- 1、くすり文化の時代考証
くすりの文化については、[薬の文化誌(松井寿一著)]に「洋の東西を問わず、薬には古来よりの歴史があり、文化があり、科学がある。そこにはまた、人間の健康と病い、あるいは生と死にかかわるドラマがある」とある。確かに、「人とくすり」の間には「不老長寿」だの「アヘン戦争」など生への執着そして支配&欲望といった人間の本性が現れているように思える。このように、「くすりに纏わる事柄・出来事」は歴史的にも国・地域ごとにもいくつも見出される。そこで、このシリーズで「くすりに纏わる事柄・出来事」をいろんな資料を繙いて、探って、多角的にまとめてみたいと思う。
では、先ず、わが国日本における「くすり文化-くすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事-」を探ってみることにする。
私が住むところから自転車で約15分のところに「国指定史跡池上曽根遺跡(1)」がある。そして、この遺跡は「池上曽根遺跡公園や大阪府立弥生文化博物館」が整備され保存されている。その案内板には「歴史の流れ」の年表があり、それによると、「[2400年前ごろ:米つくりが伝わる] ⇒ [2200年前ごろ:秦の始皇帝が中国を統一] ⇒ [2000年前ごろ:池上曽根栄える、奴国王が後漢(中国)から金印をもらう、クレオパトラが女王になる] ⇒ [1700年前ごろ(弥生時代):卑弥呼が魏(中国)に使いを送る、古墳がつくられはじめる] ⇒ [1867年:江戸幕府がほろび、武士の世の中が終わる](⇒ 明治時代へ・・・)」といった主だった事柄・出来事が記載されている。では、このような歴史的事柄・出来事を基に「くすり文化」を繙いてみる。
【歴史の流れ(1)】
[縄文時代]⇒[弥生時代]⇒[古墳時代]⇒[戦国時代]⇒[明治]⇒[大正]⇒[昭和]⇒[平成]⇒
[令和]⇒・・・
<くすりはいつごろから世に現れたか・・・(2,3)>
古墳時代以前--
日本でも、近年考古学の発展によって、縄文時代(紀元前数千年~前3世紀頃)から弥生時代(紀元前3世紀頃~後3世紀頃)の文化や社会制度或いは食生活が、予想以上に高いレベルにあったことが明らかにされている。ところが、日本では薬物に関係のある記録は6世紀の頃まで極めて少なく、ほとんど分かっていない。日本最古の歴史書『古事記』に、大巳貴命(オオナムチノミコト)が稲羽の白兎の負傷に蒲黄(ガマの花粉)を用い治したこと、神産巣日之命(カミムスビノミコト)が大巳貴命の火傷に蚶貝(アカガイ)と蛤貝(ハマグリ)の黒焼きを用いたことが記録されており、日本の薬物の記録として最初のものとされている。この二つの治療例以外にも、日本で太古の昔から伝承されてきた薬物、すなわち和薬を用いる療法が行われていたと考えられている。その多くは、恐らくは現代の民間薬のようなもので、当薬(せんぶり)、げんのしょうこ、どくだみ、延命草(しきおこし)、蝗(いなご)などが、日本固有の和薬として用いられたという説もあるが、真相はほとんど分かっていない。一方、世界各地原住民の伝統医療から考えると、日本でも昔の医療で用いられた薬は、外用薬が主なもので、内服薬としては酒を用いたに過ぎず、病気になったときは薬物よりも、むしろ加持祈祷(カジキトウ)やまじないが主であったともいわれている。日本の医薬史において、「祈祷・原始医学時代」といわれる時代である。】
このような記述内容から、「くすりはいつごろから世に現れたか・・・」の答えは「6世紀頃」と推察できるようである。
(1)縄文時代から弥生時代
しかし、上記にもあるように「縄文時代(紀元前数千年~前3世紀頃)から弥生時代(紀元前3世紀頃~後3世紀頃)の文化や社会制度或いは食生活が、予想以上に高いレベルにあったことが明らかにされている。」とあるように縄文から弥生時代においても生活水準は高く、何らかの「健康維持」に役立つもの「くすり」は使っていたものと考えていいように思う。それを物語るようにお隣の中国では秦の始皇帝(紀元前259年2月18日 – 紀元前210年:ちょうど日本の弥生時代初期にあたる)が「徐福という人物に蓬莱(中国の仙境)から仙人を連れて来るようにと命じた(史記にその記録が残されている)が、徐福は結局、目的のものを探すことができず、始皇帝の元へ戻ることもできずに日本へ亡命したとされている。実際に日本では、徐福が訪れたという言い伝えが各地にあり、三重県熊野市には徐福ノ宮という徐福を祀る神社もあり、その社地には蓬莱山と呼ばれる山もある。(4)」 また、秦の始皇帝が生涯にわたって探し続けた不老不死の妙薬「霊芝」は、2000年ほど前に編さんされた世界最古の薬物書である『神応本草経』にその薬効が記されている。この本は、漢方薬を専門に扱う者にとって教本であり、多くの薬物の中から信頼性の高いものを厳選し、それぞれを「上品」「中品」「下品」の三段階に分類している。「上品」とは様々な難病を治して健康維持、病気を予防し、霊芝は最高のランクにある。霊芝の項目には、生命を養い、無毒で副作用がなく、元気を増し、寿命を延ばす薬効があると記されている。一般にきのこ類の菌糸は硬い細胞壁を持っているため、消化しにくい。現在は厳選したサルノコシカケ科マンネンタケ(霊芝)の発芽直前の活性化状態にあるものを酵素分解法により細胞壁を分解する。菌糸から効率よくエキスを抽出した製剤が発売され、安価でせんじる必要もなく簡単に服用できるようになった。(5)
では、この当時に中国と日本の架け橋役となった「徐福」という人物について探ってみる。
【徐福伝説(6)】
徐福は、古来の日本に深いかかわりがある人物で、そして、数奇な運命を辿った人でもあった。
「始皇帝と不老不死の秘薬」
今から2200年ほど前の日本では「縄文時代から弥生時代に移り変わろうという時代」に、秦の時代の中国に『徐福(じょふく)』という人物がいた。徐福の身分は方士で、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者でした。この時、秦の始皇帝は『不老不死の仙薬』を求めており、そこに目が付けられたのが、徐福である。不老不死の仙薬の入手を命ぜられ、徐福の運命が動いた瞬間であった。
徐福は秦に滅ぼされた斉の国の出身であったが、始皇帝の命に背くことは出来ず、東方に仙薬を求めて渡海することを上申した。このことは、司馬遷の『史記』にも、東方の遥か海上に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)という3つの神山があり、ここには仙人が住んでいた。童男童女とともに不老不死の仙薬を捜しに行くことをお許し下さい。と徐福が願い出たと記述されている。
始皇帝は徐福の申し出を快く受け入れ、童男童女三千人、五穀の種子、百工(各種技術者)を派遣 し、徐福に託したのでした。
戻らずそして・・・
徐福は紀元前219年、大船団を率いて中国を出航した。しかし、徐福は何日もの航海の末辿り着いた先で『平原広沢』得て、中国には戻らなかったとされている。一説には、辿り着いた『平原広沢』が日本であり、農耕・製紙などの技術を伝え、日本の発展の大きな礎を築いたと言われている。
実際にこの伝説は、現在も青森県から鹿児島県まで多くの地域で受け継がれている。
一方、中国では1982年に江蘇省連雲港市贛(がん)楡(ゆ)県にある「徐阜(じょふ)村」が、以前は『徐福村』と呼ばれていたことが発見され、現地で確かに徐福伝説が伝承されていることが確認された。
そして、徐福出生の地として『徐福祠』が建設され、伝説上の人物ではなく、歴史上の人物として知られるようになった。
徐福氏、字を君といい、秦の瑯(ろう)琊(が)郡贛(がん)楡(ゆ)県出身、有名な方士である。
紀元前二百十年、秦の始皇帝の命令に従い、童男童女三千人、職人百人及び武士を引き連れて、五穀の種とシルクを船に乗せ、東に向かって渡航した。
途中様々な苦難を乗り越えて、やっと平原にたどり着いた。
上陸したところは日本であり、始皇帝は来なかったが、そのまま日本に住み、日本の文化と経済の支えに大きな影響を及ぼし、後世の人々に尊敬されている。
徐福の渡航から二千二百年が過ぎ、国際間の友好及び文化と経済の交流を促進するため、特に來夾山の石を使い、ここに像を立てることとする。
江蘇省贛楡県人民政府
一九九〇年十二月五日
参考資料
(1)・南海中央線歴史さんぽ「国指定史跡:池上曽根遺跡」、歴史の流れと池上曽根の歩み、泉
大津市教育委員会・文化財保護委員会、和泉市教育委員会・文化財保護委員会
(2)・薬の歴史:執筆 宇治 昭 (薬学博士)、薬の歴史 | 樋屋製薬株式会社・樋屋奇応丸株式会社 https://hiyakiogan.co.jp › content › fukuyo › history
(3)・レファレンス共同データベース:弥生時代に使われていた生薬について知りたい | レファレンス協同 …crd.ndl.go.jp › reference › detail
(4)歴史に残る不老不死の妙薬たち!現代の不老不死とは …https://ber-muda.com › 科学
(5)漢方の相談室~不老不死の妙薬 | 協同組合 藤沢薬業協会 www.fujiyaku.org ›
(6)徐福伝説 www.yamako.net › jofuku › jofuku01
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