波宮跡発掘調査(NW12-4)に伴う自然科学分析

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