早稲田大学人間科学学術院および神奈川県立保健福祉大学大学院ヘルスイノベーション研究科のユウ ヘイキョウ教授らの研究グループは、日本国内の公共政策の財源を負担する一般住民を対象とした大規模アンケート調査を実施し、全国規模の下水を用いた感染症対策の経済価値を正当化した。
同アンケート調査は、将来の大規模感染症の予防政策について、正当化できる財源の金額を推定することを目的としたもの。日本全国の主要都市において実施する下水サーベイランス(下水中に存在するヒト由来のウイルスを検査・監視)制度に対する住民の「支払っても構わない金額(支払い意思額(Willingness-to-pay、WTP)」を質問したもの。
その結果、全国の主要都市において下水サーベイランスを開始・維持する政策に対する年間支払い意思額(WTP)は、1世帯あたり平均値で2100円(中央値800円)であった。日本の全世帯のWTP(年間450億円)は、「全国規模の下水サーベイランス」を開始・維持するための費用(年間30億円)をはるかに上回ったため、公共政策として「全国規模の下水サーベイランス」の整備は経済的に正当化されたと考えられる。
下水サーベイランス制度は、新型コロナ感染症やインフルエンザを含むさまざまな感染症の予防に有効であり、研究結果から社会的なインフラとして、日本国内での整備が期待される。これらの研究成果は、6月20日に英国Royal Society of Chemistryが出版する『Environmental Science: Water Research & Technology』の最終版に掲載された。
2000年以降、世界は2つのパンデミック(H1N1インフルエンザと新型コロナ感染症)と、SARS含む10以上の大規模感染症を経験した。今後も、近い将来に大規模な新興感染症が起こる可能性は高いと考えられる。
従って、国際社会においては、予防を目的とする感染症のモニタリング制度の強化に向けてより多くの資源を配分する必要性が指摘されている。
新型コロナ感染症を契機に、感染症のモニタリングの1つとして、多くの先進国において下水サーベイランスと呼ばれる新しい調査方法の活用が進み、社会的なインフラとして整備されてきた。
下水サーベイランスでは、新型コロナウイルスやインフルエンザウイルスの感染者は症状の有無にかかわらず、糞便や唾液中にウイルスRNAを排出することを利用して、下水中のウイルスを検査・監視する。 人を対象とした抗原・PCR検査に基づく従来の疫学的調査に比べ、下水サーベイランスに基づく疫学調査には次の大きな3つのメリットがある。
① 従来の疫学的調査よりも、約1週間早く感染症の流行状況を検出できるため医療資源を確保する時間的余裕が多く生まれる。
② お手洗いには必ず行くため、下水サーベイランス調査の方が、ある地域全体の感染状況をより正確に検出できる(従来の疫学的調査では、検査キットが不足する場合や、検査を避ける人が多くいる場合、実際よりも低い感染状況しか検出できない。
③従来の疫学的調査よりも費用が低く、費用対効果が高い(例えば、ある下水処理場を利用する流域の人口が10万人である場合、下水サーベイランス調査1回の費用は従来の疫学的調査の10万分の1)。
既に米国では1700か所以上、欧州連合では1300か所以上(人口15万人以上の都市すべて)の下水処理場で下水サーベイランスが定期的に実施・公表されている。他方、日本の下水サーベイランスの整備は、欧米に大きく遅れている。日本国内の下水処理場で下水サーベイランスを継続的に実施し、その結果を公表している自治体は20か所未満である。
日本のみならず、欧米を含む諸外国においても、下水サーベイランス制度を社会的なインフラとして整備・維持していくには、この制度の経済的な価値を示すことが、公共政策の視点から重要である。
下水サーベイランスは、将来の大規模感染症にも有用である。だが、将来の大規模感染症による被害の金額を事前に予測することは不可能であるため、その予防策の財源の上限額をどのように設定するかは、公共政策上の大きな問題となっている。
公共政策の経済評価で頻用される費用効果・便益分析は、分析対象の健康被害の大きさやその金銭評価額を必要とするため、将来の大規模感染症に対して適用できない。
こうした中、同研究チームによる文献検索では、下水サーベイランスに対するWTPを推定した研究は過去に実施されていない。従って、ユウ氏らの研究は、下水サーベイランス制度に対するWTPを推定した世界的にも最初の研究といえる。
同研究結果は、日本の世帯の多くが、年間800円の追加課税で、本研究で提案した「全国規模の下水サーベイランス」の実施を支持していると示唆している。
ただし、追加課税をする場合は、累進課税を実施することが望ましいと考えられる。なぜなら、WTPをゼロと回答した(アンケート調査全体の約3%)傾向が高かった低所得世帯にとっては免税対象となるからだ。
年間450億円のWTPの総額は、下水処理場での下水サーベイランス(30億円)だけでなく、国際空港での下水サーベイランスの導入など、広範囲な対象をカバーできる可能性がある。下水サーベイランス制度に対するWTPを推定した先行研究はこれまでに無かったため、同研究結果は、日本のみならず諸外国の下水サーベイランス制度に関与する政治家・公衆衛生専門家間の議論に有用な示唆をもたらすものと期待される。
医療経済学の目標は、限られた資源の配分の変更により、社会全体の健康状態の改善を最大化することにある。同研究の結果は、下水サーベイランスに対する(金銭的・人的)資源配分を、これまでより厚くする政策変更を支持するものである。
今後、日本の中央政府による政策変更が進まない場合でも、下水サーベイランスを実施する自治体が増えることも期待される。地方自治体政府は、本研究の結果(1世帯あたり平均WTPは2100円;中央値は800円)を財政支出の根拠として用いることで、政策変更の推進が可能である。
◆研究者のコメント
大規模感染症に対する下水サーベイランスの実施規模において、日本は欧米先進諸国に大きく遅れているが、下水サーベイランスに関する日本の技術は世界でも最高レベルである。
本研究が契機となって、日本でも全国規模の下水サーベイランス制度が、社会的なインフラ(社会資本)として継続的に維持され、国際標準に追いつくことを期待している。