【前編】第17回くすり文化 ーくすりに由来する(or纏わる)事柄・出来事ー 八野芳已(元兵庫医療大学薬学部教授 前市立堺病院[現堺市立総合医療センター]薬剤・技術局長)

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(2)-4:国府・府中について

ー奈良時代から平安時代の約500年もの間、地域の政治・経済・文化の中心となり、情報・物資が交流して多くの人々が関わりをもつ場所ー

【時代考証】

 国府は、奈良時代から平安時代の約500年もの間、地域の政治・経済・文化の中心となり、情報・物資が交流して多くの人々が関わりをもつ場所であった。

和銅(わどう)3年(710)、奈良の平城京に都(みやこ)が移されます。当時の日本は、中国の唐に倣った律令(りつりょう)」制度(律:刑法、令:行政組織や税などの規定)により国の仕組みが整い、地方は60余りの「」、その下に「郡(ぐん)」、さらに下には「里(り)」という行政区が設けられました。朝廷の権威を背景に、都と各地域の間に命令や情報を伝えたり、各地からの税を集めたり、徴税のための戸籍づくりをする役所が設置され、全国の隅々まで支配するための体制が整えられました
 国府とは、国という行政区を治めるための役所が置かれた地のことで、国府には「国衙(こくが)」と呼ばれる役所の建物群が形成されて、そのなかで最も中核的な施設を「政庁(せいちょう)」(国庁(こくちょう))といいます。政庁は、門をもった築地塀(ついじべい)堀(ほり)などの区画施設で周りを囲まれ、内側には正殿(せいでん)脇殿(わきでん)前殿(ぜんでん)後殿(こうでん)などの掘立柱(ほったてばしら)建物や瓦葺礎石(かわらぶきそせき)建物が中庭(集会・儀式を行う重要な空間)を中心に規則的に配置されていました。全国の国府跡のなかには、発掘調査などによって、政庁が見つかっているものがいくつかあります。建物の規模については多少の違いがみられますが、配置はどの国でもほぼ共通しています。政庁の周辺にはさまざまな事務を行う庁舎、国府で必要なものをつくるための工房、物資を保管する倉庫、国府で働く役人が住む官舎、食材・食事を用意する調理場などが配置されていました。(p.10伯耆国(ほうきのくに)政庁の復元模型図参照)

【国府・府中のこと】国府には、都から「国司」と呼ばれる役人が派遣されました。国の長官である「守(かみ)」、長官の補佐をする「介(すけ)」、記録や文書の審査・作成に携わる「掾(じょう)」「目(さかん)」(これらを「四等官(しとうかん)」といいます。)と、彼らを支える「史生(ししょう)」がいました。各国の面積や人口などの基準(大国(だいこく)・上国(じょうこく)・中国(ちゅうこく)・下国(げこく)と定められていました。)に応じて、派遣される国司の位階(いかい)や人数が規定されており、上国であった備後国の長官である守には、従五位下(じゅごいのげ)の位をもつ貴族がひとり任命されました。国司の仕事は、行政・司法・警察・軍事など広範囲にわたり、国司の下で約600人の職員が働いていました。また、国内の農民には、稲や農作物・特産品など物で納める税以外に、物資の運搬や兵役(へいえき)や土木工事・その他の雑務といった労働による税の負担が定められており、国府で労働に従事したり、都で天皇の警備をしたりする人々もいました。国府は、奈良時代から平安時代の約500年もの間、地域の政治・経済・文化の中心となり、情報・物資が交流して多くの人々が関わりをもつ場所であったのです。

(in律令(りつりょう)制度の確立 – ADEAC https://trc-adeac.trc.co.jp › … 府中市立図書館:先人たちの足跡 2 国府時代の府中 律令(りつりょう)制度の確立)

国府遺跡は、旧石器時代から中世に至る集落遺跡です。大正6年に日本で初めての本格的な発掘調査が実施されて以来、縄文時代から弥生時代の人骨が計90体検出されています。また、飛鳥時代には衣縫廃寺(いぬいはいじ)が創建され、塔心礎(とうしんそ)は現在でも史跡内に残っており、国の史跡に指定されています。その名からも連想されるように奈良・平安時代には河内国府が設置され、河内国の政治的中心地であったと考えられています。(in 藤井寺市観光サイト 歴史ロマン薫るみどりのまち 藤井寺・道明寺物語)

in国府 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org › wiki › 国府

[国府の一覧表(国府所在郡)]を記載した史料

和名類聚抄』20巻本、『色葉字類抄』とその増補版の『伊呂波字類抄』10巻本、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』、易林本の『節用集』

サイト上の大学図書館のデジタルアーカイブシステムなどで、原文の詳細を読むことができる。各史料によって、国府の異同、国府の記載なし、国府所在郡のみで郷名の記載なし、などから、国府の時代による移転説、国府所在候補地が複数挙がり論争になる。 史料が平安時代中期以降の編纂のため大化の改新~平安時代初期の初期国府と史料記載国府は違うと見る説、国分寺や総社のあった場所に国府もあったと見る説などがあり、国府の選定には注意を要する。

[一覧]

所在郡」は『和名類聚抄』・『拾芥抄』・『伊呂波字類抄』に記載されたもので、異なる場合は各々を記載(類:和名類聚抄、拾:拾芥抄、伊:伊呂波字類抄)。「所在地」の(推定)は推定地、変遷したと推測されるものには番号を付記。便宜上、史跡には「国衙跡」・「国庁跡」という名称のものも追加(史跡名称に附指定は省略)。ただし、表のもの以外に異説もある。

国府にちなむ地名[編集]

古代の国府は現代では国府と書いて「こう」と読む地名として全国に残っている。府中は中世・近世に生まれた地名で、当時の国府・守護所に由来する。国府と書いて「こくふ」と読む地名には、近代以降に国府推定地に新たに付けられたものが多い。国分寺に由来すると思われる国分(こくぶ)を国府に変更した例もある。

国府(こう・こふ)[編集]

国府(こう、下野国):栃木県栃木市[12]

国府台(こうのだい、下総国):千葉県市川市

国府津(こうづ、相模国):神奈川県小田原市

国府(こう、甲斐国):山梨県笛吹市

国府台(こうのだい、遠江国):静岡県磐田市

国府(こう、伊勢国):三重県鈴鹿市

国府(こう、志摩国):三重県志摩市

国府(こう、河内国):大阪府藤井寺市

国府、国府川(こう、こうがわ、伯耆国):鳥取県倉吉市

国府、国府駅(こう、こうえき、三河国):愛知県豊川市国府(こう)町

国府宮(こうのみや、尾張国):愛知県稲沢市(国府宮町)

国府川(こくふがわ/こうのかわ、佐渡国):新潟県佐渡市真野

古国府、 古国府駅(ふるごう、ふるごうえき、豊後国):大分県大分市

上府町、下府町(かみこうちょう、しもこうちょう、石見国):島根県浜田市

古府(こふ、越中国):富山県高岡市伏木

府中[編集]

利府(りふ、陸奥国):陸奥府中に位置する。宮城県利府町

府中市(ふちゅうし、武蔵国):東京都多摩地区

常府(じょうふ、常陸国):常陸府中の略。石岡市の旧称。

信府(しんぷ、信濃国):信濃府中の略。松本市の旧称。

駿府(すんぷ、駿河国):駿河府中の略。静岡市の旧称。

府中(ふちゅう、美濃国):岐阜県不破郡垂井町

府中、府中駅(ふちゅう、ふちゅうえき、丹後国(「節用集」易林本での説)):京都府宮津市

府中町(ふちゅうちょう、和泉国):大阪府和泉市

府中市(ふちゅうし、備後国):広島県備後地区。

府中町(ふちゅうちょう、安芸国):広島県安芸郡

府中(ふちゅう、越前国):福井県越前市

府中町(ふちゅう、讃岐国):香川県坂出市

讃岐府中駅(さぬきふちゅうえき、讃岐国):香川県坂出市。

長府(ちょうふ、長門国):長門府中の略。下関郊外。

国分府中町(こくぶふちゅうちょう、大隅国):鹿児島県霧島市

国府(こくふ)[編集]

国府地区(こくふちく、相模国):神奈川県中郡大磯町

国府町(こくぶちょう、信濃国):長野県松本市

国府(こくふ、越後国):新潟県上越市

国府町地区(こくふちょうちく、飛騨国):岐阜県高山市

国府駅(こくふえき、但馬国国分寺に由来か):兵庫県豊岡市

国府町地区(こくふちょうちく、因幡国):鳥取県鳥取市

国府町地区(こくふまちちく、石見国):島根県浜田市

国府町府中府中駅(こくふちょうこう、こうえき、阿波国):徳島県徳島市

国府地区(こくふちく、加賀国):石川県小松市

国府、北府(こくふ、きたご、越前国):福井県越前市

国府、国府停留場(こくぶ、こくぶていりゅうじょう、託麻国[13]):熊本県熊本市

防府(ほうふ、周防国):周防国府の略。

国衙[編集]

国衙(こくが、甲斐国):山梨県笛吹市

国衙(こくが、淡路国):兵庫県南あわじ市

国衙(こくが、周防国):山口県防府市

府内[編集]

府内(ふない、豊後国):大分市の旧称。

(in国府 – 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com › glossary › 国府

国府  政治・政策  公開日 2017-06-19  最終更新日 2021-06-20

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目次:律令国家の形成 平城京の時代 国府・郡家 伯耆国庁跡

国府(こくふ)
奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)・曹司(そうし)(部門別役所)・正倉院(倉庫群)・廚(くりや)(給食センター)・国司館などの施設が集まり、国分寺も近くに営まれて国内の政治・経済・文化・交通の中心として地方都市の様相をもった。

国府

律令国家の形成

平城京の時代

諸国には中央から派遣される国司の統治拠点として国府が、その下の郡には在地豪族である郡司の行政拠点となる郡家が地方の役所として営まれた。

国府・郡家律令制の地方制度としては、全国の国々が畿内(のちの大和・河内・和泉・山城・摂津の五畿内)と七道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)にわけられていた。
諸国はさらに国・郡・里(郷)の地方行政組織に編成された。国は複数の郡を統括する領域であり、郡(評)は律令制以前の国造制の「国」や屯倉(みやけ)を継承したと考えられる。里(郷)は戸籍に編成された50戸を1里として郡の下に設定された。
国には中央から貴族が国司として派遣されて国内統治にあたり、そのもとで郡には在地豪族が郡司に任じられ、里(郷)長がおかれてそれぞれの領域を管轄した。
地方統治のための役所として国司が拠点としたのが国府で、国庁(政務・儀礼を行う政庁)・曹司(そうし)(部門別役所)・正倉院(倉庫群)・廚(くりや)(給食センター)・国司館などの施設が集まり、国分寺も近くに営まれて国内の政治・経済・文化・交通の中心として地方都市の様相をもった。
また、郡司が拠点とした郡家も、郡庁・曹司・正倉院・厨・郡司館・駅家などの施設が集まり、近くに郡司氏族の氏寺も営まれるなど、郡内の中心であった。
これら国府・郡家の地方官衙の遺跡が各地の発掘調査により明らかになっている。伯耆国(ほうきのくに)政庁の復元模型

国府 伯耆国政庁の復元模型 新詳日本史―地図資料年表

政庁(国庁(国衙こくが))は中央政庁のミニ版であり、建物配置には共通する画一的な構造がみられる。政庁では、国司らが政務や儀式を行った。周囲を築地塀(ついじべい)でめぐらし、正殿の南に前殿、東西に40m近い脇殿がある。政庁を中心として正倉、兵庫などがあった。駿河国志太郡家(するがのくにしだぐうけ)(10世紀前半頃)の復元模型

郡家 駿河国志太郡家 新詳日本史―地図資料年表

稲を収納する正倉、館などの建物からなっていた。建物の規模は比較的小さく、板塀と土塁で囲まれており、政庁と比べると建物配置には多様性が見られる。
10世紀の志太郡家に正倉がないのは、国司が直接田堵(たと)(負名ふみよう)から徴税したからである。

伯耆国庁跡

伯耆国庁跡(ほうきくちょうあと)は、鳥取県倉吉市国府・国分寺に所在する、律令制下の地方行政の中心的施設の跡である。1985年(昭和60年)5月1日、国の史跡に指定される。

【改めて、畿内では】

畿内には、「山城国、大和国、河内国、和泉国、摂津国」の4つの「国」が設けられている。

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